一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

地獄の火

2016-11-30 07:31:56 | カトリック
諸聖人の大祝日、そして死せる信者の霊魂の日と続いて、早いもので死者の月は今日までです。
人は必ず死にます。色々な死に方があります。病気で死ぬ人、交通事故で死ぬ人、災害で死ぬ人、自殺する人もいます。この他にも様々な死があります。元気なうちは死を考えようとしません。どんなときに死に直面するか、それぞれの人によってきっかけは違います。長く生きていくと、色々な人の死を耳にします。
カトリック教会は、『死』とは体から霊魂が離れることだと教えています。この世に残った体は朽ち果てていきますが、霊魂は永久に不滅です。ずっと存在していきます。来世において、この世の行いが全てとなり幸福を得るか永遠の苦しみを受けるか、かかってきます。
永遠の幸福と、永遠の苦しみ。これを考えるとき非常に恐ろしくなります。この世において何をするにしても、終わりがあります。1日の間の仕事も永遠に続くものではありません。家に帰る時間もありますし、寝る時間もあります。このようにサイクルによって生きていますので、始まりと終わりが例外があるにせよ予定が合っていきます。しかしいったん地獄に入った場合休む暇はありません。永遠なので、時間の概念も存在しません。ずっとずっとです!一年間に一回だけ、海浜の砂を一粒だけ家に持って帰るとして、果たしてどれだけの期間がかかるでしょうか?何万年でしょうか?永遠はこれ以上に長いのです。
人は罪に傾きやすい傾向があります。もし祈りと恩寵が無ければなんでもしてしまうのが人間です。極悪の事件がニュースで時々ありますが、それを絶対自分はしないと言えますか。たとえその犯人と同じ境遇で同じ環境にあってもそのように言えますか。極悪を起こさない環境を与えてくださった方は誰ですか?
さて、地獄行く霊魂のことを、「彼らは自分でそのように選んだのだ」「自由意志で彼らは地獄を選んだのだ」と言う方がおられます。確かに大きな神様のような視点から見たらそうでしょう。しかし、天国と地獄どちらかがいいかと問われればほぼ全員天国を選ぶものです。家族が死ぬと、「天国から私達を見守っている」と未信者の人でもいいます。誰しも天国へ行きたいです。頭ではよくわかっています。しかし結果を見てください。大方は地獄行きが現実です。なぜでしょうか?地獄へ行きたいから地獄に行ったのでしょうか?いいえ。全ては因果応報です。
ファテイマの聖母は恐ろしい地獄の景色をお見せになりました。まさに『火』です。ただ神様の存在が感じない場所ではありません。苦しみと不快なことしかありません。この世の苦しみなどわけがありません。この世の苦しみの多くは自ら招いた結果です。神様のせいではありません。しかしそれでもいくらでも逃げ場所や助けもあります。残念ながら地獄には一切それは存在しません。今ここで地獄の火について黙想しましょう。準備はしていますか。
親愛なるカトリック信者の皆様、祈りと犠牲を捧げましょう。ロザリオを唱えましょう。私も含めて多くの人は天国に相応しくありません。むしろ地獄に常に片足を突っ込んでいます。世間の生ぬるい生活と甘い言葉に騙されないようにしましょう。この世は涙の谷です。傲慢心を捨て怯えて警戒しましょう。だからこそ聖母に寄りすがれるのです。慎み深く生きて、よく祈ってそれぞれの義務を果たしましょう。そうすることのみで私たちは守られるのです。
私の家庭のためにお祈りよろしくお願いします。

