桶川さんとともに(といっても同じ時間に同席してというわけでなく)、『実存論的神学』増補改訂版(仮名)を、役割分担をしながら読み合わせる作業、私の方がえらく遅れを取っていてすみません、という感じだ。
けれども、亀の歩みのごとくゆっくりとは進んでいる。役割分担上、ゆっくり読まなければならない立場にあるということもある。しかし確か、以前に、大福先生の『ウェスレー』(松鶴亭出版部、2005年)に関して白頭庵さんがおっしゃっていたように記憶するのだけれど、「早く読み終わるのがもったいないので、ゆっくり読んでいます」という読書態度と、今、私も同じくしているともいえる。
大福先生のユニオン神学校時代、Th.D論文に取り掛かっていた時には、図書館への出勤前の朝の時間帯に、必ず1日1ページ論文を書き進めるという課題を自らに課していたという。残念ながら私には、先生のような気力体力知力その他諸々が欠けているので、決してそのようにできそうにない。でも一応、今頃になって私もそれを真似て、出勤前なるべく朝早くに職場近くのマクドナルドなんかで、実神ZK版の形を整える作業を少しずつ行ってみたりしている。このようなちょっとしたことでも、憧れの人に近づける気がするのも精神的に良いのではないかと思う。
そして読んでまた、新しい発見の連続である。
前回読んで分からなかったことも、今回読んだら理解できるようになったというところも多々ある。そのことは、先生の文章が分かりやすく変化したのではもちろんなく、自分自身の未熟さを、幾分前より乗り越えられたゆえ、ではあろうが。
昨日、ふと分かったこと、これは私には大きな認識体験だった。
ポストモダンという言葉や時代の解釈が、いつの頃から言い出されたのか、私ははっきりとは知らない。大まかにいって、それは20世紀後半部分にさしかかった頃からであろう。その思想運動が神学の領域にも興隆してきて、ナマケモノな私でさえそれに耳を傾けなければならなくなった最初の頃から、私はその時代の捉え方に懐疑的だった。そのことについて説明する気は今はない。ここで問題なのは、なぜ自分がポストモダン運動に共感することにかねがね困難を抱いていたのか、である。その理由が自分でもはっきりと説明できなかったのが、もどかしかった。
しかし昨日以降の私は、こう答えることができる。
自分が高等教育を受けて初めての思想体験、要するに大学1年生のときに出会った衝撃の思想体験が、私の場合は実存論的神学であった。体験的に、実存論的神学に出会った後に知ることになったポストモダン思想が、自分には「なぜ今更このようなことを」と思われたのではないかと、今ではそのように思う。つまり実存論的神学は、ポスト・ポストモダン的であるといえるし、もっと分かりやすく言えば、ポストモダンの次世代を指向する神学なのである。そのような神学に先に出会ってしまった者には、「それ以前の」思想のように思われた思想運動に共鳴できなかった、ということなのだろう。
ポストモダン超克の試み、それを大福先生は、1964年には成し遂げていたのか……。
そしていつの間にか、実神が上梓された先生の年齢を、私は超えてしまっている。
けれども、亀の歩みのごとくゆっくりとは進んでいる。役割分担上、ゆっくり読まなければならない立場にあるということもある。しかし確か、以前に、大福先生の『ウェスレー』(松鶴亭出版部、2005年)に関して白頭庵さんがおっしゃっていたように記憶するのだけれど、「早く読み終わるのがもったいないので、ゆっくり読んでいます」という読書態度と、今、私も同じくしているともいえる。
大福先生のユニオン神学校時代、Th.D論文に取り掛かっていた時には、図書館への出勤前の朝の時間帯に、必ず1日1ページ論文を書き進めるという課題を自らに課していたという。残念ながら私には、先生のような気力体力知力その他諸々が欠けているので、決してそのようにできそうにない。でも一応、今頃になって私もそれを真似て、出勤前なるべく朝早くに職場近くのマクドナルドなんかで、実神ZK版の形を整える作業を少しずつ行ってみたりしている。このようなちょっとしたことでも、憧れの人に近づける気がするのも精神的に良いのではないかと思う。
そして読んでまた、新しい発見の連続である。
前回読んで分からなかったことも、今回読んだら理解できるようになったというところも多々ある。そのことは、先生の文章が分かりやすく変化したのではもちろんなく、自分自身の未熟さを、幾分前より乗り越えられたゆえ、ではあろうが。
昨日、ふと分かったこと、これは私には大きな認識体験だった。
ポストモダンという言葉や時代の解釈が、いつの頃から言い出されたのか、私ははっきりとは知らない。大まかにいって、それは20世紀後半部分にさしかかった頃からであろう。その思想運動が神学の領域にも興隆してきて、ナマケモノな私でさえそれに耳を傾けなければならなくなった最初の頃から、私はその時代の捉え方に懐疑的だった。そのことについて説明する気は今はない。ここで問題なのは、なぜ自分がポストモダン運動に共感することにかねがね困難を抱いていたのか、である。その理由が自分でもはっきりと説明できなかったのが、もどかしかった。
しかし昨日以降の私は、こう答えることができる。
自分が高等教育を受けて初めての思想体験、要するに大学1年生のときに出会った衝撃の思想体験が、私の場合は実存論的神学であった。体験的に、実存論的神学に出会った後に知ることになったポストモダン思想が、自分には「なぜ今更このようなことを」と思われたのではないかと、今ではそのように思う。つまり実存論的神学は、ポスト・ポストモダン的であるといえるし、もっと分かりやすく言えば、ポストモダンの次世代を指向する神学なのである。そのような神学に先に出会ってしまった者には、「それ以前の」思想のように思われた思想運動に共鳴できなかった、ということなのだろう。
ポストモダン超克の試み、それを大福先生は、1964年には成し遂げていたのか……。
そしていつの間にか、実神が上梓された先生の年齢を、私は超えてしまっている。