Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

ジョニー・イングリッシュMI:7

2012-01-29 18:43:16 | 遥かなる銀幕の世界
先週、ローワン・アトキンソン主演「ジョニー・イングリッシュ―気休めの報酬」を観た。まずはこの”MI:7”で笑う。英国情報部は一応、MI:6ですから(笑)。冒頭から結構なお下劣ネタに始まり、最後は王室女王おちょくりで終わるこの映画、随所にアトキンソン風味がちりばめられている。でも彼の舞台コメディーでの毒にくらべると、やはり映画ということもあってかそれは少し薄い。それでも爆笑の連続だった私。

英国情報部員といえば007で、007といえばやはりショーン・コネリーだな、私の場合は。しかしジョニー・イングリッシュでのローワン・アトキンソンは、コネリー007とは違うカッコよさを披露していて、アクションもそれなりに大胆で、パロディー的なコメディーながらもコネリー007に引けをとらない。決して侮れない濃さがある(かもしれない)。振り返れば、「洗脳」対「良心」の闘いの場面など、結構インテリジェントな主題もあったなあと思ったり。

Mr.ビーンの愛車ミニもいいけど、時速200キロ超でスイスまでとばすロールスロイスがかっこいい。ホイールの”R”ロゴマーク、タイヤが高速で回っていてもロゴは回らないようになっているのね。映画では、英国情報部の車両の多くがイタリア車アルファロメオだったような。ひょっとしてこれも笑いをとるための設定なのか。あるいは、もしかしたら実際のMI:6でもアルファが採用されているのだろうか(だとしたら、それはそれで爆笑。軍の車にしては無駄におしゃれ、しかも外車と批判されること必至)。

エンドロール最後のおまけ部分では、コメディー俳優の方々はやはり器用な人が多いと感心させられる「技」が披露されている。

数々のおバカぶりを若い相棒にさらしつつ、それでも一層若いモンの尊敬を勝ち得るジョーニー・イングリッシュなローワン・アトキンソンは、きっと世のおぢさんたちの星でもあると思うのだけれど。

さて次は、FBIのフーバー長官を描いた「J・エドガー」もみたいけど、時間がなあ…それに、監督がイーストウッドというところにはそそられるものの主演がレオだしなあ。

溝としての深い海、そして実存論的神学

2012-01-20 23:03:53 | 豆大福/トロウ日記
ヨーロッパ大陸とブリテン諸島との間には、ドーバー海峡がある。ユーラシア大陸と日本列島との間には、日本海がある。ブリテン諸島と日本列島との地理上の共通点を見出すとすれば、それは、海である。海を越えたところに異なる文化世界が広がっているという地理的条件の点で、つまり島国であるという点で両者は共通している。

日本人の「島国根性」という言い回しには、否定的な意味がすでに含有されているのが普通だ。この言葉が否定的に使われるときにはおおよそ、次のニュアンスで使われる。日本は江戸時代、約400年間鎖国した、明治維新によって開国してみたらなんとまあ、西洋には日本よりもずっと進んだ文明社会が発達しているではないか、いやはや日本人はなんて世間知らずなのだろう、という動機から現れる劣等感。あるいは、その劣等感に対する(無意識的にではあっても)屈服の表現としての、排他的自己完結性の強調。

はて。このような劣等感や排他的自己完結性の強調は、島国であることと関係があるのだろうか、と自問すると、答えは否、となる。これらネガティブな感情や振る舞いは、島国でない各大陸においてもしばしば見受けられるからだ。大陸の人々の間でも、これらネガティブの出現がみられる以上、これらが島国であることに起因するとは私には思えない。

「400年間国にフタをしていたが、そのフタをあけてみたら何とまあ……」までは、開国後、とくに知識階級の人々に生じた感動であることは確かだ。しかしその後、そのような階級の人々(つまり、福沢諭吉や中江兆民らに代表される知識的エリート)に生じたのは、劣等感でもなく、潜在的敗北感から自らの殻に閉じこもることではもちろんなかった。「何とまあ……」の次には、「海の向こうでは、社会の役に立つ仕組みや考え方が、日本とは別の形で育っていたのか、これは面白い!」であったに違いない。

さて、こんなにおいしい(面白くて役に立つ)モノが海の向こうの世界にあるならば、それを食らうためには、その間にどれだけ深く荒々しい海があろうが、彼らは超えるのだ。断っておかねばならないのは、海という深い溝を超えて日本が異文化を食らってこられたのは、全体としての日本人が他国人と比べて際立って優秀だったからではない。海の向こう側にある異文化がおいしいそうだったし、実際に食べてみると栄養分豊富な、つまり私たちの社会をよくするのに役に立つモノがたくさんあったから、明治以来、日本人は貪欲にその栄養分としての西洋文化を吸収してきた。

