Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

腰砕けな日

2008-07-29 18:15:56 | 豆大福/トロウ日記
「ようっし、やるぞう」
と、景気づけに Brian Boru’s March を聴いて気合入れてから仕事をするはずだった(ちなみにプライアン・ボルーは10~11世紀頃、中世アイルランドの伝説的な王)。

そうしているうちに、YouTubeでこんなにも美しいこの曲を発見してしまい、まった~りしてしまった。いつもはバグパイプベースで聴いていているこの曲、ハープだとこんなにもエレガントになるのか。

こうなると、もう泥沼にはまりまくり。ブライアン・ボルーから、当該王とヴァイキングとの戦い、戦いといえばキルト、で、「キルトって買うといくらくらいするのかな、…ひえーこんなに高いのか」とか、「キルト買うならやっぱりスコットランドかなあ、ぐわ~、こんなに暑いとオークニー諸島に行きたいな」「そういえば、オークニーも長老派が中心のはず…えっ?ルター派が多いって本当なのか?!」「いずれにせよ、プロテスタントと土着の宗教が見事に習合を果たした地、要調査だぜぃ(って、それにしてもこれ、前からずーっと言い続けてる気がする)」

なんてことになり、結局仕事(勉強)のはかどらない日。それじゃだめじゃん、せめて、今から少し仕事します、とほほ。

重大事件の報道に思うこと

2008-07-25 19:05:01 | 豆大福/トロウ日記
愛さん母が自粛要請=報道側「節度ある取材」申し合わせ(時事通信) - goo ニュース

 女性2人が死傷した 東京都八王子市の駅ビル殺傷事件で、亡くなった中央大4年斉木愛さん(22)の母真理子さん(56)は24日までに、報道各社に対し、「報道の社会的使命の重要性は承知していますが、私どもはこのたびの事件被害のため多忙を極めております」と取材自粛を求める文書を栃木県警を通じて配布した。
 これを受け、同県内に取材拠点を置く栃木県報道代表者会加盟社13社は同日までに、被害者家族をはじめとする関係者の心情やプライバシーに配慮し、節度を持って取材・報道に当たることを申し合わせた。


時事通信社がネット上でひっそりと伝えたこのニュース。被害者の母上の心情に、いてもたってもいられなくなる。

こういった事件報道の度に、報道のあり方について思うところがある。被害者および犯人の親や知り合いの人々へのインタビュー、いい加減に止めにすべきではないか。被害者の関係者に対する取材はもちろん、加害者の周辺の人々に対しても、である。

このような取材を規制する意味としては、まず、被害者家族に対しては、心に大きな傷を負った人々に対する当然の配慮がある。と同時に、被害者の身辺について報道することは、マスコミが「使命」としている事件の真相追究にとっては、あまり意味がない。被害者がどのような(大抵の場合、立派な)人物であったか、いかに被害者には何の落ち度もなかったかは、最近の犯人にありがちな「やるのは誰でもよかった」という動機に、せいぜい整合性を与えるくらいの情報価値しかない。

それほどの価値しかない情報のために、被害者家族は報道という大義によって、世間から同情され好奇の目にさらされる苦痛を味わなければならないという、不条理。

さらに、加害者の親や周辺の人々に取材攻勢をかけることは、被害者周辺の人々に話を聞くことよりも深刻な害悪を生み出す。とくに最近の重大事件の犯人にとって、これから自分が起こそうというその事件は、自分の未来に対する最後の希望であったりする。「その事件を起こすことによって」、世間を自分に振り向かせることができるかもしれない、死刑になって死ねるかもしれない……。犯人にとって、事件は現状から抜け出すための未来への契機、希望なのだ。

事件は犯人にとって有意義なものと理解されている。とくに、犯行前の犯人にとってはそうである。事件について、かつての同級生が、先生が、同僚が、近所の人が、そして親が、どのように反応するかをマスコミが伝えることは、さらには次に待ち構えている将来の重大事件の犯人に、「事件を起こすことは、何かしら、自分の人生の契機となる」という意義や希望を与えるだろう。

