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1999年 2月1日(月)高級音楽

2010-11-09 17:45:47 | ■⑪大事な言葉★観たい映画★
2月1日(月)高級音楽

音楽に高級とか低級があるかどうか知らない。何しろ音楽については無知に等しいから本来何も言う資格はないのである。ただ好き嫌いはある。その嫌いな部に入るものに、我が家で言うところの「高級音楽」がある。

ラジオの音楽番組はよく聴く方だと思う。テレビと違って仕事の邪魔にならないのがいい。だがある種の音楽になると、女房殿と「ちょっと高級過ぎないか」と意見が一致してスイッチを切ってしまう。

どんな音楽かと問われても即座には答えられない。とにかく違和感があってゆったりした気分で聴いていられなくなる音楽である。強いていえば現代の西洋音楽に「高級」なものが多いといえようか。

その点バロック音楽や、いわゆるクラシック音楽は、多少の好き嫌いはあっても許容範囲内に納まる。バッハ、ヘンデルを頂点とするバロックでは、モンテベルディ、ビバルディ、スカルラッティの音楽も好きだ。クラシックとなると枚挙に暇がない。もちろん嫌いなものもあるが概して安心して聴いていられる。

してみると、「高級」と感じるヨーロッパ音楽は普段聴きなれないもの、とくに不協和音としか感じられない(小生にとって)現代音楽の音の組み合わせであるような気がする。これは聴く方の責任でその音楽の善し悪しとは関係ない。同じようなことが邦楽についてもいえる。義太夫、長唄といった邦楽の世界は、小生にとっては異国である。だから聴いても分からない「邦楽の時間」はすぐラジオを止めてしまう。

これはたいへんおかしなことだ。小学校で邦楽について習った覚えがない。今もおそらく教えていないのではないか。義務教育期間中に日本の伝統音楽について学べる機会がないのは、どう考えても変である。

文部省は家元制度で受け継がれている邦楽は、学校教育には馴染まないと考えているのだろうか。ヨーロッパで生まれた音楽は必須科目として教えるが、自国の音楽は教えないというのでは片手落ちである。多少なりとも邦楽についての基礎教養があれば、邦楽アレルギーにならずに済んだのではないかと悔やまれるのである。


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1999年2月2日(火)ホテル・ぺラ・パラス

きのうの某紙に、謎とされていたミステリー作家アガサ・クリスティーの失跡は、夫の浮気を邪魔するためだったとする、新著の紹介が載っていた。推理小説好きの家内に話したら、「そんな事は公然の秘密よ」と一蹴された。そのうえで、次のような講釈を聞かされた。

浮気した夫は金蔓を失い、クリスティーはいい人と再婚して幸せを掴んだ。二度目の夫は穏やかな人柄の考古学者で、それ以降のクリスティーの作品には考古学の話が頻繁に現れるようになったという。(本当かどうか疑わしい)。

クリスティー(1891~1976)はイギリスの作家で、髭がトレードマークの名探偵エルキュール・ポアロを主人公とした本格推理小説を多数発表している。「アクロイド殺人事件」「そして誰もいなくなった」「予告殺人」などの傑作を残した。個人的にはミス・マープルものも好きである。(生年は1890年とする説もある)。

ポアロが活躍する彼女の作品に「オリエント急行殺人事件」がある。パリとコンスタンティノープル(今のイスタンブール)を結ぶこの急行が開通したのは1883年のことで、小説の舞台はこの列車である。クリスティーはこの小説をコンスタンティノープルのホテル・ぺラ・パラスで執筆した。

このホテルは、オリエント急行の開通でコンスタンティノープルに押しかけたヨーロッパの王侯貴族・上流階級のために、1892年にがオープンしたもので、今も営業している。暮れのトルコ旅行の際、お上りさんよろしく見物に行った。

あいにく横殴りの雨で外観をじっくり観察できなかったが、緑の外壁をした石造りの堂々たる建物であある。1階の喫茶店でカプティーノを飲んでから、ボーイに頼んでクリスティーが滞在した部屋を見せてもらった。

1台しかないエレベーターがなかなか来ないので、階段を4階まで登った。彼女の部屋は11号室である。豪華とはいえないがアンティークの家具調度で、しっとりと落ちついた部屋だった。ドアの真向かいの壁にクリスティーのポートレートが掛けてあった。

唐草模様の鉄扉に、木製のボックスという骨董品みたいなエレベーターにも乗ってみたかったが果たせなかった。


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1999年2月3日(水)ルリビタキ

雪の朝、裏庭に美しい小鳥が姿を現わした。背がオリーブ色がかった褐色、尾が青、そして脇腹がオレンジである。枝先や堆肥囲いの板、立てかけた棒の先などを移りながら、尾を細かく振る動作を繰り返している。スズメよりやや小ぶりだ。

図鑑で調べてルリビタキの雌と分かった。雄は以前に見たことがある。雄は頭から尾まで青、翼の大半も青で、脇腹がオレンジ色だ。雌より数段美しい。

スズメ目ヒタキ科ツグミ亜科の鳥で、日本全国に分布する。しかし普段あまり見かける機会がないのは、冬でないと低地に下りてこないからだ。温かいうちは標高2000メートル近い亜高山帯で生活している。宮城県辺りが越冬地の北限で、仙台市内で見られるのは稀な鳥なのである。命名は雄に目立つ瑠璃色からだろう。

今朝は見かけなかったが、近い仲間のジョウビタキも庭を訪れる常連である。黒い翼によく目立つ白い紋、橙色の腹がきれいな鳥だ。仙台地方ではモンツキ(紋付)と呼んで親しまれてきたから土着の鳥かと思っていた。ところが繁殖地はシベリアで、日本には冬鳥として飛来することを最近知った。

1年を通じているスズメ、ヒヨドリ、キジバト、シジュウカラ、メジロ、ウグイスなどに劣らず、渡りや季節によって住む場所を変える鳥たちによって我が家の庭は賑わっているのだ。

今日は節分、暦のうえでは明日は立春である。しかし寒さとはまだ当分付き合わねばなるまい。ツグミやルリビタキ、ジョウビタキなどの姿が見られなくなるのは寂しいが、彼等が去るころ本当の春がやってくる。


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1999年2月4日(木)食べ物の記録

今朝はご飯と雪菜・凍み豆腐の味噌汁、大根葉油炒め、メザシの朝食だった。この類の素朴な食事が好きである。食い意地は張っている方だが、豪華なものは望まない。というよりも年金生活では高価な食材を使うわけには行かないのだ。勢い食事は質素になる。それがかえって老人の健康にはいいようだ。

ふと去年の今ころは何を食べていたのか興味を惹かれて日記を見た。朝食は予想通りろくなものを食べていない。4日:凍み豆腐・岩海苔の味噌汁と納豆。5日:ゆうべの鍋の残りに餅を入れて。6日:開きイワシのオイル焼き、雪菜・凍み豆腐の味噌汁。

変わり映えのしない朝食が続いている。夕食は鍋物が多いようだ。4日:魚屋に貰った鱈のアラで野菜鍋、肝臓がとろけるようで旨い。5日:記録なし。6日:飲みに出かけて夕食抜き。7、8日:記録なし。9日:鮟鱇鍋、アンキモ美味。

寒いから鍋は暖まっていい。アンコウは買ったのだろうが、鱈のアラはもらい物とはいじましい。

食い物の記録が欠落している所は、もっと興味のあることが優先したのだろう。

6日:沖縄県の太田知事が海上へリポート建設に反対する意向を明らかにした。これで普天間基地返還の見通しがつかなくなった。

7日:長野五輪開会式。華やかでユニーク、未来を担う子供たちが大勢参加して、とてもいい演出だ。小沢征爾指揮の五大陸を結ぶベートーベン第九の大合唱もすばらしかった。

8日:沖縄県名護市市長選挙で、代替へリポート建設賛成派が押した岸本氏が当選、12月の住民投票と反対の結果が出た。ヘリポート問題は前市長時代に決着済みとして争点に持出さなかった岸本氏の戦略勝ちだろう。

食い物の記録よりこちらの方がずっと面白い。5日には高橋竹山さんが87歳で、竹原はんさんが95歳で亡くなっている。


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2月5日(金)タイヤ

昨日の新聞各紙に世界第三位のタイヤメーカー、グッドイヤー(米)と第五位の住友ゴム工業提携の記事が出ていた。住友ゴム工業の前身は1909年に神戸で創業した英ダンロップ社の極東工場で、60年に住友グループが資本参加した。製品はダンロップの名で市場に出ている。

今日はダンロップタイヤの生みの親であるジョン・ボイド・ダンロップ(1840~1921)が生まれた日である。ダンロップはイギリスの発明家で、もともとは獣医であった。その彼が1888年に自転車用の空気入りタイヤを発明し、1889年にはこれを企業化しダンロップ・タイヤを設立した。

初めは自転車、その後自動車の普及に支えられて世界企業に発展し、子会社として日本に設立したのが神戸工場だった。

提携先のグッドイヤーの方はアメリカの発明家、チャールズ・グッドイヤー(1800~1860)が1839年にゴム加硫法の特許権を友人から買収、改良を加えて設立したゴム工業会社に始まる。グッドイヤー自身は特許権をめぐる紛争で多くの借金を残して死んだが、息子のチャールズ(親と同名)が事業を引き継いだ。

彼が改良したゴムの加硫法は現代ゴム工業の技術的基礎を築いたものであり、一方のダンロップは自動車社会に欠かせない空気入りタイヤを世に出した。昨日の記事は単なる企業提携を超えた、19世紀の偉大な発明を企業化したもの同士が時を経て結びつく、歴史的な局面を報じたものとしてことさら興味をそそられた。

いまや自動車の履物として欠かせないタイヤの基礎は、上記の二つの会社が最初に手をつけたものなのである。そのタイヤを使っている一般のユーザーがタイヤを構成する主要部分の役割を何処まで正確に認識しているだろうか。

トレッド、カーカス、サイドウォール、ブレーカー、ビードワイヤ、チエーファー。興味のある方は調べてみていただきたい。これが結構面白いのである。


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1999年2月6日(土)ウサギの肉

近年は野性動物の肉を食べる機会が滅多になくなった。イノシシの牡丹鍋はまだ残っているがシカ、クマ、ウサギ、ヤマドリなどを食べさせる所はほとんどなくなった。欧米では今も狩猟シーズンになると野生動物の肉が豊富に出まわる。それをレストランや家庭で味わうのが季節を感じる一つの楽しみにもなっているようだ。

日本で広く食べていたものに野性ウサギ肉があった。子供のころ冬になると毎年籠を背負ったおばちゃんが売りに来た。筍の皮に包んだその肉は白に近いピンクで、鶏肉に似ていた。どのように調理して食べたかはっきりした記憶はないが、柔らかく癖がないあっさりした味だったことを覚えている。

貧乏所帯でも買えたのだから、長らく下賎の者が食べるものと思っていた。ところがさにあらず。江戸時代には将軍家でも食していた。元旦(旧暦)の午前6時、譜代、外様の大名が年頭の挨拶のために登城する。儀式が済むと将軍が諸大名をもてなす。その時にウサギの吸い物が出るのである。

徳川家がまだ地方の一勢力に過ぎなかったころ、家臣が大晦日にウサギを献上し、元旦にこれを吸い物にして食べてから運が開けたという故事に由来するのだそうだ。何時のころとも分からないから史実かどうかも分からない。

タンチョウヅルやハクチョウを食べていた将軍家のことだから、眉唾ものだと勘ぐりたくなる話である。しかし、苦難の往時に思いを馳せ、家臣に贅沢を戒める儀式と思えばありそうなことでもある。
この習慣をもとにした川柳が残っている。「お家がら うさぎはとんだ御立身」。ウサギの吸い物をいただくとは、あの家柄もとんだ(ウサギにかけている)ご出世だという訳である。

我が家もとんだ御立身をしたものだ。このごろしょぼくれているのはウサギを食べないせいか。


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1999年2月7日(日)無題

久しぶりに寒気が緩んだ。梅の蕾はまだ固いが、心なしか少し膨らんできたような気がする。フクジュソウは黄ばんだ花びらの先を覗かせている。毎年たくさん出てくるフキノトウをさがした。早い年だともう顔を出してもいいころなのに、今年はまだである。熱い味噌汁に散らしたフキノトウの香りと、ほろ苦さに再会する日が待ち遠しい。

宮城県内のナシの産地では不要な枝の剪定の時期だという。落葉樹の選定は芽が休眠している今が適期なのだろう。去年の徒長枝がのさばっているウメ、、ヒメリンゴ、カキ、ロウバイなどの枝切りをしなければならない。秋野菜を収穫して放置してある畑の天地返しも急がなくてはなるまい。

寒肥をやらないうちに寒が明けてしまった。何もかも後手後手になっている。若いころは思い立ったらすぐ行動に移ったのに、近年は億劫で腰が重くなった。これも老化現象の現れであろう。

そのくせ種苗店のカタログで珍しい種や苗を見つけると、前後も省みず買いたくなる。失敗するものが多いが、うまく育ったときは自慢したくなる。

去年植えたウッディーコーンというトウモロコシは面白かった。いま流行りのピーターコーンやハニーバンタムはほとんど黄色一色の粒であるが、これは黄、白、紫の染め分けで見た目が美しいばかりか、食味が優れている。戦前によく植えられていたモチトウモロコシに配色は似ているが、独特の粘り気はない。

このように色が入り混じったトウモロコシをトルコでも見た。黒に近い濃い紫色を主体にしたもので、薄皮を縛って乾燥したものを売っていた。リースなどの飾りに使うものか、種として売っていたものか不明であるが、トウモロコシ栽培の世界的な広がりを改めて感じた。

中南米原産のトウモロコシをヨーロッパに伝えたのは、もちろんコロンブスであるが、16世紀の前半にはもうトルコで栽培されていた。日本で普及したのは19世紀であるから、トルコの方が大先輩である。

話がとんだ方向に逸れてしまった。近着の種苗カタログを見ながら、今年はゴーヤ(ニガウリ)に挑戦してみようと思っている。あと3ヶ月も先のことであるがゴーヤ・チャンプルーの味を思い出して今から植え時を心待ちにしている。


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1999年2月8日(月)運六読考書

今朝のNHKテレビ「元気の食卓」で紹介された俳優・多々良純さんが創り出した生活を律する言葉である。最初は老人がよく発する「うんとこどっこいしょ」に引っ掛けたおまじないかと思ったら、一つ一つの漢字に多々良さんなりの意味が込められているのだという。

生涯現役の役者でいるためには、肉体的にも精神面でも健康でなければならない。そのための心得を五つの漢字に託したのだそうだ。

「運」は運動。多々良さんは毎日運動を欠かさない。40歳から始めたトレーニングをずっと続けている。自宅にそのための部屋を作ったほどである。

「六」は腹六分目。腹八分目よりもっと食の摂生に努めている。その代わり食べ物には気を使っている。ニンニクが大好きで、いろいろな調理法で食べている。

「読」は読書。仕事がないときはよく読書する。食べ物に関する記事のスクラップも繰り返し見て食事に生かすそうだ。

「考」は文字通り考える。読みっぱなしでなくよく考える。また散歩に出たときに立ち寄る公園のベンチで、目にした人の生活をいろいろ想像する。どんな仕事をしている人か、子供がいるか、不幸かしあわせかなど、目の前にいる人を通じて考えることが役者の仕事に役立つという。

「書」は考えたことを書く。書くことによって考えたことが整理され確かなものになる。

顧みてわが身はどうか。運動はしない、好きなものは満腹するまで食べる、読書もこのごろあまりしない、考えるのはくだらないことばかり、無駄と知っているから真剣に考えない、考えないから書く材料もない。多々良さんの逆を行っているような生活である。一芸に秀でている人は違うな、と感心するばかりである。


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1999年2月9日(火)ユキがつく花

庭の日溜りにスノードロップが咲いた。草花としてはトップバッターである。南欧、カフカス原産の球根植物で、一度植えると毎年花を楽しめる。和名はユキノハナ、マツユキソウともいう。

地際から10~15センチの線形葉が2~3枚生え、10センチほどの花茎の先端に白い半開きの花を一輪、下向きに開く。内外3枚ずつの花被片があり、内側の3枚の上部が緑色をしている。目立たないが清楚な早春を告げる花である。

庭にはもう一つ頭にスノーがつく球根植物がある。4~5月に開花するスノーフレーク(スズランスイセン)で、こちらは中・南欧原産。もう5センチほど葉を伸ばしている。スノードロップよりずっと大型で40センチくらいの茎の先に数個の釣鐘状の白花を下向きに付ける。これも緑色の部分があるが、花の先端である。

春を告げる花にユキワリソウがある。普通淡紅色の花が開くサクラソウ科の多年草を指すが、キンポウゲ科のミスミソウも同じ名前で呼ばれている。ユキヤナギも春の花といえるだろう。細い枝一面が小さな白花で覆われ、まるで春の淡雪が積もったようだ。

同じユキがつく花で夏に咲くものもある。晩春から初秋にかけてダイモンジソウにそっくりの花を開くユキノシタだ。石垣の間などに植えられているのをよく見かける。白い斑があるフキの葉に似た植物で、葉は食用や民間薬として使われる。子供のころ葉を火であぶって、しもやけにに貼ってもらった記憶がある。

