ステファノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ著、マイケル・ポーラン序文。
植物は知性をもっているのだろうか?周りの環境や他の植物、昆虫、高等動物とコミュニケーションをとっているのだろうか?それとも、受動的な生き物で、感覚を持たず、個体として自発的に行動することも、社会的に行動することも、まったくないのだろうか?
著者は、植物が、〈動かない〉、〈脳をもたない〉といった理由から、不当にその地位を貶められてきたと考えている。同じ研究でも、対象が動物であるか植物であるかで、評価が全く異なるのだそうだ。
問題の根っこは、古代ギリシャ時代のアリストテレスの主張にまで遡る。
アリストテレスは、「魂を持つものと持たないものとの相違をもっとも顕著に示すと考えられているのは、次の二つの点、すなわち動(運動変化)と感覚することである(「魂について」)。」と述べ、はじめは植物を「魂を持たないもの」と考えた。しかし、その後、植物にも繁殖能力があることを知ったアリストテレスは、考えを改めなければならなくなった。解決策として、植物に低級な魂を与えたのである。それが「植物的魂」である。これは、もっぱら繁殖だけが可能な魂だ。繫殖能力がある限り、生命の無い物体とみなすことは出来ないとはいえ、植物と無生物にそれほど違いがあるまい、と結論づけたのである。
このアリストテレスの考えは、長い間西洋文化を支配し続けた。
宗教、文学、哲学、更には科学といったあらゆる分野で、植物は無脊椎動物と同じ段階にさえ進化してない、岩石などの動かない物体のすぐ上程度の地位であると考えられてきた。植物には知性があるという説を支持する者は、プラトン、デモクリトス、フェヒナー、ダーウィンといった一部の天才のみであった。
「植物は受動的な存在で、感覚をもたず、コミュニケーション、行動、計算の能力をまったくもっていない。これは完全に誤った進化の道筋をたどった結果である」という考えは、現在での科学界にもしつこく根付いたままだ。こうした植物観が全くの的外れであることは、チャールズ・ダーウィンがはっきりと証明したにも関わらず。
ダーウィンの考えはこうだ。
「地上に現在生息している生物はどれも、それぞれの進化の道筋の最先端に位置している。さもなければ、既に滅んでいたはずだ」。植物が現在のスタイルをとっているのも当然、進化の過程において驚異的な適応能力を発揮した結果なのである。けれども、ダーウィンの膨大な植物研究(六巻の著作とおよそ七十本の論文)は、所詮彼の偉業のおまけに過ぎないと考えられてきた。
本書は以下の五章に分けて、人間とは異なる植物の驚異的な知性について、これまでの植物研究の成果を検証し、植物に与えられてきた不当な評価を撤回せよと迫る。更には、植物を見下す人間の思い上がりや偏見がどうして生まれたのかについても触れている。
第1章 問題の根っこ
第2章 動物とはちがう生活スタイル
第3章 20の感覚
第4章 未知のコミュニケーション
第5章 はるかに優れた知性
ダーウィンの植物研究の概要や、人類よりも洗練された植物の感覚(人類の五感に対し、植物は二十もの感覚を持っている)についての記述は興味深く納得のいく内容だったが、日本人である私には正直言って、欧米人がなぜここまで頑なに植物を貶めるのかがピンとこなかった。長年アリストテレス説とルネサンス期の哲学者の啓蒙に支配され続け、それが文化の土壌になっている欧米人と、近年まで西洋文化にそれほど触れずに来た日本人とでは、共有できる感覚が少ないのかもしれない。
ルネサンス期の数学者・哲学者のシャルル・ド・ボヴェルの『知恵の書』なんて、傲慢を通り越して冒涜ですらあると思う。ド・ボヴェルは『知恵の書』に「生物ピラミッド」なるものを掲載しているのであるが、これがなかなか酷い内容なのだ。
啓蒙を目的としたこの図は、生きている種と生きていない種を発達段階ごとに整理している。この分類は、アリストテレス説に基づいているのであろう。
最初の段階(最下層)は石で、「Est(存在する)」という碑銘が付けられている。つまり、存在する、ただそれだけである。続いて植物。「Est et Vivit(存在し、生きている)」。つまり、存在し、生きているだけである。その次の段階が動物で、「Sentit(感じる)」。最後の人間に至ってようやく「Inteligit(知能を持つ)」になる。つまり、人間だけが知能を持っているということを主張したいわけだ。生き物の間には進化段階の違いや生命能力の上下があるというルネサンス的な観念の原型だが、この考え方は現代においても多くの人々の意識に染み付いていて、文化の土壌の一部になっている。チャールズ・ダーウィンの『種の起源』出版から150年たった今でも、だ。
以下の文は、『種の起源』のエピローグである。
“……この生命観には荘厳さがある。生命は、もろもろの力と共に数種類あるいは一種類に吹き込まれたことに端を発し、重力の不変の法則にしたがって地球が循環する間に、じつに単純なものからきわめてすばらしい生物種が際限なく発展し、なおも発展しつつあるのだ(『種の起源・下』、光文社古典新訳文庫)。”
