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声の仕事とスローライフ

ただ今、仕事と趣味との半スローライフ実践中。遠方の知人友人への近況報告と、忘れっぽい自分のためのWeb忘備録です。

脱落者

2012-12-17 21:38:31 | 自衛官時代の想い出
婦人自衛官教育隊での三ヶ月間の訓練期間中は、
昼となく夜となく訓練があります。

夜間の訓練と言えば、
武器庫の前での不寝番勤務、

そして訓練非常呼集です。

就寝後、いきなりラッパが鳴り

「訓練非常呼集!訓練非常呼集!」

というアナウンスと同時に
起きあがり、

戦闘服に着替えて半長靴をはき、
帽子をかぶって隊舎の階段を駆け降りて、前庭にに整列する、

その一連の動作を、いかに早くできるようにするか、という訓練ですが、

寝入りばなに一度、かかって前庭に整列し、
それが終わって

(ようやく眠れるね・・)と

仲間と安心しながらベッドに入ったとたんに、二度目の呼集がかかると言った調子でした。

夜中でもきちんと身支度を整えて集合しなくてはいけないので、寝ぼけてはいられません。

翌日は睡眠不足のまま、次の訓練を受ける日もあり、
肉体的にも精神的にも疲労が溜まって
きます。

高校を出たばかりの同期の
女の子たちも
一番遊びたい盛りに、
ボーイフレンドとお茶も飲めず、
お洒落もせず、

毎日毎日戦闘服で汗まみれになって、訓練をしなくてはならない現実に
「なぜ?」と思うことだって多かったはずです。

その証拠に、ある時、ある朝から起きられなくなった仲間がいました。

「起きてよ!F二士、早く起きてよ!」

皆が交代で呼びかけましたが、
ベッドに仰向けに寝たままで、全く
呼びかけに応えようとしません。

返事どころか
Fは全く目を開けようとしなかった
のです。

仲間の一人が班長を呼びに行き、班長が血相を変えて飛んできて、

Fの頬を叩いて起こそうとしましたが、それでもFは起きようとしませんでした。

身体はもちろんのこと、精神も疲れ果てていたのだのです。

彼女は数日後、田舎の両親が迎えに来てそのまま除隊しました。

Fは、素直で真面目な子だったと記憶しています。

私のように大雑把なタイプは
乗り越えられるものですが、

真面目な者ほど過酷な環境に耐えられないのでしょう。


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I と U

2012-12-16 17:56:54 | 自衛官時代の想い出
私が入隊した30年前当時、女性が幹部自衛官になる方法は、

二つの方法しかありませんでした。

一つは、一般自衛官として入隊
して、
昇進試験を受けて上っていく方法。
これをアルファベットで、
「 I 」と言います。

そしてもう一つは、
一般の大学を卒業し、最初から
幹部候補生試験を受けて
入隊する方法です。
アルファベットで「 U 」と言います。

当時は今と違って
女性の防衛大学校入校は認められて
いなかったと記憶しています。

他に女性の陸曹候補(下士官クラス)から入隊するナース(看護職)と
いう方法もありましたが、これは一般自衛官とは
職種も枠も異なります。


朝霞駐屯地の婦人自衛官教育隊教官で
幹部自衛官である
区隊長にも、一般自衛官から昇ってきた「 I 」と、
大卒で幹部候補生試験を受けて入隊して来た「U 」の
二つのタイプがありました。

私が所属していた教育隊の前期の区隊長は前期が「 U」、
後期が「I 」でした。
一般的にUよりI で幹部になった
人の方が、厳しい人が多いようです。

後期のS区隊長は、努力の積み重ねで昇って来ただけあって、
それはそれは厳しい人でした。

顔の骨格もしっかりとした、
タレントの片桐はいり似で、髪はベリーショート、
身体つきもガッシリしていて筋肉質で、いかにも女性自衛官
というタイプですね。(^^;;