一進一退を繰り返しながら季節は春へと向かっている。風花が舞う日もあろうが、初冬から飛んでいたユキムシ(ワタムシ)の姿はもうない。


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1999年2月10日(水)たばこ

きのう歯医者でぐらついている歯を抜いてもらった。歯槽膿漏が進んで助けようがない代物だから、いとも簡単に抜けてすっきりした。序に歯石を取り、たばこの脂(やに)で染まった葉をきれいに掃除してもらった。

歯の掃除には高圧の塩辛い水を使う。どんな成分を含むものか知らないがたばこの脂は頑固でなかなか取れないものらしい。30分ほどかかって一通りは終わったけれども、また来週続きをすることになった。

歯医者は歯と歯茎に対するたばこの害を指摘して、さりげなく禁煙を勧めたが、止める気はさらさらないというと、定期的な歯の清掃を命じて手を打ってくれた。

さて、そのたばことの付き合いはかれこれ50年近くなる。銘柄はいろいろ変えた。缶入りの両切りピースが長かったが、最近はフィルターつきのショートホープに落ちついている。弓矢のマークが濃紺の強い方である。タール14mg、ニコチン1.2mgだ。体によくないのは分かっているが、これくらい強烈でないとたばこを吸った気がしない。

一時期パイプたばこにも凝った。ハーフ・アンド・ハーフ、サー・ウォルター・ラリーといったアメリカたばこを片っ端から試し、最後はダンヒルのマイ・ミックスチャーの落ちついた。旨さの点ではパイプたばこの方が紙巻たばこより勝る。

パイプたばこを始めると喫煙道具にも凝る。最初は国産の安物ブライヤーで我慢していたが、外国製に手を出し、遂にはこれもダンヒルの最高級品ホワイトスポットにまで手を伸ばした。高級品にはそれなりのよさがある。

火持ちがいいのはもちろんであるが、ブライヤーの木目の美しさ、しっとりしたシェルブライヤーの手触りなどがなんともいえない。煙をくゆらさなくても、触っているだけで気分が落ち着くのだ。その分たばこの消費量も少なくて済む。

歯医者さんへ恭順の意を表するためにも、家にいるときはパイプたばこだけにしようかと思っている。

1月21日(木)涙

2010-11-09 17:43:17 | ★③(は)お父さんの閑話365日(転載)
1999年 1月21日(木)涙

また真冬が戻ってきた。これが普通の気温なのだろうが、きのう、つかの間の春を経験した身には堪える。小鳥に餌をやろうと外に出たとたんに涙が出た。序に鼻水も出る。涙は悲しい時でなくても、痛い目にあったり感動したり急に冷たい風にあったたりしても出る。

涙は動物の中でヒト特有のもので、他の動物は涙を流さないというのは本当だろうか。そう言えば、子を失った悲しみに打ちひしがれて涙を流す動物の親、慟哭する猿なんて見たことがない。大怪我をした動物も涙を流さないようだ。でも産卵する時に海亀が流しているのは涙ではないのか。

どこかに答えはないかと探してみたが適切なものがない。ただ少しだけ涙についての知見が広まった。涙の組成は98%が水でアルブミン、グロブリン、リゾチームなど少量の蛋白質と食塩、リン酸塩などを含む。

これが角膜、結膜、鼻粘膜が刺激されたり、激しいく感情が動いた時などに大量に分泌される。そして涙点から吸収しきれなくなると瞼から溢れ出すのだそうだ。

涙は涙腺から分泌され角膜や結膜を潤し、汚れを洗い流したり血管がない角膜へ栄養を補給したあと、涙小管から涙嚢を経て鼻腔に流れる仕組みになっている。普段はこの涙の通路からオーバーフローすることはないのだが、何らかの刺激でどっと涙が出ると吸収し切れずに涙が流れ落ちることになる。

涙が出ると鼻水も出る理屈はわかった。でも悲しいからといって涙し、嬉しいからうれし泣きし、痛いとて涙を流す人間って変な動物だと思う。それに老人になると涙もろくなるのはなぜだろう。身体が枯れかけているのだから、感情の起伏も穏やかになってよさそうなものなのに、何でちょっとしたことで涙が出るのだろうか。


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1999年 1月22日(金)写真の始末

写真の始末ほど始末に終えないものはない。写真マニアでもないし腕前はひどいものだが、それでも写真は貯まる。見たくもない自分が写っている写真を送ってくれる親切な人もいる。そんな訳で未整理の写真が山ほどある。

その都度アルバムに整理すればいいことは分かっているけれども、それが出来ないからとりあえず空き箱や袋に放りこんで忘れてしまうのだ。せめて裏に撮影の年月日と場所ぐらい書いておけば後で記憶が蘇ることもあるが、それもしないから何が何やら見当もつかなくなるのだ。中にはいっしょに写っている人が誰だか思い出せないものもある。

仕事を辞めて海外旅行をするようになってから、「これではいかん」と思いなおした。旅程にしたがって写真をぺたぺた貼って行けばいちばん簡単であるが、それでは芸がなさ過ぎる。そこで思いついたのが、読み物風のアルバムである。

つまり、旅程に沿って見聞したことを文章にし、それを視覚的に補うものとして写真を使う手法である。こうすれば自ずと写真は厳選されるし、時が経って他人が見ても何の写真か分かるのではないかと考えたのだ。

長年の新聞編集の経験を活用すれば、鼻歌交じりで楽勝だと思ったのは大いなる誤算であった。いざ始めてみると、文章を書くのは簡単であるが、写真の選択に迷いが出る。1枚1枚に撮影時の記憶が結びついているから、容易に捨てられない。

結局、第1号のスイス旅行編は大型で分厚い2冊のアルバムになってしまった。これに懲りて第2号のカナディアン・ロッキー編は1冊に収めた。それにしても、ただ写真を貼りつけるのに比べると、3倍ぐらいのボリュームになる。

難題は暮れのトルコ旅行の写真をどう始末するかだ。日程は15日間で長くはないが、移動範囲が大きかった。宿泊地が11箇所、動いた距離が約4000キロある。勢い写真の枚数か多くなる。きのうできあがってきた写真を眺めて途方にくれている。


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1999年 1 月23日(土)目とカメラ

写真を見ていつも感じるのは、人間の目とカメラのレンズが捕らえた被写体との違いである。カメラを向けるのはある風景なり人物、出来事などを記録として残したいと考えるからであって、それがイメージ通りにプリントされた時は素人なりに満足する。

しかし、そんな事はまずない。美しさに感動してシャッターを切ったはずの風景写真が、何でこんなものを写す気になったのだろうと思う代物だったり、肉眼では鮮明に見えていたものがぼやけている場合もある。

それは「お前の腕が悪いからだ」といわれれば一言もない。けれども今のカメラは素人が撮っても全自動とやらで、狙ったものは一応それなりに写るようになっている。それなのに、できあがった写真に違和感を感じるのは、別のところに原因があるように思えるのだ。

つまり人間の目とカメラの目の違いである。映像をレンズで捉え、それを人間は網膜に、カメラはフィルムに映し出す仕組みは同じであるが、根本的に違うところがある。カメラのレンズは与えられた条件を満たす、すべての映像を忠実に捉える。人間の目と脳の働きはそうではない。

人間の目にも焦点や光の量を調節する機能があって、その時の条件によって目のレンズが捉えた映像は忠実に網膜に伝えられているはずである。しかし、人間はここからが違う。網膜に映し出された映像のうちから、取捨選択して見たいものだけを見ているのだと思う。

だから朝日に映えてばら色に染まった雲が美しいと感動すれば、回りの景色からその部分だけを切り取って見てしまう。見てしまうというよりは、実際には見えている回りの余分な映像をカットして、脳が感じているに違いない。

その差を克服するのがプロのカメラマンの腕なのだろう。それだけの技術を持たない素人は、できの悪い写真の中からお得意の取捨選択能力で、足りない部分を記憶で補いながら再構成して見るしかないのだろうか。感動をカメラで捕らえるのは本当に難しい。


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1999年 1月24日(日)異邦人の目

きのうまでに旅行で空白になっていた去年の「閑話」をトルコの話で埋めた。読み返してみるといかに中途半端で表面的な観察しかしていないかが分っていやになる。時間的制約があるにしても、もっと掘り下げた取材ができなかったものか。公の場に発表するのであれば、みなボツ原稿ばかりだ。

小生のHPは老人の独り言みたいなものだからお許しいただくとして、異国へ行って見聞したことは、誰かに話したくなる。話す本人は結構面白がっているのだが、聞かせられる方は迷惑な場合が多い。

その話の材料は現地の人にとっては当たり前のことで、面白くも可笑しくもないことばかりであろう。それが異邦人の目には新鮮で興味津々の対象になる。そのような経験はわざわざ外国に行かなくても経験できる。

東京での3年を除けば、仙台市以外の土地を知らなかった小生が関西で経験したのは、外国での生活に匹敵するたいへんなカルチャーショックの連続だった。同じ日本人なのに物の考え方も気質も違うし、日常生活の慣習も驚くほど違う。

着任当初、地下鉄駅のアナウンスで戸惑ったことがある。勤め先の事務所から西宮の自宅に帰るには淀屋橋駅で地下鉄に乗り、梅田駅で阪急に乗り換える。淀屋橋のホームで電車を待っていると「間もなく梅田から中津行きが参ります」とアナウンス。

梅田は淀屋橋の一つ北の駅であり、中津はさらに一つ向うの駅である。淀屋橋には梅田から中津行きが来るはずはないではないか。問題は「から」の意味である。東の人間は「から」といえば起点を考える。関西人は「から」を経由の意味で使っていたと後で気がついた。

その経験を勤め先の新聞に載せたら、同じような戸惑いを感じる人が多かったのだろう、1年ほど経て大阪市交通局は30年来の放送用語「から」をやめて「方面」に改める決定を下した。

何の疑問も感じない事柄でも異邦人の目で見ると新しい発見がある。住みなれた仙台の町を異邦人の目から見たら、どのように映るだろうか。変なことだらけなのではあるまいか。地元の新聞にそのような視点を期待している。


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1999年 1月25日(月)シャンソン

今朝のテレビ番組で「元気の源は食」と言うのをやっていた。元気印の一人として、77歳で今も現役としてシャンソンを歌い続けている石井好子さんの食生活が紹介されていた。多種類の食材をこまめに調理して食べる努力に感心したのはもちろんであるが、急に昔のシャンソンを聞きたくなった。

懐かしいシャンソンの名曲を集めたCDをかけて聞き惚れている。したがって筆は一向に進まない。最初にでて来たのが、ご存知「桜んぼの実る頃」である。この曲ができたのは今から約130年前である。それから連綿と歌い継がれているのだから名曲の名に恥じない。

ジャン・バチスト・クレマンが1866年に発表した詩に、アントワーヌ・ルナールというパリ・オペラ座のテノール歌手が作曲した。1868年のことである。クレマンはのちにパリ・コミューヌの幹部になった人で、この詩をルイーズという女子衛生隊員にささげている。

パリ・コミューヌは1870年フランスが普仏戦争に負けた後、反帝政運動を進めるパリ市民と国民軍か結成した革命的自治政権である。この政権の命は1871年3月18日から5月28日までと短かった。

そうした時代背景を考えながらこの曲を聴くと、桜んぼの実る頃の短い恋を歌った歌詞がいっそう切なく胸に迫るのである。歌はコラ・ヴォケール。

「人の気も知らないで」も好きな曲である。小生が生まれた1930年、フランス映画「リラ」の主題歌として作られたもので、モーリス・オーブレ作詩、ギイ・ゾカ作曲。原題は「Tu ne sais pas aimer」である。この映画そのものは日本へは輸入されなかったが、主人公の船乗り相手の港の女を演じた、ダミアの録音が輸入された。

いま聴いているのはそれをCD化したものである。もちろんモノーラルであるが、ちっとも自分の愛を感じ取ってくれない男への女心を切々と謳いあげている。日本では1938年に発売された淡谷のり子のレコードで大流行したそうだ。

こんな昔の曲を懐かしがるようでは、老人といわれても仕方がないな。


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1999年 1月26日(火)シラミ

ゆうべ飲み屋でシラミ(虱)が話題になった。話の切っ掛けがなんだったか記憶にないが、シラミに関しては一家言持っている面々の経験談だから面白い。衣服に潜んでいるコロモジラミ、頭髪に寄生するアタマジラミ、果ては陰毛に着くケジラミまで経験者ならではの珍談も披露された。

シラミを見たことがない、増してや血を吸われたことがない世代のほうが多くなったから、シラミについて簡単に解説しておく。シラミは昆虫である。世界に500種類ほどいて、どれも哺乳類に寄生して吸血する。

このうち人間に寄生するのは先に挙げたコロモジラミ、アタマジラミ、ケジラミの3種類である。羽は退化して、無い。大きさは前二者が2~3ミリ、ケジラミは1.5ミリと小さい。血を吸われると、とても痒い。発疹チフスや回帰熱を媒介する害虫である。

ざっとこんな所であるが、殺虫剤と環境衛生向上のお蔭で日本では見られなくなった。若い世代がシラミを知らないのも無理からぬ話である。

しかし、60歳以上の人にとっては、痒みの記憶とともに懐かしい存在なのだ。日本人は大昔から昭和20年代の前半までシラミとずっと付き合ってきた。だからシラミと関係する故事、諺に事欠かない。

「シラミの皮を槍で剥ぐ」という譬えがある。小さなシラミの皮をでっかい槍で剥ぐことは実際にはないが、小さい問題を大げさなやり方で処理するときなどに使われる。

「シラミをひねって当世の務めを談ず」と言うのもある。人前でシラミをひねり潰しながら天下国家を論じることで、傍若無人の意味で使われる。

「シラミと一つでただ片食い」も面白い表現だ。シラミは一方的に血を吸うばかりで、何のお返しもしない。そのように「たかる」ばかり、「やらずぶったくり」の人間のことを言う。

このように身近な存在だったシラミであるが、生きたシラミを見る機会は無くなった。となると例に挙げたシラミ関連の言葉もやがて無くなるのだろうか。1948年の1月26日に起きた「帝銀事件」が忘れ去られるように。


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1999年 1月27日(水)公平なサービス

同じ新聞を何十年と続けて購読している読者が先日、どうも納得できないことがあると話していた。それは新聞販売店のサービスについてである。同じ新聞を3ヶ月単位で契約を更新してとっている読者のところへは、販売店がその都度なんらかの景品を届けるのに、長期購読の読者には何も無いというのだ。

「景品がほしいというのではない」と彼は続ける。何時止めるかもしれない移り気な読者のご機嫌はとるが、長期の読者には「釣った魚に餌はやらない」とばかりに、何もしないのは不公平ではないかと主張するのである。

いわれて見れば確かにその通りである。新聞販売には過当競争を避けるために、販売に関するいろいろな取り決めがあることは承知している。しかし、だからといって販売店にとってはいちばんありがたい長期購読者へのサービスが今のままでいいとは思えない。

例えば1年分の購読料を前払いする読者には、料金を1ヶ月分割り引くなどのサービスはできないはずがない。同じような優遇措置は他の業界や一部の公共料金でも実施されている。

自動車保険だって無事故無違反を続ければ保険料が安くなる。それと新聞の長期購読は違うというだろうが、売る側にとってありがたい顧客であることに変わりはない。どんな商売であれ長年の顧客に対しては感謝の気持ちを何らかの形で示している。

優良顧客に何もしないのは新聞業界だけではないのか。今後もする気がないというのであれば、短期購読者に対する景品持参も即刻止めたらいいのだ。それが出来ない「家庭の事情」を重々承知であえて言うのであるが、社会の公器を自認し、公平を売り物にする新聞だけに、今のサービスのあり方はいただけない。世間の常識に反するやり方である。


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1999年 1月28日(木)南極探検

昨日、今日と温かい日ガ続いて助かる。去年はもっと寒かったような気がして日記を繰ってみた。すると、去年の1月28日には気温の記録がなかったが、翌29日の最低気温はマイナス6.7℃で、この冬いちばんの寒さとある。やっぱり去年は寒さが厳しかったのだ。

すっかり忘れていたが、28日には三塚蔵相が大蔵省検査汚職の責任を取って辞任し、石巻出身の漫画家・石ノ森章太郎さんが亡くなっている。1月28日に関連して東北で歴史に残るものは他にないだろうかと探してみた。

1912年(明治45年)白瀬のぶ(直を三つ重ねた字)が日本人で初めて、南極大陸の南緯80度5分、西経154度(自著「南極探検」)付近まで到達する快挙を成し遂げた日であった。彼はさらに南極点を目指すが、食料不足などで断念し引き返した。

白瀬は1861年(文久元年)6月13日、現在の秋田県金浦町で生まれた。長じて陸軍の軍人となり、予備役になってから郡司成忠(予備役海軍大尉)とともに千島探検を行い、最北端のシュムシュ島で3年余りを過ごしている。

その後、独自で南極大陸探検を志し、大隈重信や新聞・雑誌の後押しを受けて、1910年11月29日開南丸で品川沖を出発した。翌年3月南緯74度16分まで達したが、上陸できずに一旦シドニーに引き返し、態勢を整えてロス海のホエール湾からの上陸に成功する。そして先に挙げた到達点を大和雪原と命名した。

