Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

本人は否定するけれど

2008-12-24 17:28:32 | Dr.大福よもやま話
前々回の記事ゆえのことなのか、ウィキペディア上の大福先生の情報が訂正されていることに気がついた。

どなたか存じませぬが、訂正の労を取ってくださった方、ありがとうございました。お礼に、といってはナンでございますが、最近の小噺などを、以下にちらりと。

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とある雑誌を眺めていて、ふと気がついた。「むむっ、こ、これは…」と思い、その「思い」を確かめるべく、おそるおそる大福先生に聞いてみる。

「あの~ひょっとして、本当にひょっとしての話ですが、先生の若き頃、そう、大体20代後半の頃でしょうか、もしかしたら、こんな容貌ではなかったですか」
と、私が指を置いた先には、岡田准一くんの写真。そう、ジャニーズの。さて、不意を突かれた先生の反応は。

「え、あー、えー、そういえばまあ、こんな感じだったかなあ……、いやいや、自分のことなんかさっぱり分からんよ、たぶんに違うだろう、うん、違う違う」
と、最後のあたりはごにょごにょと口ごもってしまわれる。想像するに、岡田さんがジャニーズで、世の女子にモテモテだという具体的な現実を知らない先生であっても、こうして雑誌でポーズを取る人物がアイドルに違いないことくらいは察しがついたため、厚かましくも自ら肯定はできなくて、後半ごにょごにょになってしまった、という感じである。

もっとも、いくら20代という共通項で括ったとしても、岡田さんと先生とでは20代を生きる(た)時代がまったく違うし、置かれた環境も全く違うはずなので、人物の全体的な雰囲気はおそらく全く違うのだと思う。それでも敢えて言えば、岡田准一からアイドル性を差し引き、旧制中学仕込みの教養の表れを加えれば、即ち大福先生ってことで、勝手に決定。

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最後に、どなた様もこの話、「なお、20代の頃の容貌はジャニーズの岡田准一似で…」と、間違ってもウィキペディアなどには掲載されませぬように。ここまでの話は、飽くまでも豆大福の、個人的な、主観に過ぎませぬ。この豆大福、すごく分厚い色眼鏡を通して実際を見ているのかもしれなくってよ。

祝・「チップス先生」DVD化&「ロレンス」完全版劇場公開

2008-12-16 21:00:05 | 遥かなる銀幕の世界
この冬、ピーター・オトゥールファンにとっては寿ぐべき出来事が2つもできて、ああ、なんて幸せなんでしょう。

まずは、「アラビアのロレンス―完全版」の公開(12月20日より新宿のテアトルタイムズスクエアにて)である。この映画は1962年に初公開されたが、そのあまりにも長い上映時間が興行向きでないとの理由で、公開の際には確か20分位カットされたのだった。それが88年に完全版として再編集され、失われてしまっていた音声の一部が25年を経て、再アフレコされたりしている。

―とは、DVDの完全版にある特典、撮影秘話より。この情報は、私のあやふやな記憶によるので、細かいところが間違っているかもしれない。そのアフレコ風景で、久しぶりに再会したリーン監督に、「ずいぶん腕を上げたな」とオトゥールが褒められるシーンがある。それに対して50も半ばを越えたピーターが、「これでやっと、私もハムレットが演じられるよ」と笑いながら返す。それはほんの短いシーンなのだけれど、何ともいえず、固く信頼しあう親子の会話のようで、胸が熱くなる。

「映画は、やはり映画館で観なければ」というのは、デヴィッド・リーン作品のためにある言葉だと思う。手元にDVDがあって、いつでもこの作品を観ることができようとも、この映画を映画館で観られる機会はそう多くない。だから、なんとか時間を作って観にいくつもりだ。

よく言われることだけども、この映画、3時間45分という長い上映時間のうち、女性が出てくるシーンはほとんど皆無といっていい。加えて、オトゥールはほとんど出ずっぱりだ。総勢何百人というオトコで占められた映画であるにもかかわらず、むさ苦しさを全く感じさせないのは、砂漠の美しさに加え、オトゥールのおかげだと私は思っている。オトゥールの醸し出す中性的な魅力が、この映画をすっきりさせているのではないかと思うのだ。