シャワー事件は、7月の
間もなく教育期間が終了する時期に
私と仲間たちが起こした大失態でしたので

S区隊長にとっても、さぞかし情けない
事だったと思います。

自衛官として自覚が足りなかった事を深く反省しました。(~_~;)









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縦の社会

2012-12-16 08:24:12 | 自衛官時代の想い出
新隊員教育期間中は朝6時起床、
消灯は11時、

起床ラッパに起こされて就寝ラッパで眠る生活です。

部屋は30人部屋で
教室のような殺風景な部屋に鉄製の二段ベッドが並んでいます。

新隊員の最初の仕事は、ベッド作り、
モスグリーンの毛布と糊の利いた
真っ白なシーツで、
自分の寝床のベッドメイキングをする
ことでした。

ホテルのベッドメイキングと同じで、ベッドの四隅が直角になるように、
しっかりと形を作らなくてはなりません。

それがいい加減だと、教官がきて
シーツごと毛布を剥がし、やり直しをさせるのです。

そして次は、靴磨き。
半長靴(はんちょうか)と呼ばれる茶色
の編み上げ靴、
いわゆる皮製のショートブーツですが
これは主に戦闘服や作業服の時に履きます。
これを磨き上げるよう指示されます。

茶色の靴クリームとブラシ、そしてストッキングなども使って
顔が映るくらいにピカピカに磨くのです。

グータラで、モノグサな私の性格では靴なんて生まれてから、
その時まで磨いた記憶がなかったものですから、
戸惑いました。

ベッドメイキングも靴磨きも
不器用で雑な性格の私は
何度もやり直しをさせられて、

手にはすっかり、靴クリームの匂いがしみこんでしまったものです。

教官たちは、幹部の位を持つ30歳前後の区隊長を中心に
いくつかの班に分かれており、

班長は陸曹候補生や三等陸曹が受け持ちます。
彼女達の年齢は、当時22歳の私と同じかそれより一つ二つ年下でした。

その班長達が、自分の受け持つ班員の教育をするのです。

彼女たちは、女性であっても
「おまえら」「おまえたち」という
言葉を使います。

私は、そんな呼ばれ方に違和感を持ちつつ、
階級が上とは言え、年下の彼女たちから、そう呼ばれることに抵抗がありました。

これは自衛隊が階級社会である事実をさほど気にせずに入隊した
私の甘さからくるものでした。



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鏡に映る幽霊

2012-12-13 19:18:51 | 自衛官時代の想い出
新隊員時代に過ごした
朝霞駐屯地でのエピソードと言えば、
実弾射撃訓練と
…「亡霊」騒動でしょう。

夜間の訓練には不寝番というのがあり
ます。
一時間ずつ交代制で真っ暗な武器庫の前に立つのです。

これが2時とか3時の間だと結構辛いのですが、
その不寝番に当たった隊員の間で
「幽霊を見た」という噂が広まった事がありました。

最初は、隊舎の1階から2階に上がる途中の階段の
踊り場にかかっている大きな等身大の鏡に亡霊が映るという噂でした。

走っている男子隊員だった、という節や戦闘服を着た男子隊員
だという節など、色々だったのですが、

それがいつのまにか
「円谷選手の亡霊ではないか」という噂にまで発展しました。

円谷選手の亡霊が何故?
と思いましたが、
婦人自衛官教育隊舎を含む朝霞駐屯地にはオリンピック選手を輩出
している自衛隊体育学校が隣接しています。

その駐屯地を走る周回コースは別名・円谷コースというマラソンコースでして、
しかもその近くに円谷選手が自殺した隊舎があるのだという事でした。
(あくまでも噂ですが…。)

だから、走っている姿で鏡に映っても不思議ではないというのです。

円谷選手と言えば、東京オリンピックのマラソン3位という輝かしい成績を
残しながら致命的な怪我をしたことが原因で、
周囲の期待に応えられないことを苦にして自殺した体育学校所属の自衛官です。

