Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

ストランド書店

2013-01-24 10:18:43 | 豆大福/トロウ日記
自分の物心ついた時から生き残っている大きな書店といえば、紀伊國屋書店と丸善あたりであろうか。頑張って生き残っているとはさすが老舗だ。きっと、私の想像を越えた経営努力があるのだろう。頭が下がる。

先日たまたま四ツ谷に出たついでに、エンデルレ書店とドン・ボスコ書店それにサン・パウロ書店に寄った。靖国通り沿いの一直線上にポン、ポン、ポンとほぼ等間隔にあるこれらに共通しているのは、カトリック教会系の書店だということだ。これらもずっと長く続いている小さな書店で、こちらは経営努力というよりカトリック教会の力の大きさを感じる。すごいなあと思う(もちろん経営努力もおありであろうが)。

東京で、「今日はとっても楽しい本屋デーだった」という充足感を心底味わえる本屋がない。とくに最近、ない。いい本屋が街から消えてゆく。

知の洪水を浴びる。本という物を通して、時空を越えた人間たちの営みに触れる。芸術に触れる。そんな風にして半日本屋で過ごしていると、体はくたくたになる。そして、それに反比例するかのように精神はとぎすまされてきて、最後には自分が観念によって成り立っていると実感できる。そのような、疲労と心地よい充足感の入り混じった体験ができたのは、長い時間をもてる若者時代の特権だったのだろうか。

学生時代にそのような体験を提供してくれたのが、NYCのダウンタウンにあるストランド書店(Strand)であった。それは私にとって、今なおほとんど理想の本屋だといっていい。ストランドは、基本は古本屋さんだ。その上で新刊も扱い、レア本も扱っている。安いし、おもしろい本がいっぱいある。新刊を販売するといっても、ベストセラーがガーっと平積みにされているのとは違う。新刊の扱いも古書の扱いもそう変わらなくて、しかもジャンルも様々だ。売れないジャンルは置かない、なんてケチなところがない。しかし私が生で知っているのはかれこれ20年以上前の話である。でも今でもそうなんじゃないかって思う。

地価が高いのは同じであるはずなのに、ニューヨークでできて、なぜ東京でそれができないのだろうか。いろいろなジャンルが新刊書と古書を問わずに置いてあるといっても、ストランドは、ニューヨーク郊外の大型書店のようにバカでかいわけでもなく、ストリートの一角を占めるにすぎない。もし、神保町の古書店街がひとつの○○書店となったとしたら、それはストランド以上の大型書店になるだろう。

でもそれは、おそらくストランドのようにはならないような気がする。何かが違う、言葉では表現できないけれども。ストランドでは、そこににいるだけで訪れる人々との温かい連帯感さえ感じることができてしまうのだ。実際、そのような小・中規模なお店にいると、ニューヨークでは客も店員も、知らない者同士がよく声をかけあう。ここが日本とは違うところだ。一期一会の孤独。私からみるストランド、そこはNYCが凝縮されているといっても過言ではない。

なぜ東京では、おもしろい本屋さんがやっていけない羽目に陥るのであろうか。本屋に限ったことではないが、儲からない、でも面白いモノを扱うお店が消えてゆく。それらに代わって、品質はせいぜい中の下くらいに抑えてまず原価を抑え、そしてまんべんなく売れる商品を大量に売って儲けようというお店が増える一方だ。このような均一的で個性なく低価格設定でモノを売ることが、結局は大量生産の価格破壊、つまりデフレにつながっているのではないかと、私のような経済に全くのシロートは思ったりするんだよね。

出てよストランド、東京に。しかしそれは支店を出せ、という意味ではない。ストランドが東京に支店を出しても、おそらくうまくいかないだろう。だから正確には、ストランドのようなわくわくで素敵な空間、出てよ、となる。え、誰もやらない?それならば、私がやろうかな。な~んてね。

デススターはいらない、では何を?

2013-01-14 20:56:40 | 豆大福/トロウ日記
年末の朝日新聞紙上で、安倍内閣を「ヤンキー化内閣」と分析した精神医学者の斎藤環氏のインタビューに膝を打った記憶も新しい。知性を捨て、気合とノリだけで即行動という美学に基づく政治姿勢は、内閣の右傾化というよりはヤンキー化という方があてはまる、というような内容だったと思う。久しぶりに、痒いところを書いて下さったというカタルシスを味わったその数週間後の今日、今度はヤンキー本家の方々の政治ニュースに腹を抱えた。

本家ヤンキー、つまり米国北部人だけの行動とはいえないかもしれないが、とにかくアメリカ人2万5千人以上の署名が集まったという、ホワイトハウスへのその陳情。昼のテレビによれば、それは、失業対策の公共事業としてデススターを建設してほしい、というものだった。あの、スターウォーズの帝国軍の要塞デススターである。

