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集団的自衛権の解釈その1 類型的考察

2015-07-30 01:00:36 | Weblog
集団的自衛権の解釈について その1 類型的考察

※本稿は昨年、つまり安倍政権の集団的自衛権容認の閣議決定前の時点での執筆したものである。具体例が当時のもので現在の議論と多少ずれがある。なお、今から本稿は、振り返ると個別的自衛権の拡張論であり、今日の維新の党や民主党の一部の考えに近いが、この考えの問題点については、特に政権及び与党からの国際法上の集団的自衛権の解釈と整合しないとの批判については、次回に論じる。

1 集団的自衛権とは、他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利である。その本質は、直接に攻撃を受けている他国を援助し、これと共同で武力攻撃に対処するというところにある(Wikipediaより)。

2 集団的自衛権は、第二次大戦後の国連憲章第51条により明記されている。安全保障理事会の常任理事国による拒否権発動により国連による安全保障発動がなされない場合の不都合を「集団安全保障」という枠組みで個別自衛権保障とともに承認する必要があったためである。また、冷戦下の東西陣営の北大西洋条約機構(NATO)とワルシャワ条約機構は集団安全保障を反映するものであり、集団的自衛権はその実効性を図るものといえた。
  東アジアにおいては、日米安全保障条約が冷戦下に締結されたが、日本の平和憲法による制約から、その安全保障体制は米国が日本を防衛するという片務関係となっており、日本政府の解釈としても、「集団的自衛権は国際法上有しているが、日本国憲法の制約上行使できない」という歴代内閣が踏襲してきている。この解釈は、戦争を放棄する日本国憲法9条は、自衛権を放棄するものではなく、自衛のための必要最小限度の実力を許容するものであるが(個別的自衛権)、集団的自衛権は、「自衛のための必要最小限度」を超えるものであり、憲法上行使することは許されないと解するものである。この解釈は、一方で、自衛隊を合憲とするための拡張解釈を行いつつ、他方、その歯止め、限界付けとして「自衛のための必要最小限度」という概念を用いて、自衛権発動を制約する限定解釈を行うものである。

3 しかし、近時の自民党安倍政権は、かかる政府解釈を変更し、集団的自衛権を憲法上容認する方向に動き始めている。
  その是非、特に憲法9条改正問題とからみ、議論がまきおこっている。
  まず、その前提としては、集団的自衛権が想定されるケースとともに、国際環境の変化を考察してみたい。
  日本の安全保障は、日米安全保障条約を基盤としている。よって、日本が他国により攻撃された場合、米国は、同条約により、他国に反撃することができる。しかし、これは片務条約で有り、米国が他国に攻撃された場合、日本が他国に反撃することを認めるものではないし、従前の解釈からすれば、日本の同反撃は集団的自衛権の行使として許されない。
  しかし、日本の領海・領空内における米軍基地、米軍船舶等に対する攻撃は、日本に対する攻撃とみなしてよく、個別的自衛権の行使として他国に反撃することも許される。

ところで、1990年代に東西冷戦が終結し、日本を取り巻く状況は、当初はアメリカ一極主義による国際秩序が形成される動向であったが、湾岸戦争、911テロ、アフガン戦争、イラク戦争は、アメリカの軍事的行動が、平和と安定よりも、イスラム圏などでの混乱をもたらし、一方、東アジアでは、北朝鮮の核開発とその軍事政権の危険性が意識され、経済発展により、アメリカに次ぐ経済軍事大国化していく中国の影響力が強くなり、2000年代から、日中韓の歴史認識、領土問題による対立が激化している。
 日本の冷戦後の安全保障の対外認識は、北朝鮮脅威論と中国脅威論である。
北朝鮮脅威論は、テポドン、ノドンなどの弾道ミサイルの実験、核開発が具体的な周辺に対する脅威となり、安全保障上は弾道ミサイル迎撃システムが対抗手段として強調された。
中国脅威論は、尖閣諸島(中国漁船の海上保安船に対する追突事件、尖閣諸島国有化事件、中国の反日暴動、中国の防空識別圏の設定など)や歴史認識(安倍首相の靖国神社参拝)をめぐる問題から、日中関係は悪化し、尖閣周辺海域での偶発的軍事衝突が懸念される状態にまでなっており、2014年1月現在、安倍政権と中国との外交関係は冷え切っている。

