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Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

シャーロック--忌まわしき花嫁

2016-03-11 21:42:33 | 遥かなる銀幕の世界
BBC製作のドラマで、NHK-BSのドラマでもおなじみの作品が、英米では2016年元旦にテレビ放送されたらしいが、日本では映画館上映だ。うーん、極上。ただしかなりマニア向け。

私の注目ナンバーワンは、ベネディクト・カンバーバッチやマーティン・フリーマンを越えて、実は兄マイクロフトを演じるマーク・ゲイティスだ。

ホームズ兄弟は兄と弟どちらも頭が良い子ちゃんたち、なわけだが、シャーロック役のベネ様が極上の演技力を見せてくれるのに対し、ゲイティスの場合、”頭良い子ちゃん”のマイクロフトをほとんど地で演っているでしょうという印象を受ける。(一応断っておくが、ベネ様が本当は頭良くないのに、演技でそれをカバーしているという意味ではない)。

BSでみた吹き替え版では声優さんがうますぎて、マイクロフトが嫌味な印象を受けるきらいがあるが、英語では必ずしもそのような感じを私は受けない。映画の最後のメーキングでは、脚本家・製作者でもある彼がインタビュアーとしても登場し、常ににこやかで人柄が良さそう。

女優陣もすばらしい。メアリ役の人も素敵だし、ハドソン夫人は将来こういう高齢の女性になれたらよいなと思わせる。

繰り返していうが、この映画はマニア向けだ。どこがマニアック向けだというのか、思いつくままに上げておく。
・Sherlockをすでに観ている人。とくに最終回。
・221bというだけでワクワクする人。
・コナン・ドイルが心酔した20世紀初頭の英国スピリチュアリズム(心霊主義)に興味がある人。
・19世紀末英国の社会問題、とくに女性の社会的地位について興味がある人。
・無意識と時空の問題に興味がある人。
・小気味好い会話の応酬を原語で楽しみたい人。

今ざっと挙げられるのは、このくらいかなあ。

「終着駅 トルストイ最後の旅」

2014-09-13 21:33:57 | 遥かなる銀幕の世界
映画館で観たいと思っていて観られなかったこの映画を、昨日BSが放映してくれたのでそれを観ることができた。

後味悪い。実話なだけに、実に後味が悪い。哲学者の土屋賢二先生がかつてどこかで「妻という字は毒という字に似ている」と書いておられたのが頭によぎった。土屋先生の場合はともかく、トルストイの場合は洒落にもならない。夫の臨終の場で泣きながら夫の許しを乞う妻。残酷だ。

唯一の救いは、この映画が記録フィルムではなく創作映画であり、妻ソフィア役で主演のヘレン・ミレンやトルストイ役のクリストファー・プラマーが魅力的で演技力も素晴らしいので、それが実話の悲惨を幾分カバーしているところだろうか。

本編を観賞後、この映画の日本版予告編をYouTubeで観て、驚いた。え、これ、長きに渡る夫婦愛の話、妻の家族愛の話と紹介されているの?そうですか、そのようにしか捉えられないのならば、そう言うのがよい。映画に描かれた人物伝をどのような感性で捉えるかなど全く自由だし、何が正しくて何が間違っているなどというものはないのだから。

私はといえば、この映画の中に愛を見出すとすれば、それはトルストイの、もう愛することのできない妻を何とか愛そうとする努力の中に、そして、「死んだ他の子の代わりにお前が死ねばよかった」と母親に罵倒されながらも母親を愛そうとする愛娘の姿の中に、その娘の父親に対する健気な敬愛に、である。

トルストイが求めても手に入れることが生涯叶わなかったアガペーを彷彿させるような性愛、トルストイの愛は、トルストイを尊敬してやまない、若い秘書ワレンチンとその恋人マーシャとの瑞々しい愛によって引き継がれた。

こうしてトルストイは、死んでも生きる。復活であり、命であるイエス・キリストを信じるレフ・トルストイは、死んでも生きる。そのように、聖書にはある。

「雨に唄えば」

2014-07-22 18:01:23 | 遥かなる銀幕の世界
ミュージカル舞台「雨に唄えば」が今秋、渋谷ににやってくるらしい。このニュースを新宿駅地下通路にあったポスターで知った。わお、うれしい、すごい、と思うと同時に、この舞台作品は、かの映画版を超えられるのか?!と。

足早に歩きながらしばし、自分の10代後半の頃の感覚と思い出が蘇った。
……大学、まず半年は通ってみよう。それで得るものがなさそうだったら、大学は1年で辞めてミュージカル俳優を目指して修行しに海外に出ようかな、なんて漠然と考えていた。

豆大福が1年生の時に実存論的神学や大福先生と出会わなかったらたぶん、そうしてましたと大福先生本人に伝えた時には、先生には大受けし、そしてびっくりされた。私としては、そんなに驚かれる発想だったのかなと思ったものの、まあ、受けて下さったので、それはよしとしましょうと。

フレッド・アステアとは甲乙つけがたいけどやっぱりジーン・ケリー、と同じ趣向に話が及んでいたときのこと。
「ジーン・ケリーの舞台、観たよ、例によって天井桟敷で」という大福先生の留学中のエピソードに、「生でジーン・ケリー?えーっ、えーっ!どんなでした?」と地団駄を踏まんばかりに羨ましがった私。私の十代後半当時、ジーン・ケリーはすでにほとんど隠居状態で映画にもほとんど出ていなかったから、まず、会えない人だったからねえ。

