Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

心が休まる本

2011-01-07 15:02:30 | 豆大福/トロウ日記
昼間、道すがらにお茶の水CLCブックストアに立ち寄った。出会ってしまった。買う必要があるかと言われれば、ない、というしかない本と。今は実際に手元になくとも(倉庫入りのため)、その気になれば容易に手の届く範囲にある本だから。いやむしろ、わざわざ倉庫に保存した本であるのに、ここでお前はなぜ同じものを買うか!と言いたくなる。でも吸い寄せられるように買ってしまうのであった。それは、ジョン・ウェスレーの『明解 キリスト者の完全』(A Plain Account of Christian Perfection, Hendrickson Christian Classics)である。

早速、袋から出して装丁をまじまじと眺める。ヘンドリクソンはアメリカの出版社で、布製のハードカバーなのに値段が10ドルを切っている。どうしたらこのような芸当ができるのか。全体的には白とブルーの装丁で、題字が金字で上品だ。この著作は元来量的にコンパクトであるし、英語版なのでなおさらコンパクトである。

机の隅に置いて、勉強の合間の気分転換にしばし、読む。はぁ~緊張がほぐれる。そしてまた、退屈な勉強に戻る。(蛇足ながら、K・バルトのKDを読んでいたわけではありませぬ。)しばらくしてウェスレーを読む。はぁ~……、の繰り返し。この方法はいい、と改めて発見した。退屈な勉強のときには、とびっきりお気に入りの本を机の傍らに置いておき、こまめに「はぁ~」の時間を取る。ほんのちょっと、5行から10行ぐらいずつ読むのがまさにいいのだ。ところで携帯についている辞書、便利だなあ。

ジョン・ウェスレーの背丈が低かったことは周知であり、野呂芳男『ウェスレー』(人と思想シリーズ、清水書院)にもそのことの言及がある。でも具体的な数字は挙がっていなかったと記憶する。確か大福先生は、記念館に保存してあるウェスレーの着用していたローブの大きさから判断していたような。

今日買った本のまえがきに、ウェスレーは「イギリス人としては、当時であっても背が低かった」とある。ふむふむ、それでいかほど。「5フィート3インチ。」あれ、具体的な数字に出会ったのは初めてかも。私とは1インチ差なのね。なんと体重まで明言してある。うーん、本当かなあ。身長は、生涯それほど変わらないものだと思うけど、体重はどうなんだろう。もっともウェスレーは、今でいうプチ断食を推奨しているぐらいなので(もちろん自身、実行していた)、生涯スリムであったことは間違いないと思うけど。

もちろん背丈が低くとも、その声は雷鳴が轟くがごとく通り、カリスマ的指導者にお約束の強靭な体力の持ち主であったことの指摘もあり、それもまたお決まりの記述ではある。家に帰って調べてみると、5.3は約161.5cmだった。

さらにまえがきを読んでいてほんわかした気持ちになったのは、改めてウェスレーの教養の深さを思い起こさせられたからである。ウェスレーの、あの精力的な著作・出版・伝道その他の活動の数々とその内容の広範さは、まさにウェスレーの教養の深さと連結する。

教養主義。今の日本のアカデミズムが志向する(良く言って)実学尊重、あるいはピンポイントではあるけれどそれに固執するあまり実際には役立ちそうにもない底の浅い専門志向とは、まさに逆ベクトルに向かう、教養主義。これは日本のアカデミズムではもはや死語なのだろうが、18世紀イギリスのそれは、半端でない。産業革命期、人々の生活はかつてとは比べものにならないほど目まぐるしく変化した時代であった一方で、アカデミズムは教養主義を貫いていた。

いや、実学、大いに結構。でもこれは、大学などの高等教育機関で最重要視されるべきでない。実学志向ならば、本気で専門学校を増やせばいい。その場合、大卒と専門学校卒との学歴格差、専門学校間での学歴格差は生じるだろうから、世の学歴格差自体はぐんと広がるだろう。それでいいではないか。ほんの一握りのエリートと、それ以外の大多数が構成する社会で。ただしその社会とは、皆が何かのスペシャリストであるのだから実に多様性を帯びることになり、それだけに、ともに異質であることへの寛容を余儀なくされることになるだろう。

さて、話を教養主義に戻そう。ところで、教養とは一体何か。何をもってして、教養というのだろうか。それは私にも分からない。それらしいことは語れても、これが教養というものです、と明言できるような教養を表現することは難しい。教養と、様々な学びの習熟度ましてや学位などは一応区別されるものだし、しかしそうなると一体、「あの人には教養がある」という場合に、何を基準にそう思うのか、考えれば考えるほど分からなくなる。

ウェスレーは、子供時代には母親のスザンナによって、そして青春時代にはパブリックスールで、徹底的に規律正しい詰め込み教育を受けている。母親スザンナの教育が、子供たちの多くをスポイルする結果になったことも事実である。しかし詰め込み教育が考える力を育てない、というセオリーが誤りであることは、実際に詰め込み教育を受けて、それに対応することのできる器をもった子供が大人になったとき、しばしばとてつもない個性と創造力を発揮するという多くの現実が証明している。ウェスレー兄弟も、それに当てはまる。

そうしてウェスレーは、偉大な教養人として生涯、活動した。教養は社会の無駄である、というセオリーを採用するにあたっては、少なくとも、ジョン・ウェスレーの生涯にわたる仕事が、社会にとっていかに無駄であったかを証明してからにしてほしいものだ。

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