Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

伝えて、トレヴァーさん

2012-08-20 20:40:47 | Dr.大福よもやま話
晩年の大福先生の最大ともいうべき楽しみは、ロンドンに本社があるフォリオ・ソサエティが出版する本を手にすることだった。誕生日やクリスマスのプレゼントは、大体フォリオの本。フォリオの本は大版が多い。待ちに待ったフォリオの本を手にする大福先生はとても幸せそうで、それを机上の拡大器のスライド台にどかっと乗せ、モニター画面を食い入るようにして読むのであった。拡大器での読書だと、さぞかし読むスピードが落ちるのだろうとのこちら側の予測を裏切り、それがそのスピード、以前とほとんど変わらないのが不思議だった。なぜなのだろう、それは未だに分からない。

フォリオ・ソサエティは、歴史的価値の認められた作品の初版の謄写版を出版したり、有名な作品に挿絵を加えて美しい装丁で出版したりすることで有名だ。フォリオの美しい装丁本は豆大福のお気に入りでもあり、中でも19世紀ウィリアム・アランによる改訂版の謄写版であるThe Book of Common Prayerは宝物だ。私にとってはこれ、一応、実用書でもあり研究書でもある。

あるとき、フォリオのカタログを眺めながら豆大福が尋ねた。「この、えらい人気者っぽいチェコフ(英語表記・Chekhov)っていったい、誰なんだか。」このような豆大福の間抜けな問いに対して、大福先生はあたかも何事でもないような穏やかな口ぶりで「チェーホフだよ」と。そして、ああ、チェーホフも出ているのか、ほしいなあ、と。未だにフォリオ版チェーホフ選集を手に入れていない。いつになるやら、手に入れることができるときまで売り切れませんように。

近頃、妙に海外の短編集が読みたくなっていたのだということを、図書館で無造作に借りてきた本の数々をみた結果、改めて気づいた次第である。村上春樹訳のアーシュラ・ルグインの絵本数冊、それにウィリアム・トレヴァー『アイルランド・ストーリーズ』(栩木伸明訳)、『チェーホフ短編集』(沼野充義訳)などが重なった。

トレヴァー『アイルランド・ストーリーズ』は素晴らしく、そして重い。栩木氏による訳は翻訳本であることを意識させないし、セレクトや編集も練られている。ひとつまたひとつ重石が乗せられてゆくように、トレヴァー氏が描き出そうとしている世界の重みが、読み進むにつれ次第に増してゆくのが感じられる。

まだ全編読み終えていないものの、ところでアイルランドのメソジスト教会はトレヴァー氏にはどのように映っているのであろうか。アイルランドの複雑な政治的事情は、ローマンカトリック教会と「プロテスタント」と描写されている聖公会との関係抜きには語れないが、それは本書でしばしば登場する。ただ、今のところプロテスタントとして登場するのは聖公会と、せいぜい長老派教会であってメソジスト派や他のプロテスタントの描写が出てこない。いつか出会えるのだろうか、期待したい。

というのも最近、アイルランドのメソジスト教会がウェブ上で公開しているManual or Law and Discipline of the Methodist Church in Ireland を見つけた喜びと関係があるかもしれない。アイルランドにおいて、ローマンカトリック教会と聖公会とメソジスト教会とその他のプロテスタント教会のあり方がどのようになっているのか、未だ私にはそのぼんやりとした俯瞰図さえ描けていない。トレヴァー氏の小説から、何か糸口が見つかりはしないだろうか。

ジョン・ウェスレーの死後約100年後、それは同時にウェスレーのアイルランド伝道から約150年後であるが、19世紀末に編まれ、20世紀初頭の日付で所有者のサインが入っている本が今、PDF化され、それが公開されているとは、興奮を抑えられない。著作権の期限切れと、急速な電子化の発達のおかげといえよう。

とはいいつつ、そのPDFはまだパラパラ(サクサク?)と眺めた段階にすぎないが、やはり彼らはメソジスト(「きちんとした人々」)なのであった。規則、細かいなあ。さらに興味深いのはまず前書きだ。当時当然のように「決まり」として通用していた規則と、本来のMinute(議事録)との間に生じてしまったズレについて、なんとかそれらを補正しようとする姿勢も伺える。

それでも、ジョン・ウェスレーの体験的神学とその実践である信仰のあり方、本筋は、ウェスレーの死後100年経った外国・アイルランドでも受け継がれているようにみえる。その点、イギリス国内や、やはり外国である北米では爆発的に勢いづいていったメソジズムにおいて、それがどのように引き継がれ、あるいは変容していったかとの比較もまた、将来的な課題の一つになるだろう。本書の頃からさらに100年後の今、アイルランド・メソジスト教会の現状も知りたい。

