Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

「アメイジング・グレイス」

2011-03-28 01:31:23 | 遥かなる銀幕の世界

ウィリアム・ウィルバフォース、日本では、そして本国イギリスにおいてさえそうらしいのであるが、この人物がイギリスにおける奴隷貿易廃止のために生涯を捧げ、ついに奴隷貿易廃止法の成立を成し遂げた英国の議員であることはあまり知られていない。

私がウィルバフォースの名を知ったのは、ジョン・ウェスレー研究を通してのことであった。ウェスレーが亡くなる6日前に書かれた最後の手紙は、議会に奴隷解放法案を提出せんとする若きウィルバフォースにあてた激励であった。そしてウィルバフォースは、ウェスレーの死の翌月に最初の議案を提出した。ウィルバフォースは32歳の若さであった。もっとも、議員になったのも21歳と、非常に若い。ケンブリッジ大学在学中に議員になった、ということになるのかな(未確認)。

「アメイジング・グレイス」がウィルバフォースを描いた映画だと知ってから、これは是非とも観に行かなければとその機会をうかがっていた。しかしその後、震災が起こったりでなかなか行けずにいた。上映館の銀座テアトルシネマの映写機も地震で破損したとのことで、半ば諦めていたのであるが、今日、やっと観に行くことができた。ありがたいことだ。

以下、鑑賞の感想を徒然に記す。

●福音主義的信仰と政治
ウィルバフォースは、一度は政治の道を断ち、聖職者になりたいと迷った時期があったほどに敬虔な信仰の持ち主であった。当時のイギリスの「福音伝道派」について、パンフレットの中で近藤和彦東京大学教授が解説して下さっている。こうした人たちとウィルバフォースは活動を共にしたわけであるが、ジョン・ウェスレーのメソジスト運動もまた、しばしば福音リバイバル運動と称される。

しかし、ウェスレーの宗教運動が福音主義であったというときに、しばしばウェスレーの思索や活動とは異なった、ある場合には正反対の態様として理解されることが多いことには違和感を覚えるし、同時にそれは憂鬱でもある。

今の日本において福音主義というとき、それはしばしば、信仰には理性ではなく聖霊が優先する立場であると考えられる場合が圧倒的に多い。しかも私の実感からすると、その福音主義とは20世紀アメリカのビリー・グラハム系の、あるいはもう少し時代を遡ってジョナサン・エドワーズの大覚醒時代から受け継がれてきた福音主義のバイアスがすでにかけられたものであったり、さらにはジョン・ウェスレーと同時代のジョージ・ホィットフィールドのカルヴァン主義的メソジズムのそれであったりする。それらもまた、一時代(そして現在にわたる)福音主義のあり方には違いないが、しかしそれらでもって、福音主義一般を表せられるとは到底言えないのである。

少なくとも、ウェスレーのメソジズムはそれらの福音主義とは趣を異にする。たとえば、ウェスレーが「聖霊」について言及するとき、それは20世紀アメリカの福音派のいう「聖霊」とはかなり違った趣をなしている(ここに踏み込んでいくと、本が一冊書けてしまうほどなので、ここらでやめておく)。

この映画に話を戻すと、当時のイギリスにおいて、福音主義派の人々がどのようであったかが映像でもって如実に示されていること、そのことに最大の敬意を表したい。福音的信仰は、そのまま成熟した民主政にも深く結び付き得たのである。二〇世紀以降のポストモダニズムの一様として、「世俗の時代」と称されることは多いが、世俗の時代はすでに18世紀イギリスでは到来していたのであり、それ自体が(ポストでない)モダニズムの特徴でもあるのである。

●変革への情熱は熱情とは違う
奴隷貿易廃止のためにウィルバフォースが提出した廃止法案の回数は、実に5度を超える。提出のたびに否決され、的外れな中傷を浴びせられ、裏切りにもあい、残酷に命を落としてゆくアフリカ人を思いまた自らの無力への嘆きから、病(胃潰瘍?)の痛みに七転八倒した。

