カズオ・イシグロの『夜想曲集』は、著者初の短編集。収録されていているのは『老歌手』『降っても晴れても』『モールパンヒルズ』『夜想曲』『チェリスト』の五編。すべて音楽にまつわる物語である。
≪『老歌手』はベネチアを舞台とした、有名な老歌手トニー・ガードナーと共産主義の国から来た若いギタリスト・ヤネクの物語。
ヤネクは、サンマルコ広場で観光客相手に演奏するミュージシャンだが、正規のバンドメンバーではない。共産主義の国(明記されていないが、多分ポーランド)から来たヤネクは、同業者からもその他の地元民からも見下されているのだ。
ある日、ヤネクは観光客の中にトニー・ガードナーがいるのを見つけた。
ガードナーは往年の名歌手だが、流行が目まぐるしく移り変わる資本主義社会ではすでに過去の人となりつつある存在。しかし、ヤネクにとっては変わらない崇拝の対象だ。ヤネクの母がガードナーの熱烈なファンで、ヤネクが音楽の世界で生きていくことを決めたのもガードナーの歌だった。
突然話しかけてきた若い無名のミュージシャンにガードナーは好意的だった。
そして、ヤネクはガードナーから「ゴンドラからバルコニーにいる妻に思い出の歌をプレゼントしたいので、演奏を引き受けてくれないか」と依頼される。熟年夫婦の10代の若者のような可愛らしい計画に、結婚記念日のお祝いかと考えたヤネクだが、事態は全く違っていて…≫
共産主義の国から来たヤネクは純粋で可愛い人だ。
「一流が廃れる事なんてありません」とか「愛が冷めたのなら、悲しいですが二人は別れます。でも、互いに愛し合っているのなら、永遠に一緒にいるのではありませんか。どの歌もそういっています」と素直に語る彼はきっと綺麗な目をしているのだろう。彼はその性質故にガードナーに気に入られたのだろうが、同じ理由でミュージシャンとしては大成しないだろう。
一方、ガードナーは資本主義社会で成功を掴み、今は廃れつつある元スターだ。
人気や名声が才能とは関係がないこと、それらは仕掛けて作り出すものであることを知っている。だから、カムバックのための話題作りにまだ愛し合っている妻と別れて、若い女と再婚することも厭わない。
二人の演奏は素晴らしかった。そして、その晩以降、二人は二度と会うことはなかった。
数ヶ月後、ヤネクはガードナー夫妻が離婚したことを知る。
それでもヤネクはガードナーがちゃんとした男だったと思うし、カムバックを果たそうと果たすまいと、自分にとってはいつまでも偉大な歌手の一人なのだと思うのだ。この変わらない心が尊い。
≪『夜想曲』は、才能に恵まれながらも醜さゆえに不遇をかこつサックス奏者・スティーブと、ホテルの隣室に滞在していたリンディ・ガードナーの物語。このリンディは、『老歌手』のトニー・ガードナーの元妻である。彼女の経歴は『老歌手』の中で、トニーの口からから語られている。
スティーブは間違いなく才能に恵まれたミュージシャンだ。しかし、ミュージシャンが成功するためには才能よりも容姿なのだ。美形かセクシーな悪人顔じゃないと人気は出ない。スティーブのようなどんくさいブ男ではだめなのだ。
マネージャーのブラッドリーからしつこく整形を勧められて辟易しているスティーブであったが、転機が訪れた。妻のヘレンから「実業家と再婚したいのでスティーブとは別れたい。しかし、自分たちだけ幸せになるのは気が引けるので、スティーブが一流の整形外科医の手術を受けられるよう手配させて欲しい。そして、スティーブにミュージシャンとして成功して欲しい」と懇願されたのだ。
術後、スティーブは密かにビバリーヒルズのホテルの特別フロアに連れてこられた。回復するまで、そこに滞在することになっているのだ。
その隣室にリンディ・ガードナーがいた。
リンディは、有名歌手・トニー・ガードナーの元妻。彼女は若返りのための整形手術を受けた直後だった。美貌を武器に地位や経済力のある男を渡り歩くことで名声を得た女。本人の才能は無いに等しい。この世の浅はかさと胸糞の悪さを象徴する存在――。スティーブは、整形手術を受けたことで、自分がまともなミュージシャンからリンディと同じ人種になってしまったことに思い至り、後悔の念に苛まされるのだが…≫
「人生って、誰か一人を愛することよりずっと大きいんだと思う。あなたはその人生に出ていくべき人よ、スティーブ。あなたみたいな人はその他大勢と一緒にいちゃだめ」
39歳のスティーブに50過ぎのリンディが送った言葉だ。
リンディは俗物そのものの女なのだが、七面鳥の中にトロフィーを隠すとか可愛いことをやってくれるので憎めない。何より度胸がある。リンディが先にチェックアウトして、二人の交流は終わる。もう会うことはないだろう。スティーブが成功を掴めるのかはわからないけど、リンディはスティーブにとって幸運の女神にちがいない。スティーブがリンディの幸運を祈っているように、リンディもスティーブの幸運を祈っていると思うのだ。
五編とも丁寧に書かれた好感の持てる物語だった。どの話にも共通しているのは男女間の危機。副題に「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」とあるように、ほろ苦いけど優しい味わい。音楽に詳しくない私でも問題なく楽しめた。
