Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

I have been dead for 10 years…(2)

2020-04-23 18:03:00 | 豆大福/トロウ日記
…暗いよね、タイトルも、文章も。奥の細道文学賞の時もそうだったけど、エッセイのような心情をつづった私の文章をひと様に読まれると、ものすごく暗い人物であるかのように思われるらしい。授賞式で初対面のある先生に言われた。「あなたの文を読んで、どんなに鬱屈した青白い顔のクリスチャンが出てくるのかと思ったら、何この健康優良児みたいのは(笑)」と。

いやー、申し訳ありません。と思うけれども、これは、まさに師がひと様に与える印象でもあって、そんな風にいわれると自分としては結構嬉しい。他にも、「あなたは鬱ハイ状態」とか、「異常に生き生きとしている」とか言われたりすることが多い。心の中では、小雨は絶え間なく降り続けているのにね。

話をロンドンに戻そう。私は子供の頃から、日本から外国に出た時の方が生き易さを感じる方ではあるが、ロンドンがこれほど自分の居心地の良さにフィットするとは予想もしなかった。ちなみにニューヨーク市はその都会的な温かさが大好きだけど、やはり厳しいのだ、いろいろと。

イギリスで訪ねる先といえばほとんどが教会だから、会う方々、交流する方々のほとんどは若者ではない。いや、若者でないどころか高齢者がほとんどだ。そういう、のんびりとしたペースと、ウィットに富んだ会話、ということもあったからだろうか。それに、(ある種のフェミニストには叱られそうだが)イギリスで、女性一人が何かしら困っていると、たいていは殿方が飛んできて助けてくれる。田舎ほどそうだ。たとえば、ものすごく狭いところに駐車せざるを得なく身動きが取れなくなったとか、大体は車関連が多かったけれども、そういう時に。そして、一応皆、礼儀正しい。単に、私はラッキーだっただけかもしれない。そして私が男性だったら、こういう印象はもたなかったかもしれない。

ロンドン。私にはとても心地がいい。住民ではなくゲストだから、かな。なぜだか分からないけれども、初めて心が休まる思いがした。街を歩き、歴史を思い、空気を吸うことが、いちいち楽しかった。心の底から息ができる、と思えた。水路の国、イギリス。新たな発見もあった。

一応「下げ」ておくと、ロンドンのごはんがおいしくなった、というのは違うと思う。いや、もしかしたらあれでも以前よりはよくなったのかもしれない。多文化多民族都市となったおかげで、食事のバラエティが増えたのは確かだろう。確かに、チップを払う必要があるようなお高いレストランへ行けば、おいしい食事ができる。でも、コンビニとかスーパーの惣菜とか、まずい。断言する。コンビニや回転寿司の寿司なんて、食べられたものではない(しかも高い)。おかげさまで、あまり食べずに済むからダイエットにはよい。絶対にハズレがないものといえば、ミルクティーかな。

この旅が、もしかしたら何かしら転機だったのかしら、と思うのも、約4年後の今だからこそであって、その時はそのようなことを全く思っていない。今思えば、その頃から徐々に、職も、本当に少しずつのペースで、英語講師職から社会福祉の一端に触れる方へとシフトしていったのかもしれない。

I have been dead for 10 years…(1)

2020-04-22 16:20:13 | 豆大福/トロウ日記
10年前の4月26日の朝、連れが亡くなった。その時に、私も死んだ、とそう思った。なのに、死んでいるはずなのに、私は生きている。この先、私は何十年、こうして地獄を生きなければならないのかと、自分の肉体の若さを呪った。(言うほど若くはないが。)

それから5、6年の間に起こったことは、スケジュール帳に書き入れるような出来事についてはなんとか思い出せるのだが、自分がどのように、どういう気分で何を考えて過ごしていたのか、ほとんど記憶がない。つらい、とか、悲しい、という感情も覚えていない。ただ、記憶がない。そして心から嬉しいとか、楽しいとか、おいしい、と感じたことに至っては、一度もない。

