Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

続・死に神の嗤い

2008-06-28 17:20:42 | 豆大福/トロウ日記
後期高齢者の終末期治療において、医師に支払われるという診療報酬が凍結されることになったらしい。つまり…面倒なので、以下、毎日.jp から引用。

終末期を迎えた75歳以上の患者に、医師が「容体急変時に延命治療をするかしないか」などをあらかじめ相談し、治療方針を文書にすると算定できる診療報酬「後期高齢者終末期相談支援料」(2000円)について、舛添要一厚労相は25日、厚労相の諮問機関、中央社会保険医療協議会(中医協)に凍結を諮問した。7月からの凍結が了承された。ただ、厚労省は今後、対象を後期高齢者に限らず成人患者全般に広げる考えで、舛添氏も中医協で「年齢を問わず終末期医療を考えた方がいい」と述べた。

中医協としては異例の方針変更とのことらしい。

凍結は当然だ。後期高齢者医療制度が今年の春、その内容がバタバタっと世に説明され始めた頃、貧しい高齢者のなけなしの年金から保険料が天引きされることより何よりこの点、「終末医療の診療報酬」に目が点になったものだ。「対象を75歳以上に限った」ことには勿論、延命治療をしない約束を取り付けたら、医師に2000円の報酬支払います、という点にである。

「まるでドクターキリコじゃん!」。と咄嗟に叫んだ私。手塚治虫の『ブラックジャック』で、安楽死請け負います、の、あのドクターキリコ(顔、怖いっす)だ。

しかしキリコはブラックジャック同様、一匹狼の安楽死請負い専門医であって、そこには厚労省やら国やらの関与はない。今回の後期高齢者医療制度では、安楽死の是非の議論なぞふっ飛ばして、いきなりの施策である。わが国では、脳死および臓器移植の受け入れさえ、未だに抵抗が強いというのに。「だって、お金が不足してるんだもん、医療費はガンガン削らないと」の一点で、このような政策を考えつく役人の単純さが、怖い。ここにも、得点を稼いだと喜ぶ死に神の嗤い声が聞こえてくる。

大体、容態が急変して「終末期の患者が意識を失って意思を確認できなくなった場合」がどういう状態なのか、具体的に伝わってこない。いったん意識を失っても、フッと戻って、また意識を失ってまた戻って……という事だってあると思うのだが。

それはそれとして、さらに、患者がいよいよ臨終の状態に陥ったとき、無意味な延命治療を切望する本人および家族が、一体どれだけいるというのだろうか。むしろ一般的には、無意味な延命治療でこれ以上患者を苦しめないでほしい、というのが人情ではないだろうか。つまり、そこまでの状態に陥ったときの無駄な延命治療のニーズは、ほとんどないはずだ。にもかかわず、この施策は考え出された。その訳はいかに。

「片足を棺桶に突っ込んでいるような者は、これ以上生きる資格はなし。さっさと処理してしまいましょっ」と国のヤツラは考えているに違いない、と思ってしまうのは当然である。それともこれの他に理由を思いつけない人間の方が浅はかだ、とおっしゃるのだろうか。

こういった考えに「後期高齢者」に該当する人たちが怒るのはもっともであるけれども、該当しない者にとってもこれが極めて不愉快なのには、別の理由がある。この、本来的には不健康な考え方が、いかにもわれわれの社会にとって効率的かつ利口な考えであるかのように喧伝されるのが不愉快なのである。効率と賢さを勘違いした得意満面を眺めては、死に神は、ほくそ笑むだろう。その薄気味悪さを思うと、身の毛がよだつ。

また、怒れる者たちは後期高齢者だけはないはずだ。この制度について、医師たちは猛烈に怒ったはずである。(そうあって欲しい。)「ドクターキリコになってくれる人には2000円あげる」と国に言われているわけだから。いやこれは、安楽死の是非、どちらを支持するかの問題ではなく、医師自らが決定すべき治療方針を国が買収することと等しいわけで、尊厳ある医師ならば「バカにしないでもらいたい」と、心底怒りを覚えるはずだ。

今回この支援料については凍結する、ということで、死に神の得点表には一応マイナスがつけられたことと思う。でもね、凍結じゃ駄目だ。きっぱり、中止すべきである。これ以上この国に、死に神の嗤い声を響かせないようにするために。