≪『老歌手』はベネチアを舞台とした、有名な老歌手トニー・ガードナーと共産主義の国から来た若いギタリスト・ヤネクの物語。
ヤネクは、サンマルコ広場で観光客相手に演奏するミュージシャンだが、正規のバンドメンバーではない。共産主義の国(明記されていないが、多分ポーランド)から来たヤネクは、同業者からもその他の地元民からも見下されているのだ。
ある日、ヤネクは観光客の中にトニー・ガードナーがいるのを見つけた。
ガードナーは往年の名歌手だが、流行が目まぐるしく移り変わる資本主義社会ではすでに過去の人となりつつある存在。しかし、ヤネクにとっては変わらない崇拝の対象だ。ヤネクの母がガードナーの熱烈なファンで、ヤネクが音楽の世界で生きていくことを決めたのもガードナーの歌だった。
突然話しかけてきた若い無名のミュージシャンにガードナーは好意的だった。
そして、ヤネクはガードナーから「ゴンドラからバルコニーにいる妻に思い出の歌をプレゼントしたいので、演奏を引き受けてくれないか」と依頼される。熟年夫婦の10代の若者のような可愛らしい計画に、結婚記念日のお祝いかと考えたヤネクだが、事態は全く違っていて…≫
共産主義の国から来たヤネクは純粋で可愛い人だ。
「一流が廃れる事なんてありません」とか「愛が冷めたのなら、悲しいですが二人は別れます。でも、互いに愛し合っているのなら、永遠に一緒にいるのではありませんか。どの歌もそういっています」と素直に語る彼はきっと綺麗な目をしているのだろう。彼はその性質故にガードナーに気に入られたのだろうが、同じ理由でミュージシャンとしては大成しないだろう。
一方、ガードナーは資本主義社会で成功を掴み、今は廃れつつある元スターだ。
人気や名声が才能とは関係がないこと、それらは仕掛けて作り出すものであることを知っている。だから、カムバックのための話題作りにまだ愛し合っている妻と別れて、若い女と再婚することも厭わない。
二人の演奏は素晴らしかった。そして、その晩以降、二人は二度と会うことはなかった。
数ヶ月後、ヤネクはガードナー夫妻が離婚したことを知る。
それでもヤネクはガードナーがちゃんとした男だったと思うし、カムバックを果たそうと果たすまいと、自分にとってはいつまでも偉大な歌手の一人なのだと思うのだ。この変わらない心が尊い。
≪『夜想曲』は、才能に恵まれながらも醜さゆえに不遇をかこつサックス奏者・スティーブと、ホテルの隣室に滞在していたリンディ・ガードナーの物語。このリンディは、『老歌手』のトニー・ガードナーの元妻である。彼女の経歴は『老歌手』の中で、トニーの口からから語られている。
スティーブは間違いなく才能に恵まれたミュージシャンだ。しかし、ミュージシャンが成功するためには才能よりも容姿なのだ。美形かセクシーな悪人顔じゃないと人気は出ない。スティーブのようなどんくさいブ男ではだめなのだ。
マネージャーのブラッドリーからしつこく整形を勧められて辟易しているスティーブであったが、転機が訪れた。妻のヘレンから「実業家と再婚したいのでスティーブとは別れたい。しかし、自分たちだけ幸せになるのは気が引けるので、スティーブが一流の整形外科医の手術を受けられるよう手配させて欲しい。そして、スティーブにミュージシャンとして成功して欲しい」と懇願されたのだ。
術後、スティーブは密かにビバリーヒルズのホテルの特別フロアに連れてこられた。回復するまで、そこに滞在することになっているのだ。
その隣室にリンディ・ガードナーがいた。
リンディは、有名歌手・トニー・ガードナーの元妻。彼女は若返りのための整形手術を受けた直後だった。美貌を武器に地位や経済力のある男を渡り歩くことで名声を得た女。本人の才能は無いに等しい。この世の浅はかさと胸糞の悪さを象徴する存在――。スティーブは、整形手術を受けたことで、自分がまともなミュージシャンからリンディと同じ人種になってしまったことに思い至り、後悔の念に苛まされるのだが…≫
「人生って、誰か一人を愛することよりずっと大きいんだと思う。あなたはその人生に出ていくべき人よ、スティーブ。あなたみたいな人はその他大勢と一緒にいちゃだめ」
39歳のスティーブに50過ぎのリンディが送った言葉だ。
リンディは俗物そのものの女なのだが、七面鳥の中にトロフィーを隠すとか可愛いことをやってくれるので憎めない。何より度胸がある。リンディが先にチェックアウトして、二人の交流は終わる。もう会うことはないだろう。スティーブが成功を掴めるのかはわからないけど、リンディはスティーブにとって幸運の女神にちがいない。スティーブがリンディの幸運を祈っているように、リンディもスティーブの幸運を祈っていると思うのだ。
五編とも丁寧に書かれた好感の持てる物語だった。どの話にも共通しているのは男女間の危機。副題に「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」とあるように、ほろ苦いけど優しい味わい。音楽に詳しくない私でも問題なく楽しめた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます