Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

鑑(カガミ)な人

2011-01-18 19:57:03 | 豆大福/トロウ日記
連れ合いが亡くなって、生きる意欲を失って久しい。それでも私が生きているのは、生かされているからである。この数カ月で、生きることは必ずしも生きる意志によるものではないことを思い知った。世界には、生きる意志、生き甲斐というようなものがあっていいしそれらを否定もしないけれども、およそ生きる意志など今の私とは関係ない。

生きる意志と自由意思とは別ものである。理性ある人間としては自由意思を否定することはできず、このような私であっても自由意思は死んでいない。いや、何人であっても自由意思は殺せない。きっとそれは、実存のみならず自由もまた本質に先立っているからなのだろう。しかし生きる意志は、本質である主体に帰属するにすぎない。生きる意志では、今の私の実存を説明できない。

人はなぜ生きるのか、というような、暗中模索をしながら苦悩のうちに生きる、という感覚とも異なっている。なぜなら、模索をする意欲はないからだ。暗中ぼぉーっと浮遊しながら、目の前のすべきことをしている中で、見えない力の働きが人々の有機的つながりを編み出してゆく。そのつながりが、私をその中へと絡めてゆき、そうして私はこの世界で生きることへと押し戻される。そうして改めて、見えない力を実感することになる。それら一連の循環が、「生かされている」の意味である。
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「(出会う仕事は)一期一会だと思っています」「私とのめぐり合わせは宝くじに当たったようなもの、ご主人のお導きです」「これからも、ぜひご主人の遺志を受け継いで生きていただきたい、ただし体には注意を払いながらですが」。私が「その人」の働きに対して感謝を述べたときに、「その人」はそのように言った。こんな熱い言葉をかけて下さる方、しかもそれが公務員、稀有ではないか。これらの言葉だけを並べると、ただのロマンティックなお役人さんのように聞こえるが、「その人」の仕事ぶりは着実な有言実行型である点では公務員の鑑であり、つまり事理の見通しも実行の手段も、並外れて優秀なのであった。

「その人」の働きは結果として、こんな私を生へと押し戻してくれている。「その人」は公務員なのに、とても熱い心を持っている。できるものならどこそこの誰それと公表したいくらいだが、しかしそれはできないので、こういうお役人が日本の公務員の中にも存在していたんだという感動を示すにとどめることにする。

「その人」、まるでフランツ・カフカの生まれ変わりのような人だ。

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