そのような経緯を経て奴隷貿易廃止法をついに成立させたのは、ウィルバフォースの情熱のたまものである。しかしそれは、がむしゃら向う見ずな熱情とは違う。彼らはただひたすらに「聖霊の働きに盲目的に従った」、あるいはいわゆる「祈るのみ」ではなかった。忠実にサポートしてくれる友人たち、良きパートナーとしての妻の愛情、信頼のおける親友で首相となったウィリアム・ピットの存在、それらに加えて、実に巧妙な、「理性をフル稼働させた」手段でもって法案通過にこぎつけたことをこの映画は語っている。

パンフレットでは、マイケル・アプテッド監督などにしばしば言及されているとおり、この物語は今、まさに私たちが直面する問題と共通する。「この映画はただの歴史ではなく、現代社会にも通じる物語だと思っている。(中略)この映画を観てまずは知ること、そしてやろうと思えば何とかなる、と思うかどうかが大事だと思う。」

奴隷貿易廃止法案が何度も否決されたのは、それによって経済的に大損する資本家とつるんだ議員の反対によって、である。それを、ウィルバフォースたちはどのように覆したか。その方法はといえば、個人的にカタルシスさえ覚えたくらいだ。しかしながら命よりも金が大事なのはいつの時代も変わらないなと、ここで私は、今まさに私たちの社会が直面する原子力政策に思いを至らせた。そういった観点からも、是非多くの方々に見ていただきたい映画である。銀座では4月15日までと終演日が迫っているので、東京近郊の方々はお早めに。その後、全国で公開されてゆくらしい。私も是非、もう一度見てみたい。

最後に、パンフレットにあったウィルバフォースの言葉で締めくくるとする。
「見解の違いは仕方ない。だが知らなかったとは絶対に言わせない。」

節電プラス「この際だから」の提言

2011-03-25 20:53:56 | 豆大福/トロウ日記
節電の提案、と同時に、これまでのかなり苦労した困った経験と合わせて、次の提案をしたい。デパートやショッピングモール・大型店舗などの商業ビル、各駅にあるエレベーターは、完全に優先マークに該当する人専用、規模に応じて最小限の稼働にする。その他の人は、エレベーターの使用は禁止する。

これでちょっとは節電になりはしないだろうか?多少の余計な時間はかかっても、エスカレーターの使用で事足りる人たちに、「多少の余計な時間」がかかることを我慢してもらえさえすればいいのだ。実際、エレベーターにのらずエスカレーターを使用する場合にかかる余計な時間とはどのくらいだろうか。せいぜい5分?ある場合には、エスカレーターの方が早いだろう。(個人的な実感としてはむしろエスカレーターや階段の方が早いと思うので、15階くらいまでの規模であれば一人の時はいつもそうしている。)

で、これは節電という現在の実益に通じる提言であるが、この際それに便乗し、従来、切に世間に訴えたかったことをここに重ねて訴えたい。

優先されるべき人以外の人たち、そのような場所でのエレベーターの使用は止めとくれ。というより、このご時世なので、管理責任がある側がエレベーターの使用を制限することを始めてほしい。今なら堂々と「節電のため」って言えるでしょ。

とくに、車イスやベビーカーなど乗り物系を必要とする者たちの、エレベーターに乗る苦労を分かってほしい。やっと来たと思ったら、すでに満員はざら。よほど空いていない限り、エレベーターの3台待ちなど当たり前に覚悟しなければならない。トイレのために他階に移動する必要があるときなど、本当に切実である。しかも3,4台並行して稼働している場合には、そのたびに、よっこらしょと車イスやベビーカーを到着予定の台の前まで移動させなくてはならない。ひどい場合には、すでに乗っている先客が必死に閉ボタンを押していたりする。

経験上、優先マークのついた台に限っては、ドアが開いて車イスの人物が待っていた場合に、健康そうな先客がわざわざエレベーターを降りてくれたことが1,2回はあっただろうか。マークがついていない場合には、私の経験では、そのようなことはゼロだったと思う。

そして今、地下鉄駅などでは比較的短めのエスカレーターが節電のために停止されているところがある。私の懸念は、このことによって、階段を嫌う人々がエレベーターに向かい、エレベーターを真に必要とする人々が益々不便を被っているかもしれないということだ。

一見、優先者に見えない人が駅やデパートなどのエレベーターに乗っていたら、「この人、実は体の調子が悪いのだろうな」と気遣うのが普通になるくらい、優先者に該当しない人はエレベーターに乗らないのが普通な社会になってほしいと願う。

