はまるのが怖くて、敢えて避けているもののひとつに落語がある。落語文化の存続を、と懸命になっている方々には申し訳ないけれども。
本日公開の「幕末太陽傳」、日活創立100周年記念特別上映を有楽町で観た。古典落語の「居残り佐平次」をベースに制作された映画という。「映画界至宝のエンターテイメント」とチラシにある。本当にそのとおりだった。まず、キャストがすごい。脇役に至るまで名優ぞろいだ。ただ、皆さんあまりにお若くて(1957年公開)、脇役の中で実際に観て判ったのは西村晃と菅井きんさんだけだった…。とくに菅井きんさん、当時からそのまま「菅井きん」で、それは本当に凄すぎ。しかし今は亡き俳優さんの方が圧倒的に多く、寂しい。
舞台は幕末、品川の女郎宿。いわゆる特殊な世界でしか使われない用語もあって、言葉を理解するのが難しい。昭和32年の観客に向けて書かれた脚本、しかも幕末を描いた映画、という面からしても、難しい。テアトル新宿では英字幕付き上映もあるらしいけれど、日本語字幕もあった方がいいとさえ思う。特に若い人にも観てほしいのであれば。あ、でも、日本語字幕があってさえ、意味不明といわれるかもしれない言葉も多いかも。
いつか、落語家の方とか、江戸文化に詳しい方と懇意になることがあったら聞いてみたいことがひとつある。それは、落語などによくみられる、死をも笑い飛ばす、というエピキュリアン的なパワーの源は何に由来するのか、という質問だ(どなたかご教示くだされば幸甚です)。もっとも、返ってくる答えはすでに予想できている。「んなことも分からねぇやつぁ、豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ」。
「幕末太陽傳」でも、死を笑い飛ばすという精神は生かされている。たとえば、壊れてバラバラになった使い古しの棺桶の木片を手にしながら、佐平次はそれらで割り箸を作って売るのだという。おいおい冗談じゃないよ、そんな箸で飯が食えるかってんだ、と観る者の笑いを誘う。居残り佐平次役のフランキー堺の好演が光る。ほとんど最後の正統派喜劇役者、といえる人なのではないかな。川島雄三監督も、凄い!
ラストシーンで、主人公の佐平次が「地獄も極楽もあるけぇい、オレぁ生きるんでぃ」(だったかな)といい、横浜に向かって走ってゆく。このシーンは、私にはチャップリンの「モダンタイムス」のラストと重なる。佐平次は病もち、チャップリンは貧困、というマイナスを背負った主人公たちが、それでも道をまっすぐ歩んでゆくという点で共通している。
こういった、生の讃美も悪くない。佐平次と「モダンタイムス」のチャップリン両者に共通していることが、他にまだある。それは、どちらも背負ったマイナスを凌駕するほどの強さを兼ね備えている主人公、ということだ。その強さとは、たとえば頭が良かったり、要領がよかったり、という具合に。そういった、ドラマの主人公たちの強さ逞しさは魅惑的だ。観ていて、痛快。でも、私はそのようなドラマの観衆者にしかなれない。彼らは英雄だもの。たとえそこに、「庶民の」という冠がつくとしても。彼らは私とは住んでいる世界が違うという気がする。
キルケゴールほどの、不健康な領域に入り込んでしまっている強烈なネクラ(死語?)にも私はなれない。ドストエフスキー風の破滅的な人生も耐え難い。私の絶望は、カフカのそれと波長が合うという気がする。カフカにとって絶望は、するものではなく、襲われるものなのだろう。カフカの絶望には強さが感じられない。弱々しい。それでいて、あの『城』の、自己には制御不可能な、めまいがするほどの不条理感。昼寝でみる悪夢のような不快さ。『変身』の顛末は、淡々とした筆致の中に日常の残酷が潜む。それは『審判』の処刑場面より、実はもっと残酷だ。
本日公開の「幕末太陽傳」、日活創立100周年記念特別上映を有楽町で観た。古典落語の「居残り佐平次」をベースに制作された映画という。「映画界至宝のエンターテイメント」とチラシにある。本当にそのとおりだった。まず、キャストがすごい。脇役に至るまで名優ぞろいだ。ただ、皆さんあまりにお若くて(1957年公開)、脇役の中で実際に観て判ったのは西村晃と菅井きんさんだけだった…。とくに菅井きんさん、当時からそのまま「菅井きん」で、それは本当に凄すぎ。しかし今は亡き俳優さんの方が圧倒的に多く、寂しい。
舞台は幕末、品川の女郎宿。いわゆる特殊な世界でしか使われない用語もあって、言葉を理解するのが難しい。昭和32年の観客に向けて書かれた脚本、しかも幕末を描いた映画、という面からしても、難しい。テアトル新宿では英字幕付き上映もあるらしいけれど、日本語字幕もあった方がいいとさえ思う。特に若い人にも観てほしいのであれば。あ、でも、日本語字幕があってさえ、意味不明といわれるかもしれない言葉も多いかも。
いつか、落語家の方とか、江戸文化に詳しい方と懇意になることがあったら聞いてみたいことがひとつある。それは、落語などによくみられる、死をも笑い飛ばす、というエピキュリアン的なパワーの源は何に由来するのか、という質問だ(どなたかご教示くだされば幸甚です)。もっとも、返ってくる答えはすでに予想できている。「んなことも分からねぇやつぁ、豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ」。
「幕末太陽傳」でも、死を笑い飛ばすという精神は生かされている。たとえば、壊れてバラバラになった使い古しの棺桶の木片を手にしながら、佐平次はそれらで割り箸を作って売るのだという。おいおい冗談じゃないよ、そんな箸で飯が食えるかってんだ、と観る者の笑いを誘う。居残り佐平次役のフランキー堺の好演が光る。ほとんど最後の正統派喜劇役者、といえる人なのではないかな。川島雄三監督も、凄い!
ラストシーンで、主人公の佐平次が「地獄も極楽もあるけぇい、オレぁ生きるんでぃ」(だったかな)といい、横浜に向かって走ってゆく。このシーンは、私にはチャップリンの「モダンタイムス」のラストと重なる。佐平次は病もち、チャップリンは貧困、というマイナスを背負った主人公たちが、それでも道をまっすぐ歩んでゆくという点で共通している。
こういった、生の讃美も悪くない。佐平次と「モダンタイムス」のチャップリン両者に共通していることが、他にまだある。それは、どちらも背負ったマイナスを凌駕するほどの強さを兼ね備えている主人公、ということだ。その強さとは、たとえば頭が良かったり、要領がよかったり、という具合に。そういった、ドラマの主人公たちの強さ逞しさは魅惑的だ。観ていて、痛快。でも、私はそのようなドラマの観衆者にしかなれない。彼らは英雄だもの。たとえそこに、「庶民の」という冠がつくとしても。彼らは私とは住んでいる世界が違うという気がする。
キルケゴールほどの、不健康な領域に入り込んでしまっている強烈なネクラ(死語?)にも私はなれない。ドストエフスキー風の破滅的な人生も耐え難い。私の絶望は、カフカのそれと波長が合うという気がする。カフカにとって絶望は、するものではなく、襲われるものなのだろう。カフカの絶望には強さが感じられない。弱々しい。それでいて、あの『城』の、自己には制御不可能な、めまいがするほどの不条理感。昼寝でみる悪夢のような不快さ。『変身』の顛末は、淡々とした筆致の中に日常の残酷が潜む。それは『審判』の処刑場面より、実はもっと残酷だ。