もちろんその陳情が、ホワイトハウスに承認されるはずもなく。承認できない一番の理由は、これ以上国の債務を増やすわけにはいかないという財政上の問題だ。次に、惑星の破壊は政権として支持できないという理由。

個人的には、陳情拒否の理由についてさらに踏み込んでほしかったと思う。「アメリカは帝国ではないし、将来もそうならない」とか「フォースの誤った使い方で暗黒面に堕ちた帝国のすることに、アメリカは与しない」ぐらいは言ってほしかったと思うのだ。いやまて、米国政府は、絶対にこのようなミエミエの建前は言わないだろう。あまりにも建前すぎて、実態と乖離しているのが白々しすぎるから。

このニュースを聞いて最初は、あはは、デススター建設ってなんじゃそれ、と笑っていたが、よくよく考えてみれば、失業という危機的状況に置かれた人々が、いかにあっさりと行動の善悪の指針を忘れる、もしくは捨てるかをこれは如実に表している。産官癒着の土建国家志向が結局のところ世界大戦につながったという20世紀が残した教訓など、現在おかれた失業・貧困を前にすれば、一瞬のうちに忘れられる怖さを感じた。実際、少なくとも2万5千人のアメリカ人は、食うためにデススターの建設をと望んだのである。

わが国の場合を振り返ると、現政権は集団的自衛権を是とし、さらには憲法改正を目論んでいる。そして景気浮揚は土建的公共事業への投資、しかも強引な金融緩和によるインフレをしかけることによって成し遂げられると信じている。これは、食糧不足解消や雇用促進を求めて満州国を設立してみたり、戦争特需への期待から軍国主義国家への道に邁進した100年前の考え方とさほど変わらない。

21世紀に入ってからとくに、「新しい」公共論が盛んに提唱されるようになった。公共政策論とか、公共哲学など。個人的にはそれらに対しいろいろと思うところはあるけれども、それらをここで十把一絡げに評価することはできない。が、しかし。

公共事業といえば土建というやり方が、戦争や貧困格差拡大のマトリックスとなることは歴史が示している。もう、このような古いやり方から、いい加減に私たちは脱しなければならないのだ。このような危機感は、最近になって新たな公共概念が求められてきていることと無関係ではないはずだ。しかしいわゆる新しい公共論の問題のひとつは、既存の公共とは異なった公共が、どのような事業と結びつけられるべきかという具体像が未だ見えてこない点にある。そこを踏まえた実験と成果が今、喫緊に求められているのではないだろうか。

それは、スターウォーズの例でいうならば、デススターの建設ということではないのは確かである。そしておそらくそれは、ジェダイの養成を公共事業として手がける、というようなことではないかとも思う。もっとも、そのような教育・福祉事業に対して公共(とくに行政)が担える範囲は、極めて限定的・最低限にならざるを得ない、ならなければいけないとは思うけれども。

初夢

2013-01-01 17:27:55 | 豆大福/トロウ日記
大晦日から元旦にかけてみた夢。

久しぶりに教壇に立つ私。自分ではそれなりにやれるのではないかと思っていたら、てんでだめ。まるでリズムがつかめない。準備は十分に整えていたはずなのに、聴いている方々になかなか話が伝わらなくて、あせりは出てくるし自信は喪失するし。

そして傍には終始、スーツ姿の(要するに「大学の先生バージョン」の)大福先生がにこにこと穏やかに座っている。私がどんなに焦ろうと失敗しようと、ときにはフォローのために立ち上がって私の至らない部分を補ってくれたりもする。授業が終わり、あまりの出来の悪さに落ち込んでいても、問題ないよと励ましてくれるのであった。

幸福な気持ちで目覚め、明けて元旦。元旦には毎年、ハワイから“ほぼ”伯父のV先生から実家に電話がかかってくる。V“伯父”先生とも五年くらい失礼が続いていたが、お元気そうな声を聞くことができた。今でも父を一番の親友だと思っていると言ってくださったのも嬉しいけれども、『ジョン・ウェスレー』はじめ芳男さんの著作を何度も読み返している、とても優れた学者さんですねと言ってくださったことが何より嬉しい。(V先生は日本文学・哲学専攻の学者なので、日本語はとても堪能なのだ。)

「近いうちにこちらへも来てください」とおっしゃるのは、アメリカ人の場合、社交辞令ではない。だからこちらも「ええ…でもまだ、遠くまで旅行をするような気にもなれないので…」と本音で答えると、「私ももう86ですから、はやく来てくださいね」と。

そうだ。V先生にも、これからの私たちの仕事を応援してほしい。V先生もそうだし、他のたくさんの人たちを巻き込みながら、次の世代に伝えつなげてゆく仕事ができるよう、少しずつ、今年は歩みを進めてゆきたい。