科学者とイデオロギー

2011-03-23 17:38:07 | 豆大福/トロウ日記
「科学者よ、もっと前へ」(朝日新聞3月23日朝刊)、田中幹人早稲田大准教授の発言に、かつて自分が青年時代に思い至らせていたことが思い起こされた。話の大筋はタイトル通り、昨今のようにネットで情報が飛び交っている中、人々は科学的に正確な情報を欲しているのだから、このような時にこそ専門家が積極的に率直な意見を語るべき、という内容である。それはその通りだが、私が注目したのはその続きである。

「科学とはある種の『権力』です。私たちは政府の発表は疑っても、『科学的に言えば』と語られると説得力を感じてしまう。でも、科学者の中にも議論はあるし、科学者も自分のイデオロギーに影響されています。」しかしながら、科学者たちの意見が重なる部分も多く、一致した科学的前提とともに異なる科学的解釈を伝えるのがジャーナリズムであると続く。

「科学者も自分のイデオロギーに影響されている」、このことを、現在の日本の科学者たちはどう捉えているのだろうか。

大抵は今でもそうであろうが、高校生が将来の進路を決める際には、理系に進むかあるいは文系にするかということをまずは大枠で考えるものだ。私の場合もそうだった。私はこれでもせっかちな性分なので、解決までに時間のかかる(特に学問の場合、その結論に至るまでの形而上学に費やさなければならない悶々とした時間の長さには耐えられそうにない)数学はあまり好きとはいえなかったが、よりフィジカルな事象を扱う(ようにみえた)物理や生物や地学はかなり好きだったのである。

それなのに、理系に進むのは止めておこうと早々に決めていた。なぜか。あくまでも自分の世界内であることを限定した上ではあるが、当時、日本の科学者たちの科学信仰は盲目的で、それが怖かったからである。

つまり、上の田中氏の言葉でいえば、科学者も自分のイデオロギーに影響をされているということをまるで知らないかのように、あるいは知っていても忘却しているのかもしれないが、「科学的」であることがもっとも正しいことであるかのように科学を語る科学者しか、私の知る範囲にはいなかったのである。それは、たかだか一高校生のみる狭い世界だからだったのかもしれない。しかし当時の私は、そういう世界に入って、将来そのような人たちと仕事をしてゆかねばならないのは耐えられないと思えた。

その、科学者たちの意識は、今では、私の青年時代と変化しただろうか。それを知る術を私はほとんど持たないけれど、少なくとも、上の田中氏のような科学ジャーナリズム論を語る人物が今ではいることが分かって、少しばかり嬉しくなったのである。

ちなみに、なぜこのような文章をここに記すのかといえば、それは、実存論的神学が扱う「次元的思考」の論理と深くかかわるからである。

『十字架と蓮華』、ありました

2011-03-18 18:47:24 | 豆大福/トロウ日記
たまたま検索でひっかかったのだが、私が落札すべきでないので、落札したい欲望を抑えつつ広く公共にご案内する。

野呂芳男『キリスト教と民衆仏教――十字架と蓮華』、日本キリスト教団出版局、1991年

楽天オークション、2011年3月18日18時50分現在、2,500円。開始価格&即決価格。あと6日。
かなり太っ腹な(ていうか…この先は言うまい)価格設定に、感謝!?

なお、オークションの取引に関して当ブログは一切責任を負いません。ご案内のみ、あしからず。

生きている人たちへ

2011-03-16 14:36:07 | 豆大福/トロウ日記
南相馬市に暮らす友人夫妻との連絡がいまだにつかないでいる。災害伝言ダイヤルでも、グーグルの人探しサイトでも。どうか生きていて。落ち着いたらまたお会いして、お茶を嗜みながら共に夢を語りたいのです。

このような未曾有の大災害の前に政権交代を果たしていたことは、この状況の中で大いに意味がある。実存論的神学からすれば「天罰」などあり得ないのであるが、天罰発言にみられる都知事の統治能力は問題外として、政府はじめ行政に携わる立場にある政治家の皆さんは、身を粉にして奉仕なさっている。とくに菅首相は国民目線でのリーダーシップを発揮されている。

