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箸墓古墳の謎

2009-05-30 19:02:03 | Weblog
箸墓古墳の年代測定が西暦248年頃までさかのぼるとのニュースで、いきおい卑弥呼の墓、邪馬台国論争に決着かなどのコメントがあいつぐ。
西暦248年頃というのは卑弥呼が亡くなった時代と推定される時期で、魏志倭人伝には、大きな墓が作られたということで、その大きさが箸墓古墳と類似する。そうすると、邪馬台国畿内説(大和説)で決着かという話がでてくるのも無理はない。
年代測定の科学的実証の方法論についてはひとまずおき、この測定が正しいとすると、客観的にいえることは、3世紀前半、大和地方には大きな政治的権力をもった「くに」があったということだ。これが、後の大和朝廷に発展していったものかどうかはわからないが、「古墳時代」初期が大和地域から発展していったことはより明白となっている。そうすると、いかなる者が箸墓古墳に埋葬されていたのかが重要となるが、現在、箸墓古墳は、従来の伝承通り、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓とし、皇族の陵墓として指定され宮内庁の管轄下のもと、発掘はもちろん一般公開もされていない。さきほどの年代測定は箸墓古墳の周辺の外堀にあたる部分から発掘された遺物をもとにだしたものだ。古墳内の発掘調査に基づいたものではない。つまり、この客観的な状況証拠からさらに突っ込んだ探求をしようとすると宮内庁の壁にぶつかり、直接証拠を発見することは困難になる。昔とちがって、不敬罪はナンセンスであり、考古学的研究調査をはばむ客観的合理的理由があるとは思われないが。

さて、邪馬台国畿内説、大和説は、考古学では既に通説的勢いであるが、文献学的には、例の魏志倭人伝の記述の「南を東と読み替える」「南方的文化の記載」がきにかかる。ただし、方向は誤記とし、随書が、魏志の邪馬台国と大和を同一視していることから、説明をつけるとしても、いれずみだとか鬼道であるとか、その後の大和朝廷の文化伝統とそぐわない要素をどうみるか。それとも邪馬台国(旧ヤマト王権)を大和朝廷(新ヤマト王権)が滅ぼしたのか(古事記、日本書紀で触れていないのはそのためか)。

箸墓古墳に埋葬されたという倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は天皇の姉妹で、巫女として大物主の命の妻となったとの伝承がある。大物主の命はへびの姿であらわれたため、驚いた百襲姫は、陰部に箸をついて、それがもと亡くなったという。異類通婚伝説の原型てきな話でもあり、天孫族、天津神が国ゆずりにより放逐した国津神との関係をなにやら暗喩するもののようでもあり、謎にみちている。この箸墓は、昼は人が夜は神がつくったとも伝わる(歴史学者は、これを天皇の当時の権力の効力は昼の世界のみで夜は神々が力まだ及んでおり、天皇の権力は絶対的ではなかったと解釈するものもある。)。
この百襲姫は予言を行い的中させたともいう。鬼道を使ったする卑弥呼のイメージともかぶる。
しかし、魏志倭人伝は「女王国」とはっきりと記載し、権力者としてみている。この権力者のイメージが百襲姫とはあわない。魏志は倭国大乱ののち、女王卑弥呼をたてて倭国が平定したとの記録があり、単なる巫女ではない。
女王、女帝のイメージは、日本書紀が比定した神功皇后のほうがある。しかし、神功皇后は応神天皇の母であり、卑弥呼のように一生独身で子がいなかったわけではない。
このように仮に箸墓古墳が卑弥呼の墓だったとしても、その後の大和朝廷との関係、伝承や記紀の記載との関係(無関係かもしれんが)などなど謎は深まるばかりであろう。
まずは、箸墓古墳の発掘調査を宮内庁が許可すれば、何か新たな真実がわかるかもしれない。

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