Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

日本橋架橋百年祭

2011-10-31 10:53:58 | 豆大福/トロウ日記
当然といえば当然ながら、新聞やニュースでも取り上げられていた、昨日開催された日本橋架橋百年祭。百年に一度という日本橋の祭りに私が行かないわけがないのである。えいやっ、今日の午後は休日満喫!と決め込み、高島屋の反対側の沿道にあたる、丸善の足元でパレードの開始を待った。

最前列を陣取ったおばちゃんたちの解説が案外面白く、しかも役に立つ。冒頭でのクラシックカーのパレードで、オープンカーの車中から、和服に身を包んだ見覚えのある派手めなおばさんが愛想よく手を振っているなあと思っていると、その最前列おばちゃんたちが「あれ、扇千景だよ」と騒ぎ出す。ああ、そういえば。

思えば、日本でパレードの観衆者体験は、これが初めてだ(^^; 米国での独立記念日とかイースターとかのパレードに比べると、日本の観衆は本当におとなしい。盛り上がりに欠けるとも言えるのであるが、しかしそれは日本人の特質もあるだろうけれども、むしろそれよりギャラリーの年齢層によるのではないだろうか。あたりを見回すと、中年な私が明らかに若造だ。綾小路きみまろが登場して「皆様のご健勝と発展を心より祈念申し上げます」でシメるショート漫談つきのパレードだったら、ずっと盛り上がるのにと思える年齢層が中心のギャラリーたち。

それは同時に、日本橋界隈の町人文化が衰退しつつある様を如実に表しているともいえる。パレードには地元の各町会による神楽や神輿も担ぎ出されたが、どうも盛り上がりに欠ける。東北復興のため招待され伝統的な踊りを披露した(仙臺すずめ踊り、金津流鹿踊、北藤根鬼剣舞、川原鎧剣舞、浦浜念仏剣舞、山田町八木節、相馬野馬追、騎馬武者)の東北系パレードの方が、ずっと活気がある。特に馬とそれに乗った鎧甲冑姿の武士の登場、かっこよかったなあ、ダースベーダ―みたいで。

見方を変えれば、江戸のダイナミックさは元来、各地方の元気によって成り立っていたことを思えば、各地方の文化に対する寛容性の現れともいえ、地方中心の展開もまた江戸文化らしいのかなとも思う。それにしても、地元がしょぼ過ぎで悲しい。目の前では、祭りの役目を終えたらしい高島屋の従業員たちがギャラリーとして参加し、懸命に盛り上げようとしてはいたものの…。パレード冒頭で、地元の小・中・高校生による楽隊が元気よかったのが慰めだ。

合間に空を見上げると、手前の山本山の看板の背後に、日本橋のまさに足元にバンカメ(Bank of America)&メリルリンチのビルがそびえているのに初めて気が付いた。う~む、複雑。でもまあ、これもまた、よし。

帰りに寄った丸善で、©絵葉書資料館によるかつての日本橋界隈を描いたさまざまな絵葉書に遭遇し感動。「日本橋ト三越呉服店遠望」では都電が橋を渡る風景と沿道の商店、木造の新大橋、人力車、白木屋「創業弐百五拾年増築落成記念」。どれも皆、夫の話どおりの画だ。がんばれ、日本橋。まずはやはり、頭上の高速道路をどうにか迂回させたいよね。日本橋はじめ、周辺の小さい橋々にも結構風情があるものが残っているのだし。


身震いする土曜の午後

2011-10-29 17:52:09 | 豆大福/トロウ日記
久しぶりに向かったテレビで「ブラックジャック」(再放送)を観た。誰か涙のスイッチ止めて~という展開は、まあ予想通りではあったのだが、ところでブラックジャックの母上の名前、このドラマで初めて知った。彼女の名前、漫画には出てきたことがあったかなあ。