被災地の方々の苦難に比べれば、ほとんど何の変化もない私の生活。この災害に際し、寄付金で貢献するしかないところ、しかしながら日々経済的にかつかつで過ごしている者たちにとっては、その寄付金での貢献も微々たるものが精一杯である。では、そういった「無力な」私たちにできることとは何か。

普段の生活を続けることに尽きる。燃料や食料品の買い占めや、ネット上でのデマ、デマごときの情報が溢れている中、普段よりも頑張らなければ普段の生活を送ることができない状況だ。だから、普段の生活を送るということを今、特に意識しながら普段の生活を送ることが肝要である。

具体的には、緊急事態発生時を除き、無駄な情報を目にしない。頑張って、テレビを見るのも普段通りの時間にする。だらだら見続けないこと。こういう時こそ、新聞というメディアが有用だ。より正確で練られた情報が提供されるからである。

もう一つは、頑張って、政府を信頼すること。普段、私たちは、民主的な選挙によって私たちの暮らしを政権に委ねたことを忘れがちに生活している。今、頑張って政府を信頼せよというのは、自分たちの選択した現政権への信託は、普段は意識下に隠されてしまっているけれども、この非常時においてはことさらそれを意識の上に乗せよということにすぎない。少なくとも今は、何らかの不手際があったとしても、専門家集団に対しして批判をしてはならない時である。

このような時にこそ、頑張って普段通りにしようとしているメディアは、私の周辺ではテレビ東京とラジオ番組だ。テレ東、昨日は午後に「ユー・ガット・メール」を放映してくれた。定番メグ・ライアン&トム・ハンクスのラブコメで、舞台はNYマンハッタン、交わされる軽妙な会話。連れも私も大好きなニューヨーク、大型書店と街角の小さな本屋さん、カフェ……前から予定されていたのか偶然なのかは知らないが、とてもいい選択で、私もこの作品を久しぶりに楽しんだ。

さて、私も自分のすべき仕事に戻らないと。

ご先祖様供養の日

2011-03-10 23:13:25 | 豆大福/トロウ日記
あー歩いた。目いっぱい、歩いた。ご先祖さまの供養のために。今日は3月10日ですから。東京大空襲の日ですから。

ここ数年は、慰霊のために外出することがなかなかできないでいた。だから今日は、一人になってしまった分、目いっぱいご先祖様にご挨拶しに行くことにした。

3月10日の命日の日、両国にある東京都慰霊堂を訪れなくなって久しい。ご先祖さまたちのお骨は、物理的にはおそらくそこの敷地内に埋葬されているはずだ。記録でもそうなっている。しかしこの日に限っては、私たちはそこにはお参りにいかないことになっていた。とくに、やれ徴兵制にすべきだとか核武装をすべきだとかいうことを平気でいう人物が都知事になってからは、参列する気がしないのである。

それに不愉快になることもう一点、当日には、祭壇のもっとも中央に近いところに皇族から贈られた花輪が、いかにも恭しく置かれるのである。どこか末席に近く、ひっそりと置かれるならまだしも(それでもいい気はしないだろう)。贈る側もそれを恭しく中央に飾る側も、一体誰のせいで下町が炎に包まれることになったのか、その時アメリカ軍が何を狙って下町に焼夷弾の雨を降らせたのかということに少しでも思いを至らせれば、とてもでないがそんなことはできないはずなのに。最近は行かないので知らないが、今でもそうなのだろうか。

それなので、この日は大概墓参りをすることにしていた。今日も青山霊園で墓参りをすませ、そのあとは東京大空襲・戦災資料センターへ。半蔵門線が延長され、青山一丁目から住吉まで直通、便利になった。早乙女勝元さんを中心に2002年に完成されたものの、まだ一度も訪れたことがなかったのである。

色々と資料を拝見させていただき、大福先生も手にしたと思われる同じような書類、たとえば「罹災証明書」とか「軍隊手帳」「徴兵検査通達書」……などには、やはり特別な感慨を持たざるを得ない。初めて知ったことに驚いたりもさせられた。予想以上に内容が充実していると感じた。

色々な感慨を胸に留め、いざ去ろうという時、建物入り口に、設立にあたって募金に協力した者の名前が刻まれているとある案内碑に気が付いた。「え、それなら」と思って探したら、……あった!



