青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

台風と期末テスト

2020-09-08 08:59:00 | 日記
台風10号は、予想よりは被害が少なかったようですね。
夫の実家は長崎なのですが、今回、義母と義兄一家は早目に公民館に避難していました。昨日自宅に戻ったとのこと、全員元気です。
夫の実家はかなり老朽化が進んでいるので、 今度こそマズイんじゃないかと心配していましたが、とりあえず損壊は免れました。ですけど、今後も台風や地震は必ず来るのですから、早く建て替え欲しいです……。


義母達が避難していた頃、桜は階段でお寛ぎでした。
一階の居間や台所にいると、蓬と柏から遊んで攻撃を食らうので、なるべく離れて居たいようです。桜ももうシニアなんで、若者の相手はしんどい。外の天気は気にしていません。

我が家のある藤沢市は、今回の台風では、強雨の時間帯が何度かあったくらいで、避難の必要はありませんでした。
この辺は、毎年台風被害は少ない方だと思います。住宅密集地なので、火事の方が怖い。


話が飛びますが、またもやお菓子をいただきました。今度はお隣さんからです。
抹茶サブレがカリカリ食感で美味しい。私も秋になったら鎌倉に行きたいなぁ。

更に話が飛びますが、娘コメガネ、月曜日から水曜日まで期末テストです。

コロナ禍による長期休校の影響で、前期中間テストが無くなり、期末テストが今年度初の大きなテストになります。
コメガネさん、例によってろくに準備していなかったので、困ったことになっていますよ。不安で夜寝られないとか言ってますが、そりゃこんだけサボっててグースカ寝られたら心臓に毛生えてるのかって思いますよ。そろそろ心を入れ換えて欲しいものです。
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一雨毎に?

2020-09-04 08:54:41 | 日記
基本的に雨が少ない傾向の私の地元も、今週は久しぶりにしっかりとした雨が降りました。このまま一雨毎に気温が下がってくれればと思いますが、今日は朝からすでに暑い……横浜は36度超えるとか。


土浦の知り合いから梨を送っていただきました。新治という品種だそうです。
たまたまスーパーで買ってきた梨があったので、食べ比べてみました。
スーパーの梨に比べると、新治は酸味控えめで甘みが強く、汁気が多くて柔らかかったです。

まだまだ暑い日が続いているので、汁気の多い果物は有り難いです。早く炎帝が鎮まってくれないかなぁ。


蓬、棚の隙間に潜伏中。


柏はソファーの背凭れでだらけています。この子は中身がスカスカの袋みたいな体つきなんですよね。錆柄なので、寝ていると何所に目と鼻があるのかわからないです。


桜は例によって箱の上。
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龍彦親王航海記

2020-09-01 09:08:43 | 日記
磯崎純一著『龍彦親王航海記』は、澁澤龍彦最晩年の編集者として澁澤龍彥本人と直に接してきた磯崎純一による澁澤龍彦伝。
タイトルは、澁澤本人が「手術のため ノドも内臓も ずたずたに切られて もはや自分は 人間ではなく 一種のサイボーグになってしまったような」と東野芳明への手紙に記した身体で、机に噛り付くようにして執筆した『高丘親王航海記』から。

全10章、澁澤の先祖・親族から、澁澤の死と葬儀まで、特定の時期に偏ることなく、豊富な資料と関係者の証言を混ぜながら、年代順に辿っている。
約500ページの大作であるが、巻末に詳細目次と索引がついているので、読んでいる途中に迷子になることはないだろう。読者の痒い所に手が届く作りになっている。

澁澤について語る時、公私ともに決して無視することの出来ない矢川澄子に関する記述にも相応のページ数が割かれている。
矢川の自死の一因として、2002年刊行の『別冊澁澤龍彦』の年譜に、矢川のことが一切記されていなかったことが挙げられている。それは憶測でしかないことだが、『高丘親王航海記』の中で、矢川の功績が評価されていることに安堵のような思いが生まれた。