 『カトリック信徒の大部分も滅びるというのがより共通の神学意見である』
聖アルフォンソ・リゴリオ司教教会博士




待降節に入りました

2016-11-28 07:26:17 | カトリック
おはようございます。
典礼歴では昨日から待降節に入りました。新しい年の始まりです。クリスマスというと、サンタクロース、クリスマスソング、クリスマスセール、クリスマスプレゼント、クリスマスイベントなどなど。イルミネーション感を連想させます。25日の前からパーティーをやるところもあります。楽しいです。わくわく感もあります。のりのりです。快楽的です。テンション上がります。
いいえ!世間の人は本当のクリスマスが何なのか分かっていません。クリスマスにちなんだありとあらゆるものが商業と結びついています。ここ約百年の間、待降節は汚されました。カトリック信者も飲み込まれています。以前ヨハネ・パウロ二世も行き過ぎた待降節中の快楽主義に警報をならしています。
アダムの罪の結果、長い間人類は主の約束された救世主を待ち望んでいました。義人はその間迫害と犠牲を通して待ち望んでいたのです。世間の楽しみを打ち捨てて祈り続けました。さらに救世主でさえもその生涯は十字架であると預言されました。
さて、降誕されたイエズスの生涯を思い起こして下さい。だれのために来られたのでしょうか。なぜ来られたのでしょうか。
私たちも旧約の義人らのように待降節中を有意義に過ごしたいと思いませんか。私は思います。
待降節中と四旬節は我が家では何か、各々の好きなことを一つ犠牲に捧げるようにしています。例えば私の息子は、昨年辺りはお菓子を犠牲にしていました。このように待降節は本来、慎み深く、犠牲と祈りで静かに、主をお迎えするための準備期間なのです。降誕祭の後にも目を向けて行きましょう。
降誕祭の次の日の26日に最初の殉教者である聖ステファノの祝日そして幼子殉教者の祝日が続いていきます。主は十字架に磔になるために生まれてくるのです。黙想しましょう。祈りましょう。犠牲を捧げましょう。


『待降節の祈』

天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ。

 ▲地よ、開きて救世主を出せよ。(イザヤ 四十五ノ八)

 わが天主、わが救世主なるイエズス・キリスト。われらはこの待降節中、けいけんの念もて、旧約の太祖、預言者、および義人らが、主の御恵み豊かなる御来臨を祈り求めし、その熱望を思いめぐらし奉る。

 ▲主は限りなく御あわれみと愛とをもつて、太祖に与え給いし御約束を果し給えり。すなわち永遠の知なる主は天降りて、その完全なる御教えは御教えの光をもつてわれらの精神の暗きを照らし、罪のきずなを解き、悪魔の力をくじき、われらと天の御父との間に、平安とわぼくをもたらし給えり。されば天と地とは声をあわせて、主が人となりておこない給いし救いの御業をたたえ奉る。

 主イエズスよ、われらは太祖、預言者たちと共に、御身が御約束のキリスト、世の救い主にして、道、真理、生命にてましますことを堅く信じ奉る。

 ▲願わくはわれらを恵みて、熱心なる祈りの精神と深き痛悔の心とを与え、主の御降誕を迎えまつるにふさわしき準備をなさしめ給え。

 主イエズスよ、今こそ主は御みずからわれらに来り、霊的に生まれ給いて、その聖なる御託身の御恵みをわれらに与え給わんとす。そはわれらが主の如く天主の子として、天主と人との前に知恵と聖寵のいやまさんがためなり。

 ▲さればわれらは聖なる慎みをもつて、すべて世間の楽しみを打ち棄て、心を浄めて、主の御ためにふさわしき住家を備え奉らん。

 救霊のあけぼのなる聖マリア、イエズス・キリストの先駆者なる聖ヨハネ、主の御来臨を祝い奉るにふさわしき準備をなし得る御恵みを、われらのために祈り求め給え。そは主がこの世を裁かんとて再び来り給う時、恐るることなく主を迎え奉らんがためなり。▲アーメン。

 主よ、御身に向いてわが魂を挙げ奉れり。

 ▲わが天主よ、われ御身に依り頼めり。われ永遠に恥じることなからん。

 祈願 全能の天主、願わくは御独り子をふさわしく迎え奉らんがために、われらに熱心なる祈りの精神と痛悔の念とを与え給え。われらの救い主の御来臨によりて潔められたる心をもつて主に仕え、御心に従いてこの世を送らんことを、われらの主キリストによりて切に願い奉る。アーメン。