そういえば「名を刻む」、そのような話だったわね。すっかり忘れていたから、名前を見つけたときには感激。設立にほんの幾分でも貢献できたことがこうして残されて、やっぱり、うれしいなあ。

そういう嬉しさに満たされながら、足は大福先生の実家の方へ、てくてく。とはいっても今では、まったく別人の所有地だけど。猿江神社、摩利支天を回り、実家のあったところに到着。なんとそこの一階には「貸事務所」の募集が。うーん、一瞬そそられる、けど資本がない、どだい無理だ。さてそこらを歩こう。新扇橋、小名木川、ローカルな稲荷社、なんだかほっとする。

ようし、こうなったら歩けるところまで歩こう、目標は隅田川に架かる新大橋。まずは新大橋通りに出て、菊川駅を経て森下駅のL’OiseauBleuでシュークリームを買う。森下を過ぎれば、新大橋はすぐそこだ。橋の真ん中でしばし隅田川を眺め(カモメはいなかった……)、再び歩き出すが、興奮していたのかまだまだいけそう、いっそのこと水天宮まで歩こうかとも思ったけれども、もうとっぷりと日も暮れたし、浜町から地下鉄に乗ることにして帰途についた。

「ヒアアフター」

2011-03-07 01:12:20 | 遥かなる銀幕の世界
今のクリント・イーストウッド監督だから撮れた作品。観客に媚を売ろうというガツガツした気配は全くなく、作りたい作品を提供したという感じが伝わる。作品全体に余裕がある。しかも、総指揮はスティーブン・スピルバーグだったのね、エンドロールで初めて知った。ふふん、お二方とも、余裕、余裕ですね。

死後というよりは死の入り口の世界、悩める霊能者とエセ霊能者たちの対比、チャールズ・ディケンズ、ラリ中の母親といかにもけなげで子供らしい子供(今どき、こんなに子供らしい子供がいるのか!)、正論が正しいという信仰をもつジャーナリスト、失業の危機、津波という自然災害と地下鉄テロという人災……などなど、イーストウッドのこだわりがてんこ盛りに盛られた作品だったと思う。

その意味では忙しい映画といえるが、しかしその展開は穏やかで淡々としている分、一般受けという点ではイーストウッド自身、全く期待していなかったろう。ダーティーハリー以降であっても、イーストウッド作品それぞれには個人的に好き嫌いがあるが、これは好きな部類に入る。(ちなみに印象に残っているワースト映画としては「マディソン郡の橋」。もっともこれは原作も嫌いだ。観ていて(読んでいて)苛々する。まさに、男が作った(書いた)男のための映画、という点で、連れ合いと同意したものだ。)

この映画で笑える箇所は一か所だけある。あくまでも個人的に。フランスでは有名ジャーナリストでキャスターのマリーが、約束だったミッテラン関連本の執筆を差し置き、自らの臨死体験を出版したいとテレビ局のプロデューサーに激しく主張した時のこと。「そんなものは英語で書いてイギリスかアメリカで出版しろ」と毒を吐かれる件。

ははは、確かに~と、その時は思わず声を出して笑ってしまった。その時は、こういった系統の本は圧倒的に英語圏の出版が多いのは確かだわね、そのことをイーストウッドは自虐的に揶揄しているのかなと受け止めたのであったが、観終わって思い起こすとそれは逆なのではないかと思えてきた。

そういう毒を吐いたのは、フランスの、リベラルで硬派な政治番組を作るインテリなプロデューサー。このような人物を通してこのようなセリフを言わせたのは、もしかしたら通俗的なポストモダニズムに対する揶揄だったり、とみるのは深読みしすぎだろうか?いや、そうだ、そうに違いないと、作品全体を振り返ってみると、やはりそう思う。

あと、マット・デイモンの髪が若干霜降りになっていたのには(光の当たり具合ではないよね、きっと)、ああ無常。同世代の俳優が年をとってゆく姿をみるのは、いい気分だ。自分も確実に年をとっていっていることを目の当たりにさせてもらえて、これがなぜだか私には嬉しいのである。

ダライラマからの提言

2011-03-02 19:57:29 | 豆大福/トロウ日記
Twitter@DalaiLamaより以下、引用添付。

「主要な宗教が、一連の基本的・普遍的な倫理を採用する重要性について合意に至ることが、私は大事であると思います。」(It seems essential to me that the major religions come to agree upon the importance of adopting a basic, universal, set of ethics.)

