Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

贈り物のたとえ話

2007-03-21 20:25:24 | Dr.大福よもやま話
1つ前の記事に対して、okegawaさんがトラックバックを飛ばしてくださった。その記事に書かれている、「アガペーという至上の理念が、人々の実際の相対的な行動を上からひっぱるという、野呂芳男『実存論的神学と倫理』(創文社、1970年、207頁以下)で紹介されているニーバーの倫理学から影響を受けた考え」に関して、著者ご本人であるDr.大福が、よく引き合いに出されるたとえ話を紹介したいと思う。

AがBに10,000円の贈り物をしたとする。贈った本人であるAにとっては、10,000円の出費は10,000円以上の出費をしたように感じられる。一方、受け取ったBといえば大抵、貰ったものは実際の値段よりも安く見積もりがちなのが人情で、BはAの贈り物を8,000円くらいのものだろうと感じてしまう。

さらに、BがAにお返しをしようと考える段になると、「あのとき、Aは8,000円くらいを出費したのだろうから、今回の私のお返しは、高くても8,000円でいいか」と考え、ひょっとしたら7,800円で済ますかもしれない。そしてそれを受け取ったAは、そのBからのお返しを6,500円くらいの品物だと見積もり……このようなことを繰り返すうちに、最初の10,000円の贈り物の価値は、どんどん下落してゆく。

だから、「8,000円のものを貰った」と感じたら、自分がその贈り手にお返しをするときには10,000円のものを選んだくらいで、実際にはちょうど釣り合いが取れるものなのだ。そのときには、「自分は2,000円分、損をしている、犠牲を払っている」と感じるかもしれない。しかしその際の、「損、犠牲」という感覚を正当化してくれる愛がアガペーなのである。それが「アガペーが私たちの行いを上から引っ張ってくれる」という意味である。実際、アガペーという至上の基準が存在しなかったら、10,000円は、限りなく0円近くまで転落していくだろう。

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このたとえ話でお分かりのとおり、ここで言われている10,000円とは、私たちが生きる上での倫理観や実際の社会活動を指している。自分が10,000円を出費する時にはそれ以上の金額を出費したように感じるものだが、しかし受け取る側は、実際の相手の出費を低く見積もりがちだというこのたとえは、人と人との間の活動すべてに置き換えることができる。つまり、自分が「出す」場合には実際よりも多く出したように思えるし、自分が「貰う」ときには実際よりも少なくしか貰わなかったように思ってしまうのが、この世の人情だ。その時に、出す側・貰う側双方が互いに、犠牲の感覚を持たなければ、実際には平衡を保てない。しかし、犠牲など払いたくない、損はしたくない、と思ってしまうのも、これまた人情なのだろう。(ちなみに、こういった「人情」に対する分析・考察も、神学の重要テーマである。)

何はともあれ、その平衡をどうにか保ちたいのであれば、私たちの世界の論理を超えた基準が、どうしても必要になってくる。その基準となるのが神の愛、アガペーと呼ばれる概念なのである。ましてや私たちの社会を改善していきたいと思うならばなおさら、このアガペーという概念なしにどのようにしてそれを実現できるのか、少なくとも私自身には、思いつくことができない。

このアガペーという概念は、キリスト教からしか出てこないとは言い切れないが、キリスト教においてはとても大事な、そして中心的な概念であることは間違いない。

ホリエモンの不満

2007-03-17 20:06:51 | 豆大福/トロウ日記
【視点】ライブドア事件 堀江被告に実刑 投資家“踏み台”に厳罰(産経新聞) - goo ニュース

今回の堀江貴文被告に対する判決は、証券取引法違反に対する判決としては、異例な厳罰判決だという。この手の世界に必ずしも明るくない(というより真っ暗か)私でさえ、ホリエモン「実刑」という地裁判決のニュースを目にしたときには「おおっ、ずいぶん重いな、思い切った判決だな」と感じたものだ。

彼がその判決に対して不満であることは間違いない。なぜなら、彼自身がすでに控訴を明言しているようだし、判決当日の夜に行ったTV出演の際にもその不満を漏らしていたらしい。

堀江被告は一貫して無罪を主張していた。その主張は、個々具体的な起訴内容に対して向けられていたのはもちろんのことだと思うが、その根底には「ライブドアが、堀江だけが悪いなどということが許されていいのか」という意識、自分(たち)はスケープゴートなのだという意識があって、それが彼の無罪の主張を支えていたのではないだろうか。だから、反省どころか被害者意識を抱く堀江被告に対して、裁判長が「反省の色がうかがえない」と言うのもそのとおりなのだろう。しかし堀江被告にしてみれば、今回の地裁判決に対して「何で私だけが悪者に」という不満となる。

彼の不満は、一応正しいのだと思う。私は、繰り返して言うが、この手の世界に明るくない(というか真っ暗)。だからこそ、彼が「自分はスケープゴート」という不満を抱いてくれているお陰で、皮肉にも経済界にはびこっているであろう粉飾決済や欺瞞が、広く存在していることがかなり明快に憶測できる。やっぱりそうなのね、皆してヤバイことやってんのね、だからホリエモンは「自分だけが制裁を受けている」と不満を抱くのね、という感じである。