母、間美都子。ブラックジャックの本名が間黒男で、しかしそれも本当は本名でなくて、漫画でも彼は子供時代に時夫(時男だったかな)と呼ばれていたような記憶があるような、ないような。しかし母親の名前が美都子とは!これは手塚さんご自身のアイデアなのか、それとも彼の遺志を受け継いだどなたかのアイデアなのか。

間美都子と時夫。母と、父親のいない息子。ふたりを合わせると「時は満ちた」となる。そして間時夫(「男」だったか)という名前をバラしてみれば、それは「時間」と「夫(男だっけ?)」になる。要するに、ブラックジャックは時間の中に生きる凡夫にして天才、その母と合一したときに「時は満ち」るのである。

「時は満ちた」、周知のとおり福音書、とくに「マルコによる福音書」1章15節ではそのままの言葉で出てくる言葉である。(ちなみにヨハネ福音書ではその概念は採用されない)。

そして母と息子の密接で微妙な関係性。このような母子信仰は、キリスト教史における処女マリアとイエス・キリストとの関係にみられるのみならず、古今東西の宗教に存在する元型である。たとえば日本では、比売神と八幡神との関係性がまず頭に浮かぶ。

……などと徒然に考えながら、テレビ版医学生時代のブラックジャックのストーリーに涙を流し、恩師・本間先生の名台詞である「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」に再び深く頷く。

そのCMの途中、待ちに待っていた本が宅配で届いて、さらに興奮。研究がまだ温室で生育中のデリケートな段階ゆえ、その本の内容は秘密にしておきたいところなので、ここはメソジズムの根幹に関連する書籍とだけ記録しておく。

アメリカには、長年図書館で保存されていたりして著作権の切れた古い時代の書物をスキャンニングして、つまり当時出版されたままの状態でフォトコピーし、それを紙媒体で新たに出版するという出版社がいくつかある。今、日本でも似たような、あるいはそれよりちょっと先を行く形で、書籍をスキャニングしてPDF化する「自炊」が行われている。それが完全に個人によるものであれば問題にならないであろうが、自炊を生業とするとなると問題になりかねず、実際、出版社&著者対自炊業者との軋轢が問題となっている。日本のその問題はともかく、アメリカのその類の出版社のやり方は、著作権に抵触しない資料が対象なので問題にならないのであろう。

今日私の手元に届いた本もそのような類の本なので、本を開いた途端に字体とか行間の取り方の古さがまずダイレクトに伝わり、震える。そして次に一瞥して、その内容のへ期待感の高まりにブルブル。ジョン・ウェスレー没後から100年あまりの間を生きたアメリカのメソジストたちが、ウェスレーの遺していった課題をどう捉えていたのか。あるいは、アメリカのピューリタンたちの信仰を支えるカルヴィニズムとどのように直面していたのか。ああ、なんてブルブルな午後。

お気楽心理テスト結果より徒然に思うこと

2011-10-26 07:42:10 | 豆大福/トロウ日記
気分転換に、OZmallの心理テストを試してみた。結果、笑った。

「あなたの年の差婚度(年上男性編)

あなたの診断結果
年の差婚度90% 余裕のある超年上男性と結婚したい

あなたはオトナの男に魅力を感じるタイプ。同世代や年下のちょっと自信なさげな男性は、頼りなくて人生をともに歩める感じがしないのでは? その点、“男は男らしく”と育てられて、女性をリードすることに慣れたアラフィフやオーバー50の男性は余裕たっぷり。人生経験が豊富で、気持ちにも経済的にも余裕がある年の差男性との結婚は、あなたにかなり向いてそうです。」

もはや失笑するしかない結果だ……まあ、今となってはアラフィフやオーバー50の男性が私にとって超年上でない(ちょい年上、あるいはほぼ同年代といってもいい?)ってところがオチだわ、これは。

