Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

きっとマイナーな感想だけど

2007-08-27 02:46:52 | 遥かなる銀幕の世界
最近TVのCMに出ているオーランド・ブルームを見て感じたこと。
「少年、老い易し」。

老い、というほどではないにしても、よく言えば大人っぽくなったね、ありていにいうと、「彼もおじさんになってしまうのね…」。それより何よりも、このCMをみた私は、「おお!まるでオマー・シャリフの若かりし頃とそっくりではないか」と思ってしまった。シャリフの方が、かなり濃い顔には違いないけれども。

『トロイ』でのオーランド君、トロイの王子なのに決闘から逃げて、チキンで情けない姿をさらしても、かわいいから許せたのにねぇ。これからはぜひ、シャリフのような、素敵なおじさまを目指してがんばってね~。

写真は、『ドクトル・ジバゴ』のオマー・シャリフと、ラーラ役のジュリー・クリスティ。ジュリー、きれい。

The Tudors

2007-08-24 18:32:39 | 遥かなる銀幕の世界
只今2シーズン目の撮影中のヒットドラマ「テューダー家の人々(The Tudors)」の、1シーズン目のDVDが来年1月にリリースされるとの情報あり。ドラマは、ヘンリ8世の若き時代、20代後半から30代前半を描いたものだそう。準主役の女優(ナタリー・ドーマー)の役どころがヘンリ八世の2人目の妻・アン・ボーリンとのことからも、最初の妻・キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚騒動はじめ、ローマ・カトリック教会との軋轢が中心に描かれているドラマであることは、想像に難くない。

2シーズン目にはじめて登場する法王パウルス3世を、ピーター・オトゥールが演じることは、ファン間ではホットな情報としてすでに知られていて、さらにはニューヨーク・タイムズのウェブ版でも取り上げられていた。ニューヨーク・タイムズが指摘しているとおり、パウルス3世の在位期間とヘンリ8世のこの騒動には、歴史的にはズレがあるのだが、そのあたりはドラマということで…。

それよりも、オトゥールが法王を演じるということの方が、私には興味深い。役の上では、オトゥールはどちらかというと、教会を引っ掻き回す側の人間を演じることの方が多かったように思う。ヘンリ2世を演じた『ベケット』や『冬のライオン』の印象が強いゆえに、そう思えるのかもしれない。それに加えて、プライベートにおける、オトゥールとカトリック教会との「微妙な」関係を考えると、彼がどのような思いで法王を演じているのかな、と、余計な想像をしてしまうのである。(これだから、ファンってやつは困ったもんだ…。)もちろん、彼は名優らしく、与えられた役を粛々と、そして完璧に演ずるのだろうけど。

The Tudors 関係を検索していたら、こんな面白いサイトが。The National Website of Wales (って、こんなサイトが存在していたこと自体、すごい)の記事で、要するに、「テューダー朝っていうと、まるで英国純正の歴史みたいに思われているけどさ、元をたどっていくとウェールズ人の血が入っているってことを、どちら様もお忘れでないかい?」というようなことが言いたいようである。

その流れで、ピーター・オトゥールファンとしては見逃せない情報が。ピーターの実娘で女優のケイト・オトゥールが、ソールズベリー夫人役で出演するのだという。おお!親子共演のドラマ。とはいっても、シーンは別々なのだろうけど。もっともこの、…Wales の記事での強調点は、ピーターの娘というところよりも、ケイトが母親からウェールズ人の血を受け継いでいて、そのような背景をもつ俳優が、テューダー家を描いたドラマに採用されたことは、喜ばしくも当然だ、というところにある。

