Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

「こんな本があったのか!」

2011-06-27 20:00:40 | 豆大福/トロウ日記
お題の文句は、日本キリスト教団出版局の新刊書『キリスト教名著案内Ⅰ』(2011年6月20日、収録リストはこちら)の帯に書かれていたものである。実際は、新刊というより復刊。編集者が6人と多めなので当ブログでは省略させていただくとして、本書のジョン・ウェスレー(『キリスト者の完全』)とジョン・ヘンリー・ニューマン(『アポロギア』)の執筆を野呂芳男が担当している。

帯の文句、言い得て妙である。だってさ、大福先生本人さえ、このような文章を寄せていたことをすっかり忘れていたと思う。だから私も、この本の存在を知ったときには「こんな本があったのか!」と、帯の文言そのものの反応をしてしまったのである。

内容は、Ⅰだけで34のキリスト教史上の名著が25名の執筆者によって紹介されている。コンパクトかつ便利な案内書。

それにしても、日本のキリスト教研究者って、つくづく勤勉だったんだなと感心する。たとえば翻訳されている外国語文献――第一資料を含め――の多さからみても、研究者の数の少なさ、もっとひどくいえば層の薄さ(T_T)にもかかわらず、先達は非常に精力的にお仕事をなさってきたといえる。ありがたや。

特段社会的な評価もされず、お金にもならないという、われわれの仕事。それでもこの道で生きてゆきたいと願える者たちだけが、この分野の構成メンバーだ。まあね、「それゆえに」「そうであるにもかかわらず」、どちらが適当な表現かは分からないがとにかく、いろいろと問題を抱えていることも事実である。

たとえば、今私が、「勤勉だった」と過去形で書いた点が、ひとつの問題を提起しているといえよう。つまりこれは現在の研究者たちは勤勉でないということか。いや、それは個人の資質の問題というよりは、状況が勤勉を許さない、というところに問題の根深さがある。ありていにいえば、研究では生活できないのだ。先達の時代はまだ、「われわれの仕事は金にならない」段階に何とか踏みとどまることができていた。しかし今は――そういう状況になってもう久しいが――研究のみでは「食べていけない」状況が、加速度を増して顕著になってきているのである。

このことは何を意味するか。人文研究なんて、文化宗教研究なんて、キリスト教学なんて、こんなものが社会の何の役に立つってんだ、投資する価値もない、との価値観を共有する社会がやがてはどんなしっぺ返しを食らうか。その価値がかけがえのないものであったと社会が気づいたときにはすでに時遅し、という状況が待ち構えていることだろう。……と恨み節を言うのもなんか気分悪いなあ。

しかし、だ。先回のブログ記事のタイトル、「聖書学との対話なき組織神学なんてありえない」に韻を踏んでいえば、「(組織)神学なき伝道なんてありえない」もまた、声を大にして言いたいところだ。であるにもかかわらず、キリスト教会自体が(全部がそうだとはもちろん言わない)、神学研究を軽んじ、ある場合には蔑みさえする現実がある。はっきり言う。まったく、嘆かわしい。

聖書学との対話なき組織神学なんてあり得ない

2011-06-22 22:45:54 | 豆大福/トロウ日記
佐藤研先生の『はじまりのキリスト教』(岩波書店、2010年)、夢中になって一気に読んでしまったよ。

なんというかこう、溜飲が下がる思いというか。
正確にいえば、前半部分(Ⅰ復活・浸礼・回心――新約聖書の出自)で溜飲を下げ、後半部分(Ⅱ神学と政治――「原始」キリスト教再読)、とくにヤコブの手紙の研究部分に唸る。

ヤコブ書に関しては、ルターが「藁の書」とかいってめっちゃ価値を下げてしまって以来、とくにプロテスタントの神学者たちにとってはルターに対する遠慮もあってか(?)、な~んかどう扱ったらいいのか分からない書、的な扱いだったような気がする。

佐藤先生のご指摘のとおり、ヤコブ書が(とくにルターにとって、あるいはプロテスタントの伝統上で)「取るに足らない書」と考えられてきたのは、パウロが人は「信」(ピスティス)によって義とされると説くのに対して、ヤコブ書で強調されるのが「行い」だからである。

そのヤコブ書の評価に対して、私自身、「そ、そんなに酷いことを言ってるか?」と直観的には疑問を抱いてきたのは確かである。その、漠然とした疑問が本書では明確に言葉化されており、さらにパウロとの関係で、当時の彼らを取り巻く状況(生活の座、Sitz im Leben)を検証しながら一定の解釈がなされている。マーベラス。