私が入隊した昭和53年は、
彼が亡くなってからすでに10年以上経っているのになぜ、今頃?
という気もしましたが、

「そんな有名人の幽霊なら遭ってみたい」

そう思った私は、次の日から不寝番でもないのにトイレに行くフリをして
深夜2時ごろになると階段の踊り場にこっそりと通うのでした。

一週間ぐらい、通ってみましたが
やはり噂だけだったのでしょうか…
残念ながら、私は亡霊に出会うことはなかったのです。
嫌われてしまったのでしょうか…。
(-_-)

その後も「見た」という噂は後を絶たず、
それから、しばらくして階段の踊り場の鏡が取り外されたのです。


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視力より集中力

2012-12-12 21:22:22 | 自衛官時代の想い出
集中力を要する射撃訓練では

小銃の構えは「脚使用寝撃ち」で行います。

射撃場の中に向かって小銃を脚に固定して寝姿勢を取ります。

そして、口をやや開き、力を抜いて
引金を(1,2・・)と言いながらゆっくりと引くのです。

静かなのは、ここまでで
実際に引金を引いた瞬間にドカン!
という衝撃とともに薬莢(やっきょう)が跳ね返ってきます。

あたり一面に火薬の臭いが立ち込める中、撃った瞬間の小銃の反動
に腰を抜かす隊員もいるし、
空になった薬莢が飛んできて目に当たり怪我をすることもあります。

小銃の反動で肩がアザだらけになるのも、この訓練の特徴です。

指導教官から
「タオルを重ねて入れるといいよ」と聞いてはいたのですが、
それでも、肩の肉付きの悪い私は青黒いアザを作ってしまいました。

40点満点で採点される実弾射撃ですが、
これがなぜか、やる気満々の隊員ほど当たらないもの。

のほほん、として欲のないタイプがよく当たるのだそうです。

1人2回ずつ撃つチャンスを与えられ
、一発撃つごとに側にいる指導教官が望遠鏡で当たった弾の位置を確かめ、
的から外れていると

「右へ2、左へ3」などのように指示を与えてくれます。

いわゆるクリック修正をするのですが、いわれた通りにやってすぐに当たる隊員と、
修正しても当たらない隊員とがいます。

教官曰く、「素直な性格ほど、よく当たる」のだそうです。
それなら私はよほど例外なのでしょう。
40点中37点という高得点で上位入賞者として表彰されたのでした。(^^;;

この時の賞状はいまでも大切にアルバムに張ってあります。





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モグラ撃ち

2012-12-11 22:22:28 | 自衛官時代の想い出
自衛官時代の経験で
一番印象に残っている事といえば、
実弾射撃訓練です。

実弾射撃の演習は一般隊員の場合、
年に1~2回しかありません。
国の予算の膨大な費用を使って行われる訓練でもあるからです。

この度の北朝鮮ミサイル発射に対する
PAC3も、
日頃から訓練をしているからこそ
迎撃可能となるわけですが、
訓練自体にも多大な国家予算が使われるのです。

法が改正され、自衛官に武器使用が認められれば、武器使用訓練も当然増えるでしょうから、
国家予算に占める防衛費の割合は高くなるのが必至です。

そんな一発の弾でさえ無駄にできない
実弾射撃演習も
30年前当時は、平和な時代でしたから

「何のために実弾射撃の訓練をやるの?」
と思っていたくらいです。

とはいっても、
実際の訓練当日は朝から緊張の連続です。
いい加減な扱いをすれば暴発にも繋が
ります。

個々に与えられた64式小銃を携えて、コンクリートで周囲を固めた実弾射撃場の中に入ると、

辺り一面に火薬の臭いと異様な空気が漂い、
ピンと張り詰めた、何とも形容し難い
緊張が走ったものです。

いつも以上に強張った表情の教官たちを前にして、
隊員達も細かい注意事項をじっくりと聴きます。

クリック修正の仕方や、構えの姿勢は毎日練習していても、実弾は初めてで不安は残ります。

実弾射撃は200m先の的(テキ)を撃つのです。

実際に近くで見るとかなり大きめの的ですが、
200m先に見える的は10円玉の大きさにしか見えません。

その中心に5点圏、その周りが4点圏
、そして3点圏、となっていて8発の
弾を中心めがけて撃ちますが
5点圏に当てるのは、まさに至難の業。

ほとんどが外れるので、
この訓練が通称「モグラ撃ち」と呼ばれるのもその所以です。(^^;;