ダーウィンはこの考えに基づいて、植物の根端には動物の脳が持つ機能の多くを備えた植物なりの脳に対応するものがあるという仮説を立てた。
ダーウィンと彼の息子フランシスの主張は大きな反響を呼び、研究者たちは二つに分かれて論争を繰り広げた。しかし、ダーウィン親子の説が定説となった今でも、植物研究は軽んじられている。まるで、見たくないものは視界に入れないようにしているかのようだ。
グレゴール・ヨハン・メンデルのエンドウ豆についての実験は、遺伝学の誕生を告げる画期的なものだが、40年もの間ほぼ黙殺されていた。
バーバラ・マクリントックは、「動く遺伝子」の発見によってノーベル賞を受賞したが、元々がトウモロコシを使った実験であったために、40年もの間、学会から無視されていた。マクリントックの功績が正当に評価され、ノーベル賞を受賞するには、80年代に同様の研究を動物に対して行い、「再発見」する必要があったのだ。
著者は、「植物が人間と異なる構造をもっているために、我々は植物を異質で、自分たちとは無縁な存在だと思うようになってしまった」と言う。なるほど、異質ではあるかもしれない。しかし、劣っているという証左にならないだろう。
それ以上に、植物が人間と無縁な存在と考えるのは、大いなる傲慢である。何故なら、植物は私たち人間がいなくても、何の問題もなく生きることが出来るのに対し、私たち人間は植物無しでは忽ち絶滅してしまうからだ。人間が植物に依存しているもののうち、最も解り易いのが食料である。その次が酸素だ。人間が使っているエネルギーの大半が植物由来であることや、数千年前から人間はそのエネルギーを使わせてもらっていることも忘れてはならない。
食料、空気、それからエネルギー。人間が植物に頼っているのはこの三つだけではない。医薬品の成分は、植物から作られた分子か、人間が植物のつくった化学物質を真似て合成した分子だ。地球上の多細胞生物の99パーセントを植物が占めていることをからも、決して無視できる存在などではない。
本書を最後まで読めば、「脳がないなら植物はものを考えていないのではないか?」という疑問が偏見に過ぎないことが理解できる。
「知性は問題を解決する能力である」と定義するなら、植物は人間よりもはるかに知略に富んだ生き方をしている、と言えるかもしれない。
「知性は人間にしかない認知能力や抽象的な嗜好と関わっているため、人間だけが特権的に持っているもの」という人間中心主義から一歩引いて、「そもそも知性とは何か?」を考えると、植物は豊かな可能性を提示してくれる。それは、植物に依存して生きている人間にとっても深く関わりのあることなのだ。
植物は知性をもっているのだろうか?周りの環境や他の植物、昆虫、高等動物とコミュニケーションをとっているのだろうか?それとも、受動的な生き物で、感覚を持たず、個体として自発的に行動することも、社会的に行動することも、まったくないのだろうか?
著者は、植物が、〈動かない〉、〈脳をもたない〉といった理由から、不当にその地位を貶められてきたと考えている。同じ研究でも、対象が動物であるか植物であるかで、評価が全く異なるのだそうだ。
問題の根っこは、古代ギリシャ時代のアリストテレスの主張にまで遡る。
アリストテレスは、「魂を持つものと持たないものとの相違をもっとも顕著に示すと考えられているのは、次の二つの点、すなわち動(運動変化)と感覚することである(「魂について」)。」と述べ、はじめは植物を「魂を持たないもの」と考えた。しかし、その後、植物にも繁殖能力があることを知ったアリストテレスは、考えを改めなければならなくなった。解決策として、植物に低級な魂を与えたのである。それが「植物的魂」である。これは、もっぱら繁殖だけが可能な魂だ。繫殖能力がある限り、生命の無い物体とみなすことは出来ないとはいえ、植物と無生物にそれほど違いがあるまい、と結論づけたのである。
このアリストテレスの考えは、長い間西洋文化を支配し続けた。
宗教、文学、哲学、更には科学といったあらゆる分野で、植物は無脊椎動物と同じ段階にさえ進化してない、岩石などの動かない物体のすぐ上程度の地位であると考えられてきた。植物には知性があるという説を支持する者は、プラトン、デモクリトス、フェヒナー、ダーウィンといった一部の天才のみであった。
「植物は受動的な存在で、感覚をもたず、コミュニケーション、行動、計算の能力をまったくもっていない。これは完全に誤った進化の道筋をたどった結果である」という考えは、現在での科学界にもしつこく根付いたままだ。こうした植物観が全くの的外れであることは、チャールズ・ダーウィンがはっきりと証明したにも関わらず。
ダーウィンの考えはこうだ。
「地上に現在生息している生物はどれも、それぞれの進化の道筋の最先端に位置している。さもなければ、既に滅んでいたはずだ」。植物が現在のスタイルをとっているのも当然、進化の過程において驚異的な適応能力を発揮した結果なのである。けれども、ダーウィンの膨大な植物研究(六巻の著作とおよそ七十本の論文)は、所詮彼の偉業のおまけに過ぎないと考えられてきた。
