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集団的自衛権を解釈容認することの意味

2014-05-15 23:02:30 | Weblog
安倍政権は、いよいよ集団的自衛権に関する憲法解釈変更に一歩進みはじめた。
この流れは、憲法9条改正→改正手続きの改正→解釈変更+限定容認論と世論の様子をみながら、もっとも確実かつ容易な、あるいは安易な手段で目的を達成しようとするものであることは明白である。

集団的自衛権というのは、自衛権と名称がついても、個別的自衛権とは性質を異にしている。国連憲章は、これを国家の固有の権利として認めるが、その趣旨は、国連軍創設による平和維持の代替的措置としての集団的安全保障に基づく集団防衛措置を可能にするためであった。実際には冷戦中のNATOがその典型的集団安全保障体制と集団的自衛権の具体例である。

日本の安全保障体制は、日米同盟、つまり日米安全保障条約が中核である。この同盟は、もともと憲法9条を前提として組み立てられたものであり、日本の施政下の領土等が第三国にによって攻撃を受けた場合、米国が日本を防衛することが「できる」体制であり、「国際紛争の解決の手段として」の「戦力」を持たない憲法9条の制約を補填するものであり、日本は、その見返りに日本国内の基地提供する(特に沖縄が地政学的に重要な意味をもつ)。
 もっとも、歴代内閣は、朝鮮戦争以降、米軍の後方支援ないし国内の自力防衛の必要性から「警察予備隊」、そして「自衛隊」創設し、憲法9条を前提にしながら、ぎりぎりの憲法解釈、つまり、憲法は自衛のための必要最小限度の実力(憲法9条の「戦力」に該当しない程度のもの)は、許されるとして自衛隊の合憲性をぎりぎり保つ解釈を展開してきた。それゆえ、自衛隊は実質軍隊でありながら、「専守防衛」という制約による特殊な組織として発展していった。また、日米安全保障条約を前提にした枠組み、つまり日米の共同作戦は、米国が槍、日本が盾といった考えを生み出していった。しかし、前世紀末からの冷戦終結、湾岸戦争以降、国際平和協力の、特に米国からの圧力により、自衛隊の活動領域を国連平和維持活動のため拡大した(PKO法等)。今日の集団的自衛権の解釈容認の流れは、この時から始まっている。
さらに北朝鮮情勢も、独裁政権が継続し、弾道ミサイル、核開発の脅威にさらされると同時に、21世紀初頭からの中国の経済発展、経済大国化と同時に軍事大国化、特に海洋への勢力拡大傾向が進み、日中関係は尖閣問題によって悪化した。これが、安倍政権が現在、集団的自衛権の解釈変更の理由としている安全保障環境の変化といわれるものである。

しかし、かかる脅威が日本領土に及ぶ場合は、個別的自衛権と本来的な日米安全保障条約の適用があるのであり、なぜ集団的自衛権を認める必要があるのか。公海上の米軍が第三国に攻撃を受けた場合の援軍として自衛隊を出動させる場合、米国に向けて弾道ミサイルが発射された場合、日本が打ち落とす場合などの必要性がいわれているが、かりに必要性があるとすれば、日米同盟を双務的な同盟と位置づけることになる。そして、同盟国である米国が第三国から攻撃を受けるだけでなく、第三国に攻撃をする場合にも、例えば、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争のような場合も日本は後方支援はもとより前線での攻撃作戦も「できる」。もっとも、集団的自衛権は権利であって、義務ではないから、同盟国の要請があっても、正当な理由がないと判断すれば、権利を行使しなくてもよい。従来の解釈であれば、集団的自衛権の行使は憲法9条に反するのでできませんと抗弁することができたが、解釈変更すれば、憲法を理由としての要請拒否はできなくなる。つまり、一番怖いのは、集団的自衛権の行使の容認そのものではなく、権利から「集団的自衛義務」となって、事実上拒否権のない戦争参加の道が開かれることである。もちろん「NOといえる日本」という自律性、主体性のある政治が行われていれば、かかる恐れは想像の域をでないが、短期的観点から見ると米国追従主義は、強まることはあっても緩むことはない。また、米国の安全保障に関する世界戦略の観点が変化が起きており、安倍政権が考えている冷戦的な思考、たとえば、軍事抑止的な中国封じ込め政策的観点は、たぶんにズレている。
それと、西欧で安倍総理は、中国と日本との違いは法の支配という価値観を共有しているとアピールしたが、憲法9条を完全に形骸化させる解釈をとるという政治は、「法の支配」がわかっていないと思われるだけである。

日本の政治が、真の意味で世界の平和維持のための必要な行動を適切に判断し、外圧に屈せず決断できるのならば、集団的自衛権の解釈変更の議論などばかげた話しである。筋論としてもすぱっと憲法改正をすればいよいだけである。

しかし、安倍政権の動向に一抹の不安をぬぐえないのは、積極的平和主義という見せかけの下に「武力による紛争解決」信仰が、見え隠れするからで有り、国際平和をリードする理想も、哲学も、思想もなく、「信念」という名の独善と自己満足が国民の未来に暗雲をもたらすのではないかとの疑いが残るからである。




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