Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

この国の美しさを守れ

2013-04-22 07:15:30 | 豆大福/トロウ日記
美というものを、ここではバウムガルテンのいうように「感性的認識」であるとしよう。それは客観的「美」の存在の余地を与えない。だからきっと、美は主体が語るしかない、主体でしか語り得ないものだ。

私の感性的認識つまり美意識からすると、この国の美しさはどこに見いだせられるだろうか。国土や自然か。否。この国固有の(それがあるとして)道徳観か。否。もちろんここでいう否は、それらを否定しているという意味ではない。ただ、美しいという感性を呼び起こされる程ではないということだ。

では私にとって、この国にある美しさとは何か。今のところ、美しいとまでいえるものがふたつ見つかった。ひとつは日本語、もうひとつが憲法だ。

私は日本語を母語として操れる者であることを、有り難くそして誇りに思う。自分の知っている外国語の数などたかが知れているという前提はあるにせよ、日本語は、言語として美しいうちの最高レベルにあると思っている。とりわけ日本語の何が美しいかといえば、海外の言語/文化を吸収しそれを独自に消化し発展させるという日本人の得意技が、日本語の中には凝縮されているところだ。つまりその言語を操る者には、異質なものに対する寛容が備えられ、そこから将来に向かって何かを育む可能性が与えられているのである。私にとって、誇りと美は相関関係にある。

そして、憲法。日本国憲法は概ね、私にとって全体的に美しい。
「どの条文が一番好きですか」と、誰も尋ねてくれないので自分で言ってしまうと、それは97条だ。11条よりも97条。

どちらの条文も基本的人権の保障を規定している。しかしとりわけ97条の「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて」「過去幾多の試錬に堪へ」「現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として」「信託されたもの」……ほとんど全文になってしまった。うーむ、97条、壮大な歴史のロマンが感じられるねえ。近代だねえ。

97条では基本的人権保障の沿革が、超簡潔に述べられているところがまず美しい(「はしょりすぎてちょっと苦しい」の味もあり)。そしてそれが、11条へと流れてゆく。基本的人権は、現在と将来、どちらの国民に対して侵すことのできない永久の権利である、と。再び97条に戻ると、それは「信託されたもの」という言葉で終わっている。美しい。

硬性憲法であることを示す96条だって美しい。概ね全体的に美しい日本国憲法の、守護聖人であるような条文だ。いわば天使ミカエルのような条文だ。

公人中の公人ともいえる政府の人間が、自らの美意識に基づいて政策立案することは、それ自体が主権在民の日本国憲法の理念に反している。主体でしか語れないもの、つまり自らの美意識を政策にするのは間違っている。元衆議院議長の土井たか子氏は、事あるごとに「好きな条文」が99条だと公言していた。公務員の憲法尊重擁護義務を定めた条文だ。国会議員として、政党の党首として、ごく真っ当な感覚だと思う。

硬性憲法であることと、改憲が不可能だということは両立しない。96条の要件をみたせば改憲はできるのだ。だから、国民が望むのであれば9条だろうが何条だろうが、改憲したければすればよい。ただし主権が国民にあることが明らかに保障された上でなければならない。つまり選挙のシステム上でも違憲レベルから改善された状態で選挙が行われ、それらによって国民が改憲を選択するのであれば、だ。

個人的には、9条は変えるべきでないと思っている。しかし、それを変えることをこの国の人々が選択するのであれば、私にはそれに抗う資格はない。民主政がどれほど稚拙で危うい制度であろうと、それと自分とを比較すれば、私は自分というひとりの人間の方が信用できないからだ。

美しいことと正しいこともまた、必ずしも両立しない。正しいことが常に美しいとは限らないのである。とくに「正しさ」の前に「政治的」という言葉が前に入るときには、その主張はむしろ美しくない方が多いくらいだ。少なくとも私には、政治的には正しくとも美しくはない場合の方が多い。きっとそれは、政治が、合理性に基づいてというよりも、妥協の産物によって成り立っているという面があるからかもしれない。