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郷に入れば

2012-12-10 21:47:51 | 自衛官時代の想い出
給与が男女で同額という事は、
同じだけの仕事をしなくてはいけない
という事です。

力仕事も然りです。
音楽隊でも20kg以上もある大型スピー
カーを女性隊員だけで運びます。

当然、逞しくなります。

そんな逞しい女性隊員が大勢で暮らす
のが管理隊という場所です。

もともとの私の性格は、
人と一緒に行動するのは大の苦手。

三ヶ月間の朝霞での教育隊時代にも
4つ年下の同期達との
コミュニケーションでは随分と悩んだ
ものです。

伊丹駐屯地の婦人自衛官管理隊でも
先輩達や同僚達と、
いかにうまく付き合っていくかが
最大の課題でした。

管理隊には所属部隊とは別に、独自の
規則があり、
会議や勉強会等々の行事も多く、
決められたスケジュールに従って生活します。

年に何度か互いの親交を深めるため
のイベントもあって、

クリスマスや歓送迎会などでは
隊員達が自分の得意な芸を披露する
機会もありました。

外出が自由にならない分、自分達で
楽しみを作らないと…
という事もあったのでしょう。

新入隊員の私も歓迎会で、なにか芸
をやるように、と言われました。

音楽隊だから、歌を歌うではあまりにも芸がありません。

そこで思いついたのが
「どじょうすくい」でした。(^_^;)
私は島根県出身です。

何か皆を楽しませるものはないかと考えたら、
やはり「どじょうすくい」しかないと思ったのです。

輪ゴムを顔にかけ、
墨でチョビ髭を書き、
手拭いを頭にかぶり、
ハッピをきて、
足には黒いスパッツに裸足、
そして、腰に巾着袋をつけた私は
「安来節」に合わせて
腰を振り振り登場、

その途端に夜の婦人自衛官管理隊舎
は大爆笑で包まれました。

「キャーっ!だれ、あれ?」
という歓声。

「うっそ~!」
「しんじられな~い・・」

同期や先輩たちが悶絶する声…。

そうなのです。
ここではピエロになるに限るのです。

団体生活には人間関係のゴタゴタがつきものです。
私は音大卒のお嬢様です、なんて気取っている場合じゃないのです。

郷に入れば郷に従え。

うまくやって行くには
自分を団体生活向きに変えていく
ことしかないのでした。(^^;;












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思い込み

2012-12-08 18:13:16 | 自衛官時代の想い出
大阪市内のアナウンス教室に通い始めて三ヶ月目を過ぎた頃だったでしょうか、

あるとき
次回の講座までに
「最近、体験したイベントを題材に
リポートする」
という宿題が出ました。

私はグッドタイミングとばかり
ちょうど一週間前に聴きに行った

ロジェ・ワーグナー合唱団について
話すことに決め、
張り切って原稿を考えて臨んだのです。

発表する段になって、

下準備をしっかりした甲斐もあって
いつも程にはアガらず、
つっかえたり、かんだりする事も
ほとんど無かった事も無かったので
終わってから、
( 褒めてもらえるかな…。)
という期待感を持ちながら評価を待っていたのです。

…が、
その日、担当の元NHKアナウンサーの
S先生の評価は辛口でした。

「君のは自分にだけ解るリポートだね。ひとりよがりの何ものでもない。」

音楽が好きで、コンサートの司会を
する事を目的に通っていた
私にとって、
このS先生のひと言はとても堪えました。(~_~;)