シド・チェリッシが、彼女の長~い脚を披露していたのはそうか、「雨に唄えば」の方だったか。てっきり「巴里のアメリカ人」ではなかったかなと記憶違いしていた。今回の宣伝告知ムービーでは、彼女のあの名シーンも生かされているようで、よかったよかった。私も彼女のように踊れたらすごかったろうけど、あの脚の長さはDNAレベルでもう、無理。それにしても彼女の妖艶さは魅力的だったなあ、と。

デビー・レイノルズ。愛くるしい、誰にも好かれるような女優さん。私もぜひ、そのような人物になりたかったし今でもなりたいと思うけれども、こちらも私には無理なキャラクター。おばあちゃんになった彼女の最近をたまの機会に拝見すると、愛くるしいと同時にたくましさを感じさせる女性。

ドナルド・オコナー、この映画の陰の主人公ではないかな。今の時代に、彼のMake’Em Laugh を唄い踊りこなすのは、大変なプレッシャーなのでは。「皆を笑わそう」という彼のこのナンバーは、疲れた時でも観ると、いつも微笑ませてくれる。だからこの動画は、私のiPodの中でも再生回数がトップレベルだったりする。ちなみにドナルド・オコナーと大福先生は同い年。

ジーン・ケリー。不屈のエンターテイナー。彼を超えられるミュージカル俳優なんて、そうそういないだろう。今回の主役、アダム・クーパーは、ジーン・ケリーをどれだけ意識しないかにかかっているような気がする。ぜひ、独自の魅力を披露してください。

あまりにも有名な、雨の中で唄い踊るシーン Singin’ in the Rain が素晴らしいのは言うまでもないけれども、3人で踊るGood Morningは、若者の意気盛んな、あっけらかんなイケイケアップテンポが、すごいタップで表現される見どころ。Fit as a Fiddle も今回ちゃんと盛り込まれているようだ。これは技巧的なダンス、演出の見せ場として外せないよね。

ぜひ舞台を見に行きたいけど、だいたいのナンバーはソラで唄えてしまう私としては、観ながら一緒に唄ってしまいそうで、周囲に迷惑かけるかも。

「バチカンで逢いましょう」

2014-05-31 18:17:49 | 遥かなる銀幕の世界
映画の冒頭をみて初めて原題がOMAMAMIAだと分かった。邦題、うーむ。まあよいでしょう。この邦訳には仕方がない部分がありそうだ。昨日、新宿武蔵野館で最終日最終回を鑑賞。名作だ。何がすごかったかというと、1本の映画を鑑賞中この映画ほど、泣き、笑い、泣き、笑いを繰り返した映画を私はこれまで知らない。

始まって1分から泣けるのは、多分に自分の主観と重なるシーンから始まるということはあるのだろう。あと、ドイツ人の映画でコメディーを観たというのが、もしかして今回が初めてかな?確かに喜歌劇「こうもり」などは好きだけど、これだと言葉はドイツ語でも舞台はオーストリアだし。この映画は、ドイツ人の、暗いとか冷たいとか冗談が通じないとかいう負のステレオタイプ(失礼)を崩壊させてくれること間違いなし。

ただし、若い人たち、いやはっきり言おう、若造には、この映画のおもしろさや泣けるポイントが分からないかもしれない。まず、主役は65歳という設定の「おばあちゃん」(作品中ではOmaと呼ばれている)だ。そして何といってもコメディー鑑賞では、そのワンシーンの中にどれだけ作り手の揶揄が込められているかを読み取る必要がある。そのおもしろさに気づいた者だけが、ほくそ笑むことができるわけで。

いいなあ、嬉しいなあ、年取るのは。主役のマリアンヌ・ゼーゲブレヒト(Marianne Sägebrecht)の主演作は「バグダッド・カフェ」に続いて2作目の鑑賞だけど、よい作品に恵まれている俳優という点でも幸せな人だなと思う。

「砂漠でサーモンフィッシング」

2013-11-11 02:08:36 | 遥かなる銀幕の世界
ずっと観たいと思っていたこの映画をやっと観られた(原題はSalmon Fishing in the Yemen)。何かこう、ひとつの仕事の区切りのときに、自分への褒美として観るのにいい映画だろうとの予想を裏切らなかった。今の気分にぴったりの映画だった。

家路の途中に寄ったカルディで、たまたまセールになっていたフランス、ラングドッグの赤ワイン。マノワール・グリニョン・カルベネ・シラー、こちらはワインの知識は全然ない上、1000円だったのであまり期待していなかったところ、これが個人的に大ヒット!おいしくてフルーティでびっくりした。ワインなんか思えば数ヶ月ぶりだなあ。このワインが映画をさらに盛り立ててくれた。

ツタヤで借りた「砂漠で…」のDVDを独りで観る(いや、やっぱりふたりだったのかな)。ユアン・マクレガーがさえない、もとい実直で冗談のひとつも言えない水産学者の役で、そんなところがダレカサンと重なる。「フィリップ、きみを愛してる」での、ゲイで女子なアメリカ人ユアンもとてもよかったけれど、彼にはやはりイギリス英語の方が似合っている。いや、イギリスとともにスコットランドもまた舞台になっているところも、彼の出自と重なるし。

サーモン釣りはイギリス人にとっての国技のようなもの、というのも伝わってきた。そこは個人的には「そうですか」というレベルではある。

映画全体的には軽妙で分かりやすく、それでいて真摯でもあり。そのような真摯さ真面目さが魅力的な映画だ。

『裏切りのサーカス』

2013-09-05 19:37:27 | 遥かなる銀幕の世界
やっと観た、DVDで。この作品、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞にノミネートされているし、評判がよいようだし、何より出演している俳優が名優揃いだ。主演のゲイリー・オールドマンがすっかり初老だなあ。髪は7・3に分け、でっかいメガネをかけ、50年前のファッションに身を包んでいるけど、やっぱりかっこいい。

ベネディクト・カンバーバッチ、最近やたらとどこにでも出ている(笑)。ご活躍ですね。あとは「英国王のスピーチ」のコリン・ファースとか、日本の俳優・温水さん風なトビー・ジョーンズ、極めつけはジョン・ハート。すごいキャスティングだなあ。

で、この映画、ほとんどよく分からなかった。こんなに評判がよいのに、こんなに分からないとは、私はバカなんだろうか。実は自分が想定外のバカだったのかもしれないと今更気づいた次第。

というわけだから、感想も断片的にならざるを得ない。
・おじさんの、おじさんによる、おじさんのためのおじさん映画である。結果、むさい。
・カンバーバッチが同性の恋人と別れるシーンが、竹を割ったような清々しさだ。男女であんな別れ方、見たことない。あっぱれ、模範的な別れ際に感動。
・ディテールにこだわっているのがよく伝わってくる。たとえば最後に流れる「ラ・メール」はいい曲だけど、この曲が流れる意味がよく分からなーい。
・スパイサスペンス映画というが、運びが平坦で淡々としている。次第に眠くなる。
・同時にそれは、こんなにつまらない映画を鑑賞している自分、なんて時間を贅沢に使っているんだという、時間の浪費による満足を得ることができる。

そう、なんだかよく分からないけど、贅沢だったなあ、結局満足、という映画。

「鉄道員」と「縛り首の木」

2012-11-27 23:07:15 | 遥かなる銀幕の世界
風邪が少しよくなったかなと思うとぶり返す、という状態がひと月続いている。2年前ぐらいまでは風邪知らずだったので、最近になって少しはバカから脱出したということだろうか。

少し体調が良くなると寒い中でも走るのがいけないのかもしれない。先週末はお堀周りを2周10キロ走ってその直後は爽快だったのだけれど、週が明けるととたんに体調不良に。睡眠不足の上、ちょっと無理して走ったのがよくなかったのだろうか。

今週はなるべく安静にということで、テレビの映画2本を観た。一本目は「鉄道員」で泣いた。高倉健さんのではなくて、ピエトロ・ジェルミ監督主演のイタリア映画の方。高校以来である。子役が上手すぎる!と思ったのは今も昔も同じだけれども、今回ショックだったのは、ジェルミ演ずる50歳ぐらいのお父さんやその妻が、自分とそう変わらない年齢だと気づいたことだ。昔みたときは、子役の年齢の方に近かったのに。当たり前か。

「鉄道員」の、あの何がどうというわけでもない話がなぜあれだけ感動的なのだろう。この感動のメカニズムは今に至るまで分からない。ただこのような作品は、今の時代には絶対に出てこないと思う。この映画に描かれているパターナリズムは、日本ではもちろん、おそらく制作された本国イタリアでも絶滅危惧種だろうから。

イタリア的パターナリズムとは異なるが、二本目にみた西部劇「縛り首の木」は、ある意味そのアメリカ版といえるかもしれない。ゲイリー・クーパー主演作なのに初見の作品だ。こちらは家族がテーマではなく、クープがパターナルな医者を演じている。インフォームド・コンセントが徹底されている今の時代にパターナルな医者というのも絶滅に瀕していると思うので、久しぶりにこういう人みた、というある種の感動がある。

インフォームド・コンセントによって、患者は自分の治療に関して自ら意思決定をすることができるようになった。治療が、医者と患者との共闘ととらえられることは言祝ぐべき社会の流れである一方で、最終的な治療方針の決定権が患者側に委ねられるのだから、その分、元来医者が決定していた部分について医者は決定しなくてよくなった。つまり医者の責任は、それだけ軽くなったのである。

私自身、インフォームド・コンセントの恩恵にあずかった者である。(その代わり、手術のゴーサインをなかなか出さなかったことで、主治医にはさんざん迷惑かけたと思うけど。)しかし医業に限らず、とくに専門職といわれる業務に携わる人々が全般的に、最近どうも責任をもちたがらなくなってきていると思われるのだが、これは仕方がない代償なのだろうか。つまりこういうことだ。パターナリズムの崩壊は、その裏腹として、責任の所在を分散し曖昧にすることに貢献する。

パターナリズムの濫用や履き違えが、いかに悲惨な現実を生むかはいうまでもない。(そういえば「履き違えている人」の典型といえば、イタリアの前首相……もっともこの人の場合、パターナリズムというよりは下品な成金という感じだろうか。)パターナリズムの効と罪を天秤にかけると、どうやら罪の方が大きい場合が多いから、それが制限される方向になってきているのであろう。

ただパターナリズムの効の部分には捨てがたいところもある。男性にせよ女性にせよ、世にはパターナリズムを発揮してよい人と、発揮するには適当でない人とがあって……しかも構成比からすると後者の方が圧倒的に多数だ。では誰なら発揮してよいのか。それは、非の打ち所のほとんど見当たらない強くてかっこいい西部劇のクープのような存在となるだろう。しかしそれはイデアルで仮想的だし、そのような彼/彼女が無謬であることは現実にはあり得ないからこそ、パターナリズムは崩壊の途に向かうべき運命なのかもしれない。

ローマ法王の休日

2012-07-24 13:12:00 | 遥かなる銀幕の世界
日曜午後遅く、新宿武蔵野館で上映中の「ローマ法王の休日」を観た。自分へのご褒美として。

※以下、完全に個人的な価値観に基づくコメントです。決して一般的な評価と捉えないようご注意ください。

この作品、今年上半期で観た数少ない作品のうち、最優秀作品賞である!

この映画の広告を新聞で初めて見たとき、そのタイトルにまず爆笑。フォントのポイント、「法王」の部分が小さくなっているところですでにこれが風刺コメディーであることが察せられた。とたんに原題を知りたくてたまらなくなったけれども、しょせん私はイタリア語ができないのであった。原題の意味、どなたか教えてください。

ナンニ・モレッティ氏が監督・脚本を兼ねている。脚本がまた素晴らしい。そしてバチカンのリアルな風景、実はこれイタリアのチネチッタのセットだそうで、これまた脱帽。とは、鑑賞後にパンフレットで確認したことで、鑑賞中は「システィーナ礼拝堂とかバチカンの内部とか、これらをバチカンがまさか撮影許可した?!えっ、ありえない、ありえなすぎ~」と思いながら観ていたのだった。

この映画、まずフィクションとはいえ、われわれ一般人がコンクラーベの模様を映像で観られるという貴重さがすごい。映画で、ある枢機卿がはめていたのと同様の、とても大きなアメジストの指輪、そういえば八代崇先生もはめていたな、なんて思い出した。

映画の中では数々の“ありえない”バチカンの描写が散りばめられているが、中でももっとも“ありえない”出来事が結末となっている。ネタバレを防ぐためにそれは伏せておくが、その“ありえなさ”が実現するとしたら……それはおそらく、カトリック教会にとって素晴らしい宗教改革となるだろう。いや、改革というより、教団にとってアイデンティティー喪失になるほどの出来事が結末に描かれている。それを描ききった、モレッティ監督の勇気を讃えたい。

そのモレッティ氏自身が、映画の中で、ちょっと怪しいサイコセラピストとして出演している。その人物に「最高の」セラピストと自称させているところなどにも、“サイコセラピー”に対する風刺が垣間見えたりする。

その彼が、「この本(聖書)には、うつ病の症状が満ち溢れている」と枢機卿たちに熱弁を奮う場面では、笑いのツボにはまり爆笑。あまりにもそのとおりだ。聖書に基づく信仰の持ち主である私自身、つい先日、尊敬する先輩(医者ではない人だけど)から「あなたはうつハイ状態」と診断されたばかりだったこともあり。(実際には残念ながら、お医者さまからうつ病の診断はいただいておりません。これは私の信仰が薄いせいだからだろうか。)

この映画、話は尽きない。最後に、言葉に関して抱いた疑問を2点上げておこう。1.バチカン内では今でもラテン語が話されていると思っていたけれども、映画ではイタリア語。これは事実がそうだからなのか、それともイタリア映画だからなのか。2.スイス人の衛兵同士が訓練などで話す言葉は、映画のとおり実はドイツ語なのか。どちらもまあ、どうでもいいようなトリビア、どなたかご教示くだされば幸いです。

日本橋久松町英語レッスン教室、よろしくお願い致します。

ジョニー・イングリッシュMI:7

2012-01-29 18:43:16 | 遥かなる銀幕の世界
先週、ローワン・アトキンソン主演「ジョニー・イングリッシュ―気休めの報酬」を観た。まずはこの”MI:7”で笑う。英国情報部は一応、MI:6ですから(笑)。冒頭から結構なお下劣ネタに始まり、最後は王室女王おちょくりで終わるこの映画、随所にアトキンソン風味がちりばめられている。でも彼の舞台コメディーでの毒にくらべると、やはり映画ということもあってかそれは少し薄い。それでも爆笑の連続だった私。

英国情報部員といえば007で、007といえばやはりショーン・コネリーだな、私の場合は。しかしジョニー・イングリッシュでのローワン・アトキンソンは、コネリー007とは違うカッコよさを披露していて、アクションもそれなりに大胆で、パロディー的なコメディーながらもコネリー007に引けをとらない。決して侮れない濃さがある(かもしれない)。振り返れば、「洗脳」対「良心」の闘いの場面など、結構インテリジェントな主題もあったなあと思ったり。

Mr.ビーンの愛車ミニもいいけど、時速200キロ超でスイスまでとばすロールスロイスがかっこいい。ホイールの”R”ロゴマーク、タイヤが高速で回っていてもロゴは回らないようになっているのね。映画では、英国情報部の車両の多くがイタリア車アルファロメオだったような。ひょっとしてこれも笑いをとるための設定なのか。あるいは、もしかしたら実際のMI:6でもアルファが採用されているのだろうか(だとしたら、それはそれで爆笑。軍の車にしては無駄におしゃれ、しかも外車と批判されること必至)。

エンドロール最後のおまけ部分では、コメディー俳優の方々はやはり器用な人が多いと感心させられる「技」が披露されている。

数々のおバカぶりを若い相棒にさらしつつ、それでも一層若いモンの尊敬を勝ち得るジョーニー・イングリッシュなローワン・アトキンソンは、きっと世のおぢさんたちの星でもあると思うのだけれど。

さて次は、FBIのフーバー長官を描いた「J・エドガー」もみたいけど、時間がなあ…それに、監督がイーストウッドというところにはそそられるものの主演がレオだしなあ。

「幕末太陽傳」

2011-12-23 22:49:14 | 遥かなる銀幕の世界
はまるのが怖くて、敢えて避けているもののひとつに落語がある。落語文化の存続を、と懸命になっている方々には申し訳ないけれども。

本日公開の「幕末太陽傳」、日活創立100周年記念特別上映を有楽町で観た。古典落語の「居残り佐平次」をベースに制作された映画という。「映画界至宝のエンターテイメント」とチラシにある。本当にそのとおりだった。まず、キャストがすごい。脇役に至るまで名優ぞろいだ。ただ、皆さんあまりにお若くて(1957年公開)、脇役の中で実際に観て判ったのは西村晃と菅井きんさんだけだった…。とくに菅井きんさん、当時からそのまま「菅井きん」で、それは本当に凄すぎ。しかし今は亡き俳優さんの方が圧倒的に多く、寂しい。

舞台は幕末、品川の女郎宿。いわゆる特殊な世界でしか使われない用語もあって、言葉を理解するのが難しい。昭和32年の観客に向けて書かれた脚本、しかも幕末を描いた映画、という面からしても、難しい。テアトル新宿では英字幕付き上映もあるらしいけれど、日本語字幕もあった方がいいとさえ思う。特に若い人にも観てほしいのであれば。あ、でも、日本語字幕があってさえ、意味不明といわれるかもしれない言葉も多いかも。

いつか、落語家の方とか、江戸文化に詳しい方と懇意になることがあったら聞いてみたいことがひとつある。それは、落語などによくみられる、死をも笑い飛ばす、というエピキュリアン的なパワーの源は何に由来するのか、という質問だ(どなたかご教示くだされば幸甚です)。もっとも、返ってくる答えはすでに予想できている。「んなことも分からねぇやつぁ、豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ」。

「幕末太陽傳」でも、死を笑い飛ばすという精神は生かされている。たとえば、壊れてバラバラになった使い古しの棺桶の木片を手にしながら、佐平次はそれらで割り箸を作って売るのだという。おいおい冗談じゃないよ、そんな箸で飯が食えるかってんだ、と観る者の笑いを誘う。居残り佐平次役のフランキー堺の好演が光る。ほとんど最後の正統派喜劇役者、といえる人なのではないかな。川島雄三監督も、凄い!

ラストシーンで、主人公の佐平次が「地獄も極楽もあるけぇい、オレぁ生きるんでぃ」(だったかな)といい、横浜に向かって走ってゆく。このシーンは、私にはチャップリンの「モダンタイムス」のラストと重なる。佐平次は病もち、チャップリンは貧困、というマイナスを背負った主人公たちが、それでも道をまっすぐ歩んでゆくという点で共通している。

こういった、生の讃美も悪くない。佐平次と「モダンタイムス」のチャップリン両者に共通していることが、他にまだある。それは、どちらも背負ったマイナスを凌駕するほどの強さを兼ね備えている主人公、ということだ。その強さとは、たとえば頭が良かったり、要領がよかったり、という具合に。そういった、ドラマの主人公たちの強さ逞しさは魅惑的だ。観ていて、痛快。でも、私はそのようなドラマの観衆者にしかなれない。彼らは英雄だもの。たとえそこに、「庶民の」という冠がつくとしても。彼らは私とは住んでいる世界が違うという気がする。

キルケゴールほどの、不健康な領域に入り込んでしまっている強烈なネクラ(死語?)にも私はなれない。ドストエフスキー風の破滅的な人生も耐え難い。私の絶望は、カフカのそれと波長が合うという気がする。カフカにとって絶望は、するものではなく、襲われるものなのだろう。カフカの絶望には強さが感じられない。弱々しい。それでいて、あの『城』の、自己には制御不可能な、めまいがするほどの不条理感。昼寝でみる悪夢のような不快さ。『変身』の顛末は、淡々とした筆致の中に日常の残酷が潜む。それは『審判』の処刑場面より、実はもっと残酷だ。

「フィオナの海」とトロウと

2011-12-18 16:55:34 | 遥かなる銀幕の世界
昼に民俗学的な話題に触れ、再び自らも映画「フィオナの海」がどうしようもなく観たくなってしまった。それを今、観終わったところ。

映画「フィオナの海」は、元来スコットランド・オークニー諸島の伝説を、アメリカ人が、アイルランドの孤島ローン・イニッシュを舞台に話を置き換えた形で制作された映画だ。

