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安保法制衆院通過と批判精神の意味

2015-07-16 20:35:52 | Weblog
 ほぼ予想通り、与党の単独可決で安保法制が衆院を通過した。60日間ルールも射程にいれると、成立は時間の問題であろう。
安保法制のいう「存立危機事態」の不明確性が指摘されるが、あえて不明確にしているとの意見もある。不明確のほうが抑止力としてよいとか、政府の自由裁量を広げるとかの指摘である。ただ、具体的な安倍総理のいままでの発言を総合すると、ようは、一国だけでは安全は守れないというのは、集団的自衛権に基づく「集団的安全保障体制」の構築を意味するのではないか。それは、日米安保条約がどうしても念頭におかれるが(日米同盟維持が中心の立法目的であることは当然である。憲法理論的には、憲法よりも国際法たる条約が優位する条約優位説的な発想。この考えは憲法改正によらず、条約によって、実質憲法の変更を認めるものであり、学説上支持するものはほとんどいない。)、実は米国に限定するのではなく、安倍総理の中国及び北朝鮮包囲網のダイヤモンド体制の主張は、南シナ海におけるフィリピン、オーストラリアとの準同盟も念頭においているというべきであろう。つまり、集団的自衛権は単に米国の肩代わり防衛だけでなく、広く日米を中心にしたアジア太平洋の軍事経済同盟による集団的安全保障の構築にあるのではないか。いわば、対中国、対ロシア、対北朝鮮のアジア版NATOである。自民党は、維新の党の条約締結した密接な国の限定を批判し、領域限定を排除する姿勢は崩さなかったこと、フィリピンと密接な交流、オーストラリアへの潜水艦の軍事技術の供与などなどは、この考えを裏付ける。尖閣諸島に関しては、そのものよりも、中国の第一列島線上の太平洋にでる中国のルート閉鎖には、宮古島の自衛隊増強のほうに意味がある。また、南シナ海は、やはりフィリピンに駐留戦力増強がもっとも抑止力となろう。地政学的な位置関係をみる限りは、沖縄本島と奄美大島にさほど違いはないようにみえる。沖縄本島への在日米軍集中は、もっと広い視点からのリバランスが可能と思われる。

 いずれにせよ、いわゆる中国脅威論に対する軍事的抑止力がどれほど効果があるか、むしろ経済的関係の交流の発展と、中国国内の自由化・民主化への間接的な影響力行使のほうが、万が一の偶発的紛争や、暴動の緩和に役立たないであろうか。アニメ、漫画といったソフト、日本の安定したインフラや文化による平和的共存の意識の共有を培うこと(相互の排他的ナショナリズムの否定)こそが、集団的安全保障という「冷戦的思考」の復活とその積極的推進よりも、直接的な軍事力行使によらない平和国家を継続してきた戦後70年の伝統、これこそが、徹底的に形骸化しつつも残された憲法9条の精神の継承となるのではないか。確かに時代環境変化とともにルールも変化していく必要はある。それでいながら、近代の立憲主義とか法の支配というのは、人類の歴史的英知として、厳しい現実の影響の中で確立されてきた思想である。安倍総理がよくいう「価値観を共有する国家」の具体例として、立憲主義・法の支配や、民主主義をあげている。今回の閣議決定による集団的自衛権の解釈変更、安保法制の可決のプロセスについて、はたして、立憲主義・法の支配等の価値観に依拠するものなのか、反するものなのか、これを決めるのは安倍総理個人の信念ではないことは明らかであろう。

 世界中の誰もが不当に国家から支配されることは、当然拒否する自由があり、そのために防衛する権利(対外的には自衛権、対内的には抵抗権・革命権)があるのも当然ではある。しかし、世界は、自国や同盟国(お友達)とで成り立っているわけでもない。戦時のような例外的状況では、国家の権力の独裁はむしろ肯定されるべきであり、敵と味方(友)の峻別による決断主義をとなえたのは、20世紀の法哲学者カール・シュミットである。このシュミットの例外的独裁論、友敵理論、決断主義は、この現代の議会制民主主義が閉塞化し決められない時代においては、国民にとっても政治家とっても非常に魅力的な思想として写る。しかし、このシュミットこそ、ナチス・ドイツの独裁政権を正当化し、ナチスを熱烈に支持した人物であることを忘れては成らない。とうの本人は善意でかつ正義であると心底信じ切っているが、それが他の者や他の思想の排除となり、思想の多様性の否定の徹底が、「敵」に対する人間性を否定することになる。テロリスト、ならず者国家や侵略者・帝国主義者の烙印は、戦争は刑罰のように正義の実現と解されてしまうし、どちらも「聖戦」を主張しながら、無差別テロや捕虜の拷問、民間人の殺戮など非人道的行為を行うことは、かえって「神」や「正義」を冒涜することになろう。これはまさに食うか食われるかの「戦場」の論理が原則となる。平和を目的としながら、独善性ゆえに結果的に平和とは程負いホロコーストのような惨劇をもたらす。

 あたりまえといえばあたりまえであるが、理念と現実のシビアな綱引きをもう一度深く吟味し、理念の点からも、現実の点からも具体的な批判的検証が必要とされなければならない(批判的合理主義)。「疑わしきは徹底的に疑え」である。国家は神様ではなく、まちがいを犯すものであるからである(国家の無謬性の否定)。少し、嫌みをいえば、安倍総理の戦争にまきこまれることはない、戦争には参加しない、徴兵制は絶対にないというのは、「私を信じて」ということであり、これは、民主党政権での鳩山総理の「トラストミー」とどこが違うのか、同じなのか。

安保法制をめぐる憲法論、法政策論、国際社会と日本社会の関係等のさらなる掘り下げた具体的な検証、それは、単なる肯定、否定ではなく、どう解決すべきかの結論を具体的に探るためのものである。安保法制が参議院で審議され成立するまでの残された期間は短いが、国民的議論が深まって、それが憲法9条の精神を損なうことなくよりよい方策として立法過程に反映されることを望みたい。

ところで、与党が、国民は冷めやすいので、来年の参議院選のころには忘れているとたかをくくられているのは、悲しいながら多分あたっているのであろう。サイレントマジョリティーが覚醒すれば、そんな発言は本来でてこないと思う。国民世論が、政治に対する強い抑止力、現実の力となるのは、選挙しかない。来年の選挙は与党が笑うか、青ざめるか。民主主義に絶望するか(独裁の容認)、希望をつなぐか。まだまだ先はみえないものである。
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