澁澤龍彦享年59歳、今生きていれば92歳。
まだ歴史の彼方の人ではない。未だ存命の関係者も少なくない。それらの人々からの証言は、他愛のない日常会話でさえ、澁澤龍彦を知る上での貴重な資料となる。

それぞれの章に、「狐のだんぶくろ」「大股びらき」「神聖受胎」「サド復活」「妖人奇人館」「ホモ・エロティクス」「胡桃の中の世界」「記憶の遠近法」「魔法のランプ」「太陽王と月の王」と、澁澤の著書・翻訳書のタイトルが冠せられている。
こうして並べられると、澁澤龍彦はタイトル付けのセンスまで秀逸だなと改めて思う。「記憶の遠近法」が特に。

この力作について、何をどう語れば良いのかわからない。
「読みました。大変興味深かったです」で済まそうかと思ったし、それが正解な気もする。
しかし、せっかくだから、私の思春期と切っても切り離せないこの作家について、もう少し何か書いてみたい(「絵だの音楽だのについて、内心の感動を思い入れたっぷりに語るのは、私の趣味ではない」と言う澁澤の人物伝について、ダラダラ語るのもどうかとは思うけど)。
以下、メモ帳のように、ツラツラと文を打ったり、削ったり、貼り直したりしているので、いつもに増して読み難い文章になっていることと思う。

澁澤龍彦の著作は、10代の頃には貪るような勢いで読んでいたが、その後は年に数冊になり、数年に一冊になり……と徐々に遠ざかっていたので、あまり良い読者とは言えない。
だが、澁澤作品そのものから離れても、澁澤が私の読書傾向に落とした影響は消えることがなかった。
ホフマン、コクトー、ボルヘス、久生十蘭、稲垣足穂、塚本邦雄、日影丈吉……もしかしたら中井英夫もかもしれないが、中井のことは澁澤→塚本→中井の順で間接的に知ったのかも。それはともかく、澁澤を知らなかったら、一生読まなかったかもしれない作家は、洋の東西を問わず数多い。
画家は、マグリット、スワンベルク、アルチンボルド、バルテュスなど。

サド裁判は日本の文学史・裁判史の両方に残る大きな事件で、当時のマスメディアでも派手に取り上げていたから、澁澤の名から真っ先に思い浮かぶのがマルキ・ド・サドという人は多いと思う。
が、私はサド作品にはあまり嵌れず、じゃあ反対の角度から攻めてみようかと、マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』を読んでみたが、やっぱりこの方面はよく分からなくて。そんな意味でも、澁澤作品の読者としてポンコツなのかもしれない。
でも、澁澤にとって「熱愛措くあたわざる」一番の作家となるジャン・コクトーは愛読しているので、まぁ澁澤ファンの末席くらいには座らせてもらえるのではないか。

コクトーと言えば、コクトーから手紙をもらった澁澤が「キャーキャー言って喜んだ」という妹・幸子氏の証言は、澁澤のコクトーへの傾倒と彼の子供っぽい性格の両方を表す好証言だ。
この件以外も、本作中に度々出てくる幸子氏の証言の中では、兄・龍彦は常に笑いどころの多い「極楽とんぼ」「ハッピイ・プリンス」して描かれている。それは、澁澤と親しく付き合った人々が澁澤から受けた印象と重なるところが大きい。

私が澁澤龍彦の著書を初めて手に取ったのは澁澤の死後で、購入したのはだいたい河出書房新社の文庫版だ。
文庫化にあたっては、最初のうちは「澁澤龍彦の本を文庫なぞにするな」という古くからの愛読者たちの怒りの投書が、数多く河出の編集部に届いたそうだ。
黒っぽい高価な装丁で売られていたころから澁澤を知っている世代と、文庫で知った世代とでは、澁澤から受ける印象は大きく異なる気がする。そのあたりについても、本書の中で触れられている。
ともあれ、文庫化によって学生の読者が増えたのは間違いないはずだ。

