「日本人は無宗教である」と、いとも簡単に口にする日本人がいる。無宗教、と自称する人もいる。その中には、宗教、あるいは無宗教ということに関して、深い洞察や理解をもった上でなお、無宗教を語っていることも、もちろんあると思う。あるいは狭義には、「日本人は無宗教である」というテーゼが当てはまる部分もあるように見える。しかし一般的にいって、とくにインテリと呼ばれる人々が、日本人は宗教をもたない、というとき、それは単に宗教に対する無理解であったり、せいぜいあっても幼稚な認識のもとで語っているに過ぎない光景に出くわすことが、大変に多い。そして、「宗教とは」「キリスト教とは」という話になったときにも同様に、僭越ながら、それらの人々の理解の稚拙さを感じざるを得ないことがほとんどである。
ひとつ例を挙げてみよう。
オウム真理教は、多くの人々にとってなぜ邪教なのか、という問いに対して。「自分たちの目的のためには手段を選ばず、人命を奪ったり、拉致したりするから」。私がこれまでに聞いたことのある、オウムが邪教であるとする理由であり、大方はこのようであった。しかしこの理由で、オウム信者その人たちに「邪教信者である」ことを認識してもらうことができるだろうか。できないであろうと私は思う。
「目的のためには手段を選ばず」「人命を奪う」「拉致する」ことは、たとえ法律上で罰せられることはあっても、宗教という次元では、必ずしも罰せられないかもしれない価値観なのである。それどころかある場合には(とくに原理主義的信仰の持ち主たちの場合)、これらは宗教上の美徳となり、この価値観を貫徹させて世俗社会の法律で死刑に処せられた者は、殉教者として崇められることだってある。つまりオウム信者にとって、人命を奪うとか拉致することは、世俗の法律では「邪」に違いないが、宗教的に「邪」であるという結論に、必ずしも達しないかもしれないのである。
それでもなお、オウム真理教が邪教である、とみなすにはどうしたらよいのか。それは、その宗教が教義レベルで「邪」であることを証明するしか方法はないであろう。つまり、オウム真理教の教義が、宗教的にいかにくだらないか、レベルが低いかを説く以外、その宗教が宗教として邪であることを証明することはできないのである。
しかし、とくに宗教に関して、とくにここ最近の日本人の理解はひどく稚拙である。インテリと呼ばれる人々の話の中でさえ、基本的な宗教的リテラシーが低いといえばよいのか、たとえば、宗教に慣れ親しんでいる環境にあれば子供でも間違えないような間違いを犯す場面に、多々遭遇する。(こういうとき、私の方が心臓はドキドキ、赤面してしまう…)これでは、宗教的なレベルでの、教義対教義の論争など、とてもではないがおぼつかないであろう。
ここでひとつ誤解されたくないのは、宗教的基本知識に欠ける人々を、単に揶揄しようとは私は決して思ってない。知識なぞ、単なる知識に過ぎないのだから。それに、私自身だって、間違いを犯して赤面することが、(しょっちゅう)ある。あるタクシーの中でのこと、アメリカ人のある学者と乗り合わせていたときに、彼が「折伏(シャクブク)」について話を始めた。最初、私は要領を得なくて、「え?シャ…何ですって?釈迦ブック?〈何かの経典のことかなぁ〉」と考えあぐねていると、ドライバーが見兼ねて「お客さん、折伏じゃないの?」と。釈迦ブックに撃沈する私。あ~あ。
話を戻そう。とにかく、宗教面における教養を身につけること、これは大変に重要なことだと私は言いたいのだ。もちろん教養の中には、単なる知識の蓄積も含まれるであろうが、それだけでなく、ひとことで言えば、宗教に対峙するにあたっての作法を身につけることとでもいえばよいだろうか…。とにかく、(とくに日本で知識層とおぼしき人々の)「宗教アレルギー」というべきものには、極端なところがある。まあ、もっともそのことは、巡りめぐって、宗教を語る側の、スペシャリストらしからぬあり方に原因があるともいえるわけで、その問題の方が深刻なのかもしれない。自らの反省をも込めて。