この前の秋葉原の事件といい、異常な事件が日常的に起こっている最近の日本社会。こういった事件の真相を探るためにマスコミは報道の使命を負っているという使命感があるとすれば、それは欺瞞でしかない。報道機関にできることは、事件そのものを伝えることぐらいしかないのだ。

関連で、前にテレビで「少年犯罪人も実名報道を」という提言があった番組でのこと、犯罪人は少年であっても社会的制裁を受けるべきだとの感情論が支配する雰囲気の中、社民党の福島みずほ氏が反対を唱えていた。さらに彼女は、成人であっても実名報道をすべきでない、と小さく付け加えた。私も、そのとおりだと思う。福島氏は弁護士でもおありだから、人権尊重の側面からの発言だったのかなと推察するが、社会から犯罪を駆逐するというプラグマティックな目的のためにも、実名報道を控える方が効果的のように思える。そのわけは上に述べたとおり、過分な情報が、次の新たな犯罪を誘発することになる可能性が、大いにあるからである。

神学的でない会話

2008-07-24 20:22:12 | 豆大福/トロウ日記
モテ系、ツンデレ、といった新語を大福先生に解説した。解説、といっても私とて、こういった世界に通じているわけではないので、知っているだけのことを吐き出したつもりだ。

モテ系に関して―まずは、その定義から。
「何と言いますか、スィートな髪型と服装をした、男に媚びる系のファッションやら話し方をする若いもんらを指して言うらしいです」
「その場合のスィートな髪型と服装とは、如何に」
「ロングヘアをグルグルの巻き髪にミニのピンクのワンピースをまとい、さらには上目遣いでタル~い話し方をする、みたいなイメージでしょうか」(この際、エビちゃんの名前を出しても、所詮どれがエビちゃんであるかが分かって下さらないであろうという推察のもと、あえてエビちゃんには言及せずにおく。その代わり…)
「敢えていいますと、このモテ系、ふた昔ほど前に出回った『ぶりっ子』という言葉と似た意味があると思いますが、ぶりっ子はご存知ですか。アイドル時代の松田聖子の形容に代表されていたのですが」
「うん、知ってる」
「え?本当に知ってるんですか。本当に知ってるんですね。では、ぶりっ子とは如何なる意味か、説明してください」
「実は頭がよくないくせに、あたかも頭がいいふりをすることだろう」
……う~ん、その逆なんですが。
「その、ま逆な定義はどこから出てくるんですか?本当に先生は、ぶりっ子という言葉を知ってるんですか?」
「本当に知ってるよ。そんなの、私が子供の頃からある言葉だよ」
「子供の頃からって……ホントですか?」
「本当だってば。『少年倶楽部』とか、『幼年倶楽部』にだって出ていたよ」

おお!『少年倶楽部』ときますか!
いいなあ、私はリアルタイムには知らないのですけど。

80年代アイドルから生じたぶりっ子という言葉は、頭がいいように見せかけるのとは反対に、いかに自分がバカであるかを示し「私ってカワイイでしょ♡」とアピールする意味なんですよと申し上げる。それにしても1930~40年頃には、1980年以降とはまったく逆の意味で「ぶりっ子」という言葉が使われていたとは。新鮮な驚きであった。