  こういった国際的背景の中、2008年6月の第一次安倍政権の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の報告書は、以下の類型を集団的安全保障が問題となるものとして提唱している(2013年、第二次安倍政権でもこれをベースに検討が行われている。)。

(1)公海における米艦防護
(2)米国に向かうかもしれない弾道ミサイルの迎撃
(3)国際的な平和活動における武器使用
(4)同じPKOに参加している他国の活動に対する後方支援

  まず、(1)公海上の米軍船舶に攻撃があった場合、日本の自衛隊は攻撃した他国について反撃できるかである。①日米の共同演習等の共同行動の際の攻撃であれば、日本の船舶に対する攻撃とみなして、個別的自衛権の行使として可能であろう。では、②米軍が単独行動を行っていた場合はどうか。この点、尖閣諸島の警備など「共同の目的」であれば個別的自衛権行使の解釈として可能もいえなくはないが、その主観的目的の有無は現場での判断は容易ではない。むしろこのケースは、「集団的自衛権」の行使でなければ認められないとケースといえよう。
そうするとこの②のケースはさらに具体的な状況としていかなることが考えられるか。
ア 米軍から援護・救援要請がある場合
  近辺にいる自衛艦が援護救援要請を受けて行動するのが通常であろう。その際、米軍が既に被害を受け救援活動の意味をもつ場合は、その際の反撃行為は救援活動保全のための防御的行為としての意味をもつ。
イ 米軍からの援護・救援要請がない場合
  既に攻撃を受けている場合で、米軍からの要請がない場合、日本の自衛隊が援護・救援をする義務は日米安全保障条約上はない。しかし、日本がこれを察知した場合は、米軍へのコンタクトをとると思われ、それでも米軍側の要請がない場合は、人道上の救難活動のみ可能であろう。
  攻撃が切迫している場合で、日本の自衛隊がこれを察知し、相手国に先制攻撃を行うことはどうか。これは集団的自衛権のみならず個別的自衛権においても問題となる。発射されたミサイルの迎撃については、防御の一環で有り、問題はない。しかし、ミサイル発射前の船舶等に対する攻撃は、どうか?「攻撃は最大の防御」とみて許容する考えもありえようが、事後先制攻撃が自衛権の行使と主張立証することは困難であろう。
なお、(2)弾道ミサイルが日本上空を飛行して米国本土を狙う場合の自衛隊の迎撃についても問題とされるが、これは集団的自衛権行使の容認でしか許容されないであろう(もっとも援護・要請を集団的自衛権の行使の要件とすると、要請がない場合は認められないし、集団的自衛権は権利ではあっても義務ではない。)。

4 以上を前提にすると、(1)については、「公海上での単独行動をしている米軍船舶に対する攻撃」で米軍から援護・救援の要請があった場合の反撃行為の可否こそが現実的問題といえる。しかし、この問題についても先制攻撃論を許容しない限りは、個別的自衛権の拡張解釈により、認めうると思われる。すなわち、攻撃を受けてから後、米軍から要請により自衛隊が出動する場合は、救援活動・後方支援がメインになるのが現実的であり、人命救助及び自艦の安全確保に付随する反撃行為は防御活動の一環として、「個別的自衛権」の範囲内と解することができる。(2)のミサイル迎撃論については、弾道ミサイルを迎撃できるかという技術的問題もあるが、仮にそれが可能とした場合、領空侵犯論による個別的自衛権の拡張解釈による容認が限度であろう。日本国上空を飛ばない場合は、個別的自衛権の拡張解釈でも難しく、これを容認する場合は、集団的自衛権行使の容認となるが、かかる場合まで、認める必要があるかどうか。最近の北朝鮮の弾道ミサイル実験において、日米のイージス艦が配備されたが、その内の米国のイージス艦は日本近海ではなく米本土防衛のために配備されたという。つまり、米国は、自国を防衛するのに日本のイージス艦に依存していないのであり、また、日本本土に対する攻撃より米国本土に対する攻撃に対する防衛を当然重視している。また、仮に北朝鮮が米国本土攻撃のため弾道ミサイル発射を企てる場合、その情報の察知は日本の自衛隊より、米軍のほうが早いであろうし、米軍により迎撃が困難と判断される場合、米軍は日本や韓国に攻撃を要請するより、米軍が先制攻撃をかけるのが効果的であろう。おそらくこの議論が活発化した背景は、米軍の対北朝鮮のミサイル防衛システムの配備とその実効性が不十分で有り、その隙間を日本や韓国のイージス艦で補填しようとする米国の軍事的戦略の一環であったのではないか。そうすると、この類型の集団的自衛権行使の必要性は、米軍のミサイル防衛システムの配備、能力に反比例するものであろう。そうすると、ことの解決は、米国のミサイル防衛システムの能力向上という軍事的技術の問題であって、法解釈の問題ではないと言うことになる。

5 PKOでの活動、つまり(3)(4)についてはどうか。
  本来、PKOの活動は、国連の管理下におかれており、国家主権による武力行使の発動ではなく、憲法9条の直接適用はないと解することができるし、国際協調主義の理念からすれば、(3)の武器使用も自衛のためはもちろん平和維持活動に付随する治安維持のための武器使用、他のPKO参加国軍の防衛援助のための武器使用も、その目的に照らし必要かつ相当な範囲(均衡性・比例性の原則)で許されると解しうる。(4)の後方支援も同じに考えられる。この問題を「集団的自衛権」の行使とみるのは、法解釈として妥当とは思われない。既に指摘したとおり、集団的自衛権は、国連の集団安全保障による自衛が困難な場面において各主権国家の自衛権確保のために容認されるものであるが、PKOは国連の管理下における行動であり、その行動は、広く集団安全保障の実現であって、主権国家固有の自衛権の問題ではないと解されるからである。すなわち、PKO活動に関する(3)(4)は、集団的自衛権の埒外であり、同行使の問題ではない。

6 以上からすると、集団的自衛権が厳密な意味で問題となるのは、(1)においては、「公海上での単独行動をしている米軍船舶に対する攻撃」で米軍から援護・救援の要請があった場合、(2)においては、「米国本土に対する攻撃」で米軍からの援護等の要請があった場合であろう。これを肯定する場合は、解釈の手法としては、A この限度で集団的自衛権の行使を認める見解、B 個別的自衛権の拡張解釈による見解が考えられる。
 A見解では、かかる類型に限定する理論的根拠は明確でなく、米国の要請という意思表示に根拠を求めると、米軍が要請する限り、それに応えるかどうかの日本国の裁量が問題となる(つまり日本はノーといえるかである)。本来、集団的自衛権は権利であっても義務ではないのであるから、集団的自衛権行使が可能でも、戦争に巻き込まれたくない場合は、ノーということができる。これを否定する、つまり義務づけるには日米安全保障条約の改正が必要となろう。もし、A見解をとり、義務付けを認めるのならば、例えば、911の同時多発テロに対する反撃としてのアフガン戦争に対して、米国の要請があれば、日本は積極的に武力行使に参加する法的義務が生じることになろう(仮に法的義務付けがなくても、同盟国からの要請は、そのときどきの各国間の力関係に影響を受けるし、事実上ノーとは言いにくいことも十分あり得るが、ノーという根拠として「憲法上許されません」という弁明は、そういった場合でも、切れる効果的なカードといえる。よって、A見解をとっても、憲法上の限界、限定解釈の余地を残しておくべきであろう。)。
 B見解は、個別的自衛権の延長と評価できる範囲内での攻撃をみとめるものであるが、拡張される個別的自衛権と禁止される集団的自衛権の境界線が相対化し、不明瞭になるおそれがある。しかし、許容される攻撃は「自衛のための必要最小限度」という限定がかかるのであり、抽象的であるが、単なる集団的自衛権の行使を許容するより、限界線を理論上設けることができる。ただ、その限界は、許されない類型の具体化、いわゆるネガティブリストを詳細に設けることで恣意的運用を防ぐことが考えられる。(なお、憲法改正論としては、憲法の制限規範としての意味からすると、自衛隊及び個別的自衛権の明記とその文民統制のほかに憲法上にいくつか例示規定として「許されない行為」を列挙することもありえてよい。)