少数派に属す

2016-11-24 07:54:05 | カトリック
外は銀世界だと思って朝まず外を見ましたが、まだその時は雨で次第に雪に変わっていきました。11月の雪は関東では54年振りだそうです。
雪、で思い出すことは、地獄に行く霊魂です。ファティマでマリア様は幻視者に地獄のビジョンをお見せになりました。そして雪景色をお見せになりましたが、よく見るとそれは霊魂でした。それは地獄に落ちていくカトリック信者の霊魂でした。
人祖が恩寵を失って原罪の結果、悪にそして罪に、非常に傾きやすくなっています。時代と共に罪は犯しやすくなり、新しい教えや新しい思想により罪に対する考え方も変わってきています。そうなる前のタイミングで聖母は私たちに、あえて厳しい現実をもって警告されました。
罪に傾きやすく傲慢な私たちに必要なのは甘い悪魔の言葉ではありません。現実、事実、真理です。イエズスが例え話で私たちに教えるのは、天国の事よりも地獄や罰のことが多いのはそのためです。福者ピオ9世が仰るとおりに、回心のためには恐ろしい現実を知るのが早い、のです。ですから今月は地獄の事を考えてみましょう。天国に行く霊魂よりも地獄に行く霊魂の方が圧倒的に多い現実を知ってください。選ばれたカトリック信者の霊魂でさえなのです!ですから大多数の方にいてはいけない、ということがお分かりになると思います。これが現実です。
そして聖母マリア様が直々にロザリオの各玄義の最後に付け加えて下さった次の祈りを黙想しましょう。

「ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。」

罪人の回心のために祈りましょう。

テレビは見ないようにする?

2016-11-23 07:28:51 | 日記
我が家では上の子が生まれる少し前からテレビを見ないようにしています。もうかれこれ10数年我が家ではテレビ(地上波)を見ていません。といってもブラウン管テレビがありますが、たまにDVD鑑賞の時に使うだけです。ブラウン管なので地デジに移りいつの間にか完全に見れなくなっていたようですがそんなことは気にしていませんでした(笑)
このように言うと、信じられない人が多いようです。テレビが無いという生活は想像出来ない人には驚きでしょう。営業の仕事をしてるのにテレビが無いと困るのでは?とか、お子さんがいじめられないか?とか、とにかく心配してくださる方もおられます。それのほとんどは思い込みによる心配でしかありません。なんでも人間は忍耐と慣れでございます。テレビの話題の他に話したいことは山ほどあります。大したことはありません。逆に真理を見る目(識見)が育つでしょう。
今思えば昔私はテレビっ子でした。家に帰ると見なくてもテレビを付ける事がありました。おそらく読者の皆様も同じような人がいるでしょう。しかし気をつけて見ると、テレビは非常に危険な存在です。良い番組だけではありません。思いがけない所に私達を導くことさえあります。
例えば、一昔前まで、不倫、離婚、同性愛(的行為)や結婚する前に子供が出来ることは、おぞましく不潔なことでした。これは人間の道徳心に訴えかけてくることでした。隠さなくては恥ずかしいことでした。しかしです。テレビで見る出演者は別に私達と話したことのない、本来は赤の他人で、その人となりは作られたものであるはずなのですが、あたかも知り合いのような錯覚を抱いてしまいます。まるでご近所さんのようです。彼らの言動がまるで大多数派のようです。そうすると恥ずかしいことや下品なことの意識が弱くなっていきます。無神論、スピリチュアル、占いなどもそうです。このようにして影響を受けていくのです。
さて、テレビを付けないと赤ちゃんの言葉の発達が早くなるようです。これは色々な原因と効果があるのですが、その一つにテレビが無い分家族の会話が多くなるからだと思います。静かになる分耳もよくなります。
その代わりに音楽を聴きましょう。グレゴリオ聖歌もいいですね。あとはクラシック音楽。朝の清々しい気分をヴィヴァルディ神父の『四季』もいいですが、モーツァルトのピアノ協奏曲第19番辺りもおすすめ致します。
昔のカトリック信者の風景を描いた映画「がんばれリアム」も久しぶりに見たくなってきました。

