Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

死者と共に生きる

2016-04-14 21:58:39 | 豆大福/トロウ日記
時間が過去から現在を経て未来へと直線的に進むという常識が、最近の物理学では覆されつつあるらしい。

経験的には、やはりそうなのではないかと思う。つまり、時間は過去が未来に直線的につながっているのではなく、(時間的な表現を用いるならば)現在しかない、という。

医学的には間違った用語の使い方だろう、しかし悲嘆反応を説明する場合に、PTSD的、と説明するのが分かりやすい。あの時の生温かい春の風、風に乗せられた季節の匂い、日差し、サイレンの音、街の風景。これらが引き金となってフラッシュバックが起こり、あの時の体験が一気に今に蘇る。

キリスト教の復活祭は、クリスマスのように日付が固定されておらず、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日に祝われるため、日付は毎年変動する。実はこのように曜日主体で記念日を定めるというやり方は、フラッシュバックのリアリティを再現するには、より理に適っているように思う。

もちろん、連れ合いの命日である4月26日という日は私にとって特別だし、月命日の数字もまた、大きな悲しみを思い起こさせる。だが、より過去が現在のリアリティをもって映像的に迫ってくるのは、曜日なのだ。たとえば亡くなる10日前、最後の外来診察時のリアリティの力は今なお強く、その衝撃的な出来事がフラッシュバックを起こすと今でも心臓がフワフワ浮いているような動揺を覚え、涙が止まらない。それは金曜日だった。その後の土曜日、日曜日、月、火、水、木、金、土、日、月。全て何があった日だったか、体験と曜日とがリンクしている。

悲しみが癒されることは一生ないと、周囲の恩人たちからお言葉をいただいている。そして、それはそのとおりになっている。ただ、最近では、悲しくて淋しくて、滅茶苦茶になってしまうように辛いという感覚が、少し落ち着いてきたかもしれない。片割れが向こうの世界にいて私がこちらの世界にいて、その断絶は決定的に越えられないにもかかわらず、常に共にこの世で生きているという実感が湧きつつあるからかもしれない。そのような、断絶がありつつの共存、という状態に、私も連れも慣れてきたという感じ、と言ったらよいであろうか。現在を共に生きているとの実感が、より明確になってきているという感じが強まってきているように思う。

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