還暦直前に心臓弁膜症(僧帽弁閉鎖不全症弁形成術体験記)

還暦を目前にして滋賀医大の浅井徹先生の執刀で僧帽弁形成術を受けました。
私の体験が同病の方の参考になれば幸いです。

もし帰宅困難になったら

2011年03月24日 | 雑記帳(心臓と関係有り)
娘の勤務先では何年も前から、1つ手前の駅で降りて歩いて出勤するという取り組みを時々やっています。男女関係無しで災害に備えて、という主旨のようです。
私は健康維持、増進のため手前の駅で降りて家に帰るというのを何度かやったことがありますが、駅1つで1時間近くかかりますから、もし災害で帰宅困難になれば、歩いて帰るのは絶対無理。
会社から家まで60キロ近くあります。
それで帰宅できなくなったときに備え、水と非常食を会社のロッカーに常備することにし、先日500mlの水を2本と非常食を2回に分けて会社に持ち込みました。

この準備をしたのは先週なのですが、薬も数日分は会社に置いておくのが良さそうです。
明日は薬を持っていきます。

3回目の外来受診

2011年03月19日 | 手術後の外来診察
退院後3回目の外来診察は10月30日の土曜日で、退院後初めての診察が終わるときに、今回の予約をしておりました。前回の2回目の診察は社会復帰のための特別な? 位置づけ。
ちなみに循環器科は一部の曜日を除き、予約診察となっています。
土曜日は会社が休みなので、今回より土曜日の予約診察でお願いすることにしました。
前回診察の18日からは10日あまり、退院して1ヶ月と1週間後なのですが、まだ車の運転が自在に出来るほど回復していないので、娘に送ってもらいました。
退院前には
退院後一ヶ月間は運転しないこと
と聞いていましたが、それより回復は遅れ気味かも?

前回診察時の血液検査の結果は異常なし、寺尾先生の話では手術時には薬を大量に使うので腎臓や肝臓に障害が出ることが多いとのことです。
たしかに診療明細書を見ると、手術時に使う薬の種類と量は半端なものではありません。
体重だけでも3kgほどは増えましたから。体重増加はほとんど点滴によるものですが、薬はすべて点滴に混ぜて体に投入されます。
診療明細書には薬の種類、量がきちんと書かれていますが、どの薬が何のために使われるのかは素人にはよくわかりません。ネットで調べればある程度はわかりそうですが。。。。
血液検査結果に異常はないというものの、いただいた検査データを見ると各種指標について正常値からのずれというものはそれなりに存在します。このずれがどのように収束していくのかどうか…
収束しなければ?

次の診察は4週間後の11月27日(土)です。とりあえず月一のようです。

この頃は退院3カ月後にワーファリン含め、薬はなくなるのかな、という希望的観測をしていました。
しかし、いつでしたか
心臓病患者が治療により回復しても薬と縁が切れるのは極めて少ない
という記事も読みましたので、薬と長く付き合うことになるかもしれないとも感じていました。

西日本で節電して東に送る

2011年03月13日 | 雑記帳(その他)
長女から昨夜携帯メールが来ました。
電力会社に勤務している友人の友人から節電依頼とのこと。
節電して電気の足りない東日本に送る電力に余裕を
という内容でした。
友人の友人というところが少しうさんくさく、チェーンメールっぽいのですね。
この季節、特に節電しなくても発電余力は十分あります。
つまりは電気を東日本に送るのに全く問題はなく、既に今でも西から東にフルに電気を送っているのではないかと考えられます。

それに関係する記事が今朝の朝刊に書かれていましたが、
東日本は周波数が50Hz、西日本は60Hzのため、西日本から東日本に電気を送るには周波数を変換する必要があります。ところが周波数変換が出来る施設は3箇所で、その3箇所の合計容量は100万kWとなっておりこれは平均的な原発一基分。いくら節電しても設備容量以上の電力を送ることは出来ません。

東日本の原発の大半が停止している現状では、助けるといっても限りがあります。
もっとも節電することは悪いことではないので、我慢できるところは我慢して電気を無駄遣いせずチェーンメールと知りつつその呼びかけに応えたいと思います。