確かに、トマス・E・ロレンスにはホモセクシャル疑惑が付きまとい、オトゥールもそれを少しは意識して演技しているのだと思う。(というか、「咳をするトルコ人指揮官」でそれを表現しようとしたリーン監督の手腕の方を、より称えるべきだろうか。)しかし私が言う「中性的魅力」というのは、そのこととは全く別の話だ。ロレンスの『知恵の七柱』や『砂漠の反乱』から伝わる繊細さ、思慮深さ、教養の深さや情熱を、オトゥールは見事にスクリーン上に表現した。つまり、ロレンスのもつ人間的な魅力は、男性/女性という性を超えた、その人物のあり方そのものにあって、それがここで言う「中性的」の意味であり、それはピーター・オトゥールの演技力なしには表現できるものではなかったと私は思っている。

…話は尽きない。だから、「アラビアのロレンス」について語ることは、なるべく避けてきた。しかし今回は、完全版の劇場公開というお目出度い出来事を記念して、ほんのちょっとだけ、ブログで触れてみたくなったわけだ。

で、もうひとつの嬉しいニュースとは、「チップス先生さようなら」のDVD発売(2月予定)だ。「チップス先生」については、過去に、「DVD化を切に望む」みたいなことを書いたので、今回それが叶って本当に幸せ。

実はこの間に、1930年代に作成されたロバート・ドーナット&グリア・ガーソン版の「チップス先生さようなら」を観ることができた。こちらの方は、かなり原作に近い。

36歳当時のオトゥールによる老け役も脱帽ものだけど、ドーナットも若くして老チップス先生を演じていて、その演技力はオトゥールと甲乙つけがたいほど素晴らしい。というか、ドーナットにあれだけの演技をされた後では、オトゥールには相当のプレッシャーだったのでは、と思えるほどだ。

特筆すべき点などを、最後にひとつ。チップス先生が校長として演壇で最後のお話をするシーンのスクリプトは、どちらの版もたぶん同じ、変わっていないと思う。だから一番比較が容易なシーンであるのだが、どちらも満点。どちらも目頭が熱くなる演技に、感謝。

嗚呼、Wikipedia ったら…

2008-12-15 16:17:30 | 豆大福/トロウ日記
うん、確かに便利だよねウィキペディア。でもね、間違ってるんだよね~ずいぶんといろいろな点で。あ、いやこれは、対象となる事柄・歴史・人物に関する解釈の適不適を言っているのではない。解釈は解釈であって、解釈の正誤がどうのこうの言うのはいかにも的外れな議論だからね。

ところで大福先生のところにも致命的な間違いがある。
「生まれ年、1924年になってますけど」と先生に告げたら、「ちょっと~そんなのありなの?いやだなあ。あのさ豆大福、あんたが直しておいてくれない?」
と言われても。私はそれを直すやり方を知らない。何よりも、ウィキペディアの記事を訂正するという気が起こらないのは、いかにも私の性根の悪さを表しているのか。

さらに、とてもお世話になっているK先生の記事もすごいことになっている。やはり生年のミス。K先生の場合はたぶん、10年位間違っているのではないか。10年年長に書かれていたので、そんなにえらくお年を召していたかなと錯覚してしまったほどだ。

いったい、これらのミスの多さは何なのか。安易にコピペでレポートを作成しようともくろむ学生や役人に制裁を与えようという、確信犯的ミスなのか。うん、きっとそうだ。そういうことならば、私もその確信犯さんの味方をすべきなので、やはり訂正しないでおこう。

間違った情報がネット上に晒される大福先生の不愉快に対して、また、単に調べものをしたいだけの悪意のない大勢の方々には、申し訳ない。でも、ネット情報の信憑性に対して楽観できない、安易に信用できないということは、悲しいかな、少なくとも今のところ現実なわけで。その現実に抗うエネルギーは、今わたし、あまり使いたくないの。お許しを。