お題の文句は、日本キリスト教団出版局の新刊書『キリスト教名著案内Ⅰ』(2011年6月20日、収録リストはこちら)の帯に書かれていたものである。実際は、新刊というより復刊。編集者が6人と多めなので当ブログでは省略させていただくとして、本書のジョン・ウェスレー(『キリスト者の完全』)とジョン・ヘンリー・ニューマン(『アポロギア』)の執筆を野呂芳男が担当している。
帯の文句、言い得て妙である。だってさ、大福先生本人さえ、このような文章を寄せていたことをすっかり忘れていたと思う。だから私も、この本の存在を知ったときには「こんな本があったのか!」と、帯の文言そのものの反応をしてしまったのである。
内容は、Ⅰだけで34のキリスト教史上の名著が25名の執筆者によって紹介されている。コンパクトかつ便利な案内書。
それにしても、日本のキリスト教研究者って、つくづく勤勉だったんだなと感心する。たとえば翻訳されている外国語文献――第一資料を含め――の多さからみても、研究者の数の少なさ、もっとひどくいえば層の薄さ(T_T)にもかかわらず、先達は非常に精力的にお仕事をなさってきたといえる。ありがたや。
特段社会的な評価もされず、お金にもならないという、われわれの仕事。それでもこの道で生きてゆきたいと願える者たちだけが、この分野の構成メンバーだ。まあね、「それゆえに」「そうであるにもかかわらず」、どちらが適当な表現かは分からないがとにかく、いろいろと問題を抱えていることも事実である。
たとえば、今私が、「勤勉だった」と過去形で書いた点が、ひとつの問題を提起しているといえよう。つまりこれは現在の研究者たちは勤勉でないということか。いや、それは個人の資質の問題というよりは、状況が勤勉を許さない、というところに問題の根深さがある。ありていにいえば、研究では生活できないのだ。先達の時代はまだ、「われわれの仕事は金にならない」段階に何とか踏みとどまることができていた。しかし今は――そういう状況になってもう久しいが――研究のみでは「食べていけない」状況が、加速度を増して顕著になってきているのである。
このことは何を意味するか。人文研究なんて、文化宗教研究なんて、キリスト教学なんて、こんなものが社会の何の役に立つってんだ、投資する価値もない、との価値観を共有する社会がやがてはどんなしっぺ返しを食らうか。その価値がかけがえのないものであったと社会が気づいたときにはすでに時遅し、という状況が待ち構えていることだろう。……と恨み節を言うのもなんか気分悪いなあ。
しかし、だ。先回のブログ記事のタイトル、「聖書学との対話なき組織神学なんてありえない」に韻を踏んでいえば、「(組織)神学なき伝道なんてありえない」もまた、声を大にして言いたいところだ。であるにもかかわらず、キリスト教会自体が(全部がそうだとはもちろん言わない)、神学研究を軽んじ、ある場合には蔑みさえする現実がある。はっきり言う。まったく、嘆かわしい。
帯の文句、言い得て妙である。だってさ、大福先生本人さえ、このような文章を寄せていたことをすっかり忘れていたと思う。だから私も、この本の存在を知ったときには「こんな本があったのか!」と、帯の文言そのものの反応をしてしまったのである。
内容は、Ⅰだけで34のキリスト教史上の名著が25名の執筆者によって紹介されている。コンパクトかつ便利な案内書。
それにしても、日本のキリスト教研究者って、つくづく勤勉だったんだなと感心する。たとえば翻訳されている外国語文献――第一資料を含め――の多さからみても、研究者の数の少なさ、もっとひどくいえば層の薄さ(T_T)にもかかわらず、先達は非常に精力的にお仕事をなさってきたといえる。ありがたや。
特段社会的な評価もされず、お金にもならないという、われわれの仕事。それでもこの道で生きてゆきたいと願える者たちだけが、この分野の構成メンバーだ。まあね、「それゆえに」「そうであるにもかかわらず」、どちらが適当な表現かは分からないがとにかく、いろいろと問題を抱えていることも事実である。
たとえば、今私が、「勤勉だった」と過去形で書いた点が、ひとつの問題を提起しているといえよう。つまりこれは現在の研究者たちは勤勉でないということか。いや、それは個人の資質の問題というよりは、状況が勤勉を許さない、というところに問題の根深さがある。ありていにいえば、研究では生活できないのだ。先達の時代はまだ、「われわれの仕事は金にならない」段階に何とか踏みとどまることができていた。しかし今は――そういう状況になってもう久しいが――研究のみでは「食べていけない」状況が、加速度を増して顕著になってきているのである。
このことは何を意味するか。人文研究なんて、文化宗教研究なんて、キリスト教学なんて、こんなものが社会の何の役に立つってんだ、投資する価値もない、との価値観を共有する社会がやがてはどんなしっぺ返しを食らうか。その価値がかけがえのないものであったと社会が気づいたときにはすでに時遅し、という状況が待ち構えていることだろう。……と恨み節を言うのもなんか気分悪いなあ。
しかし、だ。先回のブログ記事のタイトル、「聖書学との対話なき組織神学なんてありえない」に韻を踏んでいえば、「(組織)神学なき伝道なんてありえない」もまた、声を大にして言いたいところだ。であるにもかかわらず、キリスト教会自体が(全部がそうだとはもちろん言わない)、神学研究を軽んじ、ある場合には蔑みさえする現実がある。はっきり言う。まったく、嘆かわしい。