このようなことをサラッと言ってしまうところが、当世ダライラマの素晴らしいところなのかもしれない。

究極なシンプルさ、至極真っ当。しかし実現は、大変難しい。なぜなら、基本的な倫理、普遍的な倫理とは何かということを設定するまでの道のりが、途方もなく遠いからだ。

実際、一宗教内、手前味噌でいえばキリスト教であっても、その倫理の普遍性を抽出することは困難を伴う。たとえば、とても狭い、大学の神学部内のコミュニティーでさえ、それを設定することが困難であったのである。当時、子供の虐待が社会問題として大きく取り上げられ始めた頃、アングロサクソン系アメリカ人は、親が子供を叩いて育てるなど言語道断といい、一方(特に父)親が子供を叩いて育てるのは当然だと言い張る、ある文化圏の留学生たち。その対立は、簡単に解消されるものではなかった。

人殺しは悪である。しかしそれが、尊い信念や聖戦のためだったら?そもそも聖戦とは何か?置かれた立場によって、正義や倫理は変化する。

それら相対的な立場を乗り越えて、それでもなお「人殺しは悪である」という倫理基準を設定する重要さを、ダライラマは主張しているのであろう。個人的には、残念ながら、今の時点でそれは難しい理想と言わざるを得ないと思う。それに至るまでの道のりは、あまりにもまだ遠い。私たちにできるのは、現実の彼方におられる愛の存在との対話の内に、世界をとりまく不条理と闘い続けること、それが今のところは精一杯ではないだろうか。

ヒロスさんのお葬式

2011-03-01 22:57:28 | 豆大福/トロウ日記
母が山形の従兄ヒロスさんのお葬式に参加してきたそうだ。ヒロスさんは毎年畑のリンゴを送ってくれて、それが蜜のタップリ詰まったとびきりおいしいリンゴで、そして何より、明るく面白い人だった。特段おちゃらけているわけではなく、むしろとても真面目な人なのだが、なぜかその存在だけで周囲を笑顔にさせる人徳の持ち主。ご冥福をお祈りする。

母の報告を聞き、あまりにも地域による文化の違いにいろいろとぶっ飛び驚いた。まずは参加した親族なる者の数、70人!実はその親族、法的には親族に含まれない人も親族としてカウントされているとしか考えられない人数である。従妹の立場であれば、その中では相当に血が濃いということになったろう。もちろんその他に、一般参列者がその倍以上いる。

次に、その派手な葬儀。私もお邪魔したことのあるその祖父の実家には、庭に稲荷神が祀ってある他、家の中には仏壇が四つほどあったと記憶するが、結局、何宗のお葬式だったのか分からなかった(聞きそびれた)らしい。ただ印象的だったのは、台湾で参加した結婚式みたいにきらびやかだったとのこと。読経したお坊さんも三人とのことだから、シンバルやら木魚やらを交えてさながらミニコンサートか。さぞお布施もはずんだのだろう。

そして見せてもらった携帯写真からも十分にそれが伝わるのだが、皆が異様にハイテンション、異様に明るい。ひょっとしてクライマーズハイ疑似状態かとも思ったりするが、あるいはこれは地域特性なのか、それともヒロスさんの人徳がもたらすものなのか。孫なんか、ピースサインで写真に写っている。当然、参加した母の写真もどれも満面の笑みである。同県出身でご近所のサトーさんによれば、このあたりの葬儀は1週間ぐらい続くらしい。この状態が1週間……。訪問したときには必ず遭遇する「食べろ食べろ攻撃」は予想どおりで、その覚悟はできていた。その際料理を担当するのは女たちであって、彼女たちも大変に違いない。へとへとに疲労困憊するまで大騒ぎをすることが即ち哀悼の意を示す、ということを意味するのかもしれない。

なるべく地味になるべくお金をかけずに、質素に、必ずしも墓にはこだわらない――こういった今時の葬式事情など完全無視、地味葬などどこの話?的な豪快な葬儀の話に、ただ驚くばかりだった。日本は狭いようで広いと実感する。しかしひょっとして、地味葬がトレンドだというのは都会に生活する私の思い込みに過ぎなくて、全国的にみればトレンドでも何でもなく、むしろ地味葬は少数派だったりするのかもしれない。