Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

厄払いを祈願する

2008-09-26 19:50:38 | 豆大福/トロウ日記
個人的なことで、ここのところ不愉快な出来事、悪い出来事が続いている。9月はいろいろと嫌なことが続いた。ただ、文字にしてしまうとさらに悪いことを呼び込んでしまいそうなので敢えて書かない。ブログに書くようなことでもないし。

しかし一点だけ、これは多くの人々にとっても共通の問題でもあるし、せめて法律でどうにかしてくれよと願うことを言いたい。

これの被害に遭うと、今のところ泣き寝入りするしかないという不運、それは「当て逃げ」。月極駐車場に置いてあるわが自動車が、同じ場所で当て逃げの被害に遭ったのはこれで2度目である。

傷をつけられた側(バンパー右前方、30×30センチほどのかなり広範囲)、右側のお隣さんの車が、いつの間にか消えているのに最近気がついた。お隣さんは、左隣に駐車してあった私の車にぶつけてしまい、あわてて解約したのかもしれない。月極駐車場なだけに、不動産屋に問い合わせれば、お隣がいつ解約したかはすぐに判明するだろう。しかし仮にそれが判明したとて、その人物に連絡を取り、しかもその連絡は「あなたが疑わしい」という内容であり、相手の反応を見極め、疑いを濃くした場合にはさらに追及する…ああ、時間がもったいない。仮にお隣さんの過失であったとしても、損害が賠償されるまでの道のりはものすごく遠い。お金が返ってきたとしても、それに至るまでの精神的・肉体的労力でヘトヘトになるのはもっと嫌だ。

あるいは、お隣が解約したのはもっと前で、空きとなっていたその場所にこれ幸いと、別の人物が不法駐車した際に私の車にぶつけてそのまま逃走したのかもしれない。こうなると、犯人探しは絶望的に困難である。

こういった類の物損事故には、警察はまず動いてくれない。なぜ、警察は当て逃げのような物損事故には冷淡なのか?「警察は忙しいんだ、物損(だけ)の事故なんぞにいちいち構ってられるか」とかいわれそう。だけど、これだけ(って、どれだけかは正確には知らないけれど)泣き寝入りを余儀なくされる人々が多い当て逃げ事件なのだから、何かしら法的な、被害者に対する救済措置が検討されても、そろそろいいんじゃないの。たとえば、自賠責保険の見直し、とか。日本の自動車関連の税(重量税とか、車検のときに払ういくつかの税金やガソリン税など)は、高過ぎる。せめてその超過分は保険料にスライドされる方が、まだ実感として納得がいくような気がする。

自賠責保険への加入がすべての自動車保有者に義務付けられているのは、すべて運転する者=潜在的な加害者、とみなされているからでしょう?ならば、自賠責保険料をもっと高く設定して、人身のみならず物損事故に対してもある程度は補償されるようにする、とかはどんなもんだろうか。

大体、人身であれ物損であれ、事故の際に被害者が泣き寝入りを余儀なくされる場合の多くは、加害者が任意保険に加入していない場合ではないだろうか。だとすれば、自賠責での補償をもっと充実させることも検討してもいいのではないかな、と思ったりするのである。勿論、その場合にはお上から課される義務となるので、事情を抱えた自動車保有者への免責も、同時に考慮されなければならないけれども。

食指が動く本

2008-09-23 04:37:04 | 豆大福/トロウ日記
pensie_log さんのブログで紹介されていたChrist in Postmodern Philosophy: Gianni Vattimo, Rene Girard, and Slavoj Zizek 私も注文してしまった。というのも、彼による以下の紹介文(というか序論の要約?)が、私の心を捉えたから。

>著者は当初、大陸系ポストモダン哲学において「宗教(orキリスト教)への回帰」を果たした哲学者として、上記三人〈ヴァッティモ、ジラール、ジジェク《*トロウ挿入》〉のほかにカプート、カーニー、ウェストパールの計6人を念頭に研究を進めたとのこと。ところが、進めるにつれて、後者の三人は主に「神」(とりわけ絶対的な他としての神)へと議論が集中している。他方、ヴァッティモら前者の三人は「受肉」や「キリスト論」が扱われている点で、共通性がある。そういう点で、「キリスト教のユニークネス」を論じている。そこで、その3人を特にもグルーピングして取り上げたい、とのこと。

う~む、これは期待できるかも。これまで私がポストモダンといわれる一連の運動に共感を持てなかった最大の理由は、敢えていえば、その神論の扱いの荒さにあるといえるかもしれない。神や超越者なき後の思想、という場合の神とか超越者の捉え方が、限定された神論に基づく議論である(った)と私には思えてならなかった。

その「限定された神論」とは、結局ファンダメンタリズム基調の神論、あるいはそれに類した神論であって(特に英米系においてはその傾向が強いような)、そういった限定的な神概念でしかない神論を前提として「神なき後の世界がどうあるべきか」が論じられていることがほとんどであるように思われる。だから(ここで自説を詳しく述べる気にはなれないので、この間は大きく省略)結局、おもに神論中心のポストモダン思想をまともに議論するのは、少なくとも私にとっては不毛であった。

しかし。キリスト論に焦点を当てた議論であるならば、話は別。こういう視点で書かれた書物が出たとは、これは嬉しいぞぅ(それにしてもpensie_log さんの「なんて読むんだろう」に激しく同感、著者のDepoortereという名前)。まあ、著者に共感できるかどうかは、内容を知ってからのお楽しみ。

ただ、キリスト論に注目した議論である場合、それは「ポスト」モダンの問題といえるのだろうかという疑問が湧くのも事実。結局それは「ポスト(後)」ではなく、モダンそのものの問題に回帰するか、あるいはモダニズムの延長線上にあるべき議論になるのではないだろうか。まあこれも、内容を知ってからのお楽しみだ。