実はこの貪欲さが、島国根性 (Empiricism〈in a Japanese way〉と超英訳すべきか) といい得るのではないかと私は思っている。貪欲、という言葉が下品で嫌ならば、勤勉さ、と言い換えてもいい。異文化の存在感は、海という大きな、荒々しい障害によって逆説的に明確化される。その、異文化の存在を明確に認識することで生じる、自らの栄養となるものへの貪欲、渇望、それに伴う経験を積み上げてゆくことが、島国に宿命づけられている根性(精神)ではないだろうか。

日本は今「そこそこに豊か」、確かにそうなのだろう。しかし、そのような「そこそこな豊かさ」は、先人たちの貪欲さによって蓄えられた貯金によってもたらさられていることを忘れてはならない。そして少しずつであっても、私たちが貯金を崩すことで保たれている豊かさは、いずれは失われるということを忘れてはならない。しかもそれが失われるのは、徐々にそれが分かるというものでもない。

それは、一気に失われたと思える時がくる、というのは歴史が示す教訓だ。そもそも私は日本が豊かな国だと思っていない。豊かな国、の前に「物の面で」と「地下鉄で居眠りできるぐらい犯罪が少ないから」を入れれば確かにそれらの点で豊かといえるけれども、豊かさがそのくらいのことで測れるとは私には思えない。大体、国の借金の金額が、私には想像もできないくらい大きいように思えるのだが、これはまあ、借金の際にはそれに見合う担保が必要になるのが普通で、日本はきっと、そのような担保を供することのできる何かしらの能力があるからこれだけ借金ができるのよね、ということにしておく(後はどうなっても知らないけど)。とにかく、特に今なお、この国で欠乏が大きいと思われるのは、教育、福祉、民主政、自給できる食料、そして水と材木を除く天然資源である。

豊かさの喪失の前兆は、確かにある。しかしそれらは、後になって振り返ってみたときに初めて、おおよそ誰にでも見当がつくことになっている。ああ、あの事件、出来事がそうだのか、と。しかし例外的に、その前兆が喪失の瞬間以前に、それが喪失への前兆だとある程度推測できる人たちもいる。そのような例外的な人々は、時代によって、巫女や託宣者であったり、あるいは占術師であったり学者であったり科学者であったりする。いずれにせよ、社会の中では圧倒的にマイノリティーな人々である。(さらにこれらの人々に共通していえるのは、推測が外れることが重なったり、推測自体や、結果が出るまでに時間がかかりすぎたりする場合には社会的信用を失う、ということが挙げられる。)

しかし、だからこのような連中など信用できない、と一刀両断に排除することは拙速すぎる。確かにこれらの人々の信用度は、そう高いとはいえない。しかし、私たちの住む自然世界や、全体としての人類に対する信用度は、彼らマイノリティーへのそれよりもずっと低くなる。少なくとも、私にはそうだ。美しい自然が突然、破滅をもたらすことを私たちはつい最近に経験したばかりだ。集団の構成員ひとりひとりが仮に皆「いいひと」である場合でさえ、彼らが集団となった場合には別の倫理、より低いレベルの道徳が規準となり得ることなど、言うまでもない日常茶飯事だ。

さて、島国の話に戻ろう。日本の神学では、たとえば法学では大陸法、英米法と躊躇なく用いられるのとは事情が違い、そのような区別、つまり大陸系と島国(英国)系の理論体系の区別が、必ずしも明確に扱われていない。日本の神学でその区別が明確に扱われてこなかったこと、つまり悪く言えば、大陸系と島国系の思想がごちゃまぜに扱われてきたことは、少々の弱点を生み、しかし大きな功績を生んでいると私は思っている。その事情は実存論的神学にも、もちろん当てはまる。ごちゃまぜにせざるを得ない独特の事情が、神学には内在している。

私、豆大福は、ひとさまからよく、「実存論的神学って、つまり一体どういうことなんですか?」と質問されることがある。そう質問されると、「野呂芳男の著作をすべてお読みください」と言いたいところだが、それではあまりにも不親切となろう。それで、結局は答えになっていない対応をせざるを得ないのが常なのだが、そのとき、せめて次のことは理解していただきたいと願うのである。

「実存」「論」/「的」「神学」、これらいずれかの要素に対する理解が欠けたときには、実存論的神学を構成し得ないということである。当たり前のようだが、そうなのだ。実際、実存論的神学に対して生じる誤解の多くは、実存論的神学があたかも実存的神学、とか、極端な場合には実存論(主義)であるとか(しかも人によって実存論の理解もさまざまであり)、あるいはそもそも近・現代神学と教義学の区別、あるいは神学と哲学などとの区別がなされていないとか、大体そのようなあたりから生じているように見受けられる。この現象は日本においてのみならず、海外においてもあてはまるように思う。

実存/論/的/神学、これらの各要素が最終的に縦横に(つまりキリスト教周辺の宗教史、とくに近代以降の神学という縦線と、キリスト教学内はもちろんその範囲外にも入り込んでゆく研究という横線が絡み合って)組織化され、この島国の一神学者によって独自に体系化された理論、ということは、差し当たりご理解いただきたいと願うのである。