でもそれは、ヤコブ書だけではない、のではないかい?「どう扱ったらいいのか分からない書」が、実は新約聖書にはまだまだ存在する。しかもヤコブ書というような"マイナー"どころではなく、もっとビッグネームなアレ。大福先生も特にその晩年期、真剣に取り組んでいたアレのことだ。ソレに関する組織神学的な研究は、ここに凄い課題が残されてしまったと私自身、身震いさえ覚えるが、同時に聖書学からの新しい研究も、益々出てくるといいのにな。

上野千鶴子氏×爆笑問題

2011-06-17 22:09:43 | 豆大福/トロウ日記
ちょっと前の話だが、NHK「爆問学問」でゲストが上野千鶴子氏の回を観た。メイド服でのご登場、意外と似合っていた。

私はフェミニズムに明るくないし、ましてや社会学者でもない。神学の一分野としてフェミニズム神学と呼ばれる領域がある。これも私の専門とするところではないので、あまり偉そうなことは語れない。

神学校時代、結構交流を持っていたK教授がこの分野を専門にしていた。そのK教授のお家にお呼ばれの際には夕飯をみんなで持ち寄ったり、そこの暖炉の前で映画をみたり。一緒に(といっても学生と教師の混合集団でだが)エルサルバドルへも行った。しかし、いったん神学の話になると、どうしても彼女とはそりが合わない。いや、ある言葉が彼女から発せられてからは、彼女と神学の話をすることがすっかり嫌になってしまった。その言葉とは、まだ教授と知り合って間もない頃、私が学部時代にどのような神学を勉強してきたかを説明していたときの、K教授のリアクションだ。

「あなたの語る神学は、まったく西欧的男性的な視点で塗り固められているわね」(と、話にならないわという風な様子。)
フェミニズム神学が専攻とはいっても、彼女は組織神学専攻であるとも公言している。そのような人物から、こんなリアクションが返ってくるとは思わなかった。このように取りつく島なく言われてしまったら開き直るしかない。ああそうです、そのとおりです、と。それはまるで、こちらはサッカーの話をしているのに、「あなたの話には野球の視点が欠けている」と批判されたようなものだ。たとえサッカーと野球の違いはあっても、フィールド上のアスリートという点で共通することも多いのだから、両者間で深い話はできるはずなのに。

この体験で、そちら系の研究者たちとの実際上の交流、ということになると、意識的無意識的に避けるようになってしまった。しかし私が出会った机上のフェミニズム神学に対しては、知る必要性も手伝って即座に嫌悪するということはない。むしろその逆で、とくに聖書学分野でのフェミニズム神学の貢献は大きいと思っている。

神学の話はさておき、上野氏やフェミニズムの話に戻ろう。専門外の私からみると、社会学の研究対象って比較的マクロなのではないかと思っていたが、上野氏の話を聞いているとそれは間違いで、実は狭い範囲の現象が研究対象になるのか、と思われた。つまり、フェミニズムが問題にする抑圧―被抑圧の関係も、その関係性に実際が当てはまらない場合や現象にはあまり問題にならなくなってしまうものだな、と。逆に、抑圧―被抑圧関係の構造にどっぷりはまらざるを得ないような状況にある人(女性)たち、この人たちにとっては、それはなくてはならない救済の理論となり得る。

しかしその構造の外に生きる人々にとって、抑圧―被抑圧の問題の克服は、あまり必要のない理論とさえいえる。そのあたりのズレを、爆笑問題の太田さんは指摘していたのだと思う。あるいは、「非モテ」を自虐的に語った田中さんにとってもそれは同じで、彼の場合は、非モテという被抑圧者の現実に抵抗せず、それをそのまま受け入れる視点、とでもいうべきか。

思うに、自分自身が抑圧―被抑圧構造の外にある場合でも、その内側にある人々への共感の視点は失ってはならない。現実は、闘わなくてはならないこともいっぱいある。自分が被抑圧の当事者である場合にはもちろん、他者がそのような状況に置かれたときにも、そういう立場に置かれた者たちへの共感は必要だ。一方で、抑圧―被抑圧という構造的自体が、新たな抑圧を生み出す危険を忘れてはならない。この点ここが、フェミニズムはじめ抑圧者被抑圧者克服理論の、最大の落とし穴になりがちだ。

ところで田中さん、本当に非モテなの?離婚報道のときなんかの田中さん、おお、かっこいいぜ、とさえ思ったけど。それに、女性は皆、結局ジャニーズが好き、と言われてもね。「ジャニーズが好きでない私のようなオンナは(嫌いでもないけど。空気みたいなもん)、田中さんからすれば女性とみなされないのか」と、ちょっとへこんだり。一方、「オレは巨根だ」と言い上野氏を挑発する太田さん、メンドクサイです。結局太田さんは、「そういうメンドクサイところがかわいいのよね」と言ってもらえるような大人の女性にかわいがられたい甘えん坊さんなのかな?