まあ、ファンとしては、「親子共演」の方にありがたみを感じるわけで…。

すでにThe Tudors には公式サイトがあって、トレーラーなどで予告編を見ることができる。確かに今回の、ジョナサン・ライズ・メイヤー演じるヘンリ8世は、若く、エネルギッシュで、精力的に描かれているようだ。これまでの、ヘンリ8世の老獪な(注・…Wales の記者はさらに(BBCスタッフの言葉として)、「太っている」「脆弱な」と付け加えている。私なら「脆弱」のかわりに「残虐な」だけどなあ)イメージを、ライズ・メイヤーは一掃したと評されている(Jonathan Rhys Meyers's sexy and vital monarch completely dispels the image of the older, overweight and infirm ruler.)。似たような評価は、こちらにも。

一方で、ヘンリ8世の教養深さという面が欠落されていないか、ちょっと不安が残る。トレーラーを見た限りの印象では、ライズ・メイヤーが、体育会系あがりのイギリス版プレッピー(?)なおにいさんに、見えなくもない。

私的・東京裁判関連の本

2007-08-14 13:12:08 | 豆大福/トロウ日記
ジョン・トーランド『占領』(光人社)、うぉー!アマゾンでまだ出ているよ。なつかしいなぁ。

ジョン・トーランドというと、私たちの世界に関わる者たちはすぐさま、ああ理神論の、と思うかもしれないけれども、私は理神論のトーランドよりも先に、このピューリッツァー賞受賞者であるトーランドとの出会いの方が先にあった。この『占領』は600ページ超の厚い本で、そのうちの最後の一章の下訳という仕事を担当した、思い出の本。何せ、自分の仕事が、下訳とはいえ、活字になって世に出る初めての体験である。確か、大学2年の終わりの春休みだった。

内容紹介には「敗戦の衝撃と荒廃の中をうちひしがれ彷徨う人々―。極東裁判が開かれるマッカーサー占領下の日本を舞台に、B級戦犯に問われる戸田家と、GHQと共に裁判にかかわるマグリン家の人々を軸に、東洋と西洋という異質な価値観を描き、『正義』とは、『真実』とは、『愛』とは、と問いかける問題作」とある。ジャンルとしては歴史小説であるが、そうはいっても、たかだか(当時で)40年ほど前の出来事に対しての小説だ。裁判記録や、巣鴨プリズン内での、戦犯たちと教戒師・花山信勝との会話などの、逆輸入ならぬ逆翻訳という、きわめて面倒な仕事を含むのであった。

逆翻訳の箇所は、もともとの記録と一語違えず訳さねばならない。記録を転記すれば済むのだから簡単じゃ~ん、と思ったら、大間違い。こうなると、どう訳すかではなく、いかに足で訳すか、の問題である。膨大な資料に当たるために、方々足を運ばなければならない。

と、かなり憂鬱になっていたところ、資料をぺらぺらめくっていたら、そうだ、大学に粟屋憲太郎先生がおられるじゃ~ん、ということに気がついた。粟屋先生は東京裁判研究の大家である。灯台下暗しであった。

休み中にもかかわらず、先生は快く資料提供に協力してくださった。その節は本当に、お世話になりました。

その同じ日、駅の西口から東口まで歩いて、巣鴨プリズン跡にある石碑に刻まれた言葉も転記して、家に戻り、再び翻訳にいそしんだのであった。

国教会の功罪(3)――救いの皆保険的保障

2007-08-07 22:32:17 | 豆大福/トロウ日記
ところで豆大福よ、オマエはなぜ国教会などと言い出すのかと、いささか唐突の感を持たれたかもしれない。

その答えは単純に、ジョン・ウェスレーである。ウェスレーはなぜ、メソジスト教会独立の声が高まったときでさえ、生涯、英国国教会の司祭であり続けたのか。実はこれは、かねてからひっかかっている問題のひとつである。この問題に対してはよく、「ウェスレーは保守的な人間だったから」という答えを聞く。果たしてそうだろうか。保守的な人間であった、というのは、結果の話である。国教会の司祭であり続けたのも、トーリー党の支持者であったのも、最終的にアメリカの独立戦争に反対したのも、彼のラディカルな思索・行動によってもたらされた「結果」、そうなったのである。しかし、彼の思索や行動自体を眺めるとき、ウェスレーが保守的な人間であったとはとても思えないのである。むしろ、非常にラディカルな人であったと思う。(この点に関して、野呂芳男『ジョン・ウェスレー』(松鶴亭)他では、「創作的保守主義」と説明されている。)