三種類の人間

2016-11-22 07:28:39 | カトリック
信用ある人や、信用のある事柄ならば、手放しで信じる人、半信半疑の人、絶対信じない人の三種類に分けられます。
例えば使徒聖トマは主の復活を目で見るまで疑いました。そこで主は信仰に対する態度の中で何が最も幸いな態度かを示されました。聖トマはその場ですぐに改心し、その後立派に殉教を成し遂げ、私たちの信仰の模範になっています。聖トマの疑いは、私たちの反面教師的な役割を果たし、主から大切な言葉を引き出しました。信仰を思い起こすとき彼のことを考えるのです。
絶対信じない人。例えばそれはユダヤ人です。当時のユダヤ人はキリストの愛徳の行いや奇跡を目の当たりにしていたにも関わらず、主を信じず殺したのです。そして今もなおユダヤ人はイエズスをキリストとして認めていません。これは頑な態度です。今でも彼らの攻撃は有効で続いており、教会は常に危険にさらされています。カトリック信者の中にも目で見ても頑なに信じない人もいるようです。
 御聖体という真の主を目の前にご覧になるときどんな態度でしょうか。
 教会の2000年間変わない教えに対して半信半疑でいいのでしょうか。

「信じる者には説明は不要であり、信じない者には説明は無駄である」
―ルルド―

典礼歴最終週

2016-11-21 07:28:38 | カトリック
今月は死者の月です。
昨日は典礼歴最後の主日を迎えました。来週からいよいよ待降節に入ります。
死者の月に死後の事や救霊、この世の終わりについて黙想に黙想を重ねると、やはり昨日が王たるキリストの祝日となると、個人的には何か違和感なるものが私の中に残ります。
待降節についても私たちは準備をしなければなりません。慎み深く禁欲的に、そして犠牲を捧げて、過ごす期間に世間では待降節は商業的にそして快楽的に盛り上げています。気をつけなくてはいけませんね。
祈りを絶やしてはいけません。少なくとも毎日最低でも、カトリック信者は罪人の改心のために、5連のロザリオを唱えるようにしましょう!よろしくお願いします!

雑感

2016-11-11 07:47:23 | 日記
先ほど色々書いていましたが、どう言うわけか消えてしまったようです。気が付いたらほぼ毎日ブログを書いていましたね。
私事になりますが、会社の昇進試験が控えています。今まで昇進については一切興味がありませんでした。今年は職場内の同僚に色々な知恵をつけてもらった事もあって、自分を守る意味も込めて手を挙げました。結果は私の普段の行いによるので、なるようにしかならないと思いますが残された時間頑張ってみたいと思います。
関東は昨夜からまとまった雨で、出勤時の駅までの自転車通勤で靴下はびしょ濡れです。皆様は大丈夫ですか?
今後は少しブログの更新を控えめにしたいと思います。書いても同じことの繰り返しでしょうから。あとはやる気と気持ち次第ですが(笑)
良い死者の月をお過ごしください。私の家庭のためにお祈りをよろしくお願いします。

ジュゼッペ

愛する御聖体

2016-11-10 07:31:32 | カトリック
度々このブログの中で御聖体について何度も書いて取り上げています。そしてこのブログのアクセス件数が圧倒的に多いのは、日本の教会のミサにおける崇拝の態度として跪く行為が、禁止されたという内容のものです。そのことに対するコメントも多いです。
昨年の待降節から開始された日本のカトリック教会に置ける『適応』という名の下に行われた乱暴な理論によって少数の正しい人が苦しんでいます。
しかしこの『日本の新しいミサ総則』に関する文書を色々な分野から過去の文書を引っ張り出してテクニカル分析をして、禁止ではない、問題無い、というのは簡単ですが、これはそういう問題ではありません。
これはカトリック教会の信仰の最大の中心である御聖体に対する事柄なのです。従う従わないとかそういう類の話ではありません。信仰の問題なのです。見過ごしてはいけない事です。忘恩であり侮辱行為です。天皇陛下に対して、国王に対して祝典で最敬礼をしてはいけないと言われて、素直に従う人がいるでしょうか。それよりも遥かに尊く偉大な方に対する事です。私達を愛し愛尽くして生け贄になった方に対する事です。超自然な方です。何度も何度も私達が罪を犯して何度も十字架の釘になっている私達がその十字架の前で跪いて頭を垂れることが、一部の人に禁止されているのです。私は御聖体を軽んじる人を許すことは出来ません。
主イエズスは、御父に祈るとき跪いて祈られました。そして主は神殿に来て跪いて体を使って回心された徴税人を愛