日曜日、ハードな一日を終え、全身がまるで蛸になったかのような脱力感、疲労感を覚えながら帰宅した。その翌日はたまっていた仕事を片付けたり、走ったり、テレビで映画「セブン」をみたり。精神神的疲労はいまだすっかりは回復せず、加えて久しぶりに2時間走った肉体的疲労、そして「セブン」鑑賞で後味悪い気分を覚えながら、その後Eテレのプレゼンテーション番組で放映されたビル・ゲイツ氏の回を観た。
お題は「蚊、マラリア、教育について」。観る前には、蚊と教育にどのような関係があるのかと思った。ゲイツ氏が熱く語られた25分を「要するに」とまとめるのは失礼承知の上、要するに、マラリア撲滅と(USでの)教育環境の向上、両者においてその解決手法はゲイツ氏からすると同じでよろしいということらしい。つまり、マラリア撲滅のためには必要な地域にワクチンが行き渡るように、世界のリーダーたちが協力し合うことで解決される。教育向上のためには、DVDやインターネットなどによってでも上位25パーセントの優秀な教育者による教育が広くなされるよう、リーダーたちが協力し合うことで解決されると、そのようなお考えのようであった。
教育について、ゲイツ氏は「アジアのように」という言葉を発していたと記憶するが、学校の先生のもつ学位如何ではなく、生徒をパワフルに惹きつけることのできる上位25%の教師による教育が全米に行き渡ることになれば、生徒たちの学力をアジアの生徒の学力程度に引き上げることができる、という。
ゲイツ氏のいう「学力」について、まず私はその理解の違いに違和感を抱く。彼にとって学力とは何か。話の文脈からすると、どうやらそれは、生徒たちがペーパーテストで取る算数、数学、科学の得点で測れるような力であるようだ。それはひとつの学力を測る物差しであることを私も否定はしない。しかしそれが学力そのものであるとも思えない。学力を、生き残るための直観、危機対応能力を養う力と主張しておられる(たぶん。私の誤解でなければ)内田樹氏のような学力に対する理解の方が、私にはしっくりくる。学力についての理解からして既に、ゲイツ氏と私とでは異なっていそうである。だからその時点でもやもや感が相当生じてしまうのである。
ゲイツ氏の、たくさんの問題を抱える現状を何とか変えたい、いや、私たちは私たちの力で世界を変えられるという「楽観主義」(ゲイツ氏自身が自らをこのように称していた)、その熱意は心底誠実なものであることは間違いない。ゲイツ氏が今やマイクロソフト社の仕事よりも、設立した財団での慈善事業の方に熱心であることも、私たちの世界におそらく、相当な善をもたらしていることは事実であろう。でも何故か、私には彼の言葉が届かない。それが何故だか、自分でも上手く説明できないのが歯がゆい。
ここで、「学力」理解の相違を敢えて無視しよう。そしてゲイツ氏のいう「アジア」には、日本が含まれていることを前提としよう。仮に、日本の生徒がアメリカの生徒よりも学力が高いとして、それは、日本にはゲイツ氏があこがれるような素晴らしくパワフルに生徒を惹きつける先生たちが揃っているから日本の生徒の学力が高いのだろうか。私には、日本の教育現場はむしろ、疲労感の方が蔓延している状態が久しいように思えるけれども。しかも、世界中で貧困が広がってきていることに比例するかのように、日本の生徒の学力も二極化がさらに進んでいるようにみえる。
そのような折、積ん読リストのうちのひとつ、マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を今更ながら読んでいる。図書館の予約順が30番目くらいだったのが、予約を忘れた頃にやっと順番が回ってきたのだ。「ハーバード白熱教室」で有名なサンデル氏のお考えのおおよそのところは、本を読む前にもう、ご著書以外によってすでに私の頭の中に形成されていた。なんというすごい情報社会だ。
それで、その3分の1ほどを読み終えての感想が……やはり、なんとも説明しがたいもやもや感。
ゲイツ氏が取り組む数々の問題、それらは、目の前にある解決されるべき問題だ。サンデル氏が提示する数々の問題もまた、私たちの現実の中で直面する具体的な問題ばかりだ。サンデル『これからの正義……』では、功利主義に対する帰納法的批判がなされている第2章を読み終えた段階で、私はすでに疲労していた。いや、サンデル氏の主張が間違っているということでは全くない。むしろ、正しい。しかしなお、それでも残るもやもや感。