結局、なんだかなあ。モテ系っていうけど、その人物がモテ系を装っている場合、実際に異性にモテるのだろうかなあ、という共通の疑問でこの話は締められたのであった。

ついでに、ツンデレ萌えについての話題になる。私が「ツンデレ」「萌え」についてひととおり説明し終わると、大福先生が言った。

「私にはその3つの関係がよく分からないなあ。ツンツンした態度の女性と、デレデレした態度と萌えとが、いったいどういう関係にあるというんだい?」
「ツンデレ萌えというのは、ツンデレな人自身が何かに萌えている様をいうのではなく、ある種の人々がツンデレな人に萌えるということです。その場合のある種とは、主にオタと呼ばれる人、だと思われますが。
 ところでわたくし、自分では結構ツンデレ系ではないかと思っているのですが、ならば、こういう私に萌えるオタクがいる、ということでしょうか」
「キミの場合は、ツンデレというより、単に『恐怖を与える』存在なんじゃないかい?」

……はいはい。

久しぶりだね、林檎ちゃん

2008-07-17 22:47:06 | 豆大福/トロウ日記
デジタル時代の完全な落ちこぼれ、豆大福(デジカメさえ持ってないのよ)。

世に言う「流行」の蚊帳の外に、常に存在してきたような私である。最近は「アラフォー」なる言葉が出てきて、「この世代は、青春時代をバブルの絶頂期に過ごしており…」なんて言われている。年齢的にはアラフォーずばりど真ん中であるにもかかわらず、バブルなどどこ吹く風、の若き日々を過ごした身にとって、アラフォーなる言葉も全くしっくり来ない。つまり何が言いたいかって、今まで世の中の動向や流行ということに関しては、何歩も遅れているというのが私の描写として正しいといえた。

その私が!訳あって、このたび iPod classics を購入!(くどいけど、デジカメさえもってないのに。この時期、iPhone でないところがかろうじて私らしいといえようか。)iPod を使うには、iTune をダウンロードしなければならない。iTune をダウンロードするにはアップル社のHPにアクセスしなければならない。iPod の使い勝手についてはこれからだけど、iTune のコンテンツに、今更ながら「おぅ~」と感動の連続。ああ、なんて今更なんでしょう。

思えば、MS-dos での苦労→Macの選択→Windows との互換性に苦労、を経て、結局Windows 使用に甘んじて現在に至るのだが、久っしぶりにアップル社のHPを見て、やっぱりマックに戻りたくなってしまったなあ…。ネックのウィンドウズとの互換性が、前に比べると断然よくなっているみたいしだし。まあこの問題も、随分前にクリアされていたのかな。やれやれ。それは、ともかく。

とくにAirMacのきゃわい~(華奢&かわいい)ところにホレた。ま、何はともあれ、先立つものがなければどうしようもないんだけどね。

自己肯定力の源

2008-07-14 23:15:11 | 豆大福/トロウ日記
実は前回の記事を書いている最中、「キミ、それは事の半分しか書いてないね」と自分に言い聞かせていた。それではちょっと気が引けるので、その続きなどを。

前の記事では、要するに、自分の置かれた状況を、それがいかなる状況であっても常に肯定する方向で解釈できる能力は素晴らしい、ということを述べた。「たとえ客観的には負けが込んでいたとしても」である。

では、「客観的な負け状態」とは如何なる状態を指すのか。貧乏だ、ニートだ、無職だ、年寄りだ、容姿が悪い、独身・子なし女だ、学歴ない、頭が悪い、身体が悪い……えらく悲惨なことばかり並べ立ておって、とお叱りを受けそうである。今、この日本で、負け組とカテゴライズされる人々の状態とは、ざっとこのような感じであろうか。

正直のところ、やれやれ、と思う。この国の人々は、自分の置かれた状況(現実存在、実存)を何かの枠に当てはめた上で、その状態を反省する、を通り越して、それを非難することがどれだけ好きなんだ、と思う。「とはいえ、これら悲惨な条件が1つ2つ重なれば、やはり問題だろう」と言われるかもしれない。そのとおり、上に挙げたことで、その人物の実存にとって不都合であると思われることには大いに反省し、その状態を改善するよう、よくよく考えを至らせるべきだ。たとえば無職であることが実存にとって都合が悪ければ、何とか職を得る努力をすべきである。勿論、無職で都合が悪くない場合だって、あり得るだろう。

