Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

もやもや感

2012-06-13 10:41:32 | 豆大福/トロウ日記
日曜日、ハードな一日を終え、全身がまるで蛸になったかのような脱力感、疲労感を覚えながら帰宅した。その翌日はたまっていた仕事を片付けたり、走ったり、テレビで映画「セブン」をみたり。精神神的疲労はいまだすっかりは回復せず、加えて久しぶりに2時間走った肉体的疲労、そして「セブン」鑑賞で後味悪い気分を覚えながら、その後Eテレのプレゼンテーション番組で放映されたビル・ゲイツ氏の回を観た。

お題は「蚊、マラリア、教育について」。観る前には、蚊と教育にどのような関係があるのかと思った。ゲイツ氏が熱く語られた25分を「要するに」とまとめるのは失礼承知の上、要するに、マラリア撲滅と(USでの)教育環境の向上、両者においてその解決手法はゲイツ氏からすると同じでよろしいということらしい。つまり、マラリア撲滅のためには必要な地域にワクチンが行き渡るように、世界のリーダーたちが協力し合うことで解決される。教育向上のためには、DVDやインターネットなどによってでも上位25パーセントの優秀な教育者による教育が広くなされるよう、リーダーたちが協力し合うことで解決されると、そのようなお考えのようであった。

教育について、ゲイツ氏は「アジアのように」という言葉を発していたと記憶するが、学校の先生のもつ学位如何ではなく、生徒をパワフルに惹きつけることのできる上位25%の教師による教育が全米に行き渡ることになれば、生徒たちの学力をアジアの生徒の学力程度に引き上げることができる、という。

ゲイツ氏のいう「学力」について、まず私はその理解の違いに違和感を抱く。彼にとって学力とは何か。話の文脈からすると、どうやらそれは、生徒たちがペーパーテストで取る算数、数学、科学の得点で測れるような力であるようだ。それはひとつの学力を測る物差しであることを私も否定はしない。しかしそれが学力そのものであるとも思えない。学力を、生き残るための直観、危機対応能力を養う力と主張しておられる(たぶん。私の誤解でなければ)内田樹氏のような学力に対する理解の方が、私にはしっくりくる。学力についての理解からして既に、ゲイツ氏と私とでは異なっていそうである。だからその時点でもやもや感が相当生じてしまうのである。

ゲイツ氏の、たくさんの問題を抱える現状を何とか変えたい、いや、私たちは私たちの力で世界を変えられるという「楽観主義」(ゲイツ氏自身が自らをこのように称していた)、その熱意は心底誠実なものであることは間違いない。ゲイツ氏が今やマイクロソフト社の仕事よりも、設立した財団での慈善事業の方に熱心であることも、私たちの世界におそらく、相当な善をもたらしていることは事実であろう。でも何故か、私には彼の言葉が届かない。それが何故だか、自分でも上手く説明できないのが歯がゆい。

ここで、「学力」理解の相違を敢えて無視しよう。そしてゲイツ氏のいう「アジア」には、日本が含まれていることを前提としよう。仮に、日本の生徒がアメリカの生徒よりも学力が高いとして、それは、日本にはゲイツ氏があこがれるような素晴らしくパワフルに生徒を惹きつける先生たちが揃っているから日本の生徒の学力が高いのだろうか。私には、日本の教育現場はむしろ、疲労感の方が蔓延している状態が久しいように思えるけれども。しかも、世界中で貧困が広がってきていることに比例するかのように、日本の生徒の学力も二極化がさらに進んでいるようにみえる。

そのような折、積ん読リストのうちのひとつ、マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を今更ながら読んでいる。図書館の予約順が30番目くらいだったのが、予約を忘れた頃にやっと順番が回ってきたのだ。「ハーバード白熱教室」で有名なサンデル氏のお考えのおおよそのところは、本を読む前にもう、ご著書以外によってすでに私の頭の中に形成されていた。なんというすごい情報社会だ。

それで、その3分の1ほどを読み終えての感想が……やはり、なんとも説明しがたいもやもや感。

ゲイツ氏が取り組む数々の問題、それらは、目の前にある解決されるべき問題だ。サンデル氏が提示する数々の問題もまた、私たちの現実の中で直面する具体的な問題ばかりだ。サンデル『これからの正義……』では、功利主義に対する帰納法的批判がなされている第2章を読み終えた段階で、私はすでに疲労していた。いや、サンデル氏の主張が間違っているということでは全くない。むしろ、正しい。しかしなお、それでも残るもやもや感。

今の段階でいえるのは、正義の話をしよう、というときに、帰納法的な論証で正義が語れるのか、という問題意識がこのもやもや感を生じさせているのではないかということだ。さて本書では、これから恐らく公共善についての論が展開されてゆくのであろう。かつて、哲学で正義は語れないと諦めた頃の自分と、私は再び対峙しなければならない。きっと私は今、そのような時期を迎えているのであろう。

松岡医師より心中者への提言

2012-06-06 14:27:48 | 豆大福/トロウ日記
昼食後お茶をいただきながら、まったりとNHK連続ドラマ「梅ちゃん先生」をみていたそのひととき。

心中未遂で入院中の患者に対し、内科の松岡医師のセリフが「…心中は太宰治の影響ですか。」「死にたくなったらカントを読むといい。」笑いのツボにはまり思わずお茶を吹いた。

松岡医師によれば、カントのいっていることがあまりにも訳が分からない、だからカントを読むと、自分が分かるまでは死んでたまるかという気持ちになれるという。う~む、言い得て妙。もっとも、カント哲学が自分の興味・関心・理解度などあらゆる面でど真ん中という方や、そうでなくともカント哲学くらいならすらすら頭に入るという方であれば、「カント」を別の何者か(あるいは事象)に置き換えてみたらいい。要するにこの松岡医師の提言、普遍性がある。

生きる意味を見いだせずに死にたいと思っている人に対して、牧師はどのように接するべきか。その問題に関して豆大福自身、大福先生にもしばしば教えを乞うた。その際の教えは今、自らへの教訓ともなっている。

ところで今季のテレビドラマには、久々に毎回見ようと思わせるものが多い。「梅ちゃん先生」もそうだけれども、「リーガルハイ」「37才で医者になった僕」で火曜夜が楽しみだ。「リーガルハイ」は法律家、「37才…」は医者が主人公なドラマで、それぞれの専門職に就いている方々からすれば、ストーリー含め考証の甘さ、つまり設定のあり得ない度(現実からの乖離度)が恐らく前者では120%くらい、後者でも80%くらいあるような気がする。

が、そこはドラマなので、それでよいのだ。むしろ現実からの乖離度が高いほどドラマは楽しくなる。その点、「37才」の方は、「こういうことはあるよね」という納得感が得られる場面もちらほらある分、ちょっとばかりブルーな気分になってしまう。しかし両者に共通しているのは、主役の魅力がドラマを面白くしているという点だ。脇役も凄い人たちばかりだし。

「リーガルハイ」で主役の古美門を演ずる堺雅人さんの変人ぶり、いいひとを演じさせたら右に出る者はいない「37才」で紺野を演ずる草薙さん。現実は小説より奇なり、の「小説」を「ドラマ」に置き換えてみよう。現実には古美門よりも変で、紺野よりいいひとがいることを再認識させられる。それがドラマの役割であり味わい方だ。つまり、現実の世界には、現実乖離度の高い人たちが、ドラマや小説の世界を超えてたくさんいるということの再確認。現実は、そのような人々によっても構成されている。

そういえば先日、香川照之さんが歌舞伎デビューしたことは、同世代人として嬉しいなあ。中年としての我が身、勇気をいただきました。