憂鬱、苛立ち、不快感…、この季節、何と表現したらよいのか分からない気持ちになる。この憂鬱は、クリスマスがキリスト教会の重要な行事とされていることに由来する。
私は聖歌隊のメンバーになったことは一度もないが、日本の大学でも留学先の大学でも、クリスマスにはメサイア公演のための助っ人として合唱団に何度も参加してきた。ヘンデルの『メサイア』で繰り返される、数々の聖書の言葉。たとえば―For as in Adam all die, …even so in Christ shall all be made alive. (たとえアダムにおいてすべての者が死ぬとしても、キリストにおいてすべての者は生かされる)
この曲を歌いながら、頭の中ではいつも「キリストとは何か」というキリスト論に関する論争や、あるいは「皆死ぬが生きる」とはどういうことなのかを考えながら歌うのである。ときにはそれは、教会史上で問題にされた単性論をどう考えるかであったりもするし、最近読んだ本の中で、キリストがどのように考えられているかを思い出したりしながら歌う。こんなことの繰り返しである。よって、最終章のアーメン・コーラスにたどり着く頃にはもう、疲労しきってヘロヘロになってしまうのである。聴衆のひとりのときも、同じである。
または、ベートーベンの第九、第4楽章「合唱」。これもしかり。Such'ihn über'm Sternenselt, über Sternen muß er wohnen (星のかなたに神を求めよ、星の彼方に神は必ずおわします)
「おいおい、物理的にはいないでしょう、そんなところに神は。どう考えても。たわ言もいい加減にしておくれ。」ため息が出る。
そして、このフレーズの直前でも、また違った理由で疲れを感じる。ここで神を表す言葉は Gott ではなく、Vater とされている。つまり「父」である。祈り言葉にも定型としてある、神を父と呼ぶことに私自身は抵抗を感じないが、第九のこの部分を聞くといつも、「フェミニズムの連中がいたら、『何故父でないといけないのか』なんてうるさく言うのだろうなあ」などとハラハラしながらこの第4楽章を聴くことになる。
このシラーのあまりにも神話的に過ぎる言葉と、ベートーベンの忘我状態へと誘うロマンティシズム溢れるメロディに、私は段々と目眩がしてくるのだ。
神話的に過ぎる、と今書いたが、それは神話がけしからん、という意味ではない。つまり神話そのもの、神話が神話であること自体は、私たちがこの世に生きる存在である以上、受容せざるを得ないことである。神話の意味を広義にとらえ、世界における一切の蓋然性を神話と呼ぶことが許されるならば、私たちの使う言葉や存在に至るまで、私たちの生きる世界の一切は神話で成り立っているといっても過言ではない。ただ、その神話は、私に向かって説得力をもつ神話でなければ、受け入れることが困難だ。
「難しい理屈は考えずに、素直に芸術を楽しめばいいのに」と言われるかもしれない。そのとおりだ。自分の感性に素直になってみよう。
そして、素直に感じてみる。…おえ。やっぱりだめだ。たとえば第九番第四章、あの類のロマンティシズムは、どうしても私の好みではない。生きることは芸術であり、芸術は生そのものであるとすれば、忘我にいざなわれるような類のロマンティシズムに埋没して生きる生き方、芸術が、私はどうも苦手である。まあ、ロマンティシズムもいろいろ、とても好きな類もあるにはあるけれど。たとえばゲーテとか、私はかなり好きである。というか、ゲーテは史上最高の作家の一人でさえあると思っている。
私は聖歌隊のメンバーになったことは一度もないが、日本の大学でも留学先の大学でも、クリスマスにはメサイア公演のための助っ人として合唱団に何度も参加してきた。ヘンデルの『メサイア』で繰り返される、数々の聖書の言葉。たとえば―For as in Adam all die, …even so in Christ shall all be made alive. (たとえアダムにおいてすべての者が死ぬとしても、キリストにおいてすべての者は生かされる)
この曲を歌いながら、頭の中ではいつも「キリストとは何か」というキリスト論に関する論争や、あるいは「皆死ぬが生きる」とはどういうことなのかを考えながら歌うのである。ときにはそれは、教会史上で問題にされた単性論をどう考えるかであったりもするし、最近読んだ本の中で、キリストがどのように考えられているかを思い出したりしながら歌う。こんなことの繰り返しである。よって、最終章のアーメン・コーラスにたどり着く頃にはもう、疲労しきってヘロヘロになってしまうのである。聴衆のひとりのときも、同じである。
または、ベートーベンの第九、第4楽章「合唱」。これもしかり。Such'ihn über'm Sternenselt, über Sternen muß er wohnen (星のかなたに神を求めよ、星の彼方に神は必ずおわします)
「おいおい、物理的にはいないでしょう、そんなところに神は。どう考えても。たわ言もいい加減にしておくれ。」ため息が出る。
そして、このフレーズの直前でも、また違った理由で疲れを感じる。ここで神を表す言葉は Gott ではなく、Vater とされている。つまり「父」である。祈り言葉にも定型としてある、神を父と呼ぶことに私自身は抵抗を感じないが、第九のこの部分を聞くといつも、「フェミニズムの連中がいたら、『何故父でないといけないのか』なんてうるさく言うのだろうなあ」などとハラハラしながらこの第4楽章を聴くことになる。
このシラーのあまりにも神話的に過ぎる言葉と、ベートーベンの忘我状態へと誘うロマンティシズム溢れるメロディに、私は段々と目眩がしてくるのだ。
神話的に過ぎる、と今書いたが、それは神話がけしからん、という意味ではない。つまり神話そのもの、神話が神話であること自体は、私たちがこの世に生きる存在である以上、受容せざるを得ないことである。神話の意味を広義にとらえ、世界における一切の蓋然性を神話と呼ぶことが許されるならば、私たちの使う言葉や存在に至るまで、私たちの生きる世界の一切は神話で成り立っているといっても過言ではない。ただ、その神話は、私に向かって説得力をもつ神話でなければ、受け入れることが困難だ。
「難しい理屈は考えずに、素直に芸術を楽しめばいいのに」と言われるかもしれない。そのとおりだ。自分の感性に素直になってみよう。
そして、素直に感じてみる。…おえ。やっぱりだめだ。たとえば第九番第四章、あの類のロマンティシズムは、どうしても私の好みではない。生きることは芸術であり、芸術は生そのものであるとすれば、忘我にいざなわれるような類のロマンティシズムに埋没して生きる生き方、芸術が、私はどうも苦手である。まあ、ロマンティシズムもいろいろ、とても好きな類もあるにはあるけれど。たとえばゲーテとか、私はかなり好きである。というか、ゲーテは史上最高の作家の一人でさえあると思っている。