現状を改善する・保留にする、どちらでもよいから、とにかく実存にとって都合がよい、可能なベストな道を選んでいけばいい。しかしそこで、いちいち自己を否定することには意味がない、といいたい。たとえば、「生れてすみません(太宰治)」とか。

いや正確には、私が「いいたい」のではなく、このように自己肯定に価値を見出すことは、キリスト教倫理的な観点から敷衍できる、ひとつのあり方なのである。ここで「キリスト教倫理的」といった場合、実存論的神学にのっとった、というただし書きつきではあるけれども。

ケッ、とどのつまりは信仰かい、と言われるかもしれない。私は前回の記事で「根拠のない自信に満ち溢れた様も、狂気じみてて恐ろしくもあり、また滑稽でもある」と書いた。信仰には根拠などありはしないではないか、そりゃ狂気だ滑稽だ、と思われるかもしれない。そういわれれば、そのとおりだ。信仰には、最終的には根拠がない。

では、自己肯定が信仰によるものだとしても、自己否定することにはどれだけの根拠があるというのだろうか。自己を否定することもまた、最終的には信仰の所作であるに過ぎないのではないか。もちろんその場合、自己を肯定する信仰とは種類の違う信仰ではあるけれども。それでもなお、自己肯定が単なる信仰に基づくものであって、自己否定することにはしかじかの根拠があると、自信をもって挙げられる人があるなら、是非それを教えてほしい。

問題は、どっちみち信仰であるならば、どちらの種類を信仰するの、という話である。私の選択は申し上げるまでもない。私は功利主義者だ。

だが、自己肯定にせよ自己否定にせよ、一種の信仰によって、ある人物が狂人になったり滑稽になったりするのは辛い。自分がそうなるもの嫌だし、他人が、社会がそうなってゆくのを見るのも嫌だ。しかしこういったことになってしまうのは、信仰を持つ者たちの宿命なのか。

そんなことは、ない。ここで、信仰のあり方、持ち方もさまざまであることを忘れてはならない。確かに、信仰が理性にないがしろにしたりすることは、残念ながら私たちの社会の中では多く見られる現象ではある。それは本当に、残念だ。しかし、信仰のあり方は、そのようなあり方ばかりとは限らない。我‐汝の関係を信仰生活の中心に据え置くあり方は、今のところマイノリティの感を拭えないかもしれない。残念である。しかし、我‐汝の関係において信仰を持つものは、その信仰に対して「自信に満ち溢れ」たりしない。いや、できないのだ。我‐汝の関係が信仰の中心である場合、私たちの実存の上に起こる出来事はすべて、相対的な価値しか持たないことになる。一切が相対である世界の住民にとっては、この世のいかなる価値に対しても、残念ながら、絶対の自信に満ち溢れることは、不可能な業となるのである。

プレッシャー克服法

2008-07-09 01:25:28 | 豆大福/トロウ日記
今年、久しぶりにウィンブルドンを堪能した。とはいっても、男子単決勝戦のみだけど。今年のロジャー・フェデラーとラファエル・ナダルの対戦が歴史的な名勝負であったことは、私がこの場で説明するまでもない。

かつての私は、ウィンブルドンで梅雨の終わりと盛夏の始まりを、全米オープンで秋学期の始まりを感じていたものだが、最近は日常の雑事に追われるせいもあって、テニスマッチの開催の時季で季節を感じるなどという余裕を失っていた。

日曜の夕べには、久々にテレビの前に5時間以上も居座る余裕を味わった。実際のところ、2度目の雨中断のときには午前3時半を回っていた(と思う)ので、これ以上はギブアップということでそのとき床に就いてしまった。2度目のサスベンデットのときにはもう、「どちらが勝ってもよろし、十分お腹いっぱい」と思えるくらいの名勝負だったこともある。というわけで最後までは観戦できなかったが…えっ、全体で7時間以上のマッチだったって?すごいなあ。