そして、ウェスレーの、国教会へのこだわりを考えるとき、彼は国教会制度の中に、容易には捨て去ることのできない魅力を見出していたのではないか、と思うのだ。では、その魅力とは何か―という次第で、ここに至るというわけである。前の記事ではいわば、国教会的信仰の広まりが意味するところをざっと述べたので、今回は、さらにそのことに関連した事柄に触れたい。

宗教を功利主義的な道具として捉えることは、悪いことではない。(ただし、ここでいう功利主義が利己主義とは全く異なるものであることは、英米の功利主義やプラグマティズムをもちだすまでもない。)むしろ、功利主義の要請を忘れた宗教や哲学は、公の宗教・哲学としては危険であるとさえいえる。最大の幸福とは何かという考察が置き去りにされた真理追究は、真理(とか、法とか、神とか、大我とか、無とか、天皇とか…いろいろと呼び名はある)のためには人々の幸福が犠牲にされても構わないという危険に陥りがちである。言い換えればそれは、原理主義などの孕む危険である。

人間が幸福になるために、さまざまな学問の分野でその追究が行われてきたわけであるが、宗教の存在も、幸福に寄与するためにあるといっても過言でない。問題は、幸福とは何か、どのような状態を指すのかが、とくに形而上学がからむと様々になってしまう点であるともいえる。

しかし、ユダヤ‐キリスト教の流れでは、比較的(というより、致命的)一致をみられる救いの概念が、ある。つまり、これを失ってしまったら、それはもうキリスト教でなくなる、という救いの概念がある。それは、人格神と各個人との、究極の信頼関係である。わたしたちが、伝統的に我‐汝の関係と呼ぶ関係である。人間の側が、どんなに悪者であろうとも、どんなに卑賤な存在であろうとも、人間が振り払っても追い払っても、愛の関係を求めてくる人格的存在を、キリスト教は想定している。この究極的な愛の存在者のことを、キリスト教では神とよぶ。したがって、キリスト教での救いとは、端的に言えば、この究極の愛の存在者と私たちの関係が常に、どんな状況にあっても、棄てられず保たれていることを指すと、私は理解している。

さて、今回の副題のうち、「救い」についてはざっと述べた。では、「皆保険的保障」とはどのような意味か。

キリスト教史上、採用されてきた考えの中に、「先行の恩恵」という教理がある。ウェスレー神学にとって中心的教理のひとつであるが、ウェスレーの専売特許ではもちろんない。アウグスティヌスはじめ、ローマ・カトリック教会や聖公会などに採用されてきた教理である。ここで、義認とか堕罪などの専門用語を使わずにいえば、先行の恩恵とは、私たちがいかに極悪非道の人でなしであっても、神との関係に入ることのできる準備を、神の方があらかじめ準備をしてくださっている、という考え方である。

だから、この考えの下では、救われるにあたって「予定によって人間が選別されている」とか、人間が努力して宗教的に立派にならなければ、とか回心の体験をもたなければというようなさまざまな「条件」は、求められていないのである。(この点については、約1年前の記事で「洗礼は挨拶」論のあたりですでに述べた。)ウェスレーの場合、先行の恩恵の教理は、自由意志論と切り離せない関係にあるので、本来であればセットで言及したいところだが、煩雑になるのでやめておく。

