Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

「幕末太陽傳」

2011-12-23 22:49:14 | 遥かなる銀幕の世界
はまるのが怖くて、敢えて避けているもののひとつに落語がある。落語文化の存続を、と懸命になっている方々には申し訳ないけれども。

本日公開の「幕末太陽傳」、日活創立100周年記念特別上映を有楽町で観た。古典落語の「居残り佐平次」をベースに制作された映画という。「映画界至宝のエンターテイメント」とチラシにある。本当にそのとおりだった。まず、キャストがすごい。脇役に至るまで名優ぞろいだ。ただ、皆さんあまりにお若くて(1957年公開)、脇役の中で実際に観て判ったのは西村晃と菅井きんさんだけだった…。とくに菅井きんさん、当時からそのまま「菅井きん」で、それは本当に凄すぎ。しかし今は亡き俳優さんの方が圧倒的に多く、寂しい。

舞台は幕末、品川の女郎宿。いわゆる特殊な世界でしか使われない用語もあって、言葉を理解するのが難しい。昭和32年の観客に向けて書かれた脚本、しかも幕末を描いた映画、という面からしても、難しい。テアトル新宿では英字幕付き上映もあるらしいけれど、日本語字幕もあった方がいいとさえ思う。特に若い人にも観てほしいのであれば。あ、でも、日本語字幕があってさえ、意味不明といわれるかもしれない言葉も多いかも。

いつか、落語家の方とか、江戸文化に詳しい方と懇意になることがあったら聞いてみたいことがひとつある。それは、落語などによくみられる、死をも笑い飛ばす、というエピキュリアン的なパワーの源は何に由来するのか、という質問だ(どなたかご教示くだされば幸甚です)。もっとも、返ってくる答えはすでに予想できている。「んなことも分からねぇやつぁ、豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ」。

「幕末太陽傳」でも、死を笑い飛ばすという精神は生かされている。たとえば、壊れてバラバラになった使い古しの棺桶の木片を手にしながら、佐平次はそれらで割り箸を作って売るのだという。おいおい冗談じゃないよ、そんな箸で飯が食えるかってんだ、と観る者の笑いを誘う。居残り佐平次役のフランキー堺の好演が光る。ほとんど最後の正統派喜劇役者、といえる人なのではないかな。川島雄三監督も、凄い!

ラストシーンで、主人公の佐平次が「地獄も極楽もあるけぇい、オレぁ生きるんでぃ」(だったかな)といい、横浜に向かって走ってゆく。このシーンは、私にはチャップリンの「モダンタイムス」のラストと重なる。佐平次は病もち、チャップリンは貧困、というマイナスを背負った主人公たちが、それでも道をまっすぐ歩んでゆくという点で共通している。

こういった、生の讃美も悪くない。佐平次と「モダンタイムス」のチャップリン両者に共通していることが、他にまだある。それは、どちらも背負ったマイナスを凌駕するほどの強さを兼ね備えている主人公、ということだ。その強さとは、たとえば頭が良かったり、要領がよかったり、という具合に。そういった、ドラマの主人公たちの強さ逞しさは魅惑的だ。観ていて、痛快。でも、私はそのようなドラマの観衆者にしかなれない。彼らは英雄だもの。たとえそこに、「庶民の」という冠がつくとしても。彼らは私とは住んでいる世界が違うという気がする。

キルケゴールほどの、不健康な領域に入り込んでしまっている強烈なネクラ(死語?)にも私はなれない。ドストエフスキー風の破滅的な人生も耐え難い。私の絶望は、カフカのそれと波長が合うという気がする。カフカにとって絶望は、するものではなく、襲われるものなのだろう。カフカの絶望には強さが感じられない。弱々しい。それでいて、あの『城』の、自己には制御不可能な、めまいがするほどの不条理感。昼寝でみる悪夢のような不快さ。『変身』の顛末は、淡々とした筆致の中に日常の残酷が潜む。それは『審判』の処刑場面より、実はもっと残酷だ。

「フィオナの海」とトロウと

2011-12-18 16:55:34 | 遥かなる銀幕の世界
昼に民俗学的な話題に触れ、再び自らも映画「フィオナの海」がどうしようもなく観たくなってしまった。それを今、観終わったところ。

映画「フィオナの海」は、元来スコットランド・オークニー諸島の伝説を、アメリカ人が、アイルランドの孤島ローン・イニッシュを舞台に話を置き換えた形で制作された映画だ。

残念ながら今、この映画、日本でなかなか観られないのではないだろうか。少なくともアマゾンでの扱いはVHS、つまりビデオでしか手に入らないようだ。私がその映画を今日の午後鑑賞できたのは、リージョン1版の日本語字幕のないDVDによる。こんないい映画を放っておくなんてどうかしとるぞ、日本の映画ソフト会社。

原作本(日本語訳)は、まだかろうじて手に入るみたい。しかし1957年にイギリスで出版されたという原典(Child of the Western Isles)は、現在英米両アマゾンでも手に入らないようだ。

アザラシの妖精「セルキー」伝説について、大福先生と豆大福が夢中になっていたのはいつの頃だったろうか。この「フィオナの海」という映画か、それともトム・ミュア『人魚と結婚した男―オークニー諸島民話集』(あるば書房、2004年)か、きっかけはどちらが先だったか思い出せないが、とにかくブリトン島周辺の、つまりスコットランドやアイルランドの辺境に今なお生きるセルキー伝説はじめ数々の妖精伝説に夢中になっていったことを思い出す。その時に守護妖精となってくれたアザラシのウィリアムくんは、今、倉庫の中でお休み中。そして、私のウェブ上のハンドルネームの一部であるトロウも、ここら辺りの妖精からもらった名前である。

アイルランドの妖精の中にはプーカ(pooka)と呼ばれる動物(馬、ウサギなど変幻自在)の妖精がいる。ハリウッドでもプーカ・巨大ウサギの妖精と、人のよいエルウッド・ダウドとの関わりを描いた「ハーヴェイ」(Harvey)がジェームズ・スチュアート主演で映画化されている。こちらも大福先生の大のお気に入りの映画で、初見はNYCハーレムの映画館(公開は1950年)だったそうで、その後も繰り返し観て楽しんでいる。主演のスチュアート自身、彼の出演作品の中で一番のお気に入りを公言した映画だ。もちろん私も大好きな映画……なのに、こちらもやはり今、日本では手に入りにくい様子。っもう!ぷんぷくりん。

ジェームズ・G・フレーザー

2011-12-18 12:20:01 | 豆大福/トロウ日記
恩人のご友人、つまり新しく知人になった方から教示いただいた新領域についてのメモ。

私の社会人類学や比較宗教学上の知識など、せいぜいエリアーデやキャンベルをさらりと通過した程度であって、しかも私は彼らにはそれ程興味を持てなかったこともあって(というより、のめり込んだらすごいことになりそうなので敢えて避けていた)、そちらの分野はかなりおざなりとなっていた。そんな折、新・知人からジェームズ・G・フレーザー『金枝篇』の存在を教わったのである。

ちょっと!私ったら、この、19~20世紀に生きたグラスゴー出身の巨人による仕事をこれまで知らなかったとは、なんておバカなのだろう。自分、『金枝篇』(The Golden Bough)、絶対読むべし。とりあえず図書館で和訳本1巻のみ予約完了。しかし全体を読み通すのは、今できない。当面「積ん読ジャンル」に入れられてしまうのだろうなあ、これも。

ところでランの記録、30分/5キロまであと2分というところまで迫ってきた。ビギナーのうちは、慣れるにつれスピードを上げてゆくのもそれほど難しいことではないのかもしれない。コスプレ・ラン実現まで、そう長くかからない?それとも、ここからが長いのかな、つまり、今の程度から「5キロを30分で楽に」の状態になるまでが。

実はコスプレというより、チャリティーランの方に興味があるのだけれど、フルマラソンとかでなく、5キロとか10キロのお気楽市民ラン大会でお手軽金額のチャリティー大会があるともっといいのに、と思う。しかも近場で。その点は、海外の方が充実しているのかな。

そうそう。今日の朝日新聞朝刊読書面では、ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』が先週に引き続き紹介されている。荻野アンナ氏の解説により、ルネサンス期、「罵倒も皮肉も褒めそやしも、すべてやり過ぎ」な医者で修道士のラブレーが、いかにおバカを真面目に追究したか、「笑いを武器に命がけで時代に立ち向かった」かが伝えられている。

真面目に追究したいことが他に多くあり余るほどあるので、私はラブレーにはなれないけれども、「権威をひっくり返して笑わせるのはギリシャ・ローマ以来の伝統」との荻野氏の言葉に深く共感しつつ、その伝統の片鱗をちょっぴりでも自分で体現できたら、と思う。

サンセール

2011-12-13 16:35:25 | 豆大福/トロウ日記
近日、恩人の方がサンセールのワインをご馳走して下さるという。私には不相応にお高そうなワインをいただくとなれば、それに備えて少しは予習しておかないと失礼、ということで、今回はフランスに関する話題を。

まず、ネットで「サンセール」を検索してみる。フランスのサンセール・コミューン、人口1789人(2006年)とある。少っ!と思ったが、フランスに3万8千あるというコミューン(いわゆる市町村)の平均人口が約1500人であったとは。フランスの実際について、こんなことも知らない自分は何て頭でっかちな人間なのだろうと、つくづく反省。

フランス人の、食やワインにかける情熱の凄まじさをいろいろな人たちから伝え聞いてはいたし、ワインを生産することで多くの修道院が財政を保っていたことは有名だ。

しかしサンセールって、日本にもたくさん存在するのね、サンセール○○という形で。昨日の報道番組で、埼玉県の深谷ネギを世界に向けてブランド化したいと、TPPとの関連で市長が言っていたが、たとえばこのネギが深谷○○と太平洋間で使われるようになったならば、TPP参加も悪いことばかりでなかったねといえる日がくるのだろうか。

フランスに関しては、個人的にネガティブな印象が、一点だけある。それを告白すれば、「フランス人とは生議論したくない」だ(笑)。だって長いんだもん。放っておけば一晩でも二晩でも続くんじゃないのっていう長い議論好き、という印象がある。これまでのフランス人(系)との少ない関わりの体験で得た私の独断と偏見によれば、そんな印象を抱かずにはいられないのだ。フランス人との議論は紙媒体限定で願いたい、という思いが、それは単なる偏見だったと思い直せる日がくるのか、(こちらは来ないような気がする)。

その一点を除けば、やはりフランスもまた、私にはいろいろな魅力を放つ国であることは間違いない。さしあたり訪れなくてはと思うのは、中世カタリ派の聖地モンセギュールとか、ポルトガルまで続く巡礼路カミーノ・デ・サンティアゴはじめ様々な聖地、南ではニース郊外のマティスのロザリオ礼拝堂とか……うーん、挙げていけばきりがなくなる。やはり、キリスト教研究とかケルト文化研究とか、とにかく宗教学目線中心になってしまうことは確かなのだろう。

「コレリ大尉のマンドリン」

2011-12-09 12:31:27 | 遥かなる銀幕の世界
私はギリシャ人やイタリア人(「系」の人々を含めて)の人々を、直接的間接的に何人か知っている。そしてドイツ人(「系」を含む)については、それらの人々よりも多くの人を知っているだろう。彼らの背負う歴史や文化について、これまでそれらの人々から、そして彼らの地の書籍からいろいろと学んできたし、これからも私は深く学ばねばならない立場にあると思っている。神学を専攻する者として。

そうであるにもかかわらず、私はギリシャにもイタリアにもドイツにも、実際に行ったことはない。将来には他の地も含め、これらの地もまた実際に訪れなければならないと思っているが、さしあたりの疑似体験として映画を観るという手段は大変ありがたい。

「コレリ大尉のマンドリン」。この映画は、そういった私の需要に対して多くを供給してくれる。第二次世界大戦時、イタリア軍の占領下にあったギリシャの小島で実際に起こった悲劇、それに、歌と音楽をこよなく愛するイタリア人大尉と生真面目で清楚なギリシャ娘との恋愛を重ねて描いた映画だ。それをニコラス・ケイジとぺネロペ・クルスが見事に演じている。

イタリア軍による占領、とくにコレリ大尉の配下によるギリシャの離れ小島での占領は、形の上では占領だが、実際は、飲んで歌って海岸で日光浴の生活という、私たちが通常「イタリア人の生活」から思い浮かべる典型的な日常の延長が描かれている。

限られた生の中で、享楽の大切さを信条とするコレリ大尉と、イタリアとの同盟国、というよりは主従関係にあったナチス・ドイツとの対比が見事だ。原作は英国でベストセラーとなった小説だそうなので、いつかこちらも読んでみたいと思う。

寝坊の土曜の朝に

2011-12-03 13:26:46 | 豆大福/トロウ日記
朝食後、コーヒーを飲みながらぼんやりとテレビを観ていたら、バラエティー番組で、それは所ジョージの「笑ってこらえて」だったようだ。

ちょうど私が観た場面は、ブラジルのサンパウロからの映像だった。ゴスペル歌手グループとしてデビューする面々が、教会で新作を披露するという。

私はポルトガル語ができないので字幕に頼って聴いていたところ、なんとその歌詞、「主の祈り」そのものではないか。

かつてこれまで、ゴスペル音楽を生で聴いたことは数回ある。それは米国ニューヨーク近辺の教会であったり、あるいは日本の教会でだったが、しかし「主の祈り」そのものがゴスペル音楽と化していたものは、私は聴いたことがない。

限られた私の体験によれば「主の祈り」とは、礼拝や聖餐式の前に牧師や司祭とともに会衆者全員が、とつとつと静かに唱えるものであった。それが、だ。ブラジル・サンパウロの教会、おそらくカトリック教会と予想されるが、そこでは「主の祈り」が、生きた音楽として表現されている現実があった。感動した。今まで自分が耳にしたどのゴスペル音楽よりも、それは素敵で新鮮だった。