明治初期に電力会社が発電設備を欧米から輸入したとき、東日本では50Hzのヨーロッパから、西日本は60Hzのアメリカからバラバラに輸入したのでこのようになってしまい、1つの国で両方の周波数が存在する日本は極めて珍しい存在となっています。

復帰して1週間

2011年03月12日 | 日記
大変な大地震が発生しました。震度の大きさだけではなく、津波の怖さをひしひしと感じました。
放射能漏れも心配です。
被害に遭われた方に、心よりお見舞い申し上げます。
被害に遭われた方々にどのようなご協力ができるのか、考えていきたいと思います。

比較的震源に近かった阪神淡路大震災の時、我が家周辺では震度5強で経験した地震では最大のものとなり、家の内壁3箇所にヒビが入りました。
しかしこのくらい、直すほどでもないと判断したので、今もそのままになっています。
それを見るたびにあの地震を思い出すので、風化させないためにもかえって良かったのかもしれません。
外壁のヒビははモルタルの経年変化によるひび割れと区別がつきませんでしたが、3年前リフォーム時に修理しました。

現在期末が近づくとともに仕事が少し忙しくなってきており、投稿間隔が空いていますがこの記事より社会復帰です。

生まれて2回目の病気療養生活も終わり、社会復帰初日となりました。
過ぎ去ってみると、早いもので・・・・
健康診断で心雑音を指摘され、精密検査を勧められたのが4月。
指示ではなく勧告のレベルでしたので全く危機感が無く、あれが済んでからこれが済んでからと後回しにして、近所のヴォーリズ記念病院循環器科で受診したのが6月28日。
心エコーにより僧帽弁閉鎖不全症(重傷度は中等症よりやや悪く、おそらくレベル3)を指摘され、手術の出来る滋賀医大心臓血管外科の紹介を受ける。
滋賀医大で再度検査を受け(重傷度は重症)、手術を勧められる。
手術かぁ・・・・少し意識が遠くなりかけましたが、気を取り直しその場でエイヤッと決断したのが6月30日。
入院、手術日程を決めたのが次の受診日の8月23日。
入院したのが9月7日で、その日より毎日検査。
手術が9月14日で翌日ICUを退室。
退院したのが術後十日目の9月24日。
そして初出勤が退院1ヶ月後の10月25日となり、今思うとなんとも慌ただしい半年でありました。

休職に入る前に電車の定期券を解約していたので、新しく定期券を作りました。
自宅療養中は早くても7時起床だったのが、これからは5時15分起床です。
電車を降りると顔見知りに出会ったので、いろいろしゃべりながら会社へ。
仕事は8時ちょうど始まりなのですが、7時55分からラジオ体操があります。
体操は自由参加ですが、私は当分お休みします。

パソコンを立ち上げてメールを開けると、思ったよりは溜まっていませんでした。
100件足らずだったかな?
最後の出勤日に当分病気で休むことを、上司から関係先に連絡してもらっていました。
さらにメールの設定をいじり、11月いっぱい不在通知としました。
もっともこの設定は有効にならなかったのですが、一応解除しました。

メールを一通り読みましたが、今さら私が処理しなければならない案件はないはずなのでほとんど読みっぱなし。その後(あわてずゆっくり)机に溜まっている書類を整理しているうちに1日が終わりました。
初日は私の復帰を知った同僚達が入れ替わり立ち替わり、他の職場からもやってきました。おかげで何度も同じ話をするハメになりましたが、それはうれしかったですね。
初出勤は月曜日でしたが、水曜日までこの状況は続きました。

しばらくは残業しないつもりでしたので、終業のチャイムと同時に帰宅準備。
しかし帰りの電車では疲れが出て途中眠ってしまいました。火曜日も帰りの電車では寝ましたが、水曜日からは起きられるようになりました。
昼の社員食堂ではメニューの列に並ぶのですが、うどんとラーメンの列を間違えたり、なかなか感覚が戻りません。

月と火曜日は慎重にゆっくりと体をいたわりながら仕事していましたが、慣れてくるとついつい大胆になってしまいます。水曜日は体を左にひねる動作を繰り返したため、胸がけっこう痛くなり、まだまだということを思い知らされました。当分は気をつけます。