そもそも“女子力”皆無、結婚願望ゼロだった私は「結婚(それ自体)したい」と思ったことはなく。だから10代後半にこのテストに出会っていたとしたら、「結婚」「超年上男性」?それはナイナイと鼻であしらっていたかもしれない。「お前は女の姿をした男だ」との旨、そういえば父親からも言われていたものなあ。バブル末期、ソロモンの栄華日本版みたいな時代に、大変華やかな女学生の揃った大学に通っていたので、外見の姿は周囲から浮かない程度に地味にバブリーな女学生という、しかし脳内はオヤジっていう変な小娘だった。

最近では、かつての若きバブリー女たちは「美魔女」に変身したという。バブル末期の頃、世にはびこる(あらゆる年齢層の)バブリー女&男たちを密かに冷ややかな目で眺めていた私は、今再び言われている、この美魔女礼賛現象に反感すら覚えるのだけれど。

美魔女?てやんでぃ、てな脳内オヤジなところは相変わらず、しかし今はもう娘でないのでオヤジ「おばちゃん」で、ハイそれで結構、中年呼ばわり上等じゃないの……そういえば大学生の頃、「豆大福ちゃんって、懐の大きい下町のおばちゃんみたいなところがあるよね」とも言われたこともあったなあ。今思うと、その時すでにそのように言われていたことは、江戸っ子の女房としての称号を受けたも同然、大変光栄なことである。

しかしその後、実際に両国界隈に住んでみると、新興郊外型(偽)山手出身者である私からするとカルチャーショックを受けることも多かった。夫ともに過ごした下町での8年間の体験で、私は江戸っ子の何たるかを身をもって、初めて会得できたような気がする。それは言葉では言い尽くせないけれど、敢えて一言でいえば、江戸っ子とは都会人なのだ。この言葉遣い自体が高慢だというならばこう言い換えてみよう。政治の中心地であった大都市に生きる市民感覚を身に付けた人々による人々のための文化、ただし当時は階層社会、それが江戸っ子文化だ。

そこを出発点に、さまざまな具体的な生き方の作法が生まれてくる。たとえば今の東京のように、庶民の大方がサラリーマンということではなかった。とくに狭い江戸の町を形成していたのは士農工商のうち、とくに工(あらゆる種類の職人)・商(経済・経営人)が圧倒的多数、そして士(お上に仕える仕事を持つ人)だったのだろう。

もっとも夫に言わせれば、私たちがそこに住んだ時にはもう、かつての下町の雰囲気は失われてしまったとのことだった。東京大空襲で家や家族を失って以来、かつての郷愁に誘われて退職後になってやっと下町に舞い戻ってはみたものの、2度目のロスト・ホームランド体験に落胆する夫であった。

でもね、「よそ者」出身者である私からみると、今でもかすかに残っていると思うんだよね、かつての東京下町の文化。それが残っているのはとても限定的な地域であったり、あるいはとても限定的な年齢・職業の人々の言葉遣いや態度であったりかもしれないけれど、まだそれが完全に滅失されてしまったわけではない(と信じたい)。その証拠に、下町出身でない私が下町に住んで体験したカルチャーショック、違和感は、下町文化という特異性の存在ゆえに引き起こされたものなのだから。

最初の話から話題が大分飛んでしまったので話を戻すと、江戸の庶民文化では、女は皆オジサンだったのだ。彼女らには決して、今でいう女子力をもって自らのサバイバルを図ろうという感覚は、ないに等しかったに違いない。当時、女性が社会に出て職を持っていたことは当然で、それゆえ、社会の中に生きる一市民としての自覚が相当に高かったはずである。江戸に限らず全国的に、専業主婦といえたのは武士階級の妻ぐらいであったであろう。それでも彼女たちでさえ、現在の専業主婦の姿とは異なっていた。彼女たちもまた、「武士の妻」というお役目を負った、いわば一職業人であったのである。

江戸っ子の妻、娘たちの女子力といえば、それは、今流行っているような婚活力に結び付く男に媚びる女々しい弱々しさ、可愛らしさのアピール戦術とは違う。そうではなく、夫あるいは働く場で係る男たちから3歩下がった位置を保ちながらも、しかしあらゆる事物の運びに関してその実権を掌握してしまうというしたたかさに見出せるのではないだろうか。いわば、お釈迦様とその手中で転がされている孫悟空との関係のような。

アングロサクソン的あるいはゲルマン的な男性優位社会で育ったある種のフェミニズムが日本の土壌に根づき難かったのは、実はここらあたりの社会性の違いに原因があるように私には思えてならない。

現実歪曲フィールド

2011-10-24 22:49:42 | 豆大福/トロウ日記
今月5日に逝去されたスティーブ・ジョブズ氏の評伝が刊行されるのに先立ち、昨日(10月23日)の朝日新聞朝刊社会面でジョブズ氏とビル・ゲイツ氏との会話が一部掲載された記事があった。その記事に「ジョブズ氏は、対応したくないものを無視する『現実歪曲フィールド』と呼ばれる性癖がある。目的のためなら事実をねじ曲げても実現させる熱意として讃美されることもあるが、がんには悪い方に作用し、『向き合わないとなったらとことん向き合わない』姿勢を見せた。」とある(太字は私自身による)。

私の神学生時代はOSがMS-DOSの時代で、その扱いには大変苦労した。その後日本で使い出したマッキントッシュの利便性に私も感動をもらったひとりである。ただ、当時のマックは重かった(重量の話でなく、操作性の面で)。その重さに耐え切れず、またコストパフォーマンスの面で優れていたウィンドウズに浮気したという経緯がある。その後マックOSも改良が進んだけれども、しかしMacBookAirはじめアップル社のデザイン性、スマートさはあこがれでしかなく。アップル製品は好きなのに、せいぜいiPod程度でしかお付き合いできないまま、ジョブズ氏は逝ってしまった。何台もパソコンを持つ経済的余裕はなかったもの。今もないけど。

そのような、マック信者とは到底言えない、中途半端なアップル社の一消費者・ユーザーでしかない私にとって「現実歪曲フィールド」は初めて目の当たりにした言葉だった。昨日の新聞を読んでこの言葉に直面した時には、ん?ある種の心理学用語か?と思ったけれども、調べてみるとどうやらこれは心理学上の用語をもとに、そして「スタートレック」をもとに!アップル社のバド・トリブル氏(Bud Tribble)が開発した用語らしい(Reality Distortion FieldについてWikipedia等から)。

う~~~む。「現実歪曲フィールド」。今はなんとも頭の整理がつかない状態ながら、研究を進めてゆくととんでもない結論が得られそうな予感を漂わせる言葉だ。神学上の領域でいえば、この現実歪曲フィールドと呼ばれる空間は、自由意志と最も密接な関係にあるのだろう。しかしその自由意志とは何か、何に由来するのかという問題がある。愛において全能の(父なる)神そしてキリストの霊、そしてこの不条理の世界。これらの関係性を世界観、人間観においてどのように捉えるべきなのかという既存の議論にからみつく可能性を秘める、新たな概念といえるだろう。実存論的神学にとっても、新たな課題を与えられたと思えるような衝撃的な言葉だ。

実際、現実社会においても、この「現実歪曲フィールド」をもつ人物は、ジョブズ氏に限らないであろう。「天才」と呼ばれる大概の人物は、このような空間の保持者ではないだろうか。たとえば、20世紀の天才ヴァイオリニストであるヤシャ・ハイフェッツもそういった空間の持ち主といえないだろうか。

いわゆる天才たちのもつ特質は、特に20世紀以降の(精神)医学の発達の結果、色々な「病名」でもって説明されることとなった。たとえば今挙げたハイフェッツにしても、潔癖症、完全主義者、アスペルガー症候群……病名とはいえない特性も含まれてはいるものの、専門家の間でもその人物にどのようなレッテルを付けるかの選択は様々だ。天才のもつ特性に対する良し悪しの評価は様々ながら、少なくとも天才の異常性・非尋常性を何かしらの用語で説明すること、それがひとつの科学的あり方として認められる時代を、私たちは生きている。

ちなみにハイフェッツの演奏を、留学中に生で聴いたという何ともうらやましい体験をもつ大福先生。「天井桟敷にいるような貧乏学生や聴衆にも気を配って演奏や挨拶をしてくれる、優しくてとってもいい人だったよ」とのこと。それにしてもハイフェッツのライブ体験とは、うらやましすぎるぞ!

閑話休題。たとえば、天才、あるいは(一般用語ではなく心理学用語としての)ギフテッドと現実歪曲フィールドとの関係、なんていう研究に取り組んでみようという心理学者の方いません?ここらあたりの解明によって、古代ギリシャ人や日本古来の民衆宗教的信仰等にみられる、小さい神々と人間との混在という世界観の解明を迫ることさえできちゃったりして(こういう〈学術的には〉無責任を平気で言えてしまうところがブログの醍醐味だわ)、なんてね。

ところでiPad2が、明日私のところにやってくる。しかも刻印入り ^0^/ 
購入の動機の大部分はiPad使用のどうしようもない必要性が生じたことにあるが、一方で購入に踏み切った心のどこかには、ジョブズ氏への哀悼という感情もあったような気がする。iPad3まで待つとなると、製品の良し悪しはともかくポスト・ジョブズ製品になってしまう気がして、何だかなあ、と。明日到着予定のそれ、私が刻印に込めた言霊とジョブズ氏の精神とが相まって、私固有の良き相棒になってくれるものと期待している。

江戸城お堀端ラン、デビュー

2011-10-10 10:44:48 | 豆大福/トロウ日記
えっ、5キロってこんなもの?というほど快適に一周完走してしまった、昨日の夕方。もちろん、ペースは遅い。8分/1キロかそれ以上かかったか。走りというには限界、な遅さだろう。堀端の史跡案内などもその場で足踏みしながら読んでみたり、千鳥ヶ淵戦没者墓苑付近では祈りを捧げ、お堀の白サギとか周囲の景色や彫刻を鑑賞したり思索にふけってみたりと、結構あちこちに気を回しているうちに1周が終わってしまった。

ランを薦めて下さった主治医の先生から、「(そこは)反時計回りに走るのが暗黙のお約束」とは言われていた。確かにその走り方、陸上のトラック通りだものね。そういう方向に走るのが私の潜在意識に組み込まれていたのだろう、気がついたらその方向で走っていた。

最寄りの駅から堀端に出で、ランナーたちと合流する。合流とはいえ、私は抜かれる一方だ。軽く見積もってもたぶん100人以上に抜かれただろう。ラン前後に入念なストレッチを行えば、翌日に疲れもほとんど残らない。休日だと着替えの点で楽だったけれども(ほぼ運動着スタイルのまま朝から出かける&帰宅できるから)、いつか平日に走るとなると、着替えとかシャワーの場確保がちょっと面倒なのかな。その点はまあ、何とか工夫できるのだろう。

悩ましい円高

2011-10-07 21:58:36 | 豆大福/トロウ日記
数国アマゾンの「あとで買う」リストに保存されている本が、相変わらず増える一方だ。

そこへ来て、今日この頃の円高。この際、アマゾン日本でリスト保存してある(少なくとも米国系)洋書とか、アマゾン米国に保存中の「どうしてもこれだけは」的な本だけでも今買ってしまう方がいいのだろうか、それともこの先、もっと円高ドル安が進むのだろうか……。

中小企業の方々や輸出産業に係っている方々の深刻な悩みに比べれば、私のこの悩みなど贅沢もはなはだしいとお叱りを受けそうである。

でもね、私の立場では研究費なんか出ないの。研究するからには、手弁当でやるしかないの。しかも人文科学なんて、一体何の役に立つんだと思われてさえいたりするの(これらはずっと昔からのことで、今更嘆くことでもないけれども)。絞りをかけて、たった20冊程度の本を買おうとするだけでこれだけ悩まなければならないとは。とほほ。

