タイトルからすると、まるで自分が研究発表をしてきたかのような印象を与えるかもしれないがそうではない。「文明と宗教」研究会のメンバーであるpensie_log氏の、日本基督教学会での研究発表「波多野精一における無と他者」を拝聴し、この場で私も感想や質問などを述べてみたくなったのである。氏の発表の際に使われたレジュメに近い原稿が氏のブログにアップされているので、発表の内容はそちらを参照していただくとして、ここでは私の感想だけの羅列になるがお許しいただきたい。
発表後会場で、ある質問者から、波多野がここでいう「無」とはどのような「無」であるのか、西田幾多郎の言うような「絶対無」とは違うのか、という趣旨の問いが出されたが、これは私にとっても非常に重要な問いのように思われた。私たちの存在の根底における「絶対的な他者性」の体験が可能になるには、「人間的主体が帰せねばならぬ」という場合の「無」は、pensie_log氏のその場での答えによれば、西田のいう絶対無とは違うということだった。「無という名をもった質量的存在者」でない無でありながら、絶対無とは異なる「無」は、どのような位置におかれる無なのだろうか。確かに、氏の引用(注27)にあるように、「無は有の傍らまたはその外にそれ自らの存在を保つものとして存在しているのではなく、……有のうちに包含されているのである」ところからみても、波多野は絶対無とは異なる無を言っているようだ。「無からの創造」(creatio ex nihilo)の教理がキリスト教史上しばしば問題視されてきたのは、有(あるいは神)より先に無が存在することを是認するわけにはいかないという思惑からであって(このあたりはとくに、「創世記」の創造神話をモチーフに喧々諤々されるように思われる)、また、「無からの創造」論が、いわば全知全能の神あるいは一神教の神概念の確立にとっては必要な思想だったからだと思うが、絶対無でなく、質量でもない無を、波多野はどのような「無」と考えていたのだろうか。
さらに、波多野において「無からの創造」から存在‐愛‐論が導かれるという点だが、氏が言われるように、これはいわゆる京都学派特有の絶対無や弁証法からのアプローチとの違いが浮き彫りにされているところであって、私もそのあたりについて、改めて考えさせられた。そこで私が思うのは、主体や、時間の中で絶えず無が克服されていくことが、「愛」の概念に結びつくというその仕方が、どのようになのか、という問題だ。なぜ私がこのことを問題にするのかというと、「有のうちに包含された無」という考え方によってキリスト教史上、導き出されてきたのは「神の愛」の創造力という面の他に、神義論の問題の提起でもあったからである。
たとえば、イレナイオスなどの使徒教父たちが力説しているように、無は神の全知全能を表現する言語であり、「神に反抗する勢力」をまったく意味しなかった。それが、グノーシスなどの立場では、無が神の全能を表すのではなく、神に抵抗するものとして考えられるようになった史実を知るときに、後者のような立場では当然のこと、神義論の問題としての「無」となったといえるからだ。この歴史的事実を考えるときに、波多野の「無」をpensie_log氏がどのように考えられるのか、もう少し明快にしてくださると有難い。
以上2つの点についての私の感想などはともかく、pensie_log氏の発表は、改めて波多野の今日的意義について再認識させてくださった。とくに、創造と世界の構造という問題や神論について、自分自身の研究テーマのひとつであるE・ルイスやP・ティリヒなどとの関連でも、波多野は対話すべき相手であることを改めて考えさせられた、有難い機会となった。
発表後会場で、ある質問者から、波多野がここでいう「無」とはどのような「無」であるのか、西田幾多郎の言うような「絶対無」とは違うのか、という趣旨の問いが出されたが、これは私にとっても非常に重要な問いのように思われた。私たちの存在の根底における「絶対的な他者性」の体験が可能になるには、「人間的主体が帰せねばならぬ」という場合の「無」は、pensie_log氏のその場での答えによれば、西田のいう絶対無とは違うということだった。「無という名をもった質量的存在者」でない無でありながら、絶対無とは異なる「無」は、どのような位置におかれる無なのだろうか。確かに、氏の引用(注27)にあるように、「無は有の傍らまたはその外にそれ自らの存在を保つものとして存在しているのではなく、……有のうちに包含されているのである」ところからみても、波多野は絶対無とは異なる無を言っているようだ。「無からの創造」(creatio ex nihilo)の教理がキリスト教史上しばしば問題視されてきたのは、有(あるいは神)より先に無が存在することを是認するわけにはいかないという思惑からであって(このあたりはとくに、「創世記」の創造神話をモチーフに喧々諤々されるように思われる)、また、「無からの創造」論が、いわば全知全能の神あるいは一神教の神概念の確立にとっては必要な思想だったからだと思うが、絶対無でなく、質量でもない無を、波多野はどのような「無」と考えていたのだろうか。
さらに、波多野において「無からの創造」から存在‐愛‐論が導かれるという点だが、氏が言われるように、これはいわゆる京都学派特有の絶対無や弁証法からのアプローチとの違いが浮き彫りにされているところであって、私もそのあたりについて、改めて考えさせられた。そこで私が思うのは、主体や、時間の中で絶えず無が克服されていくことが、「愛」の概念に結びつくというその仕方が、どのようになのか、という問題だ。なぜ私がこのことを問題にするのかというと、「有のうちに包含された無」という考え方によってキリスト教史上、導き出されてきたのは「神の愛」の創造力という面の他に、神義論の問題の提起でもあったからである。
たとえば、イレナイオスなどの使徒教父たちが力説しているように、無は神の全知全能を表現する言語であり、「神に反抗する勢力」をまったく意味しなかった。それが、グノーシスなどの立場では、無が神の全能を表すのではなく、神に抵抗するものとして考えられるようになった史実を知るときに、後者のような立場では当然のこと、神義論の問題としての「無」となったといえるからだ。この歴史的事実を考えるときに、波多野の「無」をpensie_log氏がどのように考えられるのか、もう少し明快にしてくださると有難い。
以上2つの点についての私の感想などはともかく、pensie_log氏の発表は、改めて波多野の今日的意義について再認識させてくださった。とくに、創造と世界の構造という問題や神論について、自分自身の研究テーマのひとつであるE・ルイスやP・ティリヒなどとの関連でも、波多野は対話すべき相手であることを改めて考えさせられた、有難い機会となった。