本書は以下の五章に分けて、人間とは異なる植物の驚異的な知性について、これまでの植物研究の成果を検証し、植物に与えられてきた不当な評価を撤回せよと迫る。更には、植物を見下す人間の思い上がりや偏見がどうして生まれたのかについても触れている。
第1章 問題の根っこ
第2章 動物とはちがう生活スタイル
第3章 20の感覚
第4章 未知のコミュニケーション
第5章 はるかに優れた知性
ダーウィンの植物研究の概要や、人類よりも洗練された植物の感覚(人類の五感に対し、植物は二十もの感覚を持っている)についての記述は興味深く納得のいく内容だったが、日本人である私には正直言って、欧米人がなぜここまで頑なに植物を貶めるのかがピンとこなかった。長年アリストテレス説とルネサンス期の哲学者の啓蒙に支配され続け、それが文化の土壌になっている欧米人と、近年まで西洋文化にそれほど触れずに来た日本人とでは、共有できる感覚が少ないのかもしれない。
ルネサンス期の数学者・哲学者のシャルル・ド・ボヴェルの『知恵の書』なんて、傲慢を通り越して冒涜ですらあると思う。ド・ボヴェルは『知恵の書』に「生物ピラミッド」なるものを掲載しているのであるが、これがなかなか酷い内容なのだ。
啓蒙を目的としたこの図は、生きている種と生きていない種を発達段階ごとに整理している。この分類は、アリストテレス説に基づいているのであろう。
最初の段階(最下層)は石で、「Est(存在する)」という碑銘が付けられている。つまり、存在する、ただそれだけである。続いて植物。「Est et Vivit(存在し、生きている)」。つまり、存在し、生きているだけである。その次の段階が動物で、「Sentit(感じる)」。最後の人間に至ってようやく「Inteligit(知能を持つ)」になる。つまり、人間だけが知能を持っているということを主張したいわけだ。生き物の間には進化段階の違いや生命能力の上下があるというルネサンス的な観念の原型だが、この考え方は現代においても多くの人々の意識に染み付いていて、文化の土壌の一部になっている。チャールズ・ダーウィンの『種の起源』出版から150年たった今でも、だ。
以下の文は、『種の起源』のエピローグである。
“……この生命観には荘厳さがある。生命は、もろもろの力と共に数種類あるいは一種類に吹き込まれたことに端を発し、重力の不変の法則にしたがって地球が循環する間に、じつに単純なものからきわめてすばらしい生物種が際限なく発展し、なおも発展しつつあるのだ(『種の起源・下』、光文社古典新訳文庫)。”
ダーウィンはこの考えに基づいて、植物の根端には動物の脳が持つ機能の多くを備えた植物なりの脳に対応するものがあるという仮説を立てた。
ダーウィンと彼の息子フランシスの主張は大きな反響を呼び、研究者たちは二つに分かれて論争を繰り広げた。しかし、ダーウィン親子の説が定説となった今でも、植物研究は軽んじられている。まるで、見たくないものは視界に入れないようにしているかのようだ。
グレゴール・ヨハン・メンデルのエンドウ豆についての実験は、遺伝学の誕生を告げる画期的なものだが、40年もの間ほぼ黙殺されていた。
バーバラ・マクリントックは、「動く遺伝子」の発見によってノーベル賞を受賞したが、元々がトウモロコシを使った実験であったために、40年もの間、学会から無視されていた。マクリントックの功績が正当に評価され、ノーベル賞を受賞するには、80年代に同様の研究を動物に対して行い、「再発見」する必要があったのだ。
著者は、「植物が人間と異なる構造をもっているために、我々は植物を異質で、自分たちとは無縁な存在だと思うようになってしまった」と言う。なるほど、異質ではあるかもしれない。しかし、劣っているという証左にならないだろう。
それ以上に、植物が人間と無縁な存在と考えるのは、大いなる傲慢である。何故なら、植物は私たち人間がいなくても、何の問題もなく生きることが出来るのに対し、私たち人間は植物無しでは忽ち絶滅してしまうからだ。人間が植物に依存しているもののうち、最も解り易いのが食料である。その次が酸素だ。人間が使っているエネルギーの大半が植物由来であることや、数千年前から人間はそのエネルギーを使わせてもらっていることも忘れてはならない。
食料、空気、それからエネルギー。人間が植物に頼っているのはこの三つだけではない。医薬品の成分は、植物から作られた分子か、人間が植物のつくった化学物質を真似て合成した分子だ。地球上の多細胞生物の99パーセントを植物が占めていることをからも、決して無視できる存在などではない。
本書を最後まで読めば、「脳がないなら植物はものを考えていないのではないか?」という疑問が偏見に過ぎないことが理解できる。
「知性は問題を解決する能力である」と定義するなら、植物は人間よりもはるかに知略に富んだ生き方をしている、と言えるかもしれない。
「知性は人間にしかない認知能力や抽象的な嗜好と関わっているため、人間だけが特権的に持っているもの」という人間中心主義から一歩引いて、「そもそも知性とは何か?」を考えると、植物は豊かな可能性を提示してくれる。それは、植物に依存して生きている人間にとっても深く関わりのあることなのだ。
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