微動する年末年始

2012-01-03 20:11:05 | 豆大福/トロウ日記
この10日間くらいの出来事を振り返ってみた。新しく知り合いになった人が増えたり、生存が確認できた方もいた。淡々と過ぎる1日も、10日重なると自分を取り巻く世界も少し変わるのが分かる。

1 被災した福島の知人と、震災後初めて連絡がとれた
去年の大災害に対して、私は何もできなかった。そして震災後も無力そのままの自分を受け入れるしかなかった。自己を卑下するわけでも、無力さに開き直って自己正当化するわけでもなく、事実として私は本当に何もできなかった。そのような中、被災したに違いない知人の生存を確認でき連絡がとれたという、このことのみが、あの大きな災害に対して無力な今の私にできた、唯一のことだった。これは嬉しかった。

2 大福先生のユニオン神学校での学位論文、Yoshio Noro, Impassibilitas Dei の謄写版が手に入った
桶川さん、ありがとうございます。お蔭様です。これで、この論文の謄写版を手に入れるという目的でニューヨークへ行く必要がなくなった(世界は狭くなったものです)。でもこれは謄写版なので、本物を見にゆくという動機もまた、あり、かもしれない。実物は、ちょっとごわごわした紙にタイプされた、確か朱赤色のハードカバーだったと記憶する。

3 ウイーンフィル新年コンサートNHK放送版で、コンサート前の解説・導入部分でカルロス・クライバー「雷鳴と電光」(1992年)の映像を流してくれた
日本の視聴者にクライバーファンが多いのか、それとも私の好みが番組編集者と一致したのか分からないが、新年早々このお年玉にはびっくり。今年はシュトラウス作品の中でも初出作品の演奏も多かったそうだし、チャイコフスキー作品が入っていたのがよかった。

しかし初出作品の多くには、結構ズッコケてしまった。「これでワルツ踊れるんですか、途中で調子狂いません?」と突っ込みたくなるような。たとえば冒頭の「祖国行進曲」にはラデツキー行進曲の一部が使われていて、そのノリで聴いていると途中であら?と調子が狂う。「こうもり」や「カルメン」の早回し版のような曲々は、まるでコロッケのものまね早回しみたいだ。「こうもり」はシュトラウス自身の作品だからいいとしても、「カルメン」は問題にならなかったのかなあ。当時は著作権などあまり問題にされなかったのかな。
 
とにかく、このズッコケぶりを提供してくれるシュトラウス、益々ファンになってしまう。

4 初めて受験したToeic SW の結果が届いた
今年は個人的な事情で試験をたくさん受けることになりそうだ。その先陣を切ったこのテストの結果が年末に届いた。結果は……つけ焼き刃の準備に対してはこの結果でしょうがないからこれでなんとかいきましょう、というしかない。おそらく、これが最初で最後のSW体験となるだろう(と願う)。

それにしてもToeic本体にしてもSWにしても、コンセプトが完全にアメリカン・ビジネス標準だなあとつくづく思う。そもそもの運営母体がプリンストン大学らしいから、それは当然で、Toeicという物差しそのものが非難されるいわれはないのだろう。まさに、英語力+アメリカ的ビジネスコミュニケーション力を試すテスト、といいたいところだが、後者が得意ならば英語力が少々欠けていてもそれなりの得点は出せるテスト、とも思う。逆に、英語力がどれほどあっても後者がゼロだと点数は伸びなさそうである。それに対する評価はともかく、言い方を変えれば、経験を積んだおじさんおばさんの方が取り組みやすいテスト、といえるかもしれない。

5 NHK「初笑い 東西寄席」で、太田光がケーシー高峰から借りて医師の白衣を着るのを観た
昨年は精神的に、見ることが無理だったこの番組。被災した方々、とくに大切な人を失った方々の中には、今なお笑うことが無理という状態にある方も多いかもしれない。このような番組を私が今年見られたのは、時間の経過のおかげで悲しみが薄れたからではなく、ある体験がきっかけになっている。それはともかくとして、太田光の白衣姿、ここでウケてしまったのは、全く個人的な、おそらく太田さんご自身予想できなかったであろう事情による。

太田光に白衣を着せて確かめてみたかったことが今やっと確かめられ、おおっ、と思わず拍手した。

ある時期夫がお世話になっていた、いつも白衣姿のK医師が、爆笑問題の太田さんに360度そっくり、と2人で密かに面白がっていたことがある。おそらくその先生は私より少し若い、だから年恰好も太田さんと大体合う。そういう全く個人的な、世の中からすれば大変ミニマムな、つまりどうでもいい動機から、いつか太田光が白衣を着る姿をみてみたかった。K医師が漫才を披露することはちょっとあり得ない一方で、太田さんが白衣を着ることならあるかも……と、長年小さく期待していたのである。それが今日、ケーシー高峰経由で実現とは。

世の中、何がどう組み合わさって、ミニマムな物語が実現するか分からない一例として、この「どうでもいい」話をここに記すのである。