遠慮している余裕はない

2011-06-15 20:02:30 | 豆大福/トロウ日記
「心身ともにお疲れになっているようすです」と、最近H先生から指摘された。その通りだ。それは分かっているのだが、その疲れからどう脱すればいいのか分からない。私はどうすればいいのでしょう、とお聞きすると、「ゆっくりゆったり、ただ、何も考えない。それが却って辛いならば、好きなことだけを考えるのです」とおっしゃる。

好きなこと……好きなこと……自分の好きなことって何だろう。旅行、グルメ、買い物……全く駄目。これらを考えただけで辛くなるばかりだ。できれば弾くためのバイオリンを購入したいけど、その資金はない。さて、それ以外で自分の好きなこととは――過去に味わった充実感の体験の記憶を一所懸命にたどってみる。……あ!

それは、大きい図書館。中でもとくに、大学の図書館。そこだ!心がユル~くなれる場所。それにしても、大学の図書館ってアクセスが結構面倒だ。特に私立大学の図書館はそう。いったん大学とは無関係の社会人になってしまうと、卒業生でない限りそこに入り込むのは不可能に近い。私立大学はもうちっと、蔵書を公共財として開放することを考えた方がいいんでないかい?

ともかく、というわけで本郷へ。国立大学であるココも閲覧目的を明確に示さないと入館が許可されないけど、これはまあ、相応の制限としてありだろう。本当は、こういうところでウトウトすることだって至福の瞬間なのだから、入館目的が「昼寝」でもいいような気もするのだけど、そうもゆくまい。少なくとも、第一目的としては。

総合図書館しか使用できないこともあるのだろう。宗教学、ことにキリスト教学関係の閲覧可能な図書の貧弱さに(T_T)でも、それだっていいもんね。それはそれ、1日そこにいて、他分野のいろいろな図書に接するだけで心が解放される。ぐふぁ~~~~~。むしろ、今回の目的はそちらの方にあった。

帰りはその足で、てくてくとラクーアまで向かう。15分くらいか。目的はここの温泉だけど、このあたりに来てまた泣いてしまわないか不安になる(もっとも本郷の界隈もそうだったけど)。何せ、ここの地上階にはよく通ったムーミンカフェがある。どのみち、東京中のさまざまな箇所がこれだから困る。案の定、涙目になってはしまったが、足早にエレベータに乗り込み、なんとかやり過ごす。

――という具合の、1か月前の出来事をここに記す。思えばこの日以来、ひとつ覚悟が決まったというべきことがある。私はもう、金輪際、何かを「辛いことを我慢してでもやる」ということができなくなってしまっている。つまり、自分の好きなことだけをして生きていくことしかできない体になってしまっている。だから自分にとって合わない、辛いと思えるようなことは、今後、バッサバッサと斬ってゆくことにした。逆に、好きなこと、こうしたいと思うことは、それを素直に実行することに決めた。

そうはいってももちろん、経済的肉体的物理的な能力や社会的関係上の制限があるのは当然で、それはそれで仕方がない。しかし今後、勉強も伝道も研究課題も食も遊びも何もかも、やりたいようにやらせていただく。いや、こう生きるしかできない以上、むしろそれが摂理なのだろう。私に残された時間が仮に数年ないし数十年あるとしても、迷ったり悩んだりする時間はない。

他人からみたら、そんなこと当たり前でないのと、何ともアホらしい決意表明にみえるであろう。私自身、確かにこれまでだって、いやいや何かをしてきたことはないし、世間からしたらむしろ自由奔放であったといえる。何が何だか、自分でも上手く表現できないけれども、敢えていうなら、生ける屍の自由、の心境かな。

葬送の音楽

2011-06-04 22:10:39 | Dr.大福よもやま話
2010年4月26日の夫の死以来、時が止まったかのようにしか生きられない状況は変わっていない。日常であろうと日常でない特別なオケージョンであろうと、その場にいるのは私ではあるのだが、同時にそれは自分でないような、ふわふわと浮遊した感覚が続いている。

今思えば、夫の葬儀を自ら執り行えたことが不思議でならない。それは、夫との約束ではあった。生き残った方が先に亡くなった方の司式をする、という。だからその約束は、必ず果たされなければならなかった。

