川端康成の『眠れる美女』は、三島由紀夫が解説を手掛けている新潮文庫版がおすすめ。本編だけでなく、三島渾身の美麗な解説も楽しめるので、一粒で二度美味しい。
《主人公は江口という67歳の裕福な老人。妻と嫁いた娘が3人おり、孫もいる。若い頃から漁色家で、最近まで愛人がいたようだ。
江口老人は知り合いの木賀老人の紹介で「眠れる美女」の家に来た。二階建ての寝部屋が二間しかないその娼家で、相手をしてくれるのは普通の娼婦ではない。薬で眠らされた裸の生娘だ。絞め殺されても気がつかないほど深く眠っている。
江口老人は部屋までの廊下を案内されている間中、娼家の女からこの娼家のルールを言い含められる。娘にたちの悪い悪戯をしてはいけないし、起そうとしてもいけない。「安心できるお客さま」は皆ルールを守ってくれている、と釘を刺され、江口老人は苦い笑いも出ない顔で娘の眠る部屋の杉戸を開けるのだが…》
三島は『眠れる美女』を、「その執拗綿密な、ネクロフィリー(注 死体愛好症)的肉体描写は、およそ言語による観念的淫蕩の極致と云ってよい」と評しているが、本書はまさに理想のネクロフィリー小説。
実際の死体って硬くて冷たいし、そのうち腐るので、長期的な愛玩には適さない儚い存在だ。私の中にネクロフィリー的な傾向があるのは間違いないのだが、如何せん腐乱死体は苦手なので、『ネクロマンティック』は受け入れられないのである。
その点、薬で眠らされた娘は、寄り添えばあたたかく柔らかく、ほのぼのとした体臭もして、いかがわしいことをしているという興奮も与えてくれるのに、相手はこちらの存在を知らないという実にありがたい存在だ。なかなかのアイデアなので、この娼家が実際に存在したら好事家が集まるんじゃないかと思う。まぁ、犯罪なのですが。でも、犯罪でなくても世間に露見したら身の破滅になる遊びってきっと楽しいはず。
また、三島の「作品全体が、いかにも息苦しいのは、性的幻想につねに嫌悪が織り込まれているためであり、又、生命の讃仰につねに生命の否定が入り混じっているためである」との指摘も秀逸。変態であることに躊躇いの無い変態文学って読んでいて萎える。自慰を見せつけられているみたいで、勝手にやっていてくれって思う。
川端独特の執拗綿密な表現で娘の体の各部位や匂いの特徴を描き出している合間に、江口老人のとりとめのない回想が差し挟まれているのには、鬱々とした孤独と酩酊感に見舞われる。
娘の爪、歯、舌、唇、指、髪など、身体の各部位を物として執拗に観察し堪能する、噎せ返る様なパーツ愛好が大変結構。江口老人が娼家に通う間隔がどんどん短くなっていく緊迫感も良い。
その一方で、江口老人が、娼家の女の言う「安心できるお客さま」たちの老いぼれぶりを嗤い、彼らに比べれば自分はまだ男性として現役だとか、詰まらないことをブツブツ独白している様は滑稽だ。勃とうが勃つたまいがジジイであることには変わりがないので、要らない抵抗である。中上健次の『岬』に主人公の青年が娼婦(実は妹)にペニスを掴まれて、こんなものに振り回されて可哀そう、と言われるシーンがあるのだが、まさにそれ。こんなものが無くて良かったですよ、私。
江口老人がコロコロ娘を換えるあたりが、男性ならではの感覚なのかな、とも。
私だったら最初の娘で通しますけどね。確かに二度目の娘について娼家の女が述べた「慣れている」と言う言葉は気になりますど。寝ているだけなのに慣れているってどういうことなのかは興味がある。でも、やはり相手をコロコロ換えるのには抵抗がある。それだと、ただの買春になってしまって趣向として面白くない。1人の対象――この場合は、1つと表現するのが正解か?――との関係を大切にしたい。相手は寝ているだけだから、関係も減ったくれもないのだが、そのディスコミュニケーションに身悶えしたいという変態性を抱えている私です。
江口老人――川端とも?――とは変態の方向性が違う私だが、それでも息苦しい閉塞感の中で、六人の眠れる美女たちをキャラ被りせずに描き分けているのを読むのは面白かった。合間合間に差し込まれる江口老人の回想は昔の女との情交の話が多くて、何年、何十年も前のことをしつこいな、と辟易させられたが、眠れる美女たちの描写は甘美なので舐めるように堪能させてもらった。割と早い段階で江口老人が娼家にとって迷惑な客になるであろうことが予測される場面が出て来て、不吉な匂いが立ち込める中、物語が唐突に終わるのも後味が悪くて良い。
江口老人には変態に徹しきれない妙なマトモさがあって、娘と何らかの関係を築きたいという要求を押し出してしまうのだ。不健全なことは不健全なまま通すのが変態の正しい作法だと思うのだけど…。
