自分の物心ついた時から生き残っている大きな書店といえば、紀伊國屋書店と丸善あたりであろうか。頑張って生き残っているとはさすが老舗だ。きっと、私の想像を越えた経営努力があるのだろう。頭が下がる。
先日たまたま四ツ谷に出たついでに、エンデルレ書店とドン・ボスコ書店それにサン・パウロ書店に寄った。靖国通り沿いの一直線上にポン、ポン、ポンとほぼ等間隔にあるこれらに共通しているのは、カトリック教会系の書店だということだ。これらもずっと長く続いている小さな書店で、こちらは経営努力というよりカトリック教会の力の大きさを感じる。すごいなあと思う(もちろん経営努力もおありであろうが)。
東京で、「今日はとっても楽しい本屋デーだった」という充足感を心底味わえる本屋がない。とくに最近、ない。いい本屋が街から消えてゆく。
知の洪水を浴びる。本という物を通して、時空を越えた人間たちの営みに触れる。芸術に触れる。そんな風にして半日本屋で過ごしていると、体はくたくたになる。そして、それに反比例するかのように精神はとぎすまされてきて、最後には自分が観念によって成り立っていると実感できる。そのような、疲労と心地よい充足感の入り混じった体験ができたのは、長い時間をもてる若者時代の特権だったのだろうか。
学生時代にそのような体験を提供してくれたのが、NYCのダウンタウンにあるストランド書店(Strand)であった。それは私にとって、今なおほとんど理想の本屋だといっていい。ストランドは、基本は古本屋さんだ。その上で新刊も扱い、レア本も扱っている。安いし、おもしろい本がいっぱいある。新刊を販売するといっても、ベストセラーがガーっと平積みにされているのとは違う。新刊の扱いも古書の扱いもそう変わらなくて、しかもジャンルも様々だ。売れないジャンルは置かない、なんてケチなところがない。しかし私が生で知っているのはかれこれ20年以上前の話である。でも今でもそうなんじゃないかって思う。
地価が高いのは同じであるはずなのに、ニューヨークでできて、なぜ東京でそれができないのだろうか。いろいろなジャンルが新刊書と古書を問わずに置いてあるといっても、ストランドは、ニューヨーク郊外の大型書店のようにバカでかいわけでもなく、ストリートの一角を占めるにすぎない。もし、神保町の古書店街がひとつの○○書店となったとしたら、それはストランド以上の大型書店になるだろう。
でもそれは、おそらくストランドのようにはならないような気がする。何かが違う、言葉では表現できないけれども。ストランドでは、そこににいるだけで訪れる人々との温かい連帯感さえ感じることができてしまうのだ。実際、そのような小・中規模なお店にいると、ニューヨークでは客も店員も、知らない者同士がよく声をかけあう。ここが日本とは違うところだ。一期一会の孤独。私からみるストランド、そこはNYCが凝縮されているといっても過言ではない。
なぜ東京では、おもしろい本屋さんがやっていけない羽目に陥るのであろうか。本屋に限ったことではないが、儲からない、でも面白いモノを扱うお店が消えてゆく。それらに代わって、品質はせいぜい中の下くらいに抑えてまず原価を抑え、そしてまんべんなく売れる商品を大量に売って儲けようというお店が増える一方だ。このような均一的で個性なく低価格設定でモノを売ることが、結局は大量生産の価格破壊、つまりデフレにつながっているのではないかと、私のような経済に全くのシロートは思ったりするんだよね。
出てよストランド、東京に。しかしそれは支店を出せ、という意味ではない。ストランドが東京に支店を出しても、おそらくうまくいかないだろう。だから正確には、ストランドのようなわくわくで素敵な空間、出てよ、となる。え、誰もやらない?それならば、私がやろうかな。な~んてね。
先日たまたま四ツ谷に出たついでに、エンデルレ書店とドン・ボスコ書店それにサン・パウロ書店に寄った。靖国通り沿いの一直線上にポン、ポン、ポンとほぼ等間隔にあるこれらに共通しているのは、カトリック教会系の書店だということだ。これらもずっと長く続いている小さな書店で、こちらは経営努力というよりカトリック教会の力の大きさを感じる。すごいなあと思う(もちろん経営努力もおありであろうが)。
東京で、「今日はとっても楽しい本屋デーだった」という充足感を心底味わえる本屋がない。とくに最近、ない。いい本屋が街から消えてゆく。
知の洪水を浴びる。本という物を通して、時空を越えた人間たちの営みに触れる。芸術に触れる。そんな風にして半日本屋で過ごしていると、体はくたくたになる。そして、それに反比例するかのように精神はとぎすまされてきて、最後には自分が観念によって成り立っていると実感できる。そのような、疲労と心地よい充足感の入り混じった体験ができたのは、長い時間をもてる若者時代の特権だったのだろうか。
学生時代にそのような体験を提供してくれたのが、NYCのダウンタウンにあるストランド書店(Strand)であった。それは私にとって、今なおほとんど理想の本屋だといっていい。ストランドは、基本は古本屋さんだ。その上で新刊も扱い、レア本も扱っている。安いし、おもしろい本がいっぱいある。新刊を販売するといっても、ベストセラーがガーっと平積みにされているのとは違う。新刊の扱いも古書の扱いもそう変わらなくて、しかもジャンルも様々だ。売れないジャンルは置かない、なんてケチなところがない。しかし私が生で知っているのはかれこれ20年以上前の話である。でも今でもそうなんじゃないかって思う。
地価が高いのは同じであるはずなのに、ニューヨークでできて、なぜ東京でそれができないのだろうか。いろいろなジャンルが新刊書と古書を問わずに置いてあるといっても、ストランドは、ニューヨーク郊外の大型書店のようにバカでかいわけでもなく、ストリートの一角を占めるにすぎない。もし、神保町の古書店街がひとつの○○書店となったとしたら、それはストランド以上の大型書店になるだろう。
でもそれは、おそらくストランドのようにはならないような気がする。何かが違う、言葉では表現できないけれども。ストランドでは、そこににいるだけで訪れる人々との温かい連帯感さえ感じることができてしまうのだ。実際、そのような小・中規模なお店にいると、ニューヨークでは客も店員も、知らない者同士がよく声をかけあう。ここが日本とは違うところだ。一期一会の孤独。私からみるストランド、そこはNYCが凝縮されているといっても過言ではない。
なぜ東京では、おもしろい本屋さんがやっていけない羽目に陥るのであろうか。本屋に限ったことではないが、儲からない、でも面白いモノを扱うお店が消えてゆく。それらに代わって、品質はせいぜい中の下くらいに抑えてまず原価を抑え、そしてまんべんなく売れる商品を大量に売って儲けようというお店が増える一方だ。このような均一的で個性なく低価格設定でモノを売ることが、結局は大量生産の価格破壊、つまりデフレにつながっているのではないかと、私のような経済に全くのシロートは思ったりするんだよね。
出てよストランド、東京に。しかしそれは支店を出せ、という意味ではない。ストランドが東京に支店を出しても、おそらくうまくいかないだろう。だから正確には、ストランドのようなわくわくで素敵な空間、出てよ、となる。え、誰もやらない?それならば、私がやろうかな。な~んてね。