得意分野であればあるほど
陥りやすい、「思い込み」「知識のひけらかし」
私のリポートは、それ以外の何ものでもなかったのです。


清水由美 

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国防軍…

2012-12-07 10:43:26 | 自衛官時代の想い出
自衛隊を「国防軍」と改名する案が
先日、某政党から出されて論議を呼んでいましたね。

私が入隊した30年前はPKOやシリアへ派遣されることもなかった時代です。

教育隊時代に教官達から
「お前らはお国のために死ねるか」

と言われてもピンと来ないというのが
正直な感想でしたが、
今は、違いますものね。

「国防軍」という名前に変わったら、
日本を攻撃しようとする国には、
プレッシャーを与える事は間違いないと思いますが、
軍事国家のイメージは強くなりますね。

「国防」と「自衛」は同じ意味だと思いますが
「隊」と「軍」は明らかに違います。

単に語感のイメージの違いだけでは
済まされません。

法が改正され武器使用を認める事に
なれば、当然、
隊員達に「死ぬ覚悟」が求められます。

死ぬ気で「軍」に志願する若者が
どれだけいるでしょうか?

また、志願者が減り、一定の人員を確保することができなければ、
韓国のように徴兵制を
取らざるを得なくなってきます。

そうなった時、どうなるか…考えるとゾッとします。

日本はどうなるのでしょう?

そんな今から思えば
私が在籍した時代は、平和だったのかもしれません。

でも訓練は厳しかったし、
規則を守ることが常に求められていましたよ。

駐屯地の管理隊(宿舎)で暮らす
営内生活者には、外出しても門限が
決められています。

門限に遅れる事を
帰隊遅延(きたいちえん)と言いますが、もし門限までに帰って来なければ大騒ぎ。

自衛官は連帯責任ですから1人でも
規則を破った者がいれば、
班の全員が一カ月外出禁止という事も
ありました。

そんな時代ですので、夜の外出は
緊張の連続でした。

そこまでリスクを侵して通った
木曜夜のアナウンス教室でしたが、

最初のうち、私は自分の職業を隠して
いました。

当時は制服を着て外出すると
「税金泥棒」と言われ石を投げられる時代です。

職業をきかれ、公務員だとだけ答えて
いるうちに、どうやら他の受講生達からは

「役所勤めのお姉さん」だと勝手に
思われていたようです。(笑)








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歩の悩み

2012-12-07 02:12:50 | 自衛官時代の想い出
「頭は使うな、身体を使え」

思えば、教官達から訓練期間中よく言われたものです。

配属された音楽隊でも、最初の頃、
私は大失敗をしています。

初めて歌った
「踊り明かして」の練習時に
こともあろうに、

「隊長、そこの和音が違っています」

と間違いを指摘してしまったのです。

合奏場の空気が一瞬凍りつき、
休憩時間に私は幹部に呼ばれました。

「お前はアホか!組織ちゅうのは
上が黒、言うたら白いもんでも黒に
なるんや!」

それ以降、
言動を慎まなくていけない事が多く、合奏場では笑う事さえ許されない
雰囲気で、
いつの間にか、私は、すっかり萎縮してしまっていたのです。(~_~;)

ところが、不思議な事に、時間が経つと、そんな環境に慣れて来ます。

それどころか
命令通りに動くのは体力的にはキツいけれど、考えなくていいって事は、なんて楽なんだろう…。
とさえ、思えて来るのです。

私は将棋の駒なら歩兵…
組織の末端で働く、歩(ふ)でした。

考える事を必要とされない立場でした。


そして、
思考しない私は、ますます口下手になっていました。

それに比べて、
アナウンス教室に通って来る学生達は
なんて自由で奔放な発想を持っている
んだろう…。

今の自分は思考までもが狭くなって
世間から、どんどん隔離されている
ようだ、
これでいいのか、このまま組織にいて
いいのだろうか…。

私は、悩みました。




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