死に神の嗤い

2008-06-26 20:28:22 | 豆大福/トロウ日記
犯罪被害者の会、本社あて抗議文 「素粒子」めぐり
 死刑執行にからんで鳩山法相を「死に神」と表現した朝日新聞の18日夕刊1面のコラム「素粒子」をめぐり、重大事件の被害者や遺族でつくる「全国犯罪被害者の会」(あすの会)は25日、都内で記者会見し、「被害者遺族も『死に神』ということになり、我々に対する侮辱でもある」と抗議した。

朝日新聞の「死に神」、確かにこの表現はまずかった、
この言葉を特定の誰かに当てて使うには。

しかしながら、朝日新聞が法務大臣を死に神呼ばわりすると、それは被害者家族を死に神呼ばわりしたことと同等となるのだろうか。なぜ朝日新聞のコラムが、遺族の感情を逆なですることになるのか。

自分には許されない復讐を、代わりにお上にしてもらうのが今の時代の死刑の意義だとでもいうのだろうか。もしそれが死刑の意義として正しいとすれば、江戸時代の仇討ちの方がよっぽど上等だ。仇討ちならば、自らの命を捨てる覚悟でしなければならなかったのだから。

遺族のやり場のない怒りや悲しみ、これらは犯罪者が「死刑に処される」ことによって癒されるわけでは、けっしてあるまい。仮にも死刑が、仇討ちに変わる復讐の処理手段として正当であるとしても、被害者家族の怒りや悲しみは、復讐の達成くらいのことで癒される程度のものではないはずだ。

だから被害者家族が、被害者「であるがゆえに」犯罪者の死刑を切望する、ことは、まったく論点がずれている。なぜなら、犯罪者の死刑によって被害者および被害者家族の傷は癒えることはなく、また死刑、あるいは刑罰は、復讐の代替処理としての制度でもないからである。

法務大臣が「粛々と」死刑を執行することと、遺族のリベンジ感情が少しのズレもなく直結しているとすれば、その状態をこそ、死に神は嗤うのだ。

どうやら鳩山法務大臣は、遺族のリベンジ感情の代弁者、または代理人であるという自覚をお持ちの人物のようで。そしてこのような自覚を持つことこそが「血の通った法曹人のあり方」であると、何か勘違いなさっているようだ。

たとえばご先祖の法学者・鳩山秀夫は、現法務大臣の死刑執行のやり方を「さすがは法治国家の番人」と褒めてくれるのだろうか。くれるわけ、ないよね。法治国家の理念と法律絶対主義は違うんだぞと、きっと言ってくれるはずだよね。

『ハチャメチャ4人組』

2008-06-12 19:46:57 | 遥かなる銀幕の世界
Hellraisers: The Inebriated Life and Times of Richard Burton, Peter O'Toole, Richard Harris & Oliver Reed 

この新著のタイトルを『ハチャメチャ4人組―飲み助たちの人生とその時代』と訳してみる。その4人とは、リチャード・バートン、ピーター・オトゥール、リチャード・ハリス、オリバー・リードである。Hellraisers という語の響きを考えると、実はハチャメチャではまだぬるい気もするのだが(直訳は「地獄を創り出す者たち」)、まあ、「ハチャメチャ」程度で抑えておこう。ピーター・オトゥールのファンサイトにあるこの本の内容紹介を読むと、実際は「地獄…」の方がかなり近い気もする(笑)。

世間で評判の悪い「(笑)」の使用(多用)にもかかわらず、敢えて使わせていただこう、「(笑)」。許されよう、この本の内容からすれば。さらにもう少しつっこめば、この本に関して(笑)よりは (^o^;と表現すべきだろうか、つまりこの本は、冷汗入り混じりの爆笑本らしい(ファンサイトのかなり詳しい内容紹介で、すでに少なくとも5箇所で爆笑済みの私)。以下、少しだけご紹介。

「誰もいない自宅に、オトゥール自身が(泥棒のように)押し入った訳を、駆けつけた警官に自ら説明しなければならなかったのは、一度では済まない」

「『僕は世界でもっともおいしいフレンチトーストが作れるよ』と妻に言ったオトゥール。妻は、夫が台所に立った姿などかつて見たことがなかったのだが。数分後、レンジは炎に包まれた。―中略―庭に避難した彼らは雨の中、キッチンが焼け落ちるのを呆然と眺めていた」