世にテニス・プレーヤーなる人たちが存在する、と意識し始めたのはビョルン・ボルグあたりからであろうか。それ以来、男女とも伝説的な名プレーヤーのプレーを楽しんできた。今回の中継で、何人かのかつての名プレーヤーたちの観戦する姿があった。「貫禄あるおじ様」風のボルグの姿や白髪交じりのジョン・マッケンローに、月日の流れの残酷さに愕然、同時にその年月はわが身にも変化を与えているに違いないことに呆然、である。

ピート・サンプラスやアンドレ・アガシなどの、自分よりちょい年下世代のプレーヤーが全盛になる頃から、次第にテニス観戦への興味がしぼんでいった私。いや、年下がどうのこうのという問題ではなく、なんというかこう、その頃からテニスに華麗さがなくなっていった気がしたのだ。テニスにおける「華麗さ」を独善的に定義すれば、それはずばり、「フォアの上手さ」。テニスの醍醐味、それは威力的な弾丸サーブでも巧みなネットプレーでもなく、ましてや粘り強い防御力でもない。あくまでもフォアハンド・プレイの強烈さ、うまさに尽きる。なので、シュテフィ・グラフの強烈なフォアやイワン・レンドルのパッシング・ショットが見られなくなったときから私のテニスへの興味は次第に薄れてゆき、ここ14,5年テニス観戦から離れていた。が!

こ~んな華麗なプレーをするプレーヤーが出ていたのか、ロジャー・フェデラー。今まで「どうせ、ただつおいだけなんだろな、ロジャー」なんて思っていて、ごめんよ~。

フェデラーがナダルにマッチポイントを取られたとき、プレッシャーの極限状況では考えられないような素晴らしいショットで切り抜けたシーンが、今回の決勝では何度も見られた。解説者もこの状況下におけるフェデラーのポーカーフェイスに、「この人にはプレッシャーというものがないのでしょうか」と言っていた。

かつてとても若い頃の私なら、「ああこの人は、こんな状況でも冷静でいられるような、精神的にすごい強い人なんだな~すごいな~」と感心するだけだったと思う。でも、今はちょっと違う。最近では、こういう状況にあっても平静さを保ち、自分のベストを出しきれるのは、その人物が「プレッシャーを克服している」からではないのではないかという気がしている。

常々、そういう能力に長けた人を観察していて思うことがある。このような人々は、ひょっとしたら自分の置かれた状況、客観的にはピンチだろうと思われるような状況を、ピンチであると認識する能力に欠けているのはないだろうか、と。要するに「私の辞書に不可能の文字はない」というナポレオンの自信のような考え方を、生来あるいは訓練によって身につけているのではないか、と。「不可能」の部分を「負け」に言い換えてみると、分かりやすいかもしれない。

だから、客観的には明らかにピンチのときであろうと(今回のフェデラーでいえばマッチポイントを取られたときとか)、そのタイプの人物にはそもそも「負け」あるいは「負けるかもしれない」という考え方が存在しないのだから、彼/彼女には、そのような状況がピンチであるという認識もない。「プレッシャー」は「克服」すべきものではなく、そのような人にとっては、そもそも「プレッシャー」と「克服する」は別の次元の概念であって、両者は内容的に整合性をもたないのであろう。

たとえ客観的には「負け」が込んでいたとしても、負け状態であると認識しない能力。客観的な負け状態がどのような状態であるかという議論はさて置くとして、「私に負けは存在しない」と、疑う余地もなく信じる能力。これは、紛れもなくポジティブな能力であり、こういう考え方がもう少し社会の中に応用されれば、負け組なんていう妖怪じみた言葉も廃れてゆくのではないだろうか。

一方で、根拠のない自信に満ち溢れた様も、狂気じみてて恐ろしくもあり、また滑稽でもあることも、本当のところだけれども。