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還暦直前に心臓弁膜症(僧帽弁閉鎖不全症弁形成術体験記)

還暦を目前にして滋賀医大の浅井徹先生の執刀で僧帽弁形成術を受けました。
私の体験が同病の方の参考になれば幸いです。

戊辰戦争後の会津の人々-2

2013年10月26日 | 雑記帳(その他)
続きです。

松平容保
藩主容保は戦争後鳥取藩に預けられ東京で蟄居しますが、嫡男の容大(かたはる)が家名存続を許されて華族に立てられました。
容保はそれから間もなく蟄居を許され、1880(明治13)年には日光東照宮の宮司となります。
このとき西郷頼母も禰宜に就任します。容保は正三位を叙任し、1893(明治26)年12月5日に東京小石川で死去しました。享年59。
なお、容保は8月18日の政変(蛤御門の変の前年の争いのことで西暦では1863年9月30日)での働きにより、孝明天皇から賜った宸翰と御製は片時も手放すことはなかったそうです。

照姫
会津城開城後に、郊外の妙国寺に移され謹慎しました。その時高木時尾も付き添っています。総勢50人くらいでした。
翌年2月に東京青山の紀州藩邸にお預けとなり上京。さらに12月に実家に預け替えとなり飯野藩邸に移りました。この時点でおそらく付き人達はそれぞれの道に進んだものと思われます。
以後は実弟の保科正益に庇護され、1884(明治17)2月、東京で死去しました。
享年51。

山川二葉
二葉は山川大蔵(後の浩)、健次郎、咲子(後の大山捨松)らの姉で山川家の長子です。
梶原平馬と結婚していましたが、戦争後に離婚し実家に戻りました。
その後1877(明治10)年より28年間、お茶の水女子大学の前身の女子高等師範学校に寄宿舎長として勤務しました。
1909(明治42)年永眠。

日向ユキ
会津戦争後、ユキと家族は他の会津藩士とともに斗南藩に移住しました。その後、仕事の関係で青森に移住したようです。一年ほど青森で暮らした後、雑賀家で奉公するため函館に移りました。
1872(明治15)年に結婚しましたが、相手は元薩摩藩士で北海道開拓史の内藤兼備(ないとうかねとも)という人です。
薩摩藩士と会津女性の結婚は、大山巌と山川捨松との結婚以外にもあったんですね。
その後1887(明治20)年には八重が札幌を訪れ、ユキと八重は再会を果たしています。ユキは1944(昭和19)年、94歳で死去しました。

高木時尾
戦争後照姫のお付きとして妙国寺に赴きますが、その後斗南に移住し元新選組の斉藤一と結婚しました。姓は斉藤ではなく時尾の母方の姓である藤田を名乗っています。
夫は名前も一から五郎に改名。斉藤一改め藤田五郎と言うわけです。
夫が警視庁に就職したので東京に移住、かなり後には、女子高等師範学校の生徒を自宅に下宿させています。
1925(大正14)年死去、享年75。

山川浩
西南戦争の時、政府軍に加わり活躍を見せます。その後1880(明治13)年には陸軍大佐に昇進しました。1885(明治18)年には、東京高等師範学校(現・筑波大学)他の校長に就任しました。
1898(明治31)年2月4日死去。
明治維新史は勝者の薩長側から語られることが多いですが、会津から見た明治前史として書かれた「京都守護職始末」の編纂でも有名です。実際には書いている途中で没したため、弟の健次郎が仕上げていますが、出版時には著者浩として世に出ました。
ドラマで川崎尚之助が書いていた未完の「会津戦記」と、この「京都守護職始末」はどうつながっていくのでしょうか?

こうしてみると明治以後の山川家の人々は、山本兄妹もそうですが、教育に力を尽くした人が多いことが窺えます。

※出典はウィキペディアや歴史読本7月号です