でも必要なんだなぁ、これらの資料。誰か、私の背中押して~
よし、がんばって、さらに絞りをかけて検討することにしよう。事業仕分け時のレンホー的厳しい目でもって。

思いがけない出会い

2011-10-05 21:11:58 | 豆大福/トロウ日記
昨日、予定していた計画に狂いが生じ、銀座で1時間半ほどぽっかりと時間が空いてしまった。そこで、たしか教文館で今、藤城清治氏のフェアが開催されているはずと思い出し、教文館ビルに向かった。

キリスト教書籍部を一瞥後、キリスト教用品を扱う「エインカレム」のある階へ。そこに藤城氏作品関連の特設があり、私が一番気に入った作品には「非売品」と表示があった。うーむ、それは十分に理解できる、です。それはそういう作品だと思う。仮に非売品でないとしても、私には手が出せない金額であろう。ではその作品、十分に目に焼き付けておきましょう。

……などと考えながら、今度は一般用品を見て回り、最後にCDコーナーへ行くと――ぐわっ!こんなCDいつ出たの?うっわー欲しいわあ。で、値段は……4枚組で2,000円!輸入盤だから、まさに円高の恩恵か。即、買い決定。(後で確認したらアマゾンの方がずっと安かったorz)

そのCDとは、アルバート・シュヴァイツァー『オルガン曲演奏集』(Albert Schweitzer, Spielt Orgelwerke)。周知のとおり、彼は新約聖書研究者を“引退”後も、バッハ研究家でありパイプオルガンの演奏家でもあった。演奏活動で得た資金はもちろん、彼がその生涯を捧げた医療活動のために。そのような彼の演奏技巧がどうとかこうとか、私にとってはあまり意味がない。何たってシュヴァイツァーの演奏だもの、それだけで私には十分だ。

アマゾンで値段を確かめなかった方がもっと幸せだったかもしれないけれども、銀座でシュヴァイツァーに出会った感動料として、その差額もよしとしよう。これからじっくり聴くのが楽しみだ。

30年ぶりのラン

2011-10-02 22:18:28 | 豆大福/トロウ日記
今夏、手術で私の身体の内部を直に見た主治医に「いい筋肉をもっているので、ぜひこの状態を長く保ってください」とおだてられ、調子に乗った私はその時に勧められたランニングをすることに決めた。

中学校時代に体を鍛えていたことが、これまでは無駄なこととしか思えなかった。そのせいで高校受験には失敗するし、私はアスリートにはならなかったのだし。それどころか周囲の人々には、コペルニクス的転回をもって私の関心が別の方向に変化したと思えたほどに、私はスポーツに無関心となった。その後30年、日常生活でエスカレーターをなるべく使わないとか電車では座らないとか以外、特別な運動は一切なし。

成長期に運動していたことが、今の筋肉の状態に貢献しているのかもしれないと、今更になってやっと思えるようになったという今年の夏であった。

10月になったのを機に、自治体のジョギング教室に参加してみた。いざ走ってみると、結構いい感じだ。これでは街中の早歩きの方が速いかもしれない、と思えるくらいのゆっくりペースでしかまだ走れないけれど、それでも昨日より、ちょっとばかり体の調子がいい気がする。これは、いいかも。PPK(ピンピンコロリ)を生涯の目標のひとつとすることを余儀なくされた私のニーズにも適うかもしれない。ランの開始が健康目的というわけではない。健康は、私にとっては手段だ。

近々、時間と条件が合った際には江戸城お堀端ランニング、デビューしちゃおうかな。ちょっと調子に乗り過ぎか。でも結構、乗り気でいる。一周5キロなんて、丸ごと歩いても1時間強だし。