「湖での撮影中、二艘のボートに指を挟まれ切断したオトゥール。指を岸に持ち帰り、消毒のためグラスに入ったブランデーの中にそれを浸し、それを指に戻して湿布を巻いておいた。三週間後、湿布をはずしてみると、指はあったがどれも変に曲がってくっ付いていた。『僕は間違った方向に指をセットしてしまったんだな。たぶん、ブランデーのせいだ。飲んだブランデーの方だけど』」


自分の仕事関係の読書に追われたお前、このような趣味本を読む暇があるのかお前はっ、と自分に言ってやりたい気持ちを抑えつつ、ついつい注文してしまう。

こんなにもクレイジーな彼だけど(サイトでは「天然な変人」-- a natural eccentricと表現されていたが、ぴったりだと思う)、こんな彼がなぜ多くの人々に愛されるのかが本当によく分かるのが、こちら(動画ですが、残念ながら字幕はありません)。

オトゥールは最近、教皇パウルス3世の役を演じており、そのせいもあって、インタビューでは彼の宗教観に触れることができるのも嬉しい。彼は常々「引退したキリスト者(retired christian)」を自称しているけれども、その意味についても少々語っていたり。その他、演技のこと、老いのこと、ロレンスのこと、シェークスピア、人生、死……是非、多くの人に見てもらいたいと思う。

宗教観についての世論調査に思うこと

2008-06-01 20:31:25 | 豆大福/トロウ日記
宗教「信じない」7割、「魂は生まれ変わる」3割…読売調査


 読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。

 ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。

 多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。

 調査は「宗教観」をテーマに面接方式で実施した。

 死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、「別の世界に行く」24%、「消滅する」18%--がこれに続いた。


という読売新聞の世論調査に関する記事について、思うところを少々(ほんのさわりだけ)。

まず、全体の第一印象は、日本人の「宗教観」の調査結果としては、まあ妥当なところだろうなという感じである。ただしこの場合の妥当とは、この調査が現状をまあ忠実に表しているという意味であって、あるべき姿として理想的、という意味での妥当ではない。いや理想的どころかむしろ、日本人の宗教観のナイーブさ加減に、私は危うさを抱かざるを得ない。(もっともこの調査結果がなくとも、そういった危惧の念を抱き続けてきた、ともいえるけれども。)

この調査結果(記事ではない方の)で、私が一番考えさせられたのは、

何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上る
が、
「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。
という結果である。繰り返すが、この結果は驚きではない。むしろ、十分に現状が上手く反映された妥当な結果であると思う。

さて、この調査における質問事項を最後までみたところ、私自身の答と調査結果のマジョリティの答は、実はかなりの部分で一致していたのである。ちなみにもっとも大きく違っていたのは、仏滅の日の結婚式を42.5%の人が、友引の日の葬式を42.0%の人が「一応気にする」と答えているが、私は気にならない、というところだろうか。(この質問事項がいったい宗教と何の関わりがあるのか、という疑問はこの際不問としよう。)

問題は、
何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上る
とのところである。私はキリスト教徒であるので、26%の側に与する者、ということになる。私の宗教観なるもの、少なくともこの読売新聞の調査で問われた点に限っていえば、日本のマジョリティと大して差がないにもかかわらず、ここで何故、差が生じるのか。つまり、同じような宗教観の持ち主であると思われる者同士で、キリスト者である、と、ない、とを分けるものは、一体何なのだろうかということを、この調査結果から大いに考えさせられる。

この問題をつきつめていくと、宗教とは何か、という問題を論じなくてはならなくなる。今ここでそのような大層な問題の詳細を述べることは不可能なので、問題提起だけにしておく。

それは、宗教とは何か、何が宗教であって何が宗教でないのか、という点について、もう少し真剣に議論する場を、私たちの身の回りで増やしていかなければならないのではないか、ということである。上でもちらと触れたけれども、たとえば六曜(仏滅とか友引とか)は宗教なのか、宗教だとすればどのような点でそれは宗教なのか、とか、習俗・風俗と宗教との違いは何か、それともそれらは同じなのか……こういった問題を深く考えることなしに宗教云々を語るのは、たいへん危ういように私には思える。さらにいえば、今回の読売新聞の質問事項自体、宗教観を問う、というにはナイーブな質問が多いとの印象を抱かざるを得なかった。

しかしそれは、読売新聞が悪いのではない。やはり、日本でそういった宗教に関する議論がタブーというか、避けられるというか嫌われる結果、社会全体的な雰囲気として宗教(観)に対してナイーブ、浅はかという結果をもたらしているのではないかと、私などは思ってしまうのである。

(調査の質問全体はこちら)。