今でも、澁澤についてアングラの帝王的な見方をする人は多いかもしれない。が、澁澤の文章は平明・明快で、何一つ難しいことは語っていない。現在に至るまで、澁澤のファンに学生が多いのも、そのあたりが彼の魅力だからだろう。
私が澁澤作品の中で特に好んでいるのは、貝殻、鉱物、植物に関するエッセイで、それらからは、一部のデカダン趣味者にのみ向けて執筆していたのではない間口の広さを感じる。

そんな澁澤は、自身の文章修行の第一歩は、田川水泡の「のらくろ」だったと述べている。
もう一つの愛読漫画である、阪本牙城の「タンク・タンクロー」を「ナンセンス漫画のはしり」「一種のSF漫画」と評し、講談社の少年読物は、山中峰太郎、南洋一郎、高垣眸、江戸川乱歩、海野十三などを好んで読んでいたそうだ。
残念ながら、私はこの中では、江戸川乱歩と海野十三しか読んだことはないけれど、澁澤が子供時代からリアリズムや理想主義より、ロマンティシズムや冒険を好んでいたことが知れたのは面白かった。

妹・幸子氏の『澁澤龍彦の少年世界』を読むと、小学生時代の澁澤の愛読書がもう少しわかるそうだ(『アラビアン・ナイト』『ピーター・パン』『巌窟王』『乞食王子』『小公女』『源平盛衰記』等々)。
幸子氏は、「兄が小学生のころから純文学を読み漁るような早熟なタイプでは決してなかったこと、それに、小さい時から書物そのものが大好きで、本はいつも大切に扱っていた」ことを指摘している。

澁澤の読書傾向は、彼がデビューした60年代と晩年とではそれなりに変化しているけど、こうして見ると、人生派や求道型の文学は真っ平御免、冒険小説に耽溺していた少年時代と同じ心で、18世紀のエロティック小説や、19世紀20世紀の怪奇幻想小説を愛読するという基本の姿勢は終生変わらなかったようだ。

澁澤の性格・容姿・振る舞いは、多くの関係者が「少年」「子供」「バカ」と証言するように、永遠の子供といった趣で、また、若い世代への関心や期待も大きかったようだ。
澁澤が自宅を訪ねてきた学生たちを家に泊めてやり、帰りに自身の著作をお土産として持たせたとか、女子高の同人誌のアンケートに律義に回答していたとか、小さなエピソードがいくつか出てくる。
この女子高生のアンケートで、「あと一日で死ぬとしたら」という問いに答えて澁澤は、「いつものように本を読みます」と書いた。そして、その通り、病室で読書中に頸動脈流が破裂して死んだ。

澁澤と若者について、最も注目すべきは、〈幻想文学新人賞〉だろう。
〈幻想文学新人賞〉は、雑誌「幻想文学」が、中井英夫の後ろ盾を得て1985年に創設した文学賞だ。
川島徳絵(石堂濫)と東雅夫が始めた雑誌「幻想文学」は、早稲田大学のサークル「幻想文学会」のメンバーが中心となって出していた同人誌が母体であり、当時は会社組織ですらなかった。

短歌雑誌の編集者として、塚本邦雄や寺山修司を発掘した経験を持つ中井は、幻想文学の分野にも、新人発掘の場を設けることを常々同誌編集長の東に力説して来た。選考委員になった中井は、「組むなら澁澤しか考えられないね」と、自ら仲介の労を取った。

それまで賞の選考委員の依頼をすべて断ってきた澁澤が、〈幻想文学新人賞〉選考委員を引き受けた理由は、中井じきじきの頼みがあったことだけでない。澁澤自身がそれまで開拓してきた幻想文学を志す、若い世代へ寄せる期待があったからだろうと、磯崎は考えている。
中井と澁澤は、文学賞の選考という骨の折れる仕事をノーギャラで引き受けた。
残念ながら、〈幻想文学新人賞〉は、澁澤の発病のため二回で中断を余儀なくされたが、入選者の中からは、高原英里、牧野修、芦辺拓、阿部喜和子など多彩な人材を輩出した。

60年代にはまともに作家論が論じられることのなかった澁澤も、70年代の半ばころからようやく批判の文章が見受けられるようになる。メジャーになった証かもしれない。
本書の中にはそのいくつかが載せられているが、一部を除けば、概ね納得のいく指摘ばかりだ。「人生の不在、モラルの不在」「ディレッタントの文学」「軽い遊びの文学」「お坊ちゃまの文学」「たんなるメルヘン」「現実逃避の文学」云々……。
そもそも澁澤自身が、「自分の仕事を堅苦しい文学研究の一種だとは思われたくない、そういう誤解はぜひとも訂正しておきたいと思う。つまり、私はエッセイストとして、読者に楽しい読書体験を味わってもらえればそれで十分なのである」「人間の魂の領域を扱う作家は、私にはどうも苦手なのである」と述べているのだ。
澁澤は何かを語る時に、そこに人生哲学とか、時評とか、政治とか、何らかの主義主張を乗せる気はないだろう。
そして、澁澤の愛読者はそういう澁澤が好きなのではないか。批判者・讃美者とも同じ点について正反対の感想を述べているだけだから、この辺について議論するのは不毛な気がする。

ただ、種村季弘が「いつか澁澤批判を書こうと思っている」と語っていたのは、興味深い。澁澤と付き合いが密で、共通点は多いが根幹は全く違う種村による澁澤批判。これが活字になったなら相当な読み応えだったと思うが、結局実現しないまま種村も亡くなった。

澁澤の著作に対する感想は、それぞれの作品から直接感じればいいと思ったので、『龍彦親王航海記』は、おもに澁澤の交友関係に関する記述に注目しながら読み進めた。
その中で、しみじみ感じたのは、澁澤が親しい人を語る時、それは澁澤自身を語っているのとほぼ同義なのではないか、ということだった。
澁澤の生涯に現れた綺羅星のような人々……中でも、「おそらく私の六〇年代は、土方巽を抜きにしては語れないだろう」という土方巽を語る時に、踊るのをやめた土方への批判も含めて、その傾向を強く感じた。
「私たちのまわりには、もう土方巽のような破天荒な人間を見つけ出すことはできない」「戦後の疾風怒濤時代が生んだ一個の天才」と言う澁澤の土方評は、そのまま澁澤本人にも当てはまるのではないか。
告白、心理描写、情念主義という近代日本文学から縁遠い澁澤龍彦の文学は、戦前の日本文学の風土では存在を無視されたかもしれない。現在ではアンモラルな私生活のせいで、作品の評価以前に本人の人間性が激しいバッシングに合ってしまいそうだ。
澁澤龍彦が詰まらなくなったと言いたいのではない。澁澤龍彦は今読んでも面白い。でも、こういう人はもう出られないだろうな、という寂しさが読後に付きまとってしまう。そんなところが、私が少女時代より澁澤を読まなくなった一因な気がする。

1987年8月5日、病床での読書中に頸動脈流の破裂により、澁澤は亡くなった。
澁澤の遺体は、慈恵医大病院から北鎌倉の自宅に車で運ばれた。
車には、龍子夫人のほかに金子國義と四谷シモンが同乗した。車内でシモンが、澁澤から教わったという子守唄をずっと歌っていたという。
8月7日、北鎌倉の東慶寺で葬儀が執り行われた。
真夏のよく晴れた昼間だったのに、出棺の時にまるで天使たちが空から舞い降りてくるみたいに、天気雨がぱらぱら降ってきたことをよく憶えていると、磯崎は記している。

読書中の死、子守歌、天気雨……生前の澁澤は、ほとんど裏表のない人だったそうだが、人生の幕切れまでが、澁澤でしかない人だった。
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