皆保険制度(とくに健康保険における)という考え方自体は、日本人にはなじみ深い。要するに、保険料を支払っていれば、全ての国民が良質の医療を享受できることを目指した制度であって、保険料も支払い能力によってまちまちだし、減免もあり得る。日本でこの制度が採用される歴史的経緯を眺めると、社会党の苦闘の末のことであるのが分かるが、現在、この制度を採用していない国の国民の医療格差は、惨憺たる状態である。(要するに、アメリカのこと。先日も、アメリカからの客人たちとこの話題になったときには、〈皆保険制度がなくて〉「お気の毒様」としか言いようがなかった私。)

国教会的な信仰を採用する、ということは、国民皆保険制度の採用と似ている、といえるだろう。例が適当でない、と思われればそれはそれでいい。適当でないかもしれないから。しかし、生を受けたあらゆる人民が、広くあまねく救いの保障内にあるという考え方は、魅力的ではないか。

国教会の功罪(2)――宗教のもつ価値に対する理解

2007-08-07 22:27:26 | 豆大福/トロウ日記
「日本人は無宗教である」と、いとも簡単に口にする日本人がいる。無宗教、と自称する人もいる。その中には、宗教、あるいは無宗教ということに関して、深い洞察や理解をもった上でなお、無宗教を語っていることも、もちろんあると思う。あるいは狭義には、「日本人は無宗教である」というテーゼが当てはまる部分もあるように見える。しかし一般的にいって、とくにインテリと呼ばれる人々が、日本人は宗教をもたない、というとき、それは単に宗教に対する無理解であったり、せいぜいあっても幼稚な認識のもとで語っているに過ぎない光景に出くわすことが、大変に多い。そして、「宗教とは」「キリスト教とは」という話になったときにも同様に、僭越ながら、それらの人々の理解の稚拙さを感じざるを得ないことがほとんどである。

ひとつ例を挙げてみよう。
オウム真理教は、多くの人々にとってなぜ邪教なのか、という問いに対して。「自分たちの目的のためには手段を選ばず、人命を奪ったり、拉致したりするから」。私がこれまでに聞いたことのある、オウムが邪教であるとする理由であり、大方はこのようであった。しかしこの理由で、オウム信者その人たちに「邪教信者である」ことを認識してもらうことができるだろうか。できないであろうと私は思う。

「目的のためには手段を選ばず」「人命を奪う」「拉致する」ことは、たとえ法律上で罰せられることはあっても、宗教という次元では、必ずしも罰せられないかもしれない価値観なのである。それどころかある場合には(とくに原理主義的信仰の持ち主たちの場合)、これらは宗教上の美徳となり、この価値観を貫徹させて世俗社会の法律で死刑に処せられた者は、殉教者として崇められることだってある。つまりオウム信者にとって、人命を奪うとか拉致することは、世俗の法律では「邪」に違いないが、宗教的に「邪」であるという結論に、必ずしも達しないかもしれないのである。

それでもなお、オウム真理教が邪教である、とみなすにはどうしたらよいのか。それは、その宗教が教義レベルで「邪」であることを証明するしか方法はないであろう。つまり、オウム真理教の教義が、宗教的にいかにくだらないか、レベルが低いかを説く以外、その宗教が宗教として邪であることを証明することはできないのである。

しかし、とくに宗教に関して、とくにここ最近の日本人の理解はひどく稚拙である。インテリと呼ばれる人々の話の中でさえ、基本的な宗教的リテラシーが低いといえばよいのか、たとえば、宗教に慣れ親しんでいる環境にあれば子供でも間違えないような間違いを犯す場面に、多々遭遇する。(こういうとき、私の方が心臓はドキドキ、赤面してしまう…)これでは、宗教的なレベルでの、教義対教義の論争など、とてもではないがおぼつかないであろう。

ここでひとつ誤解されたくないのは、宗教的基本知識に欠ける人々を、単に揶揄しようとは私は決して思ってない。知識なぞ、単なる知識に過ぎないのだから。それに、私自身だって、間違いを犯して赤面することが、(しょっちゅう)ある。あるタクシーの中でのこと、アメリカ人のある学者と乗り合わせていたときに、彼が「折伏(シャクブク)」について話を始めた。最初、私は要領を得なくて、「え?シャ…何ですって?釈迦ブック?〈何かの経典のことかなぁ〉」と考えあぐねていると、ドライバーが見兼ねて「お客さん、折伏じゃないの?」と。釈迦ブックに撃沈する私。あ~あ。