費用対効果と宗教

2012-08-04 16:20:20 | 豆大福/トロウ日記
日本人のほとんどが、自分は無宗教者であるという自覚をもっている、といわれて久しい。しかし最近では、いや、それは違うのではないか、日本人は信仰者としては無自覚なだけで、その実態はかなり宗教と密接だという意見も耳にする。「私は宗教を信じていないから」と言いつつ、正月には初詣に行く。たとえ自分の葬式は質素あるいは無しでよくても、自分が無宗教だからという理由で自分の子のお宮参りを省略する、とか、愛する人が亡くなった場合に、その死者の墓や位牌などの何かしらこの世に生きた徴を一切残さずに亡き者は何も無しでよしとする、“勇気ある”決断をできる人は、確かに少数派ではないだろうか。

なぜ日本人は、自分は無宗教者であるという自覚をもっているのか。ひとつにはそれは、特定の宗教を信仰していることの弊害が過去においてあまりにも大きかった、そのことをまだ忘れられないからかもしれない。たとえば、戦前の国家神道。これが「宗教」の枠組みに入れられるかどうかという問題はある。個人的には、これは政治の道具であって宗教ではないと考える。正確にいえば、天皇家の私的信仰の範囲にある儀式や行事であれば、それを信仰する人々にとって解放をもたらす宗教といえるであろうが、その信仰が国家と結びつき、さらにはそれが人々を弾圧するための道具になったとき、もはやそれは宗教とは言えないのである。そしてそのような事情は、歴史上キリスト教の場合もさして変わらないことを、人々は知っている。

ただし、そのような事情を知る人々において、宗教=弾圧者という公式がすでに意識無意識的にあり、宗教が弾圧者になるまでの過程がすっぽり抜け落ちて単純化された状態でその公式だけが脳内に留まることが大変多い。彼らには、この点に関して果たしてどれだけの自覚があるのだろうか。

宗教に対する嫌悪感は、とりわけ現代、先進国の人々に強い。さらに、「先進国の洗練された人々」が一般的にもつ経済観念が、その嫌悪感に拍車をかける。その経済観念とは、一言でいえば、費用対効果の問題である。特定の信仰をもつことにはお金がかかる。お布施とか、献金とか。そしてその見返り、つまり費用対効果といえば……それを可視化することは大変困難なのである。宗教にお金を使っても、その対価はそうそう見えるわけではない。それで、特定の信仰をもつことは費用対効果が悪い、ということになる。

費用対効果どころか、うっかりすると、詐欺の被害者になったりする。もっとひどい場合には、洗脳された自分自身や身内が刑事犯罪の加害者になってしまったりすることだってある。こうなるともう、宗教って怖いということになる。実はここでもすでに、上の「過程落ち」思考が働いているのではあるけれども。

既存の宗教や教団は、費用対効果を可視化するための手段として、たとえば「墓」の存在をアピールすることにした。死ぬまで、そして死後も、私たちの教団があなたをちゃんと見守りますとの約束を可視化したものが教団所有の墓であり、檀家制度であったりする。しかしそうなると、その宗教や教団は、元来の輝きを失い始めるのである。

宗教のもつ輝きを可視化することは、ほぼ不可能であると私は思う。可視化されたとたん、それは次第に陳腐な何かに変化しはじめる。つまり、宗教であったものが宗教ではなくなりはじめるのである。それがだんだん進行し、たとえば修行を積めば空を飛べるとか、水面を歩けるとかを信仰せよとなると、それはもう宗教としてアウトだ。

では、どの地点からアウトな領域に入ってゆくのか。その境目が、キリスト教の場合では聖餐式ではないかと思う。この儀式が、物質とメタ物質を結ぶ地点として、最小にして最大限ではないだろうか。可視的な物を介して不可視な存在を確認する、その存在に感謝する場としての聖餐式。食べ物が、司祭の儀式により聖なるものに変化するのではなく、すでに私たちの周囲にある見えない全き愛の存在への感謝を示す場、それが聖餐式。

可視化できないものが、実は私たちの世界を支えている重要な一要素であるという、この思いは、私たちの世界がどん底にまで落ちたときになってようやく、多くの人々により共有されることになる。宗教史がこれまで興亡を繰り返してきたことが、これの証左。だからこそ伝道者の役割は、何かを変えることではなくコマのように回り続けること。これは大福先生から教わったことである。

宗教が費用対効果の問題として考えられること、実は最近だけではない。聖書の時代から、繰り返されてきたテーマなのだろう。この問題、パウロでさえ、コリント人などの間でさんざん悩んでいた、というのは言い過ぎであろうか。