7 憲法9条改正の要否と集団安全保障と9条の関係
  A見解に立てば、従来の政府の集団的自衛権行使は憲法9条に反するとの解釈の変更に当たる。この解釈が9条に反しない合憲解釈ができれば、憲法9条はあえて改正する必要はなくなる。他方、9条に反しない合憲解釈ができないのならば、憲法9条を改正する必要があるということになる(逆にいえば、憲法9条を改正しないかぎり、集団的自衛権行使を認めることはできないことになる)。
 B見解に立てば、一応形式的には、従来の政府の集団的自衛権行使は憲法9条に反するとの解釈は維持される。よって、憲法9条をあえて改正する必要はなくなる。
 政府等公務員には憲法尊重擁護義務があるから、違憲な解釈への変更は許されない。そうするとA見解にたって、集団的自衛権容認が憲法9条に反しない解釈ができるかどうかが問題である。ここで解釈を指導する理念ないし自衛権行使の範囲の拡張の理念は憲法9条の趣旨に反してはならない以上、その解釈を単なる拡張の論理ではなく、同時に限定の論理を含むものでなければならないであろう。すなわち平和主義と集団的自衛権の関係が問題となるが、結論は早急にでるものではない(第2次安倍政権は、「積極的平和主義」という新しい概念で9条を理解し、集団的自衛権との関係をクリヤする考えのようであるが、「積極的平和主義」が、「世界の警察官」、「アジアの憲兵」としての他国紛争への積極的武力介入を意味するのならば、その解釈は9条の趣旨を逸脱しよう。政府は「積極的平和主義」について十分な説明を国民に行っているとは思えない。かといって一国平和主義を貫くことは国際協調主義にもとるし、国際平和主義こそが、憲法前文、9条の趣旨に合致するのであり、その意味で、積極的な平和活動は日本国の責務であるが、それは決して武力による積極介入をその手段として中核に置くものではないであろう。つまりアメリカ型の干渉主義は容認されないのではないだろうか。)。
また、集団安全保障のあり方について、国連中心型、東西冷戦型(NATOなど)、個別同盟型(日米安保条約など)、多国籍軍型(湾岸戦争など)が想定されるが、国連中心型では、そもそも集団的自衛権は埒外であり、他の類型においても、そこでの集団的自衛権の行使のあり方、類型というのは一様ではない。
政府の集団的自衛権行使の解釈容認の実質的意図は、PKOと日米同盟での自衛隊の活動の足かせを外すことにあることがうかがわれる。
特に前者においてはそれなりに意味があると思われるが、後者においての国民が抱く懸念は「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」、「自衛隊=日本がアメリカの傭兵化する」「アジア周辺国との軍事的緊張が高まる」などであり、これらの懸念を解消する論理、解釈は、日米同盟を重視する政策を継続する限り、早急に結論がでるものではない。
よって、日本を取り巻く国政情勢を視野にいれつつも、従来の憲法9条解釈との整合性と自衛権行使の範囲を拡張しつつ限定を図る論理解釈としてはB見解、つまり個別的自衛権の拡張解釈がベストではなくともベターな考えともいえそうである。
このB見解に対しても、解釈改憲であって妥当でないとの批判もありえよう。しかし、それをいうのならば自衛隊の容認解釈をしてきた従来の政府解釈も違憲な解釈となろう。そうであれば、この問題はやはり憲法9条の改正による解決しかありえないことになる。ただ、9条改正の場合は、集団的自衛権容認が憲法改正の限界にあたるかどうか憲法解釈上問題となり、ここでも憲法の平和主義の理念をめぐって種々の議論が展開されることが予想される。
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