話を戻そう。とにかく、宗教面における教養を身につけること、これは大変に重要なことだと私は言いたいのだ。もちろん教養の中には、単なる知識の蓄積も含まれるであろうが、それだけでなく、ひとことで言えば、宗教に対峙するにあたっての作法を身につけることとでもいえばよいだろうか…。とにかく、(とくに日本で知識層とおぼしき人々の)「宗教アレルギー」というべきものには、極端なところがある。まあ、もっともそのことは、巡りめぐって、宗教を語る側の、スペシャリストらしからぬあり方に原因があるともいえるわけで、その問題の方が深刻なのかもしれない。自らの反省をも込めて。

「宗教とは何か」「宗教の価値とは」というような難しい問いに対して、各人が明確な答えをもつべし、などと無理なことを私は言っているのではない。宗教的教養を身につけるとは、少なくとも宗教について考えることがアンタッチャブルでないこと、各人がそれぞれの宗教観をもつこと――もちろん、その中には無神論も含まれる――これだけでも、たとえばオウム真理教に対峙するにあたって、十分効果があるように思われるのだが。

であればこそ、宗教教育を公教育課程に組み込むべし、との議論が最近あるらしい。しかし公教育課程に宗教を義務付けることに、私は賛成できない。確かに、公教育の中で宗教を扱うこと自体は悪いことのようには思えず、宗教に対する深い理解を得る布石となるような、一定の教育成果が得られるとは思う。しかし、宗教教育を義務化できるほどに、日本社会には成熟した民主主義や基本的人権思想が定着しているのだろうか。私にはそこに、大きな疑問がある。

日本の民主主義や人権思想など、たかだかここ最近60年間の制度(憲法)的保障に過ぎなかった(つまり人民の意識の中に深く浸透したとは言えない)、としかいいようがない理由をひとつ挙げれば、その間ほとんど一党独裁状態であったことなどがいい例だ。このような状態にしかないところに、宗教教育を義務化するのは、恐怖である。時期尚早である。

閑話休題、そこでやっとこさ、本題の、国教会が果たしうる役割である。繰り返すが、国教会制度を仮にも日本が導入すればよいということでは決してない。導入することによるデメリットの方が、現在の時点でははるかに大きいと思われるからだ。しかし、国教会制度にメリットがあるならば、そのメリットだけを取り入れることは、何ら悪いことはないであろう。そのメリットのひとつが、「宗教のもつ価値に対する理解」が、国教会的な信仰のあり方によって深まるという点である。

先に述べたが、国教とは「国が認定し、特に保護する宗教」である。再び繰り返すが、制度として実際にこれが導入されることに私は反対だ。しかし、国が認定する「が如く」当然に、日本の人々が自ら宗教的人間といえるような状態を目指したいと私は思っている。その状態が、私がここで言う「国教会的な信仰のあり方」を指す。では、宗教的人間とは、どのような人間像なのか。

それは、人間が社会的動物であることに疑いがないことと同様、宗教的動物であることが当然であるとでもいうか、つまり人間である以上、何らかの形で宗教と関わらずには生きていくことはできない存在なのだということが、まずテーゼとして定着することである。(まず、このレベルの議論からして、特に日本の知識層からの反発が多いものと思われる。)このテーゼに、文系だの理系だの、信仰者か不信心者か、などは関係ない。これは、たとえば「人権は天賦のものである」というテーゼが、日本ではあたかも当然のように定着していることに似ている。簡単にいえば、人間が宗教的存在であるとの認識が、何らかの形でもいいから普通になり得ること、その議論そのものに、タブーをかけないこと。これは、簡単なようでいて、実は大変難しい。とくに、インテリと呼ばれる人々にとっては、そうだと思う。

人間が宗教的存在であるということと、個人的には大変深いかかわりがあると思われる議論を、「なぜ人を殺してはならないか」というテーマで桶川さんが取り上げている。もっとも桶川さんのこの議論は、宗教や神学の領域に及ばない限りでの議論に徹する、という姿勢である。このテーマが、人間が宗教的存在であるということと、どのように関わるのかについては、また稿を改めなければなるまい。ここでは深入りしないことにする。

日本人は無宗教なのでは決してなく、敢えて言うならば、宗教的難民なのだ。どこに定住したらよいのか分からず、教えてももらえず、したがってどうやって自分に合った指導者を見出せばよいのか分からない、という具合の、宗教的難民。このような人々が、今、日本には溢れているのではないだろうか。しかしこのことは同時に、宗教人側の不毛さが、よく現れているのではないかと思う。

では具体的にどうしたら、その国教会的な信仰のあり方を実現できるのか、と問われると、今のところ、私には地道な伝道という方法しか思いつかない。

国教会の功罪(1)

2007-08-07 22:16:41 | 豆大福/トロウ日記
「国教会」、この教会の存在は、日本人にとっては、まったく埒外のものであると思う。国教会とは「国教として認められた教会」であり、国教とは「国が認定し、特に保護する宗教」と辞書にある。

明治維新以降、皇国史観に基づく国家神道がいかに市民の生活・財産・命を脅かしたか、その反省のもと、戦後、政教分離の原則が徹底した日本では、ある特定の宗教や教団を国が認定する、つまり国教制度自体が、憲法20条「信教の自由」を侵すものであると理解され現在に至っている。(ちなみに、憲法20条や政教分離の原則に関して、「アメリカの押し付けだ!」という文句はあまり聞かない。ほとんどの日本人が、これに関しては今尚すんなりと受け入れているということだろうか。)

ここでは、政教分離または政教一致(コンコルダートも含む)の是非を論じようというのではない。それにはまた別の、大きな記述が必要である。ただ、日本で政教分離の原則が採用された歴史的経緯を考えると、その採用は止むを得ないというか、必然でさえあったと私は思う。だからついでに言うと、先の参議院選挙では、自民党惨敗・野党躍進という有難きカタルシスを味わうと同時に、その存在が政教分離原則に反する、さらには憲法違反としか思えない公明党が、壊滅というところまでいかなかった残念な気持ちも、ちょっぴりあったのである。

ならば国教会制度は、それほどまでに悪に満ちた制度なのかというと、実はそうとばかりは言えない。日本では、その歴史をかんがみるとき、国教会制度は採用しがたいものとなってしまったが、現に、イギリス、北欧諸国、ギリシアでは、今でも国教会制度が採用されている。キリスト教以外でも、中東諸国や北アフリカ諸国ではイスラム教を国教としているし、仏教を国教としている国々も存在する。これは、それらの国々では国教会制度について、その変革への決断が、前近代からズルズルと延びに延ばされ今に至る、という面もあるかもしれないが、同時にそれは、国教会制度が必ずしもマイナス面ばかりではないことを示しているのではないだろうか。

ここからが本題である。国教会制度の問題点については、ここでは割愛する。(ただしその問題点に「目を覆う」のではない。今は、この点に深入りする場合ではない、ということにすぎない。)では考えられる国教会/コンコルダートの良い面とは何か。とりあえず、次の2点が考えられる。私の話なので、キリスト教的な視点であるのは致し方ない。

1.救いの皆保険的保障
2.宗教のもつ価値に対する理解

これらは、国教会を持たない日本には、決定的に欠けている2点である。とくに2.に関しての、日本人の実際は、ひどく幼稚なものに成り下がってしまっている。では次は、2.についてから述べるとしよう。