そして週の終わり、金曜日は計画休暇を取り休ませてもらいました。
私の勤務先では間接部門に計画休暇制度があり、3カ月ごとの初めに計画休暇日を申請することになっています。初出勤の日に金曜日の休暇を申請しました。
したがって復帰一週間目は4日間の出勤でしたが、思った以上に疲れましたので休んだのは正解でした。

自宅療養のまとめ

2011年03月05日 | 各ステージでのまとめ
全身状態が落ち着き自宅で普段の生活ができる状態に回復したと判断された時に、退院が許可されます。
そして退院の後は、社会復帰できるよう自分が責任を持って体調管理、体力回復を目指します。

退院時の体調はこんな感じでした。
体温 37℃をようやく切るくらい
脈拍 安静にしていて75~80
歩くのはゆっくりゆっくり、足下もおぼつかない感じ
歩を進めるのに恐怖を感じた…って、私だけかなあ・・・・
横隔膜の痙攣が少し
声のかすれも少し

そして退院翌日から積極的にウォーキングに励みました。妻が大いに助けてくれました。
さすがに皆勤は出来なかったと思いますが、それでも1週間に1日休んだかどうか・・・・
この時期、9月下旬からの1ヶ月は残暑も収束し秋本番を思わせる良い季節となり、ウォーキングリハビリには最適となりました。図ったわけではないのですが、結果的にはとても良かったと思います。
家事も出来る範囲で少しずつ手伝いながら、体を慣らしていきました。
幸いなことに10月上旬に娘が帰ってきて、積極的に家事を手伝ってくれるようになったので、その後は妻と二人三脚。妻と2人暮らしの時に比べて5倍は賑やかに&騒がしくなりました。

やがて・・・・
体温は36℃台前半~半ばで落ち着きましたが、手術前よりは0.2~0.3℃ぐらい上がったような気がします。血液循環が改善されたためでしょう。
歩くときのバリア感は1ヶ月も経つとさすがに無くなりましたが、1ヶ月もかかったとも言える。
横隔膜の痙攣と声のかすれは最初の1週間で収束。

ふとんなどから起き上がるときは、体を横にねじって腕を入れて胸に負担をかけずに起き上がるという状態がまだ続いています。これは胸骨がくっつくまでかかりそうです。
寝返りもまだ満足に出来ません。
痛みを感じる間は無理しない方が良さそうです。

体重は入院前より増えてしまったかも。コントロールしないと。
脈拍は退院時と同じ状態、安静時75~80ぐらいで変わりありません。
遅くならないですねぇ。
入院前は60台半ば。
弁膜症になる前は50台後半 ← 少なすぎでした。
脈拍が早くなり、拍出量も増えてるわけですから血の巡りは劇的に良くなっています。
体中の細胞に酸素や栄養が十分に行き渡りますから、細胞が壊れたり傷ついたりする率が減少しているのではないでしょうか。

会社に行くようになると今までよりかなり早起きしなければなりませんが、なにせいろんな動作に時間がかかるので目覚ましのセットを早くする必要がありそうです。

読み返してみると大してまとめにはなっていませんが、アップします。

今日は雛祭り

2011年03月03日 | 雑記帳(その他)
です。でも雛人形を飾らなくなってもう何年にもなります。
今年なんか、会社で気がついた次第で。。。

長女が生まれた翌年2月に、義父から7段飾りの雛人形が送られてきました。
しかし当時は隣の声が丸聞こえの狭いアパートに住んでいたので、飾る場所がありません。

しかしそのままでは娘がかわいそうかなあと思い、金曜日の晩に枕元に飾り写真を撮って翌朝速攻で片付けてしまいました。
その後まもなく、中古の家を買ってからは毎年早春に飾るようになりました。
娘達が大きくなってからは自分で楽しみながら、あーだこーだ言いながら飾っていました。

娘達がさらに大きくなり、就職して家を出ていった5年前からは誰も飾らなくなってしまった。
そして今、二女が会社を辞めて帰ってきてはいるのですが、和室を占領しているので飾る場所がありません。
今年の秋には結婚して出ていくので部屋は空きます。私も定年でヒマになれば飾るかなあ?

そういえば昨夜遅くに長女から携帯にメールが入りました。
希望が叶い、転勤になったと。長女は転勤族です。
引っ越しの手伝いが要るかどうか、週末に旅行のため帰ってくるので聞いてみよう。