今の段階でいえるのは、正義の話をしよう、というときに、帰納法的な論証で正義が語れるのか、という問題意識がこのもやもや感を生じさせているのではないかということだ。さて本書では、これから恐らく公共善についての論が展開されてゆくのであろう。かつて、哲学で正義は語れないと諦めた頃の自分と、私は再び対峙しなければならない。きっと私は今、そのような時期を迎えているのであろう。
お題は「蚊、マラリア、教育について」。観る前には、蚊と教育にどのような関係があるのかと思った。ゲイツ氏が熱く語られた25分を「要するに」とまとめるのは失礼承知の上、要するに、マラリア撲滅と(USでの)教育環境の向上、両者においてその解決手法はゲイツ氏からすると同じでよろしいということらしい。つまり、マラリア撲滅のためには必要な地域にワクチンが行き渡るように、世界のリーダーたちが協力し合うことで解決される。教育向上のためには、DVDやインターネットなどによってでも上位25パーセントの優秀な教育者による教育が広くなされるよう、リーダーたちが協力し合うことで解決されると、そのようなお考えのようであった。
教育について、ゲイツ氏は「アジアのように」という言葉を発していたと記憶するが、学校の先生のもつ学位如何ではなく、生徒をパワフルに惹きつけることのできる上位25%の教師による教育が全米に行き渡ることになれば、生徒たちの学力をアジアの生徒の学力程度に引き上げることができる、という。
ゲイツ氏のいう「学力」について、まず私はその理解の違いに違和感を抱く。彼にとって学力とは何か。話の文脈からすると、どうやらそれは、生徒たちがペーパーテストで取る算数、数学、科学の得点で測れるような力であるようだ。それはひとつの学力を測る物差しであることを私も否定はしない。しかしそれが学力そのものであるとも思えない。学力を、生き残るための直観、危機対応能力を養う力と主張しておられる(たぶん。私の誤解でなければ)内田樹氏のような学力に対する理解の方が、私にはしっくりくる。学力についての理解からして既に、ゲイツ氏と私とでは異なっていそうである。だからその時点でもやもや感が相当生じてしまうのである。
ゲイツ氏の、たくさんの問題を抱える現状を何とか変えたい、いや、私たちは私たちの力で世界を変えられるという「楽観主義」(ゲイツ氏自身が自らをこのように称していた)、その熱意は心底誠実なものであることは間違いない。ゲイツ氏が今やマイクロソフト社の仕事よりも、設立した財団での慈善事業の方に熱心であることも、私たちの世界におそらく、相当な善をもたらしていることは事実であろう。でも何故か、私には彼の言葉が届かない。それが何故だか、自分でも上手く説明できないのが歯がゆい。
ここで、「学力」理解の相違を敢えて無視しよう。そしてゲイツ氏のいう「アジア」には、日本が含まれていることを前提としよう。仮に、日本の生徒がアメリカの生徒よりも学力が高いとして、それは、日本にはゲイツ氏があこがれるような素晴らしくパワフルに生徒を惹きつける先生たちが揃っているから日本の生徒の学力が高いのだろうか。私には、日本の教育現場はむしろ、疲労感の方が蔓延している状態が久しいように思えるけれども。しかも、世界中で貧困が広がってきていることに比例するかのように、日本の生徒の学力も二極化がさらに進んでいるようにみえる。
そのような折、積ん読リストのうちのひとつ、マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を今更ながら読んでいる。図書館の予約順が30番目くらいだったのが、予約を忘れた頃にやっと順番が回ってきたのだ。「ハーバード白熱教室」で有名なサンデル氏のお考えのおおよそのところは、本を読む前にもう、ご著書以外によってすでに私の頭の中に形成されていた。なんというすごい情報社会だ。
それで、その3分の1ほどを読み終えての感想が……やはり、なんとも説明しがたいもやもや感。
ゲイツ氏が取り組む数々の問題、それらは、目の前にある解決されるべき問題だ。サンデル氏が提示する数々の問題もまた、私たちの現実の中で直面する具体的な問題ばかりだ。サンデル『これからの正義……』では、功利主義に対する帰納法的批判がなされている第2章を読み終えた段階で、私はすでに疲労していた。いや、サンデル氏の主張が間違っているということでは全くない。むしろ、正しい。しかしなお、それでも残るもやもや感。
今の段階でいえるのは、正義の話をしよう、というときに、帰納法的な論証で正義が語れるのか、という問題意識がこのもやもや感を生じさせているのではないかということだ。さて本書では、これから恐らく公共善についての論が展開されてゆくのであろう。かつて、哲学で正義は語れないと諦めた頃の自分と、私は再び対峙しなければならない。きっと私は今、そのような時期を迎えているのであろう。