晩年の大福先生の最大ともいうべき楽しみは、ロンドンに本社があるフォリオ・ソサエティが出版する本を手にすることだった。誕生日やクリスマスのプレゼントは、大体フォリオの本。フォリオの本は大版が多い。待ちに待ったフォリオの本を手にする大福先生はとても幸せそうで、それを机上の拡大器のスライド台にどかっと乗せ、モニター画面を食い入るようにして読むのであった。拡大器での読書だと、さぞかし読むスピードが落ちるのだろうとのこちら側の予測を裏切り、それがそのスピード、以前とほとんど変わらないのが不思議だった。なぜなのだろう、それは未だに分からない。
フォリオ・ソサエティは、歴史的価値の認められた作品の初版の謄写版を出版したり、有名な作品に挿絵を加えて美しい装丁で出版したりすることで有名だ。フォリオの美しい装丁本は豆大福のお気に入りでもあり、中でも19世紀ウィリアム・アランによる改訂版の謄写版であるThe Book of Common Prayerは宝物だ。私にとってはこれ、一応、実用書でもあり研究書でもある。
あるとき、フォリオのカタログを眺めながら豆大福が尋ねた。「この、えらい人気者っぽいチェコフ(英語表記・Chekhov)っていったい、誰なんだか。」このような豆大福の間抜けな問いに対して、大福先生はあたかも何事でもないような穏やかな口ぶりで「チェーホフだよ」と。そして、ああ、チェーホフも出ているのか、ほしいなあ、と。未だにフォリオ版チェーホフ選集を手に入れていない。いつになるやら、手に入れることができるときまで売り切れませんように。
近頃、妙に海外の短編集が読みたくなっていたのだということを、図書館で無造作に借りてきた本の数々をみた結果、改めて気づいた次第である。村上春樹訳のアーシュラ・ルグインの絵本数冊、それにウィリアム・トレヴァー『アイルランド・ストーリーズ』(栩木伸明訳)、『チェーホフ短編集』(沼野充義訳)などが重なった。
トレヴァー『アイルランド・ストーリーズ』は素晴らしく、そして重い。栩木氏による訳は翻訳本であることを意識させないし、セレクトや編集も練られている。ひとつまたひとつ重石が乗せられてゆくように、トレヴァー氏が描き出そうとしている世界の重みが、読み進むにつれ次第に増してゆくのが感じられる。
まだ全編読み終えていないものの、ところでアイルランドのメソジスト教会はトレヴァー氏にはどのように映っているのであろうか。アイルランドの複雑な政治的事情は、ローマンカトリック教会と「プロテスタント」と描写されている聖公会との関係抜きには語れないが、それは本書でしばしば登場する。ただ、今のところプロテスタントとして登場するのは聖公会と、せいぜい長老派教会であってメソジスト派や他のプロテスタントの描写が出てこない。いつか出会えるのだろうか、期待したい。
というのも最近、アイルランドのメソジスト教会がウェブ上で公開しているManual or Law and Discipline of the Methodist Church in Ireland を見つけた喜びと関係があるかもしれない。アイルランドにおいて、ローマンカトリック教会と聖公会とメソジスト教会とその他のプロテスタント教会のあり方がどのようになっているのか、未だ私にはそのぼんやりとした俯瞰図さえ描けていない。トレヴァー氏の小説から、何か糸口が見つかりはしないだろうか。
ジョン・ウェスレーの死後約100年後、それは同時にウェスレーのアイルランド伝道から約150年後であるが、19世紀末に編まれ、20世紀初頭の日付で所有者のサインが入っている本が今、PDF化され、それが公開されているとは、興奮を抑えられない。著作権の期限切れと、急速な電子化の発達のおかげといえよう。
とはいいつつ、そのPDFはまだパラパラ(サクサク?)と眺めた段階にすぎないが、やはり彼らはメソジスト(「きちんとした人々」)なのであった。規則、細かいなあ。さらに興味深いのはまず前書きだ。当時当然のように「決まり」として通用していた規則と、本来のMinute(議事録)との間に生じてしまったズレについて、なんとかそれらを補正しようとする姿勢も伺える。
