Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

「花と小父さん」

2012-12-31 00:05:44 | 豆大福/トロウ日記
昨日、有楽町の交通会館前で、薔薇の小さな鉢植えを300円で購入した。それ、薔薇の生花1本買うより安いではないか。

仕事の帰りにそこらあたりをうろうろしていたのは、ちょっと小腹がすいていて、交通会館の各地ご当地ショップの買い食いコーナーで何かないかと思ったからだったが、結局何も食べたくなくなって、帰り際、外の露天売り場でそのかわいい花に魅せられた。

その花、「私を摘んで おうちへ連れてって」(「花と小父さん」)と言っているようでならなくなった。

植木等と裕木奈江が一緒に歌うこの切ない曲を、結局「いいね」とだけ言って声を詰まらせてしまう夫であった。

「小さな花に くちづけをしたら 小さい声で 僕に言ったよ
小父さんあなたは 優しい人ね 私を摘んで おうちに連れてって
私はあなたの お部屋の中で 一生懸命咲いて 慰めてあげるわ
どうせ短い 私のいのち 小父さんみてて 終わるまで」

「かわいい花を 僕は摘んで 部屋の机に 飾っておいた
毎日僕は 急いでうちに 帰って花と お話をした
小さいままで かわいいままで ある朝花は 散っていったよ
約束どおり 僕はみていた 花のいのちの 終わるまで」

この曲の途中までは、おじさんは感情移入できるのだ。しかし後半部分、花が死んでしまうあたりから、おじさんは複雑な心境になるようだ。

私はといえば、結末そのとおりよろしくと夫に頼んでいた。

彼のいない3度目の年末。約束は、まだ続く。

ふたご座流星群か

2012-12-12 22:16:33 | 豆大福/トロウ日記
今夜、今さっきの家路の途中、西の空に流れ星をみた。
家に帰ってみると、何でも今週末あたりにふたご座流星群がもっとも活発になるということだそうで。

今日の流れ星には、願いをかけるには時間が足りなかった。「あ」で終わってしまったのだった。

流れ星はあまりにも一瞬で流れてしまうから、それを目撃した直後には「今、自分は本当に流れ星をみたのだろうか」と確信がもてなくなるのが常だ、私の場合。つまりそれは、体験の不確実性。つまりつまり、荘子の「胡蝶の夢」のような。

であるからこそ、私という主体はその一瞬の出来事に、願いをかけたいと望むのかもしれない。

ちょっと過去を振り返ってみる

2012-12-10 22:34:51 | 豆大福/トロウ日記
最近書類を整理していたら、神学生時代に自分が提出したペーパー類が出てきた。こういうのが出てくると、時間を忘れてつい読んでしまう。たまたま出てきたのは、大体が牧会関係(Pastoral ○○)とか、聖書解釈関係(Exegeses on ○○)であった。要するに、1年目に提出したペーパーが中心。

我ながら、とんがっていたなあと思う。いいね、若さって。やはり今になってみると、良くも悪くもこうは書けない、という大胆さと粗雑さがそこにはある。中には未だに納得がいかない、指導の先生からの講評もあったりして。若い頃には、それに対して本気で頭にきたものだった。そんな気持ちも久しぶりに思い起こされた。

辛かったなあ、いろいろと。
まず、寮の部屋が寒い。暖房が入れられるまでは、毛布にくるまりながら勉強したなあ……などと思い起こしていたら、しばらくして「季節のご挨拶」メールが母校から届いた。

アメリカの良いところとして、数十年経っても町並みがそう変わらないという点がひとつ挙げられると思う。大福先生は私の卒業式(学位授与式)に出てくれたのだけれど、先生にとってもそれは、40年ぶりぐらいの母校訪問の機会となった。そのときも、大学の内部はもちろん、マディソンはじめ周辺の町並みは40年経ってもほとんど変わっていないとのことだった。ホボーケンから出発する「ラカワナ鉄道」は「ニュージャージー・トランジット」と名を変えこそすれ、乗務員の駅名の発声の仕方とか、昔と全く変わらないそうで。

そう、母校の構内には、ずばりフォレストと呼ばれる森があるのだ。写真のとおり、シカも住んでいる。特に夜、キャンパス内を車で徐行していて、突然のリスの飛び出しには毎度ヒヤッとさせられたものだが、シカの場合、目にヘッドライトが照らされた反射で、シカの目がギラっと光るのが結構怖かった。夜に数頭集団でいたりするのをみると、それも結構怖い。

最近になってようやく、学生時代から勉強してきたことが決して無駄なことではなかったのかもしれない、と少しは思えるようになった気がする。もっとも、アカデミックな面でも実践的な面でも前を向くのが精一杯、どころかそれもろくにできないでいて、後ろを振り返る余裕などまだ全然ないのは確かではあるけれども。