残念ながら今、この映画、日本でなかなか観られないのではないだろうか。少なくともアマゾンでの扱いはVHS、つまりビデオでしか手に入らないようだ。私がその映画を今日の午後鑑賞できたのは、リージョン1版の日本語字幕のないDVDによる。こんないい映画を放っておくなんてどうかしとるぞ、日本の映画ソフト会社。

原作本(日本語訳)は、まだかろうじて手に入るみたい。しかし1957年にイギリスで出版されたという原典(Child of the Western Isles)は、現在英米両アマゾンでも手に入らないようだ。

アザラシの妖精「セルキー」伝説について、大福先生と豆大福が夢中になっていたのはいつの頃だったろうか。この「フィオナの海」という映画か、それともトム・ミュア『人魚と結婚した男―オークニー諸島民話集』(あるば書房、2004年)か、きっかけはどちらが先だったか思い出せないが、とにかくブリトン島周辺の、つまりスコットランドやアイルランドの辺境に今なお生きるセルキー伝説はじめ数々の妖精伝説に夢中になっていったことを思い出す。その時に守護妖精となってくれたアザラシのウィリアムくんは、今、倉庫の中でお休み中。そして、私のウェブ上のハンドルネームの一部であるトロウも、ここら辺りの妖精からもらった名前である。

アイルランドの妖精の中にはプーカ(pooka)と呼ばれる動物(馬、ウサギなど変幻自在)の妖精がいる。ハリウッドでもプーカ・巨大ウサギの妖精と、人のよいエルウッド・ダウドとの関わりを描いた「ハーヴェイ」(Harvey)がジェームズ・スチュアート主演で映画化されている。こちらも大福先生の大のお気に入りの映画で、初見はNYCハーレムの映画館(公開は1950年)だったそうで、その後も繰り返し観て楽しんでいる。主演のスチュアート自身、彼の出演作品の中で一番のお気に入りを公言した映画だ。もちろん私も大好きな映画……なのに、こちらもやはり今、日本では手に入りにくい様子。っもう!ぷんぷくりん。

「コレリ大尉のマンドリン」

2011-12-09 12:31:27 | 遥かなる銀幕の世界
私はギリシャ人やイタリア人(「系」の人々を含めて)の人々を、直接的間接的に何人か知っている。そしてドイツ人(「系」を含む)については、それらの人々よりも多くの人を知っているだろう。彼らの背負う歴史や文化について、これまでそれらの人々から、そして彼らの地の書籍からいろいろと学んできたし、これからも私は深く学ばねばならない立場にあると思っている。神学を専攻する者として。

そうであるにもかかわらず、私はギリシャにもイタリアにもドイツにも、実際に行ったことはない。将来には他の地も含め、これらの地もまた実際に訪れなければならないと思っているが、さしあたりの疑似体験として映画を観るという手段は大変ありがたい。

「コレリ大尉のマンドリン」。この映画は、そういった私の需要に対して多くを供給してくれる。第二次世界大戦時、イタリア軍の占領下にあったギリシャの小島で実際に起こった悲劇、それに、歌と音楽をこよなく愛するイタリア人大尉と生真面目で清楚なギリシャ娘との恋愛を重ねて描いた映画だ。それをニコラス・ケイジとぺネロペ・クルスが見事に演じている。

イタリア軍による占領、とくにコレリ大尉の配下によるギリシャの離れ小島での占領は、形の上では占領だが、実際は、飲んで歌って海岸で日光浴の生活という、私たちが通常「イタリア人の生活」から思い浮かべる典型的な日常の延長が描かれている。

限られた生の中で、享楽の大切さを信条とするコレリ大尉と、イタリアとの同盟国、というよりは主従関係にあったナチス・ドイツとの対比が見事だ。原作は英国でベストセラーとなった小説だそうなので、いつかこちらも読んでみたいと思う。

ポランスキー監督「ゴーストライター」と昨日の一日

2011-09-14 09:25:51 | 遥かなる銀幕の世界
霞が関あたりでひと仕事を終えたあと、日比谷公園を抜けて有楽町方面へ。今日は自分へのご褒美に、映画「ゴーストライター」を観た。「観ないと一生損をする」はおすぎさん定番のセリフである一方で、その評価は私の鑑賞後の感想と大抵マッチする。もっとも、去年おすぎさんが同様に評していた「瞳の奥の秘密」までは今回の作品は及ばなかったかなという印象ではある。

ユアン・マクレガー主演、ロマン・ポランスキー監督。これだけで十分、観る気にさせられる。マクレガーの名優ぶりはすでにスターウォーズのオビ=ワン・ケノービ役で確立されているけれども、歳を重ねてゆくほどに人間的な魅力を増すことは一般的になかなか難しいことで、その難題をマクレガーは順調にこなしているようにみえる。ユアンと私、同世代として括ることを許してもらうとして、私もそのようにありたいなあ。

このサスペンス劇が「瞳…」に及ばなかった原因は、作品中頃にはもう、ある程度そのカラクリが読めてしまったという点にある。それにしても首相役のピアーズ・ブロスナンの、あまりにもハマリ役ぶりには思わず失笑だ。ブロスナン演じるラング首相は、我が国歴代の首相の幾人かを思い起こさせると、どなたかが評していた。まあ、確かに。たとえば、元首相NとかKとか、あるいはもっと前の人たちとか。でも彼らはラング首相にも及ばない“評価”しかされていなかったのでは…とそれはまた何ともかんとも。