《主人公は江口という67歳の裕福な老人。妻と嫁いた娘が3人おり、孫もいる。若い頃から漁色家で、最近まで愛人がいたようだ。
江口老人は知り合いの木賀老人の紹介で「眠れる美女」の家に来た。二階建ての寝部屋が二間しかないその娼家で、相手をしてくれるのは普通の娼婦ではない。薬で眠らされた裸の生娘だ。絞め殺されても気がつかないほど深く眠っている。
江口老人は部屋までの廊下を案内されている間中、娼家の女からこの娼家のルールを言い含められる。娘にたちの悪い悪戯をしてはいけないし、起そうとしてもいけない。「安心できるお客さま」は皆ルールを守ってくれている、と釘を刺され、江口老人は苦い笑いも出ない顔で娘の眠る部屋の杉戸を開けるのだが…》
三島は『眠れる美女』を、「その執拗綿密な、ネクロフィリー(注 死体愛好症)的肉体描写は、およそ言語による観念的淫蕩の極致と云ってよい」と評しているが、本書はまさに理想のネクロフィリー小説。
実際の死体って硬くて冷たいし、そのうち腐るので、長期的な愛玩には適さない儚い存在だ。私の中にネクロフィリー的な傾向があるのは間違いないのだが、如何せん腐乱死体は苦手なので、『ネクロマンティック』は受け入れられないのである。
その点、薬で眠らされた娘は、寄り添えばあたたかく柔らかく、ほのぼのとした体臭もして、いかがわしいことをしているという興奮も与えてくれるのに、相手はこちらの存在を知らないという実にありがたい存在だ。なかなかのアイデアなので、この娼家が実際に存在したら好事家が集まるんじゃないかと思う。まぁ、犯罪なのですが。でも、犯罪でなくても世間に露見したら身の破滅になる遊びってきっと楽しいはず。
また、三島の「作品全体が、いかにも息苦しいのは、性的幻想につねに嫌悪が織り込まれているためであり、又、生命の讃仰につねに生命の否定が入り混じっているためである」との指摘も秀逸。変態であることに躊躇いの無い変態文学って読んでいて萎える。自慰を見せつけられているみたいで、勝手にやっていてくれって思う。
川端独特の執拗綿密な表現で娘の体の各部位や匂いの特徴を描き出している合間に、江口老人のとりとめのない回想が差し挟まれているのには、鬱々とした孤独と酩酊感に見舞われる。
娘の爪、歯、舌、唇、指、髪など、身体の各部位を物として執拗に観察し堪能する、噎せ返る様なパーツ愛好が大変結構。江口老人が娼家に通う間隔がどんどん短くなっていく緊迫感も良い。
その一方で、江口老人が、娼家の女の言う「安心できるお客さま」たちの老いぼれぶりを嗤い、彼らに比べれば自分はまだ男性として現役だとか、詰まらないことをブツブツ独白している様は滑稽だ。勃とうが勃つたまいがジジイであることには変わりがないので、要らない抵抗である。中上健次の『岬』に主人公の青年が娼婦(実は妹)にペニスを掴まれて、こんなものに振り回されて可哀そう、と言われるシーンがあるのだが、まさにそれ。こんなものが無くて良かったですよ、私。
江口老人がコロコロ娘を換えるあたりが、男性ならではの感覚なのかな、とも。
私だったら最初の娘で通しますけどね。確かに二度目の娘について娼家の女が述べた「慣れている」と言う言葉は気になりますど。寝ているだけなのに慣れているってどういうことなのかは興味がある。でも、やはり相手をコロコロ換えるのには抵抗がある。それだと、ただの買春になってしまって趣向として面白くない。1人の対象――この場合は、1つと表現するのが正解か?――との関係を大切にしたい。相手は寝ているだけだから、関係も減ったくれもないのだが、そのディスコミュニケーションに身悶えしたいという変態性を抱えている私です。
江口老人――川端とも?――とは変態の方向性が違う私だが、それでも息苦しい閉塞感の中で、六人の眠れる美女たちをキャラ被りせずに描き分けているのを読むのは面白かった。合間合間に差し込まれる江口老人の回想は昔の女との情交の話が多くて、何年、何十年も前のことをしつこいな、と辟易させられたが、眠れる美女たちの描写は甘美なので舐めるように堪能させてもらった。割と早い段階で江口老人が娼家にとって迷惑な客になるであろうことが予測される場面が出て来て、不吉な匂いが立ち込める中、物語が唐突に終わるのも後味が悪くて良い。
江口老人には変態に徹しきれない妙なマトモさがあって、娘と何らかの関係を築きたいという要求を押し出してしまうのだ。不健全なことは不健全なまま通すのが変態の正しい作法だと思うのだけど…。
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