とてもお世話になった恩人からは、「やまない雨はない」という励ましの言葉をいただいていた。その時、とても嬉しくありがたい、と思ったけれども、一方で、「確かに、雨だったらいつかはやむよね」と自嘲した。自分の心に降る雨がいつか上がるとは、せっかくだけど思えなかった。それでも、1メートル先も見渡せない視界不良の土砂降りから、今は、曇天からしとしとと降り続ける小雨、くらいには変化しただろうか。

死んだ、というのは、心が、だけではなかった。連れが亡くなったことで、私は数ヶ月後には引っ越さなければならなかった。そのことは、生のぬくもりの残滓でもよいからその場にすがっていたいという願いが、冷酷にも断ち切られたということだけを意味するのではなかった。当時、自宅の2階を伝道の場として使っていたわけで、そこを離れなければならないというのは、すなわち自分の天職を失うことも意味した。

無力な自分に打ちのめされながらも、何も考えられない。体も動かない。「とにかくユーカリスティアを続けること」だけしか考えられなかった。どんな形でもいい。ただ、続けること。考えなくてもいい、思いを持ち続けること。「思い」を糸、「身体」が人形。完全にマリオネットになるしかなかった。それでいい。私には主がいる、あとはその方に任せればよいのだから。

ぼーっとしていたし、それでいて感情は麻痺していても神経は過敏だったろうし、必死だったろうから、関わりのある人々に、自分の気づかないところで迷惑をかけてきたのだと思う。すみません。

死から一年後、ごくごく内輪、きょうだい弟子の方々との集まりを開いたことと、日本基督教団の逝去者記念礼拝に出席した以外、結局、今に至るまでお別れ会のような会を開くこともなかった。それは、私の心がそのような会に耐えられそうもなかったから、という理由が大きい。葬儀は生きている人のためにやるといわれるが、本当にそうだと思う。お別れ会に参加してくださるというお気持ちは大変ありがたいけれども、その方々の平安と引き換えに、自分の心がその場に耐えられるかというと、自信がなかったのだ。(そして、今もない。)すみません。

私は師、メンターも同時に失ったのだった。一体、自分は何をすれば、どうすればよいのだろう。このような問いさえ、5年くらいもつことができなかった。ぼーっとしていたから。やがて、自分が自立を余儀なくされているということに、最近、というかここ3、4年になってようやく気がつけるようになった。

2016年、夏。今思うと、この時のイギリスへの初旅が、ちょっとした転機だったのかもしれない。

これまでの座学––ウェスレー研究だとか今のメソジスト教会って?とか、民衆宗教とキリスト教だとか、ケルト文化だとか、神話だとか文学だとか、、、ぜんぶ、座学で済むわけないじゃん!ちゃんとこの目で確かめて来ないと!というのが、この旅に出ようと思った動機だった。旅費は?時間は?ないよ。それでも作るのさ。最終的に、「今だよ」「行きなさい」という見えない声に、押された。

20年以上の研究、あーだこーだと考えを巡らせた末に、よし、実証、と思って出かけたものだから、ものすごく忙しかった。ブリストルを始点に、イングランドの南西地方、つまり田舎では車を使ったのだが、1週間あまりの移動距離はその地方だけで800キロを越えた。加えて、毎日の歩数は2万歩を超えていた。田舎での最終日、コーンウォール州の州都トルーロで車を乗り捨てて、列車で首都に戻った後は、ウェスレーの生誕地、北東方面のエプワースへの日帰り往復、そして残り1週間、ロンドンを歩き倒す。帰国の頃には、あと一歩、歩くのもつらいという状態で東京行きの飛行機に滑り込んだ。

「とにかく続ける」ことは、すなわち自立、だったのか。自立が求められている、という考えが、旅の間、次第に沸き起こってきた。でも、自立って、なんだろか。どういう状態だろうか。

「あんた(江戸弁だとこうなる)の好きにしたらいい」と、口癖のように愛情をこめて静かに言われるのを、何度も聞いていたのが反芻された。