「宗教とは何か」「宗教の価値とは」というような難しい問いに対して、各人が明確な答えをもつべし、などと無理なことを私は言っているのではない。宗教的教養を身につけるとは、少なくとも宗教について考えることがアンタッチャブルでないこと、各人がそれぞれの宗教観をもつこと――もちろん、その中には無神論も含まれる――これだけでも、たとえばオウム真理教に対峙するにあたって、十分効果があるように思われるのだが。
であればこそ、宗教教育を公教育課程に組み込むべし、との議論が最近あるらしい。しかし公教育課程に宗教を義務付けることに、私は賛成できない。確かに、公教育の中で宗教を扱うこと自体は悪いことのようには思えず、宗教に対する深い理解を得る布石となるような、一定の教育成果が得られるとは思う。しかし、宗教教育を義務化できるほどに、日本社会には成熟した民主主義や基本的人権思想が定着しているのだろうか。私にはそこに、大きな疑問がある。
日本の民主主義や人権思想など、たかだかここ最近60年間の制度(憲法)的保障に過ぎなかった(つまり人民の意識の中に深く浸透したとは言えない)、としかいいようがない理由をひとつ挙げれば、その間ほとんど一党独裁状態であったことなどがいい例だ。このような状態にしかないところに、宗教教育を義務化するのは、恐怖である。時期尚早である。
閑話休題、そこでやっとこさ、本題の、国教会が果たしうる役割である。繰り返すが、国教会制度を仮にも日本が導入すればよいということでは決してない。導入することによるデメリットの方が、現在の時点でははるかに大きいと思われるからだ。しかし、国教会制度にメリットがあるならば、そのメリットだけを取り入れることは、何ら悪いことはないであろう。そのメリットのひとつが、「宗教のもつ価値に対する理解」が、国教会的な信仰のあり方によって深まるという点である。
先に述べたが、国教とは「国が認定し、特に保護する宗教」である。再び繰り返すが、制度として実際にこれが導入されることに私は反対だ。しかし、国が認定する「が如く」当然に、日本の人々が自ら宗教的人間といえるような状態を目指したいと私は思っている。その状態が、私がここで言う「国教会的な信仰のあり方」を指す。では、宗教的人間とは、どのような人間像なのか。
それは、人間が社会的動物であることに疑いがないことと同様、宗教的動物であることが当然であるとでもいうか、つまり人間である以上、何らかの形で宗教と関わらずには生きていくことはできない存在なのだということが、まずテーゼとして定着することである。(まず、このレベルの議論からして、特に日本の知識層からの反発が多いものと思われる。)このテーゼに、文系だの理系だの、信仰者か不信心者か、などは関係ない。これは、たとえば「人権は天賦のものである」というテーゼが、日本ではあたかも当然のように定着していることに似ている。簡単にいえば、人間が宗教的存在であるとの認識が、何らかの形でもいいから普通になり得ること、その議論そのものに、タブーをかけないこと。これは、簡単なようでいて、実は大変難しい。とくに、インテリと呼ばれる人々にとっては、そうだと思う。
人間が宗教的存在であるということと、個人的には大変深いかかわりがあると思われる議論を、「なぜ人を殺してはならないか」というテーマで
桶川さんが取り上げている。もっとも桶川さんのこの議論は、宗教や神学の領域に及ばない限りでの議論に徹する、という姿勢である。このテーマが、人間が宗教的存在であるということと、どのように関わるのかについては、また稿を改めなければなるまい。ここでは深入りしないことにする。
日本人は無宗教なのでは決してなく、敢えて言うならば、宗教的難民なのだ。どこに定住したらよいのか分からず、教えてももらえず、したがってどうやって自分に合った指導者を見出せばよいのか分からない、という具合の、宗教的難民。このような人々が、今、日本には溢れているのではないだろうか。しかしこのことは同時に、宗教人側の不毛さが、よく現れているのではないかと思う。
では具体的にどうしたら、その国教会的な信仰のあり方を実現できるのか、と問われると、今のところ、私には地道な伝道という方法しか思いつかない。