それでも、ジョン・ウェスレーの体験的神学とその実践である信仰のあり方、本筋は、ウェスレーの死後100年経った外国・アイルランドでも受け継がれているようにみえる。その点、イギリス国内や、やはり外国である北米では爆発的に勢いづいていったメソジズムにおいて、それがどのように引き継がれ、あるいは変容していったかとの比較もまた、将来的な課題の一つになるだろう。本書の頃からさらに100年後の今、アイルランド・メソジスト教会の現状も知りたい。
フォリオ・ソサエティは、歴史的価値の認められた作品の初版の謄写版を出版したり、有名な作品に挿絵を加えて美しい装丁で出版したりすることで有名だ。フォリオの美しい装丁本は豆大福のお気に入りでもあり、中でも19世紀ウィリアム・アランによる改訂版の謄写版であるThe Book of Common Prayerは宝物だ。私にとってはこれ、一応、実用書でもあり研究書でもある。
あるとき、フォリオのカタログを眺めながら豆大福が尋ねた。「この、えらい人気者っぽいチェコフ(英語表記・Chekhov)っていったい、誰なんだか。」このような豆大福の間抜けな問いに対して、大福先生はあたかも何事でもないような穏やかな口ぶりで「チェーホフだよ」と。そして、ああ、チェーホフも出ているのか、ほしいなあ、と。未だにフォリオ版チェーホフ選集を手に入れていない。いつになるやら、手に入れることができるときまで売り切れませんように。
近頃、妙に海外の短編集が読みたくなっていたのだということを、図書館で無造作に借りてきた本の数々をみた結果、改めて気づいた次第である。村上春樹訳のアーシュラ・ルグインの絵本数冊、それにウィリアム・トレヴァー『アイルランド・ストーリーズ』(栩木伸明訳)、『チェーホフ短編集』(沼野充義訳)などが重なった。
トレヴァー『アイルランド・ストーリーズ』は素晴らしく、そして重い。栩木氏による訳は翻訳本であることを意識させないし、セレクトや編集も練られている。ひとつまたひとつ重石が乗せられてゆくように、トレヴァー氏が描き出そうとしている世界の重みが、読み進むにつれ次第に増してゆくのが感じられる。
まだ全編読み終えていないものの、ところでアイルランドのメソジスト教会はトレヴァー氏にはどのように映っているのであろうか。アイルランドの複雑な政治的事情は、ローマンカトリック教会と「プロテスタント」と描写されている聖公会との関係抜きには語れないが、それは本書でしばしば登場する。ただ、今のところプロテスタントとして登場するのは聖公会と、せいぜい長老派教会であってメソジスト派や他のプロテスタントの描写が出てこない。いつか出会えるのだろうか、期待したい。
というのも最近、アイルランドのメソジスト教会がウェブ上で公開しているManual or Law and Discipline of the Methodist Church in Ireland を見つけた喜びと関係があるかもしれない。アイルランドにおいて、ローマンカトリック教会と聖公会とメソジスト教会とその他のプロテスタント教会のあり方がどのようになっているのか、未だ私にはそのぼんやりとした俯瞰図さえ描けていない。トレヴァー氏の小説から、何か糸口が見つかりはしないだろうか。
ジョン・ウェスレーの死後約100年後、それは同時にウェスレーのアイルランド伝道から約150年後であるが、19世紀末に編まれ、20世紀初頭の日付で所有者のサインが入っている本が今、PDF化され、それが公開されているとは、興奮を抑えられない。著作権の期限切れと、急速な電子化の発達のおかげといえよう。
とはいいつつ、そのPDFはまだパラパラ(サクサク?)と眺めた段階にすぎないが、やはり彼らはメソジスト(「きちんとした人々」)なのであった。規則、細かいなあ。さらに興味深いのはまず前書きだ。当時当然のように「決まり」として通用していた規則と、本来のMinute(議事録)との間に生じてしまったズレについて、なんとかそれらを補正しようとする姿勢も伺える。
それでも、ジョン・ウェスレーの体験的神学とその実践である信仰のあり方、本筋は、ウェスレーの死後100年経った外国・アイルランドでも受け継がれているようにみえる。その点、イギリス国内や、やはり外国である北米では爆発的に勢いづいていったメソジズムにおいて、それがどのように引き継がれ、あるいは変容していったかとの比較もまた、将来的な課題の一つになるだろう。本書の頃からさらに100年後の今、アイルランド・メソジスト教会の現状も知りたい。