葬儀全般のプログラムを桶川さんにお渡しし、それがホームページにアップされている。そこでは、讃美歌がいわゆる普通でない(必ずしも讃美歌集に載っている讃美歌でない)ことがお分かりになると思う。せっかくプログラムがアップされているので、それら「普通でない讃美歌」についてのエピソードを、ここに記録しておきたい。

●チャールズ・ウェスレーの讃美歌
メソディストの信徒として、また、ジョン・ウェスレーの研究家として、やはりチャールズの讃美歌は当人の信仰にぴったりくる。そうはいっても中でも、「聞け、天使の声」(Hark, the Herald Angels Sing)は典型的なクリスマスキャロルで、葬儀に使うのは違和感があるかもしれない。しかし、当人はこの曲がとくにお気に入りだったのである。私もとても好きな曲だ。それに、キリストの誕生を祝う曲は、すなわちウェスレーの新生の教理にも適う。

●「誰も寝てはならぬ」Nessun dorma
プッチーニ「トゥーランドット」の中のアリアである。ルチアーノ・パヴァロッティの十八番でもある。

「星よ沈め 夜明けとともに私は勝利する 勝利する!」

夫が亡くなったのは、早朝6時12分。キリスト者は永遠の命を信仰する。とくに実存論的神学にとって、死は生へと勝手に介入してくる不条理の最たるものである。しかしそのような不条理でさえ、神の愛は復活という手段でもってそれを克服する。

加えて、私たちはともに、パヴァロッティが大好きだ。彼の太陽のような明るさ、優しさ、屈託のなさが、ある面、夫の人柄と重なる。

Nessun dorma,「あなた、寝ている場合でないのよ!」という私の思いでもある。

●「至上の愛」A Love Supreme
ジョン・コルトレーンの傑作。時間の関係上、パート4のPsalm(讃美)の部分だけしか使えなかったのが心苦しい。

世に存在するあまたの音楽の中でどの曲が一番好きか、と問われたら、夫は迷わずこの曲を選ぶ。でも、人前でこの曲を聴いたりしたことはないのでは。その訳は、この曲を聴くと、必ず泣いちゃうから。

コルトレーンといえばニューヨークを連想するので(少なくとも私は)、コルトレーンのジャズは留学時代に出会ったのかと思ったらそうではないらしい。彼に夢中になっていったのは、帰国後、30代半ばになってからだという。

● O Come O Come, Emmanuel
唯一、葬儀に違和感のない讃美歌であったかもしれない。もっとも、この曲は古い時代に作られたそうだが、いわゆる葬儀のための讃美歌ではない。

インマヌエル、すなわち神が共にありますように、はジョン・ウェスレーの辞世の句とされているし、それは同時に、遺された者にとって心からの祈りである。お気に入りの、よく一緒に歌った歌でもある。

●「なつかしい昔」Auld Lang Syne
元来はスコットランド民謡だが、讃美歌集にも収められている。一般には「蛍の光」として知られている曲。日本では蛍の光は卒業式とかデパートの閉店時に使われることが多いが、英米では主に、大晦日から新年を祝う際に使われる。時が移ろいでいっても、相変わらぬ友情を確かめ合う歌である。

これも二人ともが大好きな曲。夫は、この曲の好きが高じて、ある信者さんの結婚式の際の讃美歌に使用したところ、その方たちは、残念ながら離婚してしまった。後になって、その信者さんに「先生がこの曲を選んだせいですよ」と、冗談混じりに怒られてしまった。「この曲は、別れの曲ってわけじゃないんだけどなあ、むしろ変わらない友愛を確かめ合う歌なんだよ」と弁明していたけれど。

●「フィンランディア」
シベリウスの交響詩。讃美歌集にも収められている。(あ、でも現在の「21」にはないかも。)ユーカリスティア再動の暁には、教会のシンボル曲として採用したいと思っている。シベリウスは、連れ共々大好きな作曲家である。どうして私たちはこれほどまでに彼の音楽に惹かれるのか、その訳を考えてみた。

フィンランディアに限らないけれども、彼の音楽は、闇なる現実とそこに届く一筋の光の物語である。

そこには、この世界は神の栄光に照らされ歓喜に満ちているではないか!という酔いやロマンティシズムがない。あるいは、私ったらこんなにも主を愛し讃美しているもんね、どんなもんだいという(今風にいえば「どや顔」的な?)傲慢さもない。栄光と恵みは、暗い不条理たる現実に、彼方の世界から与えられる。

私生活の場面でいえば、辛い検査のために病院に向かう車中などで特に、いや、それ以外にも、ほぼ毎日のようにこの曲には励まされてきた。私たちのような信仰の持ち主には、ソウルフルな曲、作曲家である。