この作品、確かに原作・脚本はイギリス人だというが、ポランスキー監督だからできた作品、と思う。ポランスキー監督が、私には、アメリカから追放されたチャールズ・チャップリンと重なる。そしてチャップリンが監督主演した「ニューヨークの王様」で描いたような皮肉を、また違った角度からこの作品にも見出すことができるような気がした。

個人的には、作品で描かれているアメリカ東海岸の孤島の冬景色も何だか懐かしくて、ユアンの「巴里のアメリカ人」ならぬ「アメリカのイギリス人」ぶりも何だか心地よく、字幕の日本語よりもお下品な部分も多い、もとい直接的な本音が表されている原台詞の響きもまた懐かしく思えた。

映画館を出て、有楽町駅前の広場で目に入ったのが、数人の名前を掲げた街頭演説用ワゴン車だった。その名前の中央には「宇都宮健児」とある。えっ?!日弁連会長が直々に街頭演説?と思い、きょろきょろとあたりを見回すと、「司法修習生に対する給費制の存続を」と訴える旗が立ち並んでいた。街頭演説を終えて片付け中の様子、私は演説を聞くことはできなくて、うーん残念と思っていたら。

スタッフが片付けを行っている中、署名受付担当らしき男性がまだそこに立っていた。私自身、この訴えには元来賛成の立場だった。だって司法修習生への給費制が税金の無駄とは到底思えないもの。給費制を止めることと比べれば、修習生に経済的基盤をある程度保障して質の良い法曹の育成が達成できる方が、余程国民のためになる。

その男性に、聞き逃した演説や訴えの内容を一応確認した上で署名したら、とても感謝された。そのおじさま、目をウルウルさせてさえいて、私も何だかとてもいいことをしたような気にさせられた。何だか、いい一日だった。

「アメイジング・グレイス」

2011-03-28 01:31:23 | 遥かなる銀幕の世界

ウィリアム・ウィルバフォース、日本では、そして本国イギリスにおいてさえそうらしいのであるが、この人物がイギリスにおける奴隷貿易廃止のために生涯を捧げ、ついに奴隷貿易廃止法の成立を成し遂げた英国の議員であることはあまり知られていない。

私がウィルバフォースの名を知ったのは、ジョン・ウェスレー研究を通してのことであった。ウェスレーが亡くなる6日前に書かれた最後の手紙は、議会に奴隷解放法案を提出せんとする若きウィルバフォースにあてた激励であった。そしてウィルバフォースは、ウェスレーの死の翌月に最初の議案を提出した。ウィルバフォースは32歳の若さであった。もっとも、議員になったのも21歳と、非常に若い。ケンブリッジ大学在学中に議員になった、ということになるのかな(未確認)。

「アメイジング・グレイス」がウィルバフォースを描いた映画だと知ってから、これは是非とも観に行かなければとその機会をうかがっていた。しかしその後、震災が起こったりでなかなか行けずにいた。上映館の銀座テアトルシネマの映写機も地震で破損したとのことで、半ば諦めていたのであるが、今日、やっと観に行くことができた。ありがたいことだ。

以下、鑑賞の感想を徒然に記す。

●福音主義的信仰と政治
ウィルバフォースは、一度は政治の道を断ち、聖職者になりたいと迷った時期があったほどに敬虔な信仰の持ち主であった。当時のイギリスの「福音伝道派」について、パンフレットの中で近藤和彦東京大学教授が解説して下さっている。こうした人たちとウィルバフォースは活動を共にしたわけであるが、ジョン・ウェスレーのメソジスト運動もまた、しばしば福音リバイバル運動と称される。

しかし、ウェスレーの宗教運動が福音主義であったというときに、しばしばウェスレーの思索や活動とは異なった、ある場合には正反対の態様として理解されることが多いことには違和感を覚えるし、同時にそれは憂鬱でもある。

今の日本において福音主義というとき、それはしばしば、信仰には理性ではなく聖霊が優先する立場であると考えられる場合が圧倒的に多い。しかも私の実感からすると、その福音主義とは20世紀アメリカのビリー・グラハム系の、あるいはもう少し時代を遡ってジョナサン・エドワーズの大覚醒時代から受け継がれてきた福音主義のバイアスがすでにかけられたものであったり、さらにはジョン・ウェスレーと同時代のジョージ・ホィットフィールドのカルヴァン主義的メソジズムのそれであったりする。それらもまた、一時代(そして現在にわたる)福音主義のあり方には違いないが、しかしそれらでもって、福音主義一般を表せられるとは到底言えないのである。

少なくとも、ウェスレーのメソジズムはそれらの福音主義とは趣を異にする。たとえば、ウェスレーが「聖霊」について言及するとき、それは20世紀アメリカの福音派のいう「聖霊」とはかなり違った趣をなしている(ここに踏み込んでいくと、本が一冊書けてしまうほどなので、ここらでやめておく)。