白瀬は長寿を保ったが、1946年9月4日愛知県西加茂郡挙母村で寂しく没した。金浦町と東京・芝浦埠頭に顕彰碑があり、墓は愛知県幡豆群吉良町の西林寺と金浦町の浄蓮寺にある。

ひょんな事から東北が生んだ偉大な先輩の偉業を偲ぶことができた。


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1999年 1月29日(金)インフルエンザ

インフルエンザが流行っている。お年寄りの施設で集団感染し、短期間の間にまとまって亡くなるケースが全国各地で起きている。抵抗力がないお年寄りには怖い季節である。

普通の風邪とインフルエンザはどう違うのだろう。高熱が出る、一旦下がってもまた上がる、頭痛や筋肉痛を伴うことがあるなど、インフルエンザに特徴的な症状はあるそうだが、素人には判断が難しい。

大した熱もなく症状も軽いと様子を見ているうちに、肺炎や急性気管支炎で容態が急変して亡くなる場合も多いそうだ。お年寄りはからだの抵抗力が弱っているから、黴菌と戦う結果でる熱そのものが、高熱にならないこともあるというから、素人判断は禁物である。

今朝、老妻とそんな話になった。二人とも年明け早々に風邪を引いた。小生は何年も風邪とは無縁で過ごしてきたから、鼻水と咳と久しぶりに付き合って、風邪のいやらしさを改めて認識した。女房の方は少し若いだけに小生よりは回復が早かった。

「まだ咳がでるじゃない。お医者さんへ行ったら」
「もう治ったから大丈夫。熱もなかったしな」
「それが危ないのよ。老人は熱も碌に出なくなるというじゃない」
「まだそれほどの年でもあるまい」

それほどの年ではない、とは言ってみたものの、間もなく69歳といえば世間では立派な老人ではないか。だが、あの世へ行くにはまだ早すぎる。流行の型に合った予防ワクチンが有効だというが、今からでもいいのかなどと考えているうちに、女房は外出の支度を始めた。

「どこへ行くんだ」
「ちょっと目医者さんへ。本を読んでると両目に星が見えて気持ち悪いから」
「高血圧じゃないのか」
「きのう調べてもらったら、そっちは心配ないって」

亭主が知らないうちに、買い物序に医者通いしているらしい。そうか、女房もあちこちガタが来ているんだ。これからは、お互い年相応に上手に病気と付き合う方法を考えるお年頃になったなと感じた朝だった。


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1999年 1月30日(土)花粉症

窓越しに見える杉の木がある。毎年たくさんの雄花をつけて花粉を撒き散らす。間もなく花粉症の季節が始まる。アレルギーの人には辛い季節である。

今年は雄花の数が少ないようだ。書斎から見える一本の杉だけで判断するのは危険だから、裏山には入ってみた。どの杉も花が少ない。うちの近所だけの現象かどうかはわからないが、広範囲のものなら花粉症の人は助かるだろう。

杉花粉の顕微鏡写真を見たことがある。リンゴの上部を凹ましたような形をしている。これが集団で黄色い煙幕のように飛散する様は、花粉症でない人でもぞっとする光景である。この花粉が抗原として体内に入ると、抗原抗体反応によってヒスタミンなどが分泌されて、いろいろな症状を引き起こす。

目が痒い、鼻ガ詰まる、涙、咳が出るなど様々で、辛いことだろう。花粉症は枯草病と呼ばれて昔からあったが、喘息とともに増加傾向にある。なぜ増えてきたのか、はっきりした原因は究明されていない。しかし大気汚染、とくにディーゼル排出ガスとの関連が疑われている。

山林から飛び散った杉花粉は遠く風に運ばれて市街地に達し、やがて地面に落ちる。都会はコンクリートやアスファルトで塗り固められているから、花粉は吸着されずに自動車などが通るたびに巻き上げられて空中に漂う。

それを吸いこんだ花粉アレルギーの人が花粉症になるわけだが、都会で多発するもう一つの要因としてディーゼル排出ガスが疑われているのだ。本当にこの排ガスが花粉症の引き金になっているのなら、放っておくわけには行かない。

大型ディーゼルトラックは1台でガソリン乗用車20~30台分の窒素酸化物を排出する。しかもその中には、ベンツピレンなど数種類の発癌物質を含むというから怖い。健康に関わる問題は「疑わしきは罰せず」では困るのだ。


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1999年 1月31日(日)マンサクとフクジュソウ

今朝のNHK教育テレビ「園芸」でマンサクとロウバイが取り上げられていた。両方とも早春を彩る花木である。家の裏の雑木林にマンサクがあり、庭にはロウバイが植えてある。ロウバイは1週間ほど前から咲き始めた。風が弱い朝方に庭に出ると仄かな芳香が漂っている。

中国原産の落葉低木で、日本には江戸時代の始めに渡ってきた。葉が落ちた前年に伸びた枝にたくさんの蕾をつけ、直径1.5cmほどの花が下向きに咲く。外側の花弁が黄色、内側が紅紫色である。黄色の花弁は蝋を引いたように透き通る光沢がある。近頃は園芸用に改良された中心部まで黄色のソシンロウバイ(素心蝋梅)が流行のようである。

一方マンサクは日本原産の植物で、北海道西南部から九州までの山地に広く分布している。これも葉が出る前に前年枝の節に数個の花を開く。ロウバイより開花期が遅く、裏山のマンサクはまだ咲いていない。

花弁は4枚で、折れ曲がったり、よじれたりした細い線状の花である。ガクも4枚で内側が暗紫色である。この花がたくさん咲いた年は豊年満作だというが、本当かどうかは知らない。花色が濃く花弁が大きいシナマンサクが輸入され、最近ではヨーロッパで改良された色変わりも出てきた。

庭木にするには新しい品種の方が見栄えがいいけれども、雑木林の中で他の花に先駆けてひっそりと咲く野性のマンサクが好きだ。

早春の花には黄色のものが多いような気がする。フクジュソウ、スイセン、エニシダ、ほかにサクラソウやクロッカスにも黄色が目立つ。黄色には何か春先の昆虫を引きつける要素があるのだろうか。

フクジュソウのパラボラアンテナ型の花弁は太陽光線を花芯に集中させて、温度を上げ昆虫を誘う仕組みになっているのだと、何かの本で読んだ記憶がある。自然の営みは神秘に満ち満ちている。

1999年 1月11日(月)記憶

2010-11-09 17:40:30 | ★③(は)お父さんの閑話365日(転載)
1月11日(月)記憶

記憶がいい方ではない。とくに人の名前をすぐ忘れる。これは具合が悪いものだ。どこかで会った記憶はあり、何をしている人かも分かっているのに名前が出てこない。相手はちゃんとこちらの名前で呼びかけてくれるのに、当方は相手の名前が出てこないのだから始末が悪い。

勢い会話は相手の名前を省いて進めるか、代名詞でそれこそ代用する以外にない。例えば「お宅の仕事この頃どうですか」なんて、なんだか白々しいことになってしまうのだ。この傾向は年々ひどくなる。

昔覚えた名前は記憶にしっかり留まっていて、まさか忘れることはあるまいと高を括っていたら、先日町で久しぶりに古い友人にぱったり出会った。「おう齋藤、久しぶりだな」と向うはにこにこしている。「やあ○○元気か」と応じたい所だが、その○○が出てこなくてバツの悪い思いをした。

ことほど左様に人間の記憶は頼りないし、当てにならない。世の中には博覧強記の人もいるから一般化するのはよくないけれども、よほど印象深いこと以外は1年前のことを克明に覚えている人は少ないのではなかろうか。

今年の冬は去年に比べると寒くて雪も多いといわれている。日本海側の今度の寒波と大雪はそのことを実証した形である。しかし仙台に関する限りそれは当たらないようだ。去年の今ごろ仙台は大雪に見舞われたのである。

「7日朝に6cmの積雪、今年初めて除雪」。続いて「9日朝、20cmほど雪積もる。道路とカーポートの雪かきに一苦労。ノーベル化学賞の福井謙一氏死去、79歳」、「16日未明にかけて約20cmの雪」。これは去年の日誌からの抜書きである。そして気温も結構下がっている。

これからどうなるか分からないが、今までのところ今年の仙台の冬は去年よりは楽だということになる。ひとまず寒波は中休みするというし、今日は日向ぼっこを楽しむとしよう。


--------------------------------------------------------------------------------1月12日(火)突然死

今朝テレビで突然死に関する番組を見た。健康だと思っていた人が狭心症や蜘蛛膜下出血で突然亡くなるケースについてである。幸い発見が早く、適切な処置で一命を取り留めた二人の人物が紹介されていた。

二人とも発病前にこれといった自覚症状がなくて、突然病魔に襲われたというから恐ろしい。後になってから思えば、頭痛や肩こり、物が二重に見えるなどの前駆症状があったと一人は言っていたが、もう一人は人一倍健康に自信がある人だった。

突然の発病というが、実は発病の原因になる病変が徐々に進行していて、あることが引き金になって牙をむき出すのだそうだ。上記のような循環器系の病気は、気温や身体に対する負荷の急な変化が引き金になることが多い。

温かい部屋から冷たいトイレに入るとか、風呂の脱衣所でぶるぶるっと来るとか、寒い朝駅に急ぐとか、そんな場面が危ないのだそうだ。だから冬場は特に気をつけなければいけない。

さて我が家にはそんな危険は潜んでいないか。洗面所に残った水が凍っている。トイレは極地並の極寒の地である。居間との気温差が20℃はありそうだ。

「うちも危ないぞ」、「正月に子供が言ってたでしょう。風呂場やトイレに暖房をつけなさいって」。「どうせつけるならパネルヒーターがいいな」、「じゃー、ちょっと見てくるわ」。 家内は町に出るいい口実ができたとばかり、いそいそと出かけて行った。

番組に同席した医師の話では、脳や心臓の血管の状態は現代医学ではかなりの正確さで分かるようになったという。ただし普通の人間ドックでは詳しいことは分からない。「それならどうすればいいのか」と聞きたいのだが、双方向性でないテレビ番組の悲しさ、もどかしさで心臓に負担がかかった。


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1999年1月13日(水)カラス

地元紙の朝刊にカラスの写真と記事が載っていた。珍しくもないカラスがなんで話題になるのかと思って記事を読むと、東日本では滅多に見られない冬鳥のミヤマガラスの群が、宮城県の岩沼市から亘理町にかけて飛来したという話である。

いっしょに写っているハシボソガラスに比べると一回り小さく、嘴の付け根が白いのが特徴だ。日本で普段お目にかかるのはハシブトガラスとハシボソガラスであるが、世界にはいろいろなカラスがいる。スイスの山岳地帯では嘴が黄色で小型のキバシガラスが普通だったし、カナダではワタリガラスが一般的だった。ワタリガラスは大きい。体重が1キロを越し、羽を広げると1.3メートルもある。ちょっと怖いくらいだ。いずれも羽毛の色は黒である。

ところがトルコではカラスの姿をついぞ見かけなかった。スズメやハトは日本と同じようなのがたくさんいたし、気候だって日本と大差があるわけではない。ガイドのシナンさんに聞いたところ、トルコにもカラスはいるという。

しかし、日本のような大きくて真っ黒なカラスはいないという。「カラスを見かけたら教えて」と頼んでおいたら、場所は忘れたが一度だけ見ることができた。全体に灰色がかった嘴が短い鳥だった。体長30センチくらいで「チャッ」とか「クアッ」とか、およそカラスらしからぬ鳴き声である。

何か別の鳥と間違えたのかと思い、「あれがカラス?」と疑問を呈したら、間違いなくカラスだという。カルガと呼ぶそうだ。群で畑の作物に悪さをするので嫌われ者だという。まさに所変われば品変わるである。

シナンさんは日本のカラスは怖いという。新宿で襲われた経験があるそうだ。ちょうど雛を育てている時期だったらしい。

トルコのカラスについては腑に落ちないまま帰国した。後で調べたらカラスらしからぬカラスが確かにいるのだ。ヨーロッパから中央アジア、沿海州にかけて広く生息するコクマルガラスだと分かった。


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1999年1月14日(木)試して合点

NHKテレビ水曜日夜の「試してがってん」という番組を時々見る。昨夜は納豆の徹底研究であった。その中で北大路魯山人(1883~1959:陶芸家、美食家)が考案したという納豆のおいしい食べ方が紹介されていた。

美食家として鳴らし、会員制の高級料亭・星岡茶寮まで開いた彼のことだから、どんなものかと期待してみていた。北大路の教えを忠実に守っているという和食料理店の主が実演して見せた。

なんの事はない、小鉢に入れた納豆をひたすら掻き回すのである。ねばねばが絡み合い、納豆の量が2倍ほどに膨れ上がり、真っ白になる。それでもまだ足りないらしい。なんと427回も掻き回したのである。

ここまで徹底的に痛めつけると、納豆の糸がくたびれて、ねばねばが弱くなる。仕上げに醤油を少量ずつ2、3度に分けて入れ、最後に薬味の刻みネギと芥子を加えてできあがりである。出演者が同じ方法で納豆を作って食べた。そろって「これは旨い」という。

これだけのことでどうして納豆がより旨くなるのだろう。納豆特有の臭みはねばねばの糸にある。この糸の鎖が徹底的に掻き回すことによって千切れると、臭みが弱まって糸の構成要素であるグルタミンが出てくる。同時に豆の中に封じ込められているグルタミンも表面に出てくる。グルタミンはいうでもなく昆布の旨み成分である。

だから、さっと掻き回した納豆より一段と旨くなるのだという解説であった。たまに行く飲み屋のつまみにネギ納豆がある。これが旨いのだ。そういえば、ここのおやじさんも納豆をくたくたになるまで掻き回していたっけ。

理屈がわかったからには実験してみなければならない。さっそく今朝試みた。初めは掻き回す回数を数えていたが、そのうち分からなくなった。腕がくたびれる。うまいものを食べるには労を惜しんではならない。いい加減うんざりしたころ、小鉢の納豆が一つの団子になって簡単に持ち上げられるようになった。

このへんが頃合と見て、だし醤油、ネギと芥子を入れて食べてみた。旨い。これがいつもの納豆かと思えるほど、ほんとうに旨いのである。「試して合点」とはこのことである。


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1999年1月15日(金)餅文化

昨夜、仙台大崎八幡神宮の「どんと祭」があり正月飾りを燃やし裸参りで賑わった。田舎では20日の小正月に行事が残っているが、仙台の正月はきのうで終わりである。我が家は大崎八幡まで遠いので、家の裏に祭ってある屋敷神の前で正月飾りを燃やし、ささやかな「どんと祭」をした。

今朝は神棚から下ろした餅で雑煮まがいをこしらえた。仙台地方では神さまや仏さまに供える重ね餅を「おふくで」あるいは「ふくでもち」と呼んだ。近頃はそう呼ぶ人は一部の旧家を除いてなくなったようである。どんな字を当てたらいいのか、「お福出」ではないかと勝手に想像している。福が授かるようにとの願いを込めた命名なのだろう。

餅は元来神聖なものである。日常の食べ物ではなかった。いわゆる「ハレ」の場で神と共食する食べ物だった。日本人は大昔から餅文化と親しんできた。もち米が栽培される以前はアワやキビで餅を作っていた。

近年の研究によると餅文化が生まれたのは東南アジアのアッサムからミャンマー、タイ北部、中国南部を含む山岳地帯であることが分かってきた。この餅文化は東の方向に伝わり中国南部の全体と朝鮮半島南部、台湾、日本列島の大部分を圏内に収め、南はタイ、マレーシア、カンボジア、ラオス、ベトナム北部などに顕著に見られる。

そして不思議なことに餅文化は西には伝播しなかった。粘り気のあるモチ性穀物を利用する食文化は地球上のごく限られた地域にだけ見られる特異な文化なのである。いま餅文化が広まっている地域には、穀物栽培以前から粘性のある半栽培の芋を利用する食文化があり、それが基底にあって、現在の餅文化が成立したと考えられている。

このへんの事情に興味のある方には「照葉樹林文化の道」(佐々木高明著:日本放送教会)、「農業起源論」(中尾佐助著:中央公論社)、「モチの文化誌」(阪本寧男著:中央公論社)などの一読をお薦めする。


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1999年1月16日(土)「成人の日」

きのう各地で成人式が行われた。着飾った娘たち、羽織袴で決めた青年、みんなと違う服装を狙った個性派と身につけるものは様々だが、老人から見ると、何を着ていようが輝くばかりの若さが眩しく羨ましい。

その若さはある面で幼さといっしょである。仙台市の合同成人式では会場になった仙台市体育館の広場に9500人も集りながら、式典が行われる屋内に入場したものは僅かで、しかも式が始まっても会場を出入りするもの、記念講演に聞き入ろうともしないで立ち話や携帯電話で長話をするものなど、あまりのマナーの悪さに、講師として招かれた吉村作治早稲田大学教授が立腹したと伝えられている。

「今時の若者は」という気持ちはさらさらない。そうした若者を作り上げたのは親の世代であり、変貌した社会そのものだからである。ただ一つ言いたいのは今から半世紀前に始まった現在の様式の成人式をそろそろ考え直した方うがいいと言うことだ。

成人に達するのは同じ誕生日の人は別にしてばらばらである。親にわが子の成人を祝い励ます気があるなら、各家庭で記念行事をやればいい。それを一堂に集めて聞きたくもない話を聞かせたり、記念品や遊園地の入場券を配ったりする必要があるのだろうか。まさに税金の無駄遣いである。

15日は国民の祝日で休みだから、普段会えない友達と存分に話をしたいなら勝手に集ればいい。携帯電話の長時間通話に挑戦するのもいい。そのために地方公共団体が世話を焼く必要はない。それこそ余計なお世話だ。

高校を卒業して2年経ち成年に達した従業員に「成人になって」と題して毎年作文を書かせたことがある。「ここまで育ててくれた親に感謝する」、「甘えを捨てて早く一人前になりたい」、「大人の仲間入りした自覚を持って責任ある行動をしたい」。みんな立派なことを書く。親が見たら感激で涙が出るだろう。

しかし、「悪い事をして捕まると少年Aではなく実名で新聞に書かれる」、「酒もたばこも大っぴらに飲めるのが嬉しい」、「嫌な政治家を選挙で落選させてやりたい」など、稚拙ではあっても法的な権利義務と自分の立場を結びつけて考えている作文が印象深かった。

「成人の日」はお行儀の悪い若者を生産した大人が反省する日として、今の成人式はきっぱり止めたほうがいい。


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1999年1月17日(日)夜明け

夜明けの風景が好きだ。海辺で、山頂で、あるいは広々した平野で迎える朝はそれぞれに別の風情がある。都会のど真ん中も捨てがたい。いつか東京ステーションホテルに一泊したとき、人っ子一人いない早朝の丸の内界隈をぶらついた。昼間の喧騒とはまったく違う姿がそこにあった。

今朝は2階のベランダから日の出の写真を撮った。天気予報で晴れといっていたので、ゆうべのうちに防寒具を寝室に用意しておいて、起き抜けにベランダに出て日の出を待った。拙宅は仙台の町外れ、南西の丘陵にあるので遠く太平洋の水平線を望むことができる。

6時40分、東の空が少し明るくなった。水平線に薄墨を流したような雲が横たわり、その上に浮雲が数個ただよっている。この状態では水平線から登る太陽を狙うのはは無理だろう。待つこと10分、灰色の浮雲が突然ばら色に染まった。ほんの数秒の間の変化である。

やがて水平線上の雲の縁が同じように染まり、その上が橙色、薄黄色と明るさを増し、グラデーションで白っぽい天空へと連なる。その色が刻一刻と変わっていく。ドラマティックな色の饗宴である。舞台の照明では真似のできない自然の演出効果だ。

日の出は間近である。浮雲の下面が金色に輝きだした。水平線上の雲もばら色が消え眩いばかりの金色に縁取られている。もう少しで7時である。雲と水平線の境がはっきりしてきた。と思う間もなく、金色の雲の縁が壊れて太陽の上部の強烈な光が顔を出した。地球が猛烈な速度で自転していることを実感させる瞬間である。テレビから7時の時報が流れた。

40年ほどまえ、三陸の洋上で見た海面からゆらゆらと登る真冬の日の出、一昨年の夏仰ぎ見たマッターホルン東壁の朝焼け、昨年の暮れトルコの地中海岸で目にした日の出の情景が、今朝の日の出に重なり合って見えた。阪神淡路大震災からまる4年、被災地の人はどんな気持ちで今日の夜明けを迎えたのだろうか。


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1999年1月18日(月)拍子抜け

きのう書き終えた「閑話」を送信しようとしたらうまく行かない。時間を置いて何度か試してみたがだめである。送信の手段は「WS-FTP95LE」というツールを使っている。プロヴァイダーまではつながるのであるが、ホストコンピュータが受けつけないのだ。

前にも同じようなトラブルがあったのを思い出した。その時は土曜日にトラブルが起きて月曜日の午後まで送信不能になった。原因はプロヴァイダー側の設定ミスである。週休2日制で土日が無人になるから、月曜日まで待たねばならなかったのだ。

今度も同様の原因だと推測したが、なんでプロヴァイダーが休みの時に限って起きるのだろう。まさかコンピュータが「オレにも休暇を与えよ」とストライキを起こしたわけでもあるまい。その証拠にメールのやり取りは平常どおりできるのだ。

しかしこちらのミスもありうる。いつもならプロヴァイダーにつないで送信を終えるまで20秒ほどで済むところを、つないだまましばらく待った。するとアメリカ製のツールの窓に赤い文字の列が現れた。曰く「Receive error, Blocking call canceled」。やっぱりこちらの誤操作ではなかった。そうと分かると気が楽になった。おまけに月曜の仕事始めに文句を言う材料ができた。「インピンおじさん」(インピンについては仙台方言遊びを参照)としてはこんな嬉しい事はない。

そうして迎えた今朝である。はやる心を押さえて9時半ころプロヴァイダーに電話しようと受話器を取り上げた。「しかし待てよ、復旧していたら赤っ恥をかくではないか」と思いなおし、念のため「閑話」を送信してみた。そしたら一発でOKである。確認して良かったと思うと同時に、なんとなく拍子抜けした。拍子抜けを通り越して面白くない。「せっかく文句をつけようと意気込んでいたのに、どうしてくれるんだ」という気分になった。


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1999年1月19日(火)3学期

正月休が終わって大概の学校は先週から3学期が始まった。だが小生が通っている「学校」はきのうが始業式だった。学校教育法に基づく学校ではない。行き付けの飲み屋である。店の女主(おんなあるじ)が校長先生で、その店に通うものはみんな生徒である。

この校長先生はなかなか厳しい。酒癖の悪い生徒は破門される。社会的な地位が高かろうが金持ちであろうが容赦しない。まことに気風のいい女性である。他の客に迷惑をかける者は「お金は払わなくていいから、お引き取りください」と追い出される。

「学校」だから休みがあるのは当然であるが、その休みが結構多いのだ。学期の変わり目の春、夏、冬休みはもちろんのこと、予告なしの休みもある。開校期間中も授業があるのは月曜から水曜までの三日間だけ。義務教育と違って年間の授業時間が定められている訳でないから、法的にはまったく問題はない。しかし、向学心に燃える生徒としては困ることもある。

さりとて、ご高齢の校長先生に負担をかけては申し訳ない。休校は多くてもいいから、この名門校の灯火を灯し続けて欲しいと生徒一同が願っている。学校経営は苦難の時代である。万年落第生の高齢化が進み酒量も落ちた。赤字経営だと漏れ伺った。

いくら飲もうが食べようが支払う金額は同じである。何十年も変わらないのである。これでは赤字になるのが当たり前だ。懐が寂しい若者からはほんの少ししか金を受け取らない。

以上のことは二日酔いの妄想ではない。現実にある小さな店のことである。経営者である校長先生にはいくら感謝しても足りないくらいだ。でも面と向かってそんな事は言えない小心の駄目生徒なのである。


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1999年1月20日(水)大寒

きょうは大寒である。これから節分のころまでが一年中でいちばん寒い季節だ。それなのに今朝の温かさはどうだ。よく日が差し込む書斎の温度計は24℃を示している。眠気を覚えるほどの陽気だ。

この陽気に誘われたのか、20羽ほどのスズメが芝生に降りたって、日向ぼっこをしながら何かを啄ばんでいる。そこへ冬の間だけ姿を見せるツグミが2羽やってきた。背中が灰褐色で暗褐色の斑紋がある。大きさはムクドリくらいである。

シベリア南東部、ウスリー、カムチャツカなどで繁殖し、日本には越冬のため大群で渡ってくる。霞網猟が禁止されるまでは、渡りの群れが一網打尽にされて焼き鳥になった。なかなか旨い鳥である。

この鳥の行動が面白い。芝の上を数歩小走りに移動しては立ち止まり、背筋をピンと伸ばして尾羽を地面に着け45度の姿勢をとる。また数歩走って同じことを繰り返す。どんな意味があるのか知らないが、自然界の生き物が無意味な行動をする訳がないから、身を守るとか餌を探すとか重要なことと関連した動きなのだろう。

しばらく観察していたら、ミミズを見つけて食べた。地面に潜っているミミズの居場所がどうして分かるのか不思議である。裏庭には雑木の枯葉が積もっている。ここも彼等のお気に入りの場所らしく、落ち葉を掻き分けては虫を食べているようだ。ツグミは木の実が好物と聞いていたが、昆虫やミミズも好きなようである。

ヒヨドリが1羽、百日紅の枝に飛来した。頭を傾げて何かを探している。一昨日古くなったドーナッツを刻んでやったら食べに来た個体かもしれない。ヒヨドリは甘いものが大好きだ。それなのに肥満体のヒヨドリは1羽もいない。畑の冬菜を食べ荒らすのも彼等だろうか。寒さの中で育つ野菜は甘いのだ。

小鳥たちは閑居老人にとっては格好の暇つぶしの観察対象である。

閑話365日 1999年 1月1日(金)トルコの正月

2010-11-09 16:45:33 | ■⑪大事な言葉★観たい映画★
1月1日(金)トルコの正月

謹賀新年。トルコは言うまでもなくイスラームの国である。国民の99%がイスラーム教徒で、そのほとんどがスンニ派だ。したがってキリスト教の国のようにクリスマス休暇はない。暮れから正月にかけてはどのように過ごすのだろうか。

ガイドのシナンさんの話では特別の行事はないそうだ。普段と違ったことといえば、大晦日には日常と違ったご馳走を食べることと、日本の紅白歌合戦とは違うが、人気歌手の終夜番組をテレビで見るのが唯一の楽しみだという。

また大晦日から元日の朝にかけて、親戚や親しい知人に新年の挨拶の電話をかける習慣がある。休みは大晦日の午後から元日いっぱいだけで、2日からは平常どおり働く。日本人の感覚では何ともも味気ない正月である。

トルコはイスラームの国にしては酒に対して寛容で、結構酒を飲む人がいるようだ。ただ街中で酒を売っている店は見なかった。レストランやホテルにはビール、ワインは必ず置いてある。ビールはピルゼンという銘柄がもっともポピュラーで、小瓶で60万リラ(240円くらい)、ワインも国産でハーフボトル150万リラ(600円くらい)だった。

トルコは麦もブドウもよく実るので、原料はすべて国産だという。農産物が豊富な国である。穀物で輸入しているのはコメだけ、果物ではバナナくらいなものだ。

飲み物で珍しかったのはブドウを原料に作られるラクという蒸留酒である。アルコール濃度は40%から45%と強い。ほとんどそのまま飲む人はいない。たいていはグラスに3分の1くらいラクを注ぎ、それをミネラルウオーターで割って飲む。

ラクに水を注ぐと一瞬のうちにミルクのようにに白濁する。そこから俗に「ライオンのミルク」と呼ばれているそうだ。かなりきついアニスの香りがするので、とっつきにくい人もいるだろうが、病み付きになりそうな酒である。


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閑話365日 1999年 1月2日(土)魔法の薬

大晦日の夜からずっと酔っ払っている。年越しのご馳走を食べて酒を飲んで夜更かしをして、その酒が醒めないうちにまたお節と酒になって、正月だからと昼にもビールを飲んで、夜は夜でまた飲んでしまった。別に酒を飲んで悪いことはないが、こうのべつ幕なし飲むのは身体に良くない。

そのような次第だから、頭はの中身は腐った味噌みたいで、思考がてんでまとまらない。昨日の閑話を読み返したらひどいものだ。しかし、おならと同じで一度出したものは引っ込めるわけに行かない。

ところで今日書こうと思ったのは他でもない。トルコで求めた漢方薬、いやトルコだからなんというのだろう。土方薬とでも言うのだろうか、首都アンカラの北東約200キロくらいの所にゲレデという町がある。そこの市場で横5cm、縦7cm角ほどの袋に入った黄な粉みたいなものを売っていた。

なんだろうと思って同行のガイドに聞くと、何とかいう球根の粉末で名前はサーレップといい、トルコでは咳止めの薬として飲み物やアイスクリームに入れて、広く用いられているものだという。

この薬はむかしサフランボルといわれたこの地方の特産で、よそでは手に入らないと聞かされて50万トルコリラのを5袋持ちかえった。得体の知れないものであるが、それが早速役立つとは夢にも思わなかった

トルコ旅行からの帰り際に喉がイライラすると思っていたら、帰宅してから咳や鼻水が出るようになった。休暇で帰省した子供たちも咳をするのも少し発熱したのも居る。家内までが咳をして頭が重いという。

トルコから変な風邪を持ちかえったかと気になった。そこで件のサーレップを取りだし、野菜ジュースや乳酸飲料に茶匙4分の1ほど入れて、特効薬だといって飲ませた。気休めぐらいに思っていたが、これが本当に効くのである。

ぴたったと咳が出なくなったし副作用もないようである。そしてさわやかな香りがする。いったいあの粉は何なのだろう。


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閑話365日 1999年 1月3日(日)ゴルフ場とスキー場

日本にゴルフ場とスキー場が幾つあるのだろう。国土が日本の倍はあるトルコにはゴルフ場もスキー場もたった四つずつしかない。決して場所がないわけではない。なだらかな起伏の丘陵が続き、そのままゴルフ場になりそうな所や、広大な裾野を持つ雪山を幾つも見た。

それなのに日本ではポピュラーなスポーツが、この国ではまことにマイナーな遊びなのだ。それではトルコで盛んなスポーツなにか。サッカーとレスリングである。サッカーは日本と同じようにプロチームが幾つもあって、シーズンにはファンを熱狂させるらしい。

ガイドのシナンさんもサッカーファンらしく、旅の途中でここが○○チームの本拠地だと教えてくれたが、みな忘れてしまった。彼は「ヨーロッパのチームが強すぎて、まだワールドカップに出たことがない」とぼやいていた。

レスリングは日本で馴染みのものとは違って、オイルレスリングといわれるものだ。皮製のパンツをはいて全身にオリーブオイルを塗って戦う。相手を仰向けにひっくり返し両肩を地面に着ければ勝ちである。

ところがその勝負が容易につかないのだそうだ。何しろオイルを塗ってあるから、ぬるぬるつるつるして掴みどころがなく、延々何時間も戦って勝負がつかないことも珍しくない。しまいには双方ともへとへとになってしまうそうだ。

そう言う場合の勝敗はどうなるのか聞き漏らしたが、お互いに健闘を称えてチャイでも飲むのだろうか。

ゴルフもスキーもそれなりの道具が必要で、トルコ人にとっては容易に買えない事情があるのかもしれない。それにしても日本のゴルフ場、スキー場の多さは世界的に見れば異常なのではあるまいか。


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閑話365日 1999年 1月4日(月)建築中の家

トルコを旅していてやたらに目についたのが造りかけの家である。都市では集合住宅、田舎では一戸建ての住宅である。その数があまりにも多いのでガイドに尋ねるとおぼろげながら事情が分かった。

トルコ人はマイホームを持つことに熱心で、自分の持ち家が70%ぐらいだという。土地の値段が高い都市部では家を持ちたい人が共同出資して集合住宅を建てるのが流行っている。希望者を募って面倒を見る会社があるらしい。ちなみにイスタンブールで建売100㎡の集合住宅の値段は700万円くらいだ。日本人から見れば大変安いように思えるが、サラリーマンの平均月収が4万円ほどだから、庶民には買えないそうだ。

田舎ではだいぶ事情が違う。自分の土地にまず自分たちが住む家を作る。男の子が成長して所帯を持つ年頃になると、両親は新所帯のための家の増築に取りかかる。増築費用は親と子供が出し合うのが普通だ。

田舎では子供が独立しても両親と同じ家に住むのが一般的で、そのために男の子供が2人いれば、両親が住んでいた家の上に2階、3階と継ぎ足して3世帯で住めるように増築するのだそうだ。どうりで日本の民家に比べると間取りが多く大きな家が目立つわけだ。

その増築がお金次第でのんびり進行する。1階の両親の家から2階部分の柱を伸ばす。ここでお金がなくなれば、柱を立てただけで建築を中止してまたお金を貯める。次は2階の屋根をかける。また一時休止して稼いで壁に取りかかるといった調子だから、建築途上の家が至る所に出現するわけだ。

面積は1所帯当たり100㎡が標準的なところである。金を貯めてから増築したのでは息子の独立に間に合わない場合もある。そのときは親戚から借金するのが普通である。ただしトルコの通貨リラではなくて米ドル建だそうだ。何年にも亘って返済するので貨幣価値の変動が大きいリラでは信用できないからである。


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閑話365日 1999年 1月5日(火)教育制度

トルコの義務教育は日本の小学校と中学校を合わせたような8年制の学校である。一昨年までは5年だった。この制度改革で学校も教師も足りず、現在は2部授業で急場を凌いでいる。就学は7歳からだから卒業は日本の中学生と同じだ。就学前に幼稚園に行くことはほとんどない。

義務教育を終えると3年制の高等学校に進学するものが増えてきた。約50%が高校に進学するという。高等学校は義務教育ではないが授業料は要らない。その上に4年制(医学部は6年制)の大学がある。大学へ進むにはかなり難しい試験があって、毎年150万人ほど受験するうち、合格するのは60万人ほどである。