*紹介の本、一応私の方もリンクを張っておきましたが、どうやら私が「残り1点」モノをクリックしてしまいました。よって今のところアマゾンでは入荷待ちとなりそうです。買いたいと思った方、あしからず。

春川欣也さんと私

2008-09-15 19:55:06 | 豆大福/トロウ日記
ふとした会話の中で、備忘録として残しておかねばならない類の話を大福先生から聞く。それは、日本ウェスレー学会誕生秘話、とでもいう話である。初代委員長であった渡辺善太氏から大福先生に委員長のバトンが渡されたのは、1960年のことであった。

正直のところ、今では組織や活動がどうなってしまったのか分からなくなってしまっている(少なくとも私と大福先生は知らない)日本ウェスレー学会。私はこれまで、日本ウェスレー学会は初代委員長であった渡辺善太氏が設立したものと理解していた。しかし大福先生によれば、それは大間違い。

大福先生がアメリカ留学から帰国して2,3年経った頃、当時東京神学大学教授であった左近義慈氏を通して、東神大から「現代神学」「ジョン・ウェスレーの生涯ならびに神学」の2科目について、大福先生は大学院での講義を非常勤で依頼された(当時、すでに大福先生は青山学院大学で常勤だったため)。

そのとき、「ウェスレー」の科目を履修していた学生・春川欣也さんがその講義にぞっこん入れ込み、東神大内にウェスレー研究会を作ったのが日本ウェスレー学会の最初の姿であった。だから、日本ウェスレー学会の創立者は誰かといえば、その後日本キリスト教団諫早教会の牧師を勤められた春川さん、ということになる。

残念ながら、春川さんは早逝されてしまった。とても人懐っこい性格の人であったという。学生からなる研究会はしばしば箱根で研修会を開き、その研修会の講師として大福先生が何度か呼ばれたのだそうだ。ちなみにその時も、宣教師であったエヴィン・アダムスさんが経済的な援助を申し出てくださったという。アダムスさんは、主に北海道を中心に宣教していた方で、私もお会いしたことがあるがとても気さくな方である。大福先生と同世代の方で、今でも年一度の挨拶状を交わす仲のお二人。アダムスさんが東京に来られた際には、よくお二人で鰻を食べに行かれたそうである。

この話を聞いて、私は春川さんと自分とが重なる気がして、一度もお会いしたことのない春川さんに親しみのような気持ちを抱く。きっと、春川さんの当時の思いも、今の私の思いと似たようなところがあったのかもしれない。わが教会ユーカリスティアで、大福先生と一緒にウェスレー研究を深めていきたいという思いは、当時の春川さんの思いと共通するものであるように思えてならない。

もっとも私には、春川さんら当時の東神大の学生さんたちのように、研究会を学会にまで昇華させるエネルギーも能力も欠けているとは思うけれども。

最後の仕事が残っている

2008-09-02 15:26:04 | 豆大福/トロウ日記
「私は安倍前総理からバトンを引き継ぎ、以来1年近くたった。参議院で与党が過半数割れの中、困難承知で引き受けた。政治資金の問題、年金、防衛省の不祥事など次から次へと積年の問題が顕在化して、その処理に忙殺されてきた」

「先の国会では民主党が国会の駆け引きで審議引き延ばしや審議拒否を行った。その結果、何を決めるにも時間がかかった」

といい、昨夜辞意を表明した福田首相に、心から同情申し上げる。いやいや本当に、お辛かったことでしょう。(でも本当は、それで辛かったり、さんざん不利益を蒙ってきたのは国民の方なんですよorz )

前、前々、あるいは前・前々…内閣からの、さまざまな負の遺産を受け継いだ上、ねじれ国会である。いかに一国の責任を負うべき首相といえども、こういう状態で正常な政権運営を行うこと自体、そもそも無理だったのだ。

福田首相に責任を追及すべき点は確かに、政権運営が上手くできなかったところにもある。なぜなら、そのような環境にある「にもかかわらず」、有能な首相であれば、景気対策はじめ、さまざまな政治選択をすることだって可能であったはずだからだ。

しかしこのような状況を克服できる首相、とは、それは並大抵でない有能さを備えた人物、ということになるだろう。そこまでの首相としての器を、誰も期待はできまい。特に今の時代は。

むしろ問題にすべきは、この一年の福田首相の政策無作為というより、このような難局を十分に分かっていながら前政権を引継ぎ、その後一年もずるずると国民生活を疲弊させ、衆議院解散に打って出なかった点だと思う。今、野党からは「新政権になったら早期解散を」との声が続出している。なんで?何故、「新政権になったら」なのか?なぜ今すぐに、ではないのか。野党は野党でやはり、自分たちの都合があるからなのか?

新たな政治決定を下すことが、すでに辞意を表明した総理大臣に道義上どれだけ許されるのかという問題は、ある。しかし、とにかくあと数週間、福田氏は一国の総理大臣であるということを自覚していただき、自民党に対してではなく、国民に対して最後の仁義を切っていただきたい。

つまり、新政権に移行する前に、そんな無駄な時間と金を費やす前に衆議院解散を、と一国民は願う。

あ、そうそう、それから。ある一党の総裁、ということである限り、自民党の総裁など誰がなっても構わないのよ、党員でない者からしては。党内でよくよく議論して、総裁として適当な人物を選出すればいいじゃん。だから福田首相、ここはひとつ、最後に大仕事を成し遂げられたら、どうだろうか。「私自身は自分自身を客観的に見ることができるんです」なんていう逆ギレ、よくぞおっしゃった!ならばここで、それを証ししてほしいと思う。

う~ん、無理な注文なのかなあ。