この映画に話を戻すと、当時のイギリスにおいて、福音主義派の人々がどのようであったかが映像でもって如実に示されていること、そのことに最大の敬意を表したい。福音的信仰は、そのまま成熟した民主政にも深く結び付き得たのである。二〇世紀以降のポストモダニズムの一様として、「世俗の時代」と称されることは多いが、世俗の時代はすでに18世紀イギリスでは到来していたのであり、それ自体が(ポストでない)モダニズムの特徴でもあるのである。

●変革への情熱は熱情とは違う
奴隷貿易廃止のためにウィルバフォースが提出した廃止法案の回数は、実に5度を超える。提出のたびに否決され、的外れな中傷を浴びせられ、裏切りにもあい、残酷に命を落としてゆくアフリカ人を思いまた自らの無力への嘆きから、病(胃潰瘍?)の痛みに七転八倒した。

そのような経緯を経て奴隷貿易廃止法をついに成立させたのは、ウィルバフォースの情熱のたまものである。しかしそれは、がむしゃら向う見ずな熱情とは違う。彼らはただひたすらに「聖霊の働きに盲目的に従った」、あるいはいわゆる「祈るのみ」ではなかった。忠実にサポートしてくれる友人たち、良きパートナーとしての妻の愛情、信頼のおける親友で首相となったウィリアム・ピットの存在、それらに加えて、実に巧妙な、「理性をフル稼働させた」手段でもって法案通過にこぎつけたことをこの映画は語っている。

パンフレットでは、マイケル・アプテッド監督などにしばしば言及されているとおり、この物語は今、まさに私たちが直面する問題と共通する。「この映画はただの歴史ではなく、現代社会にも通じる物語だと思っている。(中略)この映画を観てまずは知ること、そしてやろうと思えば何とかなる、と思うかどうかが大事だと思う。」

奴隷貿易廃止法案が何度も否決されたのは、それによって経済的に大損する資本家とつるんだ議員の反対によって、である。それを、ウィルバフォースたちはどのように覆したか。その方法はといえば、個人的にカタルシスさえ覚えたくらいだ。しかしながら命よりも金が大事なのはいつの時代も変わらないなと、ここで私は、今まさに私たちの社会が直面する原子力政策に思いを至らせた。そういった観点からも、是非多くの方々に見ていただきたい映画である。銀座では4月15日までと終演日が迫っているので、東京近郊の方々はお早めに。その後、全国で公開されてゆくらしい。私も是非、もう一度見てみたい。

最後に、パンフレットにあったウィルバフォースの言葉で締めくくるとする。
「見解の違いは仕方ない。だが知らなかったとは絶対に言わせない。」

「ヒアアフター」

2011-03-07 01:12:20 | 遥かなる銀幕の世界
今のクリント・イーストウッド監督だから撮れた作品。観客に媚を売ろうというガツガツした気配は全くなく、作りたい作品を提供したという感じが伝わる。作品全体に余裕がある。しかも、総指揮はスティーブン・スピルバーグだったのね、エンドロールで初めて知った。ふふん、お二方とも、余裕、余裕ですね。

死後というよりは死の入り口の世界、悩める霊能者とエセ霊能者たちの対比、チャールズ・ディケンズ、ラリ中の母親といかにもけなげで子供らしい子供(今どき、こんなに子供らしい子供がいるのか!)、正論が正しいという信仰をもつジャーナリスト、失業の危機、津波という自然災害と地下鉄テロという人災……などなど、イーストウッドのこだわりがてんこ盛りに盛られた作品だったと思う。

その意味では忙しい映画といえるが、しかしその展開は穏やかで淡々としている分、一般受けという点ではイーストウッド自身、全く期待していなかったろう。ダーティーハリー以降であっても、イーストウッド作品それぞれには個人的に好き嫌いがあるが、これは好きな部類に入る。(ちなみに印象に残っているワースト映画としては「マディソン郡の橋」。もっともこれは原作も嫌いだ。観ていて(読んでいて)苛々する。まさに、男が作った(書いた)男のための映画、という点で、連れ合いと同意したものだ。)

この映画で笑える箇所は一か所だけある。あくまでも個人的に。フランスでは有名ジャーナリストでキャスターのマリーが、約束だったミッテラン関連本の執筆を差し置き、自らの臨死体験を出版したいとテレビ局のプロデューサーに激しく主張した時のこと。「そんなものは英語で書いてイギリスかアメリカで出版しろ」と毒を吐かれる件。

ははは、確かに~と、その時は思わず声を出して笑ってしまった。その時は、こういった系統の本は圧倒的に英語圏の出版が多いのは確かだわね、そのことをイーストウッドは自虐的に揶揄しているのかなと受け止めたのであったが、観終わって思い起こすとそれは逆なのではないかと思えてきた。

そういう毒を吐いたのは、フランスの、リベラルで硬派な政治番組を作るインテリなプロデューサー。このような人物を通してこのようなセリフを言わせたのは、もしかしたら通俗的なポストモダニズムに対する揶揄だったり、とみるのは深読みしすぎだろうか?いや、そうだ、そうに違いないと、作品全体を振り返ってみると、やはりそう思う。

あと、マット・デイモンの髪が若干霜降りになっていたのには(光の当たり具合ではないよね、きっと)、ああ無常。同世代の俳優が年をとってゆく姿をみるのは、いい気分だ。自分も確実に年をとっていっていることを目の当たりにさせてもらえて、これがなぜだか私には嬉しいのである。