大学を出ても就職難が待っている。イスタンブール、アンカラ、イズミールなど大都市の有名大学を出ないと、なかなかいい仕事にはありつけないそうだ。

トルコ共和国になってから教育には力を入れているようであるが、文盲率はまだ20%ほどあり、とくに東部の田舎では読み書きできない人が大勢いるという。

バスで移動する途中で義務教育の学校を幾つか見かけた。どの学校の校庭にも、かつての日本の小学校に二宮尊徳の銅像があったように、建国の父、ケマル・アタチュルクの像が建っている。

ムスタファ・ケマル・パシャ(1880/1881~1938)はギリシャのテッサロニキ生まれで、職業軍人の教育を受け第1次大戦ではダーダネルスや東部国境で英・仏軍と戦った。

1920年アンカラにトルコ大国民議会を開設し、腐敗したオスマン朝スルタン政府に反旗を翻し、22年にはスルタン制を廃止して英・仏などの干渉に抵抗し、1923年11月に新生トルコ共和国を誕生させた。トルコ国民議会はその功績に対してアタチュルク(父なるトルコ人)の称号を贈ったのである。

アタチュルクの像はどんな田舎でも見かけるし、お札の肖像も全部アタチュルクである。亡くなって60年以上経った今も、アタチュルクはトルコ国民の心の中に生き続け、敬愛を一身に集めている。


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1月6日(水)御用始

勤めがないから改めて御用始をする必要はない。しかし、何かけじめをつけないと何時までも正月気分を引きずって行くような気がする。幸いというか、不幸にもというか年末から中断していた家の前の側溝工事が今朝から再開し、周りがうるさくなった。

そこでこのページもトルコの話はやめて日常の話題に移ることにする。ただトルコについてはまだ書き足りないこともあるので、12月中旬から下旬にかけて空白になっている部分に収録することにする。興味のある方はそちらをご覧頂きたい。

さて、正月に相応しい話題をと思ったものの、何も思い浮かばない。初夢も見なかったし、年頭に当たっての抱負があるわけでもない。おそらく今年ものんべんだらりと時を過ごして、また一つ馬齢を重ねるに過ぎないのだろう。

だいたい年頭の式辞で組織のトップがぶち上げる「抱負」なるものは、誠に胡散臭いし、信用ならない。話す本人が本当にそう思っているのかどうかも怪しいものだ。さすがに不景気のさなかだけに「今年は飛躍の年」であったり、「国際化を進める年」であったり、景気のいいことをいうトップは少ないようであるが、空疎な抱負を聞かされるのはいい迷惑だ。

そもそも「抱負」とは何なのだろう。「心中に抱き持っている計画や決意」と広辞苑にある。すると「負」が計画や決意を意味するのか。「負」には荷物、引き受けること、負い目、責任などの意味がある。

組織のトップは託された荷物を背負い、課題を引きうけ、責任を負っている。そのことを常に自覚し、課せられた役割をどうしたら遂行できるのか考え抜き、計画を練り、決意を固めた結果が「抱負」というものだろう。

とすれば、組織の構成員には公表できない抱負が当然ある。むしろ公表できる中身は当たり障りのない部分だけで、隠された部分にこそ本当の抱負がある(あればの話であるが)と考えた方がいい。来年からは年頭の「抱負」を聞き流すことをお薦めしたい。


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1月7日(木)馬齢

きのう「馬齢を重ねる」と何気なしに書いたが、なぜ牛齢や兎齢でいけないのだ。自分が午年生まれのせいかいささか気になるところである。

馬齢は年配者が自分の年齢を現わす謙譲語であり、馬齢を重ねるといえば無駄に年をとることであ。でもなぜ馬が引き合いに出されるのだろう。馬がつく言葉を思い出してみる。「馬耳東風」、「馬の耳に念仏]、「馬の骨」など良い譬えに使われることは滅多にない。

古来、馬は農耕に、軍事力に、交通手段に重要な役割を果たしてきた。「猫に小判]、「雀に鞠」の猫や雀と同じレベルで論じてもらいたくない。猫や雀が怒るかもしれないが、馬が人類に与えてくれた恩恵は猫や雀の比でない事は誰の目にも明らかである。

馬は心地よい風が吹いても何も感じないのだろうか、どんなことを教えようとしても学習能力がないというのか、骨になってからも罵られるほど素性が怪しい動物なのだろうか。断じて否である。馬が貶められる理由は何もないはずである。

馬はむしろ並の動物よりは利口な生き物である。「老馬の智」という言葉がある。経験を積んだ者は方針を誤らないという意味で使われる。「馬に道まかす」も同じ意味だ。何か馬を誉める言葉が他にないかと考えてみたが、思い出せない。

馬の名誉のために、もっといい言葉を見つけようとしたのに残念である。せめての罪滅ぼしに自分の辞書からは「馬齢」の項を削除する。馬を喜ばす言葉が見つかったらご教示願いたい。


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1月8日(金)春の花

今朝は冷え込んだ。夜のうちに雪が降ったのだろう、庭の芝生が薄っすらと雪化粧している。その寒気の中で房咲き水仙が咲き始めた。大きな庭石の際の日溜りに植えてある一株が毎年春一番に花を開く。

早咲きの品種なのだろうが、そればかりではあるまい。日中、太陽に暖められた庭石の保温効果が、ここにだけ一足早い春を呼んでいるように思える。別の場所の水仙はまだ冬眠から覚めない。

冷たい足を我慢して庭を一巡した。珊瑚樹の根元で福寿草の蕾が膨らんでいた。回りの落ち葉を掻き分けてみると、大小さまざまの蕾が肩を寄せ合うように寒さに耐えている。またそっと落ち葉を被せておいた。

ロウバイの蕾も黄色くなって開花間近である。確か去年の冬はは今時分もう咲いていたと思って日誌を見ると、前年の暮れから蝋細工のような可憐な花を開いていた。今年の冬の方が気温が低いのだろう。

地べたにへばりついているイチゴの葉の中心には、春を待つ花芽が形成されている。一見なんの変化もないように見える冬の植物は、人間の気づかないところで着実に春への備えを進めているのだ。

寒さはこれからが本番であるが、少しずつ日が長くなってきた。冬至に向かって日一日と夜が長くなる時期に比べると、寒さは厳しくとも長いトンネルの向うに出口が見えたような、何かほっとしたものを感じさせる季節である。


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1月9日(土)引退

ことし頂戴した年賀状の中に何枚か、仕事を辞めた、あるいは近く辞める予定としたためてあるものがあった。毎年のことで別に驚きもしないが、「ああ、あの人もそんな年になったのか」と感慨深いものもある。

同年輩の方はみなさん定年はとっくの昔に済んでいて、第二または第三の職場を退いたか退く予定のご挨拶である。長い間お疲れさまでしたと申し上げればいいのだろうが、一方で、そこまで頑張らなくても良かったのにとも思う。

人それぞれに事情が違うから、うかつなことは言えないけれども、食うに困らなかったら仕事はさっさと辞めて、残された人生を自由に生きた方がよっぽど楽しいではないか。自分が引退してつくづくそう思う。

人様に迷惑をかけなければ、何をしようが勝手である。朝寝坊しても遅刻の心配がない。通勤電車でもまれることもない。嫌な上司と顔を合わせることもない。朝酒を飲もうが、昼寝をしようが一切お咎めなし。

こんな天国のような生活は、仕事から解放され、世間とのしがらみが希薄になって初めて実現するのである。ところが人生に一度しかないこのせっかくのチャンスを、鬱々として楽しめない気の毒な人もいる。

仕事を辞めて半年やそこらは、身辺整理などであっという間に過ぎてしまう。その後が問題なのだ。何もすることがないとぼやくのである。何かしていないと不安で焦燥感を感じるという人もいる。

そのような人は、長期休暇を与えられたものの、どう過ごしていいか分からずに、途方に暮れている仕事中毒人間を彷彿とさせる。仕事は辞めても元気なうちは何か社会のお役に立つことをしよう、町内会の役員を引きうけようか、それともボランティア活動に参加しようか。意欲があって、それに生きがいを見出すなら大いに結構だ。

でも何もしたくなかったら、あるいはやりたい事がなかったら無理をする必要はない。何もしないでのんびり暮らせばいいではないか。何もせずに済む自由を享受できないなんて悲しすぎる。「ぐうたら派」としては人生の最後に与えられる長い休暇を、なにもあくせくして過ごす必要はないと思う。

働き詰めだった日本人が本当に引退生活を楽しめるようになるのは、何時のことだろう。まだ当分時間がかかりそうである。


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1月10日(日)しあわせ

昨日、友人が関わっているキリスト教教会のコンサートに誘われて行ってきた。今年で4回目である。教会のコンサートだから当然神を称え、キリストの福音を伝え、キリストと出会ったことの喜びをみんなに分かち与えたいという目的に貫かれている。

だから小生のように唯一の神に対する信仰を持たない者にとっては、いささか鼻につく面がないとはいえない。しかしたいへん楽しかった。その楽しさは何なのだろう。

第一に出演者のほとんどを就学前の幼児から、高校生くらいまでの子供が占めていて、その若さが発散するエネルギーが伝わってきて元気付けられることだ。ヨチヨチ歩きの子が一緒に手を叩いていたかと思うと、不意にその手を止めて勝手に動き回る。一心に歌い体を動かす仲間を立ち止まって眺め、またもとの場所に戻る。普通のコンサートでは見られない風景である。

第二に出演者全員の目の輝きである。みんな生き生きしている。上手に歌おうとか、聴衆を意識した取り澄ました態度は微塵もないのだ。どんな指導をしたのか知らないが、実に伸び伸びと、大らかに神への賛歌を歌い上げている。

歌の合間には、神との出会い、それによって自分がいかに変わったかについて、自分の経験を話す「証し」が挟まれる。話し方は稚拙でもみんな堂々としている。

それを聞いていると、友達ができなかった、先生にお前はくずだといわれた、自己中心的な自分が嫌だったなど、神に救いを求めた子供たちの悲鳴が聞こえてくる。そして、今はしあわせだ、この喜びを多くの人に伝えたいという。

今の学校教育では十分に手が回らない子供の心のケアを、こうした宗教団体がある程度補完している面があるのだろう。ただ気になる点もある。それはどんな宗教にもいえることだあるが、信じるもの同士の集団が陥りがちな、自己陶酔とファナティックな傾向が垣間見えることである。

他人のしあわせにケチをつける気持ちは毛頭ないが、罪深い凡人はふとそんなことを思った。

閑話365日 1998年 3月21日(土)ツグミ

2010-11-09 15:20:27 | ★③(は)お父さんの閑話365日(転載)
3月21日(土)ツグミ

ツグミが芝生で餌をあさっている。1メートルほど駆け足で移動しては立ち止まり、尾羽を下げ胸を張る仕草を繰り返し、虫を見つけて食べているようだ。ゆっくり歩いて餌を探したらもっと効率がいいと思うのだが、もって生まれた遺伝子が命ずるままにしか行動できないのだろう。

シベリア東部、カムチャツカが繁殖地で、日本で冬越しする渡り鳥だ。大きさはムクドリぐらい。決して目立つ装いではないが、よく見るとなかなか色の好みが洗練されている。頭頂部と目から後頭部にかけての黒、目の上の眉のような白線、レンガ色の羽、胸の黒い斑点とシックな出で立ちである。

いつも単独で行動している。渡りのとき以外は孤独を愛する鳥なのかもしれない。毎年我が家の庭に現れるが、まだ鳴き声を聞いたことがない。冬は囀(さえず)りのシーズンでないからだろう。地鳴きはするのだろうが、どんな鳴き方をするのか知らないから確かめようもない。

この鳥の姿が消えるころサクラが開花し、やがて入れ替わりにツバメがやってくる。


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3月22日(日)木の鼓動

冬の間ご無沙汰していた樅(もみ)の木に会いに行った。家の裏の小高い緑地にも大きな樅の木が数本あるが、きょうは歩いて30分ほどの樅の自然林まで足を伸ばした。山道は先日の雨でしっとりぬれている。

風がざわざわと通り過ぎ、ヒヨドリがしきりに鳴いている。沢沿いの道をたどると、斜面のショウジョウバカマの群落が地べたに張りついたように放射状の葉を広げていた。その中心部から小型の筍のような蕾が伸び出して、可憐なピンクの花を開くのが待ち遠しい。

コガラが群れをなして飛んでいく。ヤマガラもシジュウカラもいる。早春の山は鳥の観察には最適だ。ぬかるみに気を付けながらさらに道をたどると、雑木林が徐々に樅の林に変わる。葉を落としている雑木林に比べると、樅の林は暗い。赤い実をつけたヤブコウジの絨毯から大小の樅が天に向かってまっすぐに伸びている。

仙台は樅の原生林の北限という。東北大学植物園がある川内から青葉山一帯は、藩政時代から城の防衛線として保護された森が今もその名残をとどめていて、きょう訪れた場所もそうしたところなのだろう。

喘ぎながら坂を登りまた下ってようやくお目当ての樅の巨木にたどり着いた。胸の高さの幹周りが二抱えほどある。樹皮が燐片状になっているからかなりの老木である。ひょっとしたら狩りに出る伊達政宗を見下ろしていたかもしれない。

幹に耳を当ててみる。ソウソウともコウコウとも聞こえる水が流れるような音がする。巨木が水を吸い上げている音だと思う。これが木の鼓動なのだろうか。触って撫でてじっと音を聞くだけで心が安らぐ。2時間あまりの散策の間、山中では誰にも会わなかった。たった一人で自然に浸り、樅の老木と話を交わす至福のときを過ごした。


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3月23日(月)蛇の目傘

和服に蛇の目傘、戦前はごくありふれた姿がほとんど見られなくなった。京都先斗町とか一流料亭界隈とか限られた場所で辛うじて命脈を保っているに過ぎない。傘職人の伯父がいて、その仕事場で作業を見るのが楽しみだった。

竹を割り、骨を削り、小さな穴をあけて木賊(とくさ)で磨き、針金と糸で組み立てて和紙を張り、柿渋(かきしぶ)を塗って乾燥させる。その工程の一つ一つが丁寧で年季の入った手作業だった。

昭和20年の夏に日本が連合国軍に降伏し平和が蘇った。旧制中学4年のその秋から学校が再開され、やっと勉強ができると喜んだのも束の間、米軍キャンプ建設の労務者としてまた狩り出された。そこで生の英語と接することになる。

このギャベジカンをトラックに積めとか、何時までに作業を終えろとかいう初歩の英語すらさっぱりわからない。なにしろ英語は戦時中敵性語として学校でほとんど教えられていないのだから無理もない。

これではならんと、ラジオで米軍向けの放送を聞き始めた。FEN(Far East Network)がそれで、ニュースと音楽番組をおもに流していた。はじめは全くちんぷんかんぷんだったが、だんだん断片が聞き取れるようになる。

そんなある日、ニュースの中で「ジャノメカサ」としきりに言っているのが気になった。なんで米軍向けの放送に蛇の目傘が出て来たのかわからなかった。それが毎日続くので、さすがに変だと思い注意して聞くうちに、何日か経ってなぞが解けた。

「ジャノメカサ」はジェネラル・マッカーサー(マッカーサー元帥)だったのである。日本を占領した連合国軍総司令官であるGeneral MacArthur。これを早口で何度も声を出していってみると「ジャノメカサ」に聞こえないかな。うそだと思うなら英語のネイティヴ・スピーカーに発音してもらって聞いてみたまえ。


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3月24日(火)わがまま

英語にまつわる思い出をもう一つ。米軍キャンプの仕事が終わって授業が始まった。約2年半にわたる学徒動員の空白を取り戻そうと、先生も生徒も必死だった。

半年も経つころには英語は初歩の段階を終えて、副読本でシェイクスピアの抜粋を教わるまでになっていた。"To be or not to be,that is the question."習いたてのハムレットの一節を反復して得意になっていたころ、先生が応用だといって黒板にさらさらと次の一文を書いた。

"To be to be,ten made to be."

みな知っている単語だから簡単なようであるが意味がまったく分からない。教室がざわつき出したころ「それでは訳文を教えよう」と先生がにやにやしながら先ほどの英文の下に書いた字を見て、みんな唖然とした。

「飛べ飛べ、天まで飛べ」である。まんまと担がれたのだった。あの愉快な先生はもう故人になられた。

ときは下って今から10数年前、反対に先生が担がれた話を見つけた。茶目っ気があって学生をからかう癖のある高名な英文学者の話である。かつてからかったことがある女子学生の答案用紙の余白に、「先生への問題」として次の文があり、どう訳すかというのだ。

”My farther is my mother."

大先生いろいろ考えたが答えが見つからない。担いだことへのお返しだと分かっているから降参したくなかったが、兜を脱いだ。件(くだん)の女子学生はにっこり頬笑んで「うちの父はわがままです」が正解だと教えてくれた。


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3月25日(水)鶯の初音

昨日の朝、鶯(ウグイス)の初音を聞いた。去年は14日だから10日も遅い。この声を聞くとほんとに春だなと感じる。「ホーホ」と鳴いてしばらく間を置いてから二度目は「ホーホケ」でやめた。なんだかおっかなびっくり鳴いているようで滑稽だ。

ウグイスが囀るのは春から夏までで、その後は翌年の春までお休みする。その間に鳴き方を忘れてしまうのだろうか。毎年一からおさらいしなければ上手に鳴けないとは気の毒なことである。

秋から冬の間もまったく鳴かないわけではない。裏の笹薮の中で「チッ、チッ」と地鳴きしている。笹鳴きとも言う。「ホーホケキョ」と美声を聞かせてくれる鳥と同じ鳥とは到底思えない地味な鳴き声である。

俗にウグイスの谷渡りといわれる鳴き方がある。「ホーホケキョ」と普通に囀っていたかと思うと突然「ケキョケキョケキョ・・・」とけたたましく鳴くことがある。これが谷渡りで、我が家では初夏によく聞かれる。

野鳥の鳴き声に関する研究書によると、これは警戒音で抱卵、育雛(いくすう)期に多く聞かれるとあった。そう言えばウグイスの巣に托卵するホトトギスの声が聞かれる時期と、ウグイスの谷渡りの時期が一致している。

ウグイスは英語でBush Warbler(ブッシュ ウオーブラー)、つまり「ヤブで囀る鳥」といわれるように姿を見るのはなかなか難しい鳥である。良い取り合わせの例えとして、梅にウグイスというが、実際は梅の木にとまることは滅多にない。今朝も裏の雑木林で歌の練習に余念がない。早く上達して美しい声を聞かせてもらいたいものだ。


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3月26日(木)大吟醸

いささか旧聞になるが、誕生日のお祝いに大吟醸の一升瓶をいただいた。立派な桐箱に収まっている。宝箱を開けるような気分で蓋を取ると、金色の布で覆われた窪みに雲形の模様がある漆黒の瓶が鎮座していた。

恐れ多くて簡単には栓を開けられないような雰囲気が漂っている。何しろ栓の上をこれまた金色の紙が覆い、ご丁寧にも紫の紐で結ぶ念の入れようだ。そんな訳でまだ味を見ていないが、宣伝文句で大体の見当はつく。

「アルコール度17.1度、原料米山田錦、日本酒度+4.5度、精米歩合35%、酸度1.2・・・」。つまり普通の酒よりアルコール度数が高く、35%まで精米した酒造米として最高の山田錦を原料に醸し出した、やや辛口の酒である。飲まなくても端麗で馥郁たる大吟醸特有の味と香りが想像できる。

それにしても原料米を削りに削ったものだ。普通の吟醸酒の精米歩合は60% から50%程度である。それをなんと35%まで削って芯白部分だけを使った超贅沢酒である。削り取った米の粉はどうなるのだろう。

気になって地元の酒造家に聞いてみた。答えは単純明快。最初に出る米ぬかから精米の段階毎に分類した粉を専門に扱う業者へ売り渡し、そこから漬物屋、製菓業者などに転売されて無駄なく利用する仕組みになっているそうだ。問い合わせたメーカーでは一部を自家製クッキーや豆腐の原料として使っているとのことである。

大吟醸は資源の無駄使いでない事を知って安心した。いよいよ恭しく紐を解いて極上の一滴を賞味することにするか。


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3月27日(金)掃除の効用

昨日は暖かく風も穏やかな上天気だった。この天気に誘われて書斎を久しぶりに掃除した。決して掃除好きな方ではないが、何時の間にか掃除は小生の受け持ちになってしまった。というよりは女房から取り上げたといったほうが正確かもしれない。

早い話、彼女の掃除の仕方が気に入らないのだ。まず掃除は上から下へという初歩の鉄則を守らない。埃がたまりやすい部屋の隅は無視する。散らかっているものはそのまま避けて通るなど気に食わないことを挙げたら切りがない。

いらいらし、ぶつぶつ文句を言うよりは、自分でした方がよっぽどいいと相成ったわけだ。女房は喜んでいるのかどうか知らないが、ケロットしている。案外敵のほうが上手で「してやったり」と思っているのかもしれない。

まあ、それはともかく、昨日は書斎とそれに続く書庫の窓という窓を全部開け放って、丹念にハタキをかけてから、机の下、コンピュータと壁の間、アルミサッシのレールに溜まったごみまで丁寧に掃除機をかけた。塵一つなくまことに気分爽快である。

しかし、そうなる前にハプニングがあった。掃除の途中でうっかり掃除機のホースを乱雑に積んである本の山に引っ掛け、春先の雪山のように本の雪崩が起きたのだ。これは厄介なことになったと注意散漫を呪ったが、悪いことばかりではなかった。禍福は紙一重というとおり雪崩のお蔭で思わぬものを見つけたのである。

雪崩の隙間から海老茶とベージュのはかまを着けた本が助けを求めているように見えた。「しっかりしろ、いま助けてやるからな」と心の中でいいながら、周りの本を押しのけて二人(2冊か)を引っ張り出した。

なんと言う奇跡、長いこと探しあぐねていた2冊の本と再会できたのである。一冊は「The Compleat Flea」(ノミ大全:ブレンダン・ルへイン著)、もう一冊は「酒のみの社会史」(原題は19世紀の飲んだくれ;ディディエ・ヌリッソン著)である。崩れ落ちた本の山の中からなぜこの二冊が特別目に付いたのか不思議である。たまには掃除もいいものだ。


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3月28日(土)ノミのサーカス

26日、掃除の途中に見つけた「ノミ大全」が面白くて、掃除を一時中断して読みふけってしまった。ガラクタを整理しているうちに古い写真や日記が出てきて、本来の仕事を忘れてしまうのと同じである。

著者のブレンダン・ルヘイン(Burendan Lehane)がどういう人物か知らないが、あのちっぽけなノミについて生物学、文化史、文学など多角的な観点から検討を加え、一冊の本にまとめただけでも大したものだと思う。内容が多岐にわたっているので、ポイントを要約することすら困難である。ここでは例によって知ったからといって何の役にも立たない2点だけを紹介するにとどめよう。

その1.運動能力。
ヒトノミ(人間に宿るノミ)は体長の150倍の距離を飛び、体高の80倍の高さまで跳躍することができるのだそうだ。人間の尺度なら高さで140m、距離で400mも飛べる勘定になる。もっともこれは重力や空気抵抗を無視した単なる比較であるから、何割か割引して考えないといけない。しかし、棒高跳び、走り幅跳びのオリンピック記録を思い起こしてみるがいい。ノミはなんと優れた跳躍選手なのだろう。

その2.サーカス。
ノミのサーカスの話は聞いたことがあるが、具体的な内容は知らなかった。ヨーロッパでノミのサーカスが興行として盛んに行われたのは18世紀から19世紀にかけてである。18世紀に活躍したノミ興行師シニョール・ベルトロットの公演広告が残っている。

それによると出し物はノミの貴婦人とフロックコートを着用したノミの紳士が踊る舞踏会、ノミが奏でるオーケストラ、髭を生やした老人ノミ4匹によるトランプゲーム、4頭(匹)だての馬車、ノミの馬にまたがったワーテルローの3英雄のミニチュアなどで、すべて生きているノミに衣装を着せ、精巧に作られた馬車を引かせ、あるいは楽器の演奏の真似(楽器のミニチュアを足に接着剤でつけた)をさせたりしたのである。

衛生状態が改善されてノミの入手が困難になり、最近はノミのサーカスが衰退したが、まだイギリスとイタリアに一座ずつ、フランスで三座が興行しているそうなので、機会があったら是非見物したいものだと思っている。


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3月29日(日)ヒキガエルの恋

真夜中に目がさめた。こんなことは珍しい。シーンと静まり返った闇の中から、かすかに何かが鳴く声が聞こえる。クォー、クォー、クォー、あるいはカオ、カオ、カオに近いかわいい声である。聞き覚えがある。ヒキガエルの声に違いないが確認するのは夜が明けてからにしょうと再び眠りについた。

目覚めるとすぐ顔も洗わずに声がする家の東側にある池を覗きにいった。いるいる。思ったとおりヒキガエルがたくさん集まっていた。きのうは声に気づかなかったのか、それとも一夜のうちに集合したのか分からないが、10匹や20匹ではない。

人間が近づいても一向に気にする様子もなく、クォー、クォー、カオ、カオ、と鳴きかわし、手が早い奴はすでにペアを組んでいる。ヒキガエルの集団見合いと結婚が始まったのだ。壮観である。一匹のメスに複数のオスが挑んでいるのもあれば、ペアになったまま岸辺でじっとしているのもいる。

去年はこの季節、日照り続きで池がほとんど干上がり、わずかに残った泥水の中に子孫を残そうと、ヒキガエルが団子のようになって泥まみれの格闘をしていたのを思い出す。ことしは水がたっぷりあるので分散して存分に恋を楽しんでいるようだ。

芝生が緑の絨毯になるころ、ヒキガエルの赤ちゃんがよちよちやって来る。3 cmほどしかないのに親そっくりの風貌の赤ちゃんは、玩具のようでとてもかわいいものである。大きなヒキガエルは気持ち悪いという人もいる。しかし良く観察すると堂々として風格があり、体つきに似合わず仕草がかわいいのである。

夏の夜、どこからともなく芝生に現れて餌を求めて歩き回る。のそりのそりと動作は緩慢だが、虫を捕らえるのは一瞬の早業である。今年の夏には、いま池で繰り広げられている愛の結晶も虫ハンティングの仲間に加わるのだろう。


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3月30日(月)草むしり

寒さから解放されるのはうれしいが、これからのシーズンは雑草取りに追われる。毎年芝生の雑草を丹念に取り除いているつもりでも、今年も冬枯れの芝生に雑草が目立つ季節になった。地べたに張りついたハハコグサ、スズメノカタビラ、ツメクサなど日向を好む雑草が春の光を浴びて一斉に伸び始める。

芝生が芽吹いて緑になると雑草が目立たなくなるから、今のうちに退治しなければならない。朝食後の腹ごなしに作業に取り掛かる。最初は特に目に付く奴から征伐にかかる。これは一つ一つの固体が大きいから比較的簡単だ。厄介なのはスズメノカタビラのような枯れた芝と同じような色をした雑草である。

老いとともに視力が落ちているから目指す相手が容易に見つからない。まず芝に腰を下ろして30cm四方ほどの面積にじっと目を凝らす。すると在るは在るは。片っ端から根ごと引き抜いて使えなくなったガス炊飯器の内釜に放りこむ。

こんな単純作業を一時間もすると腰は痛くなるし指先に力が入らなくなる。それだけ苦労しても雑草を取り終えた面積は一坪にも満たない。気が遠くなるような作業だ。除草剤を使えば事は簡単だが、自称「地球にやさしい人間」のプライドが許さないし、ヒキガエルの餌場を汚染してはなならない。

かくして春は小生にとって嬉しくもあり、苦難のシーズンでもある。故人になられた杉浦明平氏(ルネッサンス研究者、小説家)の著書に「老いの一徹草むしり」と題する随筆集がある。晩年渥美半島に庵を結び、畑を耕して自給自足の生活をした経験を題材にした随筆である。750平方メートルの畑で雑草取りに奮戦する杉浦さんとは比べようもないが、どこか共通した体験をしているような気がして、痛い腰をさすりながら雑草取りに励む毎日である。


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3月31日(火)自転車

兄の家に届け物があって久しぶりに自転車に乗った。往復約25km、爽やかでいい運動になったと言いたいところだが、運動はともかく爽やかとは言いかねる。

自転車に乗るたびに腹立たしく思うのは、日本の道路が自動車中心で歩行者と自転車を虐待していることである。自転車は道路交通法上は軽車両で、原則として車道の左端を通行することになっている。ところが車道の端は自転車にとって悪条件がそろっている。路肩はアスファルトが波打っていてガラスの破片やごみが散乱しているほか、側溝の蓋がないところもある。

四つ車の自動車なら何でもなかろうが、自転車には危険極まりない。それなら歩道を走ればいいじゃないかと自動車族は言うかもしれない。しかし歩道は文字通り歩行者のためのもので、自転車通行可の表示がある一部の歩道以外は自転車の乗り入れは違法なのである。そのうえ歩道がない道路のほうが圧倒的に多いのだ。

歩行者は歩道を我が物顔に走る自転車が怖いといい、自動車の運転者も自転車を邪魔者扱いする。経済的で窒素酸化物も出さない自転車がこんなに虐待されていいものだろうか。その気になれば歩行者も自転車も車もイライラしないで安心して共存できる道を作れないはずはない。

去年3週間ほど滞在したスイスは北海道の半分、九州ぐらいの小さな国であるが、政府観光局の資料によると、自転車専用道路がツーリング用に8000km、マウテンバイク用に12000km整備されている。残念ながら日本はまだまだ後進国だと痛感したものである。

閑話365日 1998年 3月11日(水)

2010-11-09 15:18:46 | ■⑪大事な言葉★観たい映画★
閑話365日 1998年
3月11日(水)オリヘウス

きのうの物忘れに関連して思い出したことがある。ある日ある時突然、なんの脈絡もなしにオリヘウスという人物の名が浮かんだ。カタカナだから日本人でないことは確かだが、知り合いの外国人にはいない。でも頭に浮かぶということは何処かでこの人物と繋がっているはずだ。気にはなったが何の手がかりもないので、しばらく放っておいたら、そのうちすっかり忘れてしまった。

老化した脳細胞は切れかかった電球のような物だと思う。情報を伝えるニューロンとかいう触手の網の目が切れたり繋がったりするのだろう。うまく点灯することもあれば点かない場合もある。電球なら軽く叩けば点くこともあるが、脳はそうは行かない。しかし、頭を叩かなくても何かが誘い水となって、明探偵エルキュール・ポアロの灰色の脳細胞のように、突然フル回転を始めることもあるのだ。

今度の場合がそうだった。タコの話を書こうと思って、博識で知られる種村季弘の本をあれこれ読んでいた時である。オリヘウスは数ある彼の著作の中の何処かに出てきた名前だったことに気がついた。オリヘウスは名前で姓はアルメナートということまで思い出したのである。何たる奇跡、何たる頭の冴え。独りニンマリした。

種村季弘が貧乏学生で年中腹を減らしていたころ、下宿に仲間が集まって、それぞれの得意料理を作って飽食するという話だったと思う。そこに登場するのがオリヘウス・アルメナート君でエジプトかエチオピアあたりに有りそうな名前であるが、国籍不明、経歴も不明、何から何まで不明の人物だったように記憶している。彼がこさえた料理がどんな物だったかも覚えていない。

細部は忘れてしまったけれども、とにかく面白い話であった。この話をもう一度読んでみたくて書架を探したが見つからない。本の題名も出版社も分からないから探しようもない。ご存知の方がおられたらメールでお教え願いたい。


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3月12日(木)確定申告

この時期は憂鬱になる。毎年税金をガバッと追徴されてきたからだ。いちいち覚えてはいないが、去年は31万円ほど、一昨年は38万円余だった。それぽっちの追徴でゴタゴタいうなといわれそうであるが、年金生活者にとっては大金である。確定申告で税金が還付されたことは一度もなかった。だから腹いせに税務署の方向へ足を向けて寝ている。

ところが今年は税金が戻ってくる。金額は4万円ばかりでわずかだが、追徴されるのと戻るのとでは大違いである。去年に比べれば35万円ほど儲かる勘定だ。一杯飲み屋なら一週間に一度通ったとして、1年間はゆうに飲める金額ではないか。

なんだか嬉しくなって、今まで税務署に足を向けて寝ていたのが悪いことをしていたような気持ちになった。単純人間は当初単純に喜んだのだが、時間が経つにつれて手放しで喜ぶべき事柄ではないことに気がついた。去年は高額の医療費がかかった訳でもないし、前年と事情はほとんど変わらないのに、税金が戻るということは収入が減ったからに他ならない。要するに貧乏になったから税金が少なくなっただけのことである。喜びは泡沫(うたかた)と消えた。

それに帰り際に税務署員が発した言葉にカチンと来た。言葉づかいは丁寧ながら、今まで毎年郵送していた申告用紙を来年からは送らないから、税務署まで取りに来いというのだ。税金が徴収できる可能性があるうちは用紙を送っていたがお前はもう用済みだ。税金を返してもらいたいなら用紙を取りに来て申告しろと言っているのである。

かくして喜びは再び怒りに変わり、今後も今までどおり税務署に足を向けて寝ることにした。

きのうの「オリヘウス」の文中、種村季弘の名前を「李弘」と誤字入力してしまいました。ご親切な読者からのご指摘で気づき、ここに訂正します。


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3月13日(金)遅い春

今年は暖冬の影響で春が早いという。本当にそうなのだろうか、はなはだ疑わしい。動物的な感覚から言えば、むしろ去年の方が早かったような気がする。そこで去年の日記をめくってみた。

1997年3月13日(木)
今朝は穏やかに晴れた。きのうの強風がうそのようだ。庭のあちこちに黄色や薄紫のクロッカスが咲き始めた。7日から中断されていたリマの日本大使公邸人質事件の交渉が一週間ぶりに再開されたが、会談の中身は不明。

これを見ると去年はこの日に春を告げるクロッカスの花に注目している。庭に出て毎年クロッカスが咲く場所をみたら、濃緑色の葉の間から蕾が覗いているが、まだ咲いていなかった。おれの感覚も捨てたものじゃない。気をよくして翌14 日の記録を見ると、紅梅が開花間近で鶯の初音を聞いたとある。今年は紅梅はまだ咲きそうにないし、鶯の声も聞かない。

しかし気象庁が発表したサクラの開花予想は春の訪れが早いと告げている。我が家の庭の花たちの目覚めとサクラの生理とは違うのか。それとも積雪がなかなか消えなかった我が家の環境のなせる業か。原因は分からないが、早く本格的な春になってもらいたいものである。


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3月14日(土)続オリヘウス

海老名のAさんのお陰で懐かしのオリヘウスに再会できた。Aさんが本の検索先を教えてくれたので見つけることが出来たのだ。心からお礼申し上げる。Aさんは見知らぬお人であるが彼のHPは一見に値する。蕎麦打ちに造詣が深く、写真入の懇切丁寧な解説がすばらしい。HPはhttp://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/~aizawa/ である。

さて本題に戻ろう。オリヘウスが隠れていた本は「食物漫遊記」(種村季弘著:筑摩書房)であった。彼はその中の「食うか食われるか・・フライブルクのアラブ・パン」という短編に潜んでいたのだ。再読してみると小生の記憶は随所で間違っている。

まず話の舞台は日本の貧乏下宿にあらず、ドイツはフライブルクの学生寮である。そこにいる友人を訪ねてきた種村氏が、アフガニスタンの留学生が作った料理をご馳走になるところから物語は始まる。各国の留学生がお国自慢料理を持ち回りでこしらえてパーティーを開くという筋書きは小生の記憶どおりであった。

アフガニスタン料理の次のホスト役を勤めるがオリヘウス君で、アフリカ料理をご馳走しようというのだ。その食材は生きている猿である。その猿をドイツでどうやって調達するかが悩みの種になり、そこから話しはあらぬ方向に展開する。

オリヘウス君は実は象牙海岸のさる土候国の皇太子殿下で、本来はアルメナート・オリヘウス殿下と呼ばなければならない高貴なお方であった。11日に国籍、経歴不明なんて書いたのはとんだ間違いであった。お詫びして訂正しなければならない。

話はどんな結末を迎えるか、それは本で見て頂くことにして、小生がここでぜひとも読者に伝えておきたいのは、この殿下の名前についてである。真実を知ったのはこの物語を読んでからずっと後のことである。アルメナート・オリヘウスをローマ字で書いて末尾から読んでみたまえ。意外な事実に驚くに違いない。

この隠された秘密をどこで発見したのか、今度はそれが分からなくて悩んでいる。


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3月15日(日)巣作り

春から初夏にかけて子育てする鳥たちが繁殖期を迎えた。せっせと巣の材料を運んでいる。きょうは書斎の窓越しに見える桐の木にカラスが来ている。このあたりにはハシボソガラスとハシブトガラスが住んでいて、きょうのお客様はハシボソガラスである。

彼(彼女かもしれない)はやや太い枝に止まってしばらく辺りをきょろきょろ見回していたが、やがて意を決したように枝先に向かい小指ほどの太さの枝を選ぶと、頑丈な嘴でその枝を撓めポキリと折り取った。

およそ50センチほどのその枝の根元を脚でしっかり押え、嘴を器用に操って細い脇枝を切り落としている。運びやすくするためだろうか。出来上がった巣材をくわえ直して太い枝に戻り出来栄えを確かめるような仕種をしていたが、「こりゃだめだ」とでも言うように、苦心の作をポイと捨ててしまった。何か気に入らないところがあったのだろう。

気を取り直したように先ほどと同じ作業を繰り返して別の作品を仕上げた。今度はお気に召したようで枝をバランスよくくわえると、アカマツの梢をかすめるように飛び去った。作業現場の下に行ってみた。小枝がたくさん落ちている。枯れ枝に混じってさっき落としたと思われる枝もあった。切り口が新しいからそれと分かる。持ち去った枝と何処が違うのか区別がつかないけれども、カラスにとっては重大な差があったのだろう。

外に出た序でに裏庭のカエデの込み入った枝に去年から残っている小鳥の巣を取り除いた。こちらは外径20センチ弱、内径10センチほどのお椀型で、素材は外側がススキのような細長い葉と新素材としてのビニール紐、その内側に広葉樹の葉、中心部には細い柔らかい草状ののものが敷き詰められている。

どんな小鳥の巣なのか知らないが、実に見事な造型だ。誰に教わる訳でもないのに自然の素材と人工のものを巧みに取り入れ、外側と内側に別の材料を使い分けるこの知恵に、ただただ驚くばかりである。


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3月16日(月)フキノトウ

家の東と北の日溜りにフキノトウがたくさん出てきた。摘んできて熱々の味噌汁に散らすと薄緑色が一瞬のうちに濃緑色に変わり、独特の香りが部屋中に広がる。汁を一口含んでほろ苦い春の味覚を味わった。

フキノトウはフキ味噌(仙台地方ではバッケ味噌という)、天ぷら、酢味噌和えなどにして春の食卓を飾る。大量に食べるものではないから、そう心配する必要はないけれども、フキノトウにはピロリチジン系アルカロイドが含まれていることが分かっている。うまいからといって天ぷらにしてたくさん食べるのは考えものだ。

フキノトウに雄株と雌株があって、摘まずに放置するとどんどん伸びて花が咲く。雄花は黄色味がかった白、雌花は白色である。30センチほどになる雌株の花茎から花を除いて煮付けにしてもうまいものだ。ふつう煮付けや油炒めにして食べる長いフキは花が終わってから出てくる葉の葉柄の部分である。

我が家のフキは勝手に生えてきた野生のものだから、栽培したものほど立派ではない。しかし、これはこれなりに加工次第で野趣があってうまい。皮をむかないで適当な長さに切って鍋に入れ、醤油を材料が隠れるほど注いだら弱火で半日ほどじっくり煮こむ。煮汁がなくなりかけるころ味醂で味を整え急速に冷却する。これで保存がきくキャラブキになるのである。


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3月17日(火)春の嵐

春と冬が綱引きしている。この勝負、結局は春が勝利を収めるのだが、簡単に勝負はつかない。一昨日、昨日、今日と三日連続寒気がぶり返し強風が吹いた。建築後30年近い我が家はミシミシ、ギシギシと悲鳴をあげる。春先の仙台は風が強い。毎年のことだから慣れてはいるが、スパイクタイヤ全盛時代はひどかった。街中は削り取られたアスファルトの粉塵が舞い上がり、町全体がボーッとかすんで目も開けていられない状態であった。

この風とともに杉花粉の季節がピークを迎える。さいわい花粉症でないからいいようなものの過敏症の人はさぞ辛いことだろう。元凶の杉花粉が今年は当たり年のようだ。家の裏から続く仙台市保存緑地の杉は葉先に薄茶色で米粒状の雄花をびっしり付けている。

晴れて気温が上がると雄花はいっせいに花粉を飛ばす。花粉の集団がまるで黄色い煙のように風に乗って広がっていく。美しいといえば美しいが、花粉症の人が見たら卒倒しそうな薄気味悪い光景でもある。

この杉花粉の飛散を少なくしようと林業関係者は雄花が咲かない杉の開発に懸命だ。しかし現在の杉の植林を花粉が飛ばない樹種に更新するには、百年単位の年月がかかるだろうから今生きている人は相変わらず涙を流し、鼻水をたらしながら我慢するしかないだだろう。

老生は子供のころ春になると杉鉄砲でよく遊んだ。開花前の固い杉の雄花を弾丸にした手作りの鉄砲を撃ち合って兵隊ごっこをしたものだ。銃身は弾丸に合う太さの笹竹、弾を込め発射する棒は自転車屋さんから要らなくなったスポークを分けてもらった。杉に花がなくなったらこんな素朴な遊びも消えてしまうのだろう。花粉症の人には申し訳ないが、なんだか寂しい気持ちもする。


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3月18日(水)馬糞・その1

半月ほど前、知り合いの土建屋のおやじがふらっと現れて、藪から棒に馬糞は要らないかという。びっくりして肥料屋に商売替えしたのかと聞いたら、「ほまち」仕事でやっているのだとにこにこしている。なんでも某乗馬クラブの厩舎の模様替えの仕事をしているが、山積みになっている馬糞を始末しなければならない。しかし相手は馬の糞だから捨て場所に困る。

そこで相談だがお宅で少し引き受けてくれないかというわけだ。春の農作業に備えて肥料と土壌改良材を買おうと思っていた矢先だったので、乗り気になった。「少しってどのくらい」と尋ねると、乗ってきたダンプトラックを指差して、「あれで一つどうだべ」と相変わらずにこにこしている。冗談じゃない。トラックいっぱいの馬のうんちを持って来られたのでは困る。

立ち話もなんだからと招じ入れて、「置き場所に困るからそんなに要らないよ」というと「そんなら、荷台にサラッとでどうだべ」ときた。「そのサラッとでどれくらいあるの」と重ねて問うと「そうさね、2トンぐらいかな」とケロッとしている。肥料は10キロか、せいぜい20キロ袋で買っているこちらとは、根本的に量の感覚が違うのだ。

乗りかかった船だ、量は手を打とう。「ところでなんぼなの」とおそるおそる値段の交渉に入る。「6,000円でどうだべ」という。いつも買う肥料の値段を思い浮かべながら、100キロの値段にしては高すぎると考えて「うーん」と唸った。すると「高いべか、雨よけのシートも持ってくっから」とこちらの顔を覗った。そこで初めて彼は全体の値段を言っているのだと気がついたのである。

安い、これは絶対安いと思ったが、そんな素振りはこれっぽっちも見せず、「長い付き合いだから、まあいいさ」と折り合いをつけた。

その後の話は明日にしよう。


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3月19日(木)馬糞・その2

さて、商談はめでたく整ったものの置き場所が問題だ。カーポートに続く芝生にシートを敷いてその上に荷下ろしするのはどうかと、おやじは言う。そこからネコ車で畑に運べばいいさと事もなげにのたまうが、居間の前にウンコの山はいやだ。

じゃーどうするか。おやじと連れ立って庭に出て置き場所を検討した結果、隣の空き地からトラックを我が家の敷地の境界までバックで入れて、庭の片隅に荷下ろしすることになった。これなら居間からも見えないし、畑へ運ぶのも楽である。ただしその場所に植えてあるサツキとハギを掘り起こしてどこかへ移植しなければならない。運んでくる前に電話をくれる約束をしておやじは帰っていった。

一週間ほどで持って来るというので次の日から植木の移植作業に取り掛かった。半日もあれば何とかなるだろうと高を括っていたら、これがとんでもない誤りで、サツキの大株を掘り起こすのに2日、ハギと柘植であと2日、移植に1日、掘り起こしたあとの整地にもう1日と6日がかりの重労働になってしまった。フンのために奮闘(ふんとう)するとは、まさに噴飯(ふんぱん)ものである。

ところが一週間どころか10日経っても音沙汰なし。この分では何時になるかわからないと半ば諦めかけていたら、17日の昼飯どき何の前触れもなくおやじが現れた。「遅くなってすみません」でもない。クソッと思いながら「電話するって言ってたじゃない」といっても「土曜日に下見にきたら、場所ができてたからいいと思って」と言い訳にもならない返事をして、相変わらずニコニコしている。

おやじは平然としている。暖簾に腕押しとはこのことだ。逆に昼飯を中断してトラックの誘導係りをさせられた。うまく荷下ろしの場所に車を寄せて荷台を傾けると、馬糞がドドドッと滑り落ち小山を築いた。周りに散らばった馬糞をシャベルで手際よく片付け一丁あがり。

お茶に招じるとおやじは汚れた手のままお茶を飲み、昼飯に用意しておいた春巻き1 本とイカナゴの釘煮をうまそうに食べた。馬糞代6,000円とサービスとばかり思い込んでいたシート代1,000円もちゃっかりポケットに収めると、「ごっつぉさん」と笑顔を振り撒きながら走り去った。


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3月20日(金)墓参り

お彼岸だから墓参りに行った。ふだんはご先祖様のことなど露ほども考えないが、春秋の彼岸とお盆だけは墓参りを欠かさない。毎回、三つの墓地を回る。最初は父母と兄弟が眠る齋藤家代々之墓、二番目が家内の両親の墓、三番目は死産の子を供養し、将来自分が入る予定の墓である。

早朝にもかかわらずたくさんの参詣者が来ていた。仙台地方の習慣で春の彼岸には削り花を供える。赤、黄、ピンクの色鮮やかな花が墓地を明るく彩っている。ことしは寒波のぶり返しで花立にたまっていた水が凍りつき、そこへお供えできないので地面に突き刺して、手を合わせた。

自分の墓石を建てたのは30年以上前のことである。そのころ自宅の新築を考えて方眼紙に図面を書いてはあれこれ検討していた。そこへ来合わせた知り合いの墓相見のお爺さんが、浮世の家より終の棲家である墓を先に作りなさいという。そのお爺さんのお世話で無け無しの金をひねり出して墓地を取り、五輪の塔を建てた。

財布が空になって現世の家の着工が2年ほど遅れた。その間に住宅金融公庫の貸し出し枠が広がり、会社も退職金を担保に住宅融資を始めたのである。お爺さんの薦めにしたがってほんとに良かったと思った。まだある。家ができてローンの返済が始まり、家計が圧迫された。ところが間もなく第一次オイルショックが起き、賃金が年に30%も跳ね上がることになった。

おかげでローンの返済はあっという間に重荷でなくなったのである。墓参に行くたびにあのお爺さんのことを思い出す。


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閑話365日 1998年

2010-11-09 15:17:34 | ★③(は)お父さんの閑話365日(転載)
閑話365日 1998年

1日(日)言い訳

毎朝目覚めたらEメールボックスを覗くのが日課になっている。大事な連絡が入っているかもしれないと思うから。実はそんなことは滅多にないのだが、今朝も念のため開いてみると「6日の金曜日の夜空いているか」という飲み仲間からの一通と、見知らぬ人からのもう一通が入っていた。長いお便りなので、肝心のところだけ抜粋する。

「・・・・1日から始めると予告があったのでアクセスしたところ、「閑話」が見当たりません。何か事情があって開始が遅れるのなら、ちゃんと前日までに知らせていただきたい。・・・要するにあなたの行為は極言すれば詐欺、ペテンの類です。せっかくの日曜日の始まりが台無しになってしまいました。・・・」

もちろんこれは冗談だと思ったが、熱心な読者の期待を裏切った罪は重い。日ごろ能天気な小生も何とお詫びしようかと思いながら、発信者のメールアドレスをたどったまではいいが、その上の発信時刻を見るに及んで気が変わった。1998年3月1日、0:24:53とあるではないか。

小生の言い分も聞いてもらいたい。確かに3月1日から「閑話365日」なる欄を始めると予告はしたが、1日午前0時を期してなんて約束した覚えはない。それなのに1日になった途端にアクセスして見当たらなかったからといって、詐欺師、ペテン師呼ばわりされたんではかなわない。こっちこそ日曜日の朝から不愉快だ。とは言っても毎日が日曜日の身では、曜日は関係ないか。

ま、そんな訳でお詫びのメールを出す気もなくなったし、ゆうべ女房の誕生日にかこつけて飲み過ぎたブルゴーニュワインの余韻も尾を引いているので、まず顔を洗って朝飯にするか。


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2日(月)ロウバイ

1日朝のメールで狼狽(ろうばい)したので、実質初日の分として庭のロウバイの花について書くことにする。このロウバイ、正月の松の内にちらほら咲き始めて今が盛りとは、随分長持ちする花だ。ロウバイは漢字では蝋梅、中国原産の落葉樹で、葉が出ないうちに芳香を放つ花が咲く。花は蝋細工のような艶があり、花弁の外側が黄色、内側は暗紫色、夏に小さなラグビーボール状の実がなる。

去年も今時分が盛りだったかと、1日前後の日記をめくってみたが蝋梅の記述は見当たらない。3月1日のところには花の話ではなく、無粋な食い物のことが書いてあった。朝は「う雑炊」、白焼きのウナギを入れた雑炊で、これが滅法うまかったと感激している。夜はタコの刺し身と糸コンニャクの辛子明太子和えで一献傾けたとあった。実質初日からこんなくだらないことを書いたのでは先が思いやられる。

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3日(火)タコ・その1

2日付けの文章を書き終えて、さて明日の話題を何にしようかと、たばこを一服しながら考えた。1日の朝みたいなことがあると嫌だから、3日目も書いてしまおうと思った。そうすれば少なくとも2日はのんびりできる。1日1話の触れ込みなんかクソ食らえだ。そして突然タコにしようと閃いた。タコ刺しからの連想である。全く安易な選択で我ながら呆れ返るが、この無責任さが閑話の醍醐味だと諦めてもらいたい。

さてそのタコであるが、頭足綱八腕目なんて小難しいことを言うつもりはない。もっぱら食う話である。あんなにうまいタコだから「食」に関する本にたくさん出てくるに違いない、と見当を付けて当たってみた。ところが予想に反して見当たらないのである。見た本が悪いのだとお叱りを受けそうなのでごく一部をご紹介する。

作品社刊の「日本の名随筆32・魚」(末廣恭雄編)、「同59・菜(さい)」(荻 昌弘編)、「同26・肴」(池波正太郎編)。この3冊だけでも深い知識を持つ編者が選んだ147編の食随筆が収められている。だがこの中にタコの話は一つもないのだ。これではタコがかわいそうではないか。我慢ならない。我が愛するタコのため一肌脱いで弁護の論陣を張らねばなるまい。と気負っては見たものの今日は本をめくるだけで疲れたから続きは明日にしよう。

日付は3日であるが、書いたのは1日の午前中である。


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4日(水)タコ・その2

一口にタコといっても簡単に論じる訳には行かない。なにしろ日本近海だけで30種類ほど生息しているのだ。このうちふだん食膳に上るのがマダコとミズダコである。どちらがうまいかと問われると困るけれども、小生好みで言えばマダコに軍配を上げる。ミズダコを好む東北北部から北海道の人には反論されそうだが、化け物のように大きくなるくせに名前のとおり水っぽいミズダコよりは、小ぶりで身が引き締まっているマダコの方が歯ごたえといい味といい格が上だと信じている。

マダコが一番うまい季節は冬から早春にかけてである。中でも「地つき」のタコがいい。夏から秋に生れて、その土地で育ったタコのことである。これは成長期が冬に向かって水温が下がり厳しい環境なので、体は大きくならないが肉質、味ともに優れている。兵庫県の西宮に住んでいた当時たくさん食べた明石のタコはその代表といえよう。

これに対して旅をする「渡り」というのがある。旅といっても日帰り旅行とは訳が違う。東北地方に関して言えば、房総沿岸で春に生れた幼生(小さくてもちゃんと8本足でタコの格好をしている)がプランクトンを食べながら黒潮に乗って南三陸沿岸まで北上し、そこの岩場で成長して晩秋に生まれ故郷へ戻ってくるのだ。あの一見のろまなタコがこんな大旅行するなんて信じがたいだろうが本当の話である。

こちらは夏にいい環境でぬくぬく育つから「地つき」の2倍ほどに成長するが、質はやや劣るといわざるを得ない。東北地方太平洋岸にも「地つき」はもちろんいる。しかし渡りタコの方が多いのではないかと推測される。その証拠に宮城県の有名なタコ産地である志津川の漁が激減したことがあり、それは黒潮の勢いが弱い時期と一致した。そして黒潮の勢力が盛り返すと志津川のタコも復活したのである。

前置きが長くてなかなか食べるところまで辿り着かない。明日こそ食べる話をしよう。


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5日(木)タコ・その3

いよいよタコを食う話である。調理したタコももちろんうまいが、一番のお勧めは刺し身である。中でも小ぶりの「地つき」をぶつ切りにしてワサビ醤油で食べるのが絶品だ。大阪・梅田の阪急神戸線の高架下に、釣り天狗が開いている小さな飲み屋がある。釣り好きがこうじて釣果を自分の胃袋だけでは消化しきれなくなって開いた店だが、釣れない時はもちろん休業である。そこで出す獲れ獲れのタコぶつ切りほどうまいタコにお目にかかったことはない。プリプリした歯ざわり、噛むほどに口中に広がるほのかな甘みとうまみ。もう少し運賃が安くて近いなら新幹線で食べに行きたいぐらいだ。

大き目のタコは吸盤を削ぎ落としてから刺し身にする。足の付け根の太いところが柔らかくてうまい。茹でたタコの刺し身も売っているが、これはミズダコと思って間違いない。ミズダコは生では刺し身にできないのだ。

調理したタコでうまいのは「桜煮」である。これは生きているタコを買ってきて塩でもんでぬめりを取り、足をダイコンで叩いて組織を崩してからアズキと一緒に煮て味付けしたものである。アズキの赤い色素とタコのタンパク質が結びついてきれいな桜色に炊き上がる。これは柔らかくて歯の悪い人でも食べられる関西が主流の名物タコ料理である。

我が家のタコサラダをご紹介しておこう。まず次の材料を用意する。
刺し身に出来る生蛸、ダイコン、カイワレ、オオバは必ず、その他キュウリ、セロリ、ニンジンなど好みで。以上は全部千切りしてタコと野菜と別々に冷蔵庫で冷やしておく。
ソースは和風のサラダ用ドレッシング。フレンチドレッシングにおろしオニオンを加えたものでもいい。エノキの味付け瓶詰め。
材料の準備が出来たら、食べる直前にタコと野菜を混ぜ合わせて大鉢に盛りつけ、その上にエノキを汁ごと散らし、最後にソースをかけて軽く混ぜて出来上がりである。

材料は1人前何グラムなんて考えないで、大胆にたっぷり作って食べる直前に味付けするのがコツである。そしてわき目も振らずひたすら食うのだ。時間を置くと野菜の水が出てまずくなる。驚くほどたくさん食べられること請け合いである。血中コレステロール値の上昇を押さえるタコに含まれるタウリン、各種ビタミン、食物繊維たくさんの低カロリーのお勧め健康サラダなのだ。

タコについて書きたいことはまだ山ほどあるが、あまり続けると「お前タコちゃうか?」といわれそうだから、今回はこれで筆をおく。


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3月6日(金)誕生日

きょうは小生の誕生日である。満68歳になった。この歳になると誕生日なんて少しも嬉しくないし、おめでたくもない。なにしろ冥土へまた一歩近づいたことを否応なく再認識させられる責め苦の1日に他ならないからだ。

むかしは数え年で、1歳増えるのは正月だったから、みんな新春を迎えた浮き浮き気分に紛れて老人も寂しい思いをしなかったのだろうが、満年齢で個々に誕生日を祝うようになってからがいけない。子供や孫に囲まれて賑やかに祝ってもらえる老人はまだ幸せだ。それでもどこか寂しいのが老人の誕生日なのである。

先年106歳で他界した母が「わたしは出来るだけ長生きしたいんだから、死亡広告に”天寿を全うし”なんて書いたら化けて出るよ」と晩年口癖のように言っていたのを思い出す。それほどに生に対する強い執着がなければ長生きはできないのかもしれない。でも口に出していう言わないは別として、高齢者はみな同じ思いでいるのではないだろうか。

さて自分に則して言えば、映画館は割り引きになるし、仙台市がくれた「豊齢手帳」のお陰で博物館、動物公園など市の施設は無料、「老人医療費受給資格証」なるものも交付されて、周囲から早く老人の仲間に入れと、力ずくで催促されているような気分である。かなりの老人だと思っていた親父が亡くなった年齢をとうに過ぎているのだから、当たり前なのかもしれないが、正直言ってどうも釈然(しゃくぜん)としないものがある。

「おれはまだ若い」と力むつもりはない。しかし男の大事な一物が元気に屹立(きつりつ)したまま目覚める朝がないでもないのだ。まだ色気だって消え失せた訳ではない。現に、何度か酒を酌み交わしたことのある20代半ばの女性二人が「6日に一緒に飲みませんか」と先日誘いのメールをよこした。おれの誕生日を覚えててくれたのかと天にも昇る心地がしたものである。実は誕生日とは無関係だったと後日分かって少しがっかりしたが、それでもきょうは朝から落ち着かない。


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3月7日(土)68年前の新聞

ゆうべは美女に囲まれ浮かれて飲み過ぎた。まだ朦朧(もうろう)としている。しかし年中無休が歌い文句の「閑話」を休む訳には行かない。辛いところだ。「なんて馬鹿な宣言をしたんだろう」といまさら悔やんでも始まらない。身から出た錆である。水をガブガブ飲み、渋いお茶を啜っても容易に改善されないこの辛さ。おお、神よ助けたまえ。

こんな時に頼りになるのは古い記録である。死んだも同然のこちらの脳細胞に代わって整理された情報を提供してくれるからだ。とは言っても、丸っきり当てずっぽうでは読者に申し訳ないから、小生が生れた昭和5年(1930)3月6日付けの新聞に登場願おう。

当日の河北新報朝刊一面は題字を除いて全部出版物の広告で埋まりニュースは1行もない。これはその日に限ったことではなくて、当時の朝刊一面は広告のページだったのだ。中央公論社の「新版大東京案内」、博文館の「新青年4月号」、大日本雄弁会講談社の「講談倶楽部4月号」などの広告が並んでいる。

初めは大きな活字だけ拾い読みしていたが、だんだん面白くなって天眼鏡を持ち出し、小さな活字を追い始めた。なになに「いま、東京で最も売行よき書物はこれである」だと?。見出しに引かれて読んでみた。その本は中央公論社の「友愛結婚」。少々長いが引用する(旧漢字は当用漢字に直した)。

曰(いわ)く「入学難、就職難、結婚難と八方塞りの憂鬱な人生、今はまさに青年男女の受難時代である。彼等は何処を目ざして進めばいいのか。其処に由々しき社会問題が起きる。晩婚、晩婚(ママ)、ひいては独身者の氾濫すべての社会悪が此処に醸成される。危機に瀕した性問題をどう解決するか、これは、アメリカのみの問題でない、世界中の大問題、吾国もどうしても避けられない今日以後の深刻な問題である。本書はこの問題解決に唯一の契機となるものである。定価1円80銭」

結婚難は措くとして、この広告文はそっくりそのまま今の社会に当てはまりそうに思えるのだがどうだろう。昭和5年は前年に世界大恐慌が起こり、日本もその大波を受けて株価は暴落し不景気に喘いでいた。今思えば敗戦まで続く暗い時代の幕開きの年でもあったのだ。

いささか堅い話になってしまった。脳味噌がふやけると話が堅くなるのかな。そんな法則はあるはずがないと、ふやけた頭で考えている。まだ二日酔いは治っていないのだ。


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3月8日(日)続新聞の話

きのうは古新聞のお陰で「閑話」を休まずに済んだ。そんな大恩がある新聞を粗末にしてはいけない。ニュースも少し覗いてみようではないか。

6日ロンドン発の電通特派員電はロンドン軍縮交渉の経過を伝え、この日の潜水艦型制限専門委員会で、単艦限度を2千㌧とする日本の提案に各国が同意したと報じている。国内では金解禁後の深刻な不景気に対処して、中小企業に対する恒久的な金融対策が急務だと伝えている。

またまた堅い話になりそうなので、社会部種を見よう。2年前に開局した仙台放送局の聴取者が2月中に256名増え、宮城県内の契約者数が1万4千余になった話、9日古川町(今の古川市)でカルタ大会が開かれるというお知らせなどと並んで交通事故の記事もある。その中で荷車と荷馬車の衝突事故が目を引いた。短い記事だから全文引用する。

「市内南材木町20醤油店小村豊吉方店員佐藤松治(38)は2月26日午前10時ころ荷車を挽き南小泉方面へ味噌醤油を配達し一本杉吉田理髪店の表街路にて宮城郡七郷村深沼渡邊要之助(40)の挽いて来た荷馬車と衝突し車輪にて左足小指を轢かれ治療2週間を要する挫傷を負ったことを堀江巡査が聞知し5日上申、事実調査中」

いやはや恐れ入った記事である。2月26日の事故を3月5日になってから堀江という巡査が耳にして上司に報告したという悠長さ加減もさる事ながら、これを記事にして載せる方もたいしたものだ。それにこの記事には句読点が一個所しかない。いまこんな記事を書いたらデスクにしこたま油を絞られること請け合いである。馬が挽く荷馬車と人間が挽く荷車の衝突という珍事にニュース価値を見出したのだろうが、どうせならどんな状況でぶつかったのかも報道してもらいたかったなあ。


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3月9日(月)感謝の気持ち

パラリンピックで日本選手の活躍が目立つ。なんだか自分がメダルを貰ったような気分になって喜びを分かち合っている。オリンピック冬季大会もすばらしかったけれども、それとは一味違った感動を覚えるのである。正直言ってこれまでパラリンピックにはほとんど関心がなかった。開催地はいつも遠隔の地だし、報道が地味だったせいもあるだろう。しかし今回の大会を見ていてまさに目から鱗が落ちる感じがした。

「ハンディを克服して」なんていう悲壮感が微塵もないところがいい。みんな大会に参加できたことを喜び、競技を心から楽しんでいる様子が伝わってくる。日ごろの精進の成果を桧舞台で全力を出しきって競う点では、健常者のオリンピックも同じである。でも何かが違う。国や地域の威信をかけてというむき出しの競争意識とは違う何かだ。闘争心をかき立てながらも参加者全体の連帯感が漂っているように感じるのである。

競技の質の高さも目を見張るものがある。アイススレッジ・レースのスピード、ホッケーのあの迫力。片足スキーで90キロ以上のスピードを出す滑降競技。これらは健常者のスポーツとは違う別の高度なスポーツだ。すごいと思うと同時に、修練を積めば障害があってもここまでやれると全身でメッセージを送っている選手に感動する。世間一般の常識で不幸といわれる状況を、幸福に変えてしまうようなエネルギーに満ちている。そしてオリンピックに劣らない観客と大会を陰で支えている多くのボランティアがいる。

この大会は多くの障害者にどんなに勇気を与えてくれることか。同時にオリンピックにはない新しいジャンルのスポーツが始まっていることを教えてくれた選手や関係者に心から「ありがとう」といいたい。パラリンピックがオリンピックと合体して同じ日程、同じ会場で開催される、何時の時代かそんな日が来ることを夢見る。


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3月10日(火)物忘れ

近ごろ物忘れがひどくなった。良く知っている人の名前がとっさに出てこないとか、深酒した時は飲み屋で交わした話の内容はおろか誰と会ったのかすら思い出せないこともある。ひどい時には今朝何を食べたかも昼ころには霧の中ということだってある。これは明らかに老化現象だ。

先日テレビで痴呆に関する番組を見ていたら、痴呆には脳血栓など血管性の痴呆とアルツハイマー型の痴呆との二種類があって、どんな症状が出たら要注意かを説明していた。メモを残していないので記憶違いがあるかもしれないが、その中で印象に残っているのは次の点である。

1、しょっちゅう探し物をする。
2、代名詞を使った話が多発する。たとえば「この間あの人にいただいたあれはどうした」
3、物やお金がなくなったと思い込み、それを身近な人が取ったと誤解する。
4、食事したことを忘れ、食べさせられないと訴える。
5、外出して帰られなくなる。
6、症状がだんだん進行する。

このように痴呆は生活の経験全体を忘れてしまうのに対して、物忘れの方は体験の一部が欠落するだけで痴呆とは違うという説明であった。これを聞いて少し安心したが油断は出来ない。

先日もこんなことがあった。デパートの画廊で絵を見ていると親しげに話しかけてきた人がいる。見覚えのある人だが何処の誰だか思い出せない。これは困ったことになったと思った。なにしろ相手は小生の名前を知っていて、仕事を辞めてからどうしていますかなんて聞かれるとますます混乱した。

「ええ、まあノンビリやってます」と不得要領な返事をしながら、「ところで、お宅のの方はどうですか」とサラリーマンにも、商売人にも使える質問で反応をうかがった。すると「円安で参ってます。きょうも組合の会合に行ってきたところで」という。「経済の舵取りをしっかりやってもらわないと困りますよね」と適当に合いの手を入れて、知人との待ち合わせを口実にその場を逃れた。

まだ誰だか思い出せない。円安で困るというからには輸入に関係する人か、それとも旅行会社の人だったろうかと思案しつつ歩いているうちに、輸入食料品を扱う店の前まで来て、不意に思い出した。○○商店のKさんじゃないか。勤めていた会社に出入りの商人で、職場で会った時はいつも作業衣を着ていた。それがきょうは背広にネクタイ姿である。

会う場所と服装ですっかり記憶が混乱してしまった。Kさん、お名前で呼びかけなくて失礼しました。若いころはこんなことなかったのに。痴呆とは違うといっても、これはかなり重症だな。


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11月9日(火)キンモクセイ余話

2010-11-09 11:30:24 | ★③(は)お父さんの閑話365日(転載)
11月9日(火)キンモクセイ余話

またまたキンモクセイの話である。世の中にはもっと大事なことがわんさとあるのに、身の回りの些細なことばかり気になるようでは先が知れるというものだ。昨日作業を終えるつもりで枝切りを始めたが、途中で気が変わった。

気が変わったと言うより不安になったのである。なぜかと言うと、落葉樹なら寒くなれば自分で葉を落として丸裸になる。しかし、キンモクセイは広葉樹ではあるが常緑樹である。その枝を樹高の半分ぐらいまで全部切り落としたらどうなるか。葉が1枚もなくなるのだ。

常緑のキンモクセイは冬でも休眠することなく活動しているだろうから、葉が1枚もなくなったら枯れてしまうかもしれないと心配になった。かくして虎刈りの頭のように、はなはだ不恰好だが葉をつけた数本の枝をそのままにして作業を中止した。こんなことになるなら、枝を深く切り詰めたらキンモクセイにどんな影響を与えるのか調べてから作業を始めればよかったと悔やんだが後の祭りである。

庭には同じ広葉樹で常緑のサンゴジュ(珊瑚樹)がある。この木は成長が早く、かつ剪定に強いので刈り込んで生垣などにされている。わが家でも芝生と菜園の境目に植えて垣根仕立てにしていたが大きくなりすぎた。そこで枯れてもいいと思って地面から40cmぐらいのところでばっさり切った。

切ったのは5年ほど前だったと思うが、地際から枝を出してまた垣根に戻ろうとしている。と言うことは常緑樹でも種類によっては葉がなくても生き延びる証である。しかし、キンモクセイも同じだとは言えないから、作業中止は正解だったと思っている。来年、葉がなくなったキンモクセイの枝から芽吹きがみられたら残した枝も切り詰めよう。