ホリエモンの「不満」、いずれ解消されることを願う。ただしそれは、控訴審で彼が無罪を勝ち取ることによってでは決してなく、あらゆる法的または道義的な不正に対して厳しい制裁――法的あるいは社会的に――が課せられることによってである。要するに、皆がワルいことをしているのに、その中で目立ってしまった自分だけが損をしたなどという言い分など、もはや通用しないような仕組みや法律、そして経済活動に携わるあらゆる人々の意識の確立がなされてほしいものだと、切に思う。

一方で、何が正しいことで、何が不正なのかという問題は、一概に言い切ることのできない微妙さを含んでいることもまた、本当のところなのだけれど。この問題は、たとえば神義論のような神学的議論にも置き換えることのできる、難しい問題でもある。奥は、ずんずん深い。

東京大空襲の日に、思う

2007-03-11 01:03:15 | 豆大福/トロウ日記
62年前の今日は、米軍機B-29約300機が東京の下町を大規模に爆撃し、一夜にして10万人の命を奪った日である。両国の国技館から北へ5分ほどの横網町公園内に、東京大空襲、そして関東大震災で命を落とした人々への追悼の場として、東京都慰霊堂があり、特に東京大空襲の犠牲者に対しては「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」がある。この公園の中に入ると、私は必ずといってよいほど狭心症のような胸の痛さと息苦しさを覚える。比喩で言っているのではない、ほんとうに息苦しくなって、その場にはいられない程になってしまうのだ。

私がそうなってしまうのは、実は慰霊堂の内部でというよりは、公園の北側にある震災復興記念館のちかく、小高く盛り上がったところ、池のあるあたりだ。

ひと晩で10万人が死んだのである。町中に、川面一面に、積み重なった死体。1945年3月はとても寒い異常気象の年で、10日には2,3日前に降った雪がまだかなり残っていたらしい。しかしいくら寒かったとはいえ、もはや誰なのかも分からない焼け焦げた死体は異臭を放ち、そのまま放っとくわけにはいかないのである。そこでさしあたり、その何万もの死体は、付近の公園や広場などのちょっとした広い空間があれば、そこここに仮埋葬された。後にそれらの骨は掘り起こされ、1948より51年にかけて、ようやく現在の慰霊堂のある場所に合同に埋葬されるに至った。私が息苦しさを感じる小高い場所は、それら身元不明の遺骨が実際に埋葬されているところなのである。

おそらく、私の身内の骨もそこに納まっているに違いない。あと1週間ほどすると、彼岸入りである。実際には遺骨が納められていない墓の前で手を合わせるときの方がまだ、冷静な気持ちでお参りができる。大勢の人々と共に実際に埋葬されているであろう場所の横網町公園は、多くの人々のうめきが今なお聞こえてくるようで、私はいてもたってもいられなくなってしまうのである。

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(以下は、東京にかつて焼夷弾を投下した国・アメリカ合衆国の人々、特にそれが正当な行為だったと信じる人々にお読みいただきたいので、英語で失礼します。)

-- To Those Who Long for Peace, Especially Have Interests in the Tokyo Air-raids on March 10, 1945 --

62 years have passed since the day the most outrageous tragedy never made before for the Tokyoites, sadness for losing beloved ones has never been cured, and there are still rages in our hearts against the foolish governments which decided to participate in the foolish war called the WW2. It is the memorial day today, the indiscriminate bombings on 100 thousand citizens of Tokyo were raided by approximate 300 US bomber planes (B-29), and killed them on March 10, 1945.

Some would say that the bombings (on Tokyo and many other places in Japan, including atomic bombing on Hiroshima and Nagasaki) and attacking the citizens of Japan were right. Because Japanese people themselves supported their emperor-military combined government at that time, it was apparent justice that the Allied Forces (or the US) attacked them in order to right the insanity of the Japanese people and liberate the invaded Asian countries from Japan. I have no intension at all of justifying our mistakes done in the past, especially for the Asian people, and any other people who had suffered from inhumane ways of the Japan's militarism then, so that I myself recognize what my responsibility is on establishing our world, domestic as well, peace now and in the future.

However, on this exceptional day of March 10th, I dare say that the great air-raids on Tokyo were nothing but the criminal and historical massacre by the Unite States. No matter how "insane" the Japanese were at that time, or no matter what their belief or political views were, the people who were killed by bombing were citizens, not soldiers. Besides, we did not have democracy at that time. I strongly want you to put in your mind that 100 thousand citizens of Tokyo were burnt and killed in one night, and more than a million people became victims – their houses were burnt, and they lost their families, which were inexcusable crimes of the US, for the US violated the Convention respecting the Laws and Customs of War on Land set in Hague, providing protection of the general public.

You say, justice has to be made? Yes, I agree. But, not by wars. There are no good wars. War cannot be justified by any reason, and justice cannot be made by any war.