たとえば、ナチスの政治活動がそれ自体としては法治主義に基づいていたこと、つまり合法的であったのはここで指摘するまでもない。これは政治的正しさの脆弱さを示すいい例だと思う。社会的・政治的正しさが、ある場合には社会や個人の生活を破壊する力を持つ場合がある。だからせめて個人は、常に「正しさ」をコントロールできる立場に置かれなければならない。それを、11条や97条は保障してくれている。だからこれらの条文は、私にとってのみならず社会にとって不可欠だ。その上で、何が正しいかを判断する源になるのが、各々の美意識ということになるのだろう。

96条という守護聖人の命が今、政府に狙われている。そしてその命を守るのも殺すのも、結局は国民であることを肝に銘じたい。「私」にとって何が美しいか、その意識をひとりひとりが持てるかどうかもまた、民主社会の成熟には欠かせない。

視線の先にあるもの

2013-04-05 14:28:05 | 豆大福/トロウ日記
国立西洋美術館で開かれている「ラファエロ展」に出かけた。日本初のラファエロ展だという。しかしラファエロ展という割にはラファエロ作品の点数がかなり少ない気が……いや、世界各地いろいろなところからラファエロ作品を借りてくる苦労はとてもよく分かる。個人的には、目玉である「大公の聖母」、それに「アッシジのフランチェスコ」「聖家族」の3点が原画で見られたというだけで満足だ。

ラファエロの聖母。なぜ大福先生は、数ある聖母画の中でもとりわけラファエロのそれが好きだったのだろうか。確かにミケランジェロの描く女性は、今風に言えば肉食系女子といえばよいだろうか。それが3次元、つまり彫刻になれば話は別かもしれないが、ミケランジェロの場合絵画だと女性でも雄々しい雰囲気になってしまう。レオナルドの場合でも、雄々しいという表現は当てはまらないにせよ、どちらかというと、観ていて副交感神経よりも交感神経の働きの方が高められそうだ。彼の場合、あまりにもその天才ぶりが女性画にも発揮されるがゆえかもしれない。それに対してラファエロの女性像、とりわけ聖母画は、眺めれば眺めるほどに副交感神経が刺激される癒し系だ。

ラファエロの描く聖母の多くは、その視線が下に向いている。それは仏像のいわゆる半眼とも異なっている。それらの聖母は、赤子以外の何かをも見ているようにみえる。

その視線の先は子イエスであろう聖母なのだから、とも考えられる。確かにラファエロの聖母たちの多くは赤子イエス(やヨハネ)を見ている。しかしその眺め方が、我が身を犠牲にしてもというような母として無比の愛情を注いでいるというようには、どうも私にはみえない。そして赤子の方もまた赤子らしくない。赤子のくせに、この世のことはなんでも知っているぞと言わんばかりの完璧さを携えた小さな人間として描かれている。

ラファエロの描く聖母の視線の先にあるものは何か。赤子をみているようで、みていないようなその目線の意味するところとは何か。

目線だけではなく、構図からも感じられるのだが、それは清濁併せ飲む大地的な母性というよりも、清らかで尊厳に満ちた高貴な女性性ではないだろうか。完璧さを表す小さな男性(赤子)と、その者に母のように寄り添う最高に高貴な女性。ラファエロの聖母子画からは、いつもそのような印象を私は受けるのである。

ラファエロは、直接的または間接的に、果たして当時の「キリスト者の完全」の教理を知っていたであろうか。美術史が専門でない私にはそこまでは分からない。だがラファエロの描く聖母子画は、ヒューマニズムという手法を織り交ぜながらも自らが信ずるところを芸術として表現している、まさにそれはルネサンスを体現しているのであるが、そこにラファエロなりの「キリスト者の完全」の教理の表現が透けて見えるように思えるのである。

私もラファエロの聖母画はとても好きだ。とくに「美しき女庭師」の聖母子画が一番好き、であるのに原画をまだ観ていない。ルーブル、ウフィッツィ、いつか行かなくては。