最近、尊敬する異種業のある先生に
「まじめなんだねぇ」
と言われた。褒められているのか揶揄されているのか、あるいはその両方であったのかは定かでない。面と向かって「真面目」と言われるのは、これまで生きてきて2度目である。
私は青年期から今に至るまで、自分がよしと思う道を思うままに行くことが許される環境で、ぬくぬくと生きてこられたと思っている。生活のため、実にいろいろな仕事をせざるを得なかったことは確かだが、基本的には、家族を養うために好きでもない仕事に就いて本業を諦めなければなかったわけでもない。家庭の経済的事情によっても、あるいは神学者としての適性による制限によっても、神学を専攻し牧師になろうということに対して完全に邪魔が入るということがなかった。
邪魔が入る余地がなかったというのは、裏を返せば、その道を進むにあたって挫折した体験がないということになる。いや勿論、私だって人並みの挫折は経験している。挫折という言葉を、苦労、失敗、不幸や不運という言葉に置き換えれば、それは人並み以上であったと自負している。しかし自らが選択した道を、何らかの原因で諦めなければならなったような挫折は経験していないのである。
以前、当ブログでも話題にした、私と大福先生の変人性(できれば卓越した個性、と呼んで戴きたいところ)。実はあの話にも続きがある。自分は社会人として極めて常識的な人間だと思うし、その自己評価があながち大きく外れているとも思えない。そうであるのに、一体なぜ、私は一般社会からズレた変人なのでしょう、と大福先生に尋ねてみた。
「それはね、君があまりにも真面目だからなんだよ」と先生はいう。つまり世の中は、それほど真面目でないのが普通であって、それだから真面目な人間は却って普通ではなくなる、という仕組みらしい。もちろん大福先生の言う「真面目」とは、おカタい石頭とか融通が利かないとかつまらない人間という意味ではなく、むしろ私に関していえば、それらの面ではふにゃふにゃであるとさえいえる。この場合の「真面目」とは、真っ向、辞書通りの意味である。
そうか、私は真面目なのか、とその時初めて認識した。確かに不真面目かといわれればそれは違うようにも思うけれど、しかし真面目って……。これまで私は、とくに真面目に生きようと志向したこともなかったし、幸運なことに、ただ己が道を行くスタイルで生きてきたに過ぎないから、そのように指摘されたことは新鮮な驚きであった。
真面目、それは神学を志す者にとって適性を測るためのひとつの要素であるという。それは神学に限らないかもしれないが、神学研究者であったり牧師であったりする者には、極めて要求度の高い適性要素である。いや、この特性は、神学者や牧師にとっては仕事であるとさえいえると、今では私もそうはっきりと認識している。
だから、冒頭の先生(異種業)がどのようなつもりで「まじめだねぇ」と言ったにせよ、私としては「おお、やったじゃん、私、仕事してるじゃん」と受け止めたのである。その先生の言葉には、いくらか揶揄が仮にも含まれていたとしても、私には嬉しかったんだな、これが。しかしながら実働、いつになったら再開できることやら。
「まじめなんだねぇ」
と言われた。褒められているのか揶揄されているのか、あるいはその両方であったのかは定かでない。面と向かって「真面目」と言われるのは、これまで生きてきて2度目である。
私は青年期から今に至るまで、自分がよしと思う道を思うままに行くことが許される環境で、ぬくぬくと生きてこられたと思っている。生活のため、実にいろいろな仕事をせざるを得なかったことは確かだが、基本的には、家族を養うために好きでもない仕事に就いて本業を諦めなければなかったわけでもない。家庭の経済的事情によっても、あるいは神学者としての適性による制限によっても、神学を専攻し牧師になろうということに対して完全に邪魔が入るということがなかった。
邪魔が入る余地がなかったというのは、裏を返せば、その道を進むにあたって挫折した体験がないということになる。いや勿論、私だって人並みの挫折は経験している。挫折という言葉を、苦労、失敗、不幸や不運という言葉に置き換えれば、それは人並み以上であったと自負している。しかし自らが選択した道を、何らかの原因で諦めなければならなったような挫折は経験していないのである。
以前、当ブログでも話題にした、私と大福先生の変人性(できれば卓越した個性、と呼んで戴きたいところ)。実はあの話にも続きがある。自分は社会人として極めて常識的な人間だと思うし、その自己評価があながち大きく外れているとも思えない。そうであるのに、一体なぜ、私は一般社会からズレた変人なのでしょう、と大福先生に尋ねてみた。
「それはね、君があまりにも真面目だからなんだよ」と先生はいう。つまり世の中は、それほど真面目でないのが普通であって、それだから真面目な人間は却って普通ではなくなる、という仕組みらしい。もちろん大福先生の言う「真面目」とは、おカタい石頭とか融通が利かないとかつまらない人間という意味ではなく、むしろ私に関していえば、それらの面ではふにゃふにゃであるとさえいえる。この場合の「真面目」とは、真っ向、辞書通りの意味である。
そうか、私は真面目なのか、とその時初めて認識した。確かに不真面目かといわれればそれは違うようにも思うけれど、しかし真面目って……。これまで私は、とくに真面目に生きようと志向したこともなかったし、幸運なことに、ただ己が道を行くスタイルで生きてきたに過ぎないから、そのように指摘されたことは新鮮な驚きであった。
真面目、それは神学を志す者にとって適性を測るためのひとつの要素であるという。それは神学に限らないかもしれないが、神学研究者であったり牧師であったりする者には、極めて要求度の高い適性要素である。いや、この特性は、神学者や牧師にとっては仕事であるとさえいえると、今では私もそうはっきりと認識している。
だから、冒頭の先生(異種業)がどのようなつもりで「まじめだねぇ」と言ったにせよ、私としては「おお、やったじゃん、私、仕事してるじゃん」と受け止めたのである。その先生の言葉には、いくらか揶揄が仮にも含まれていたとしても、私には嬉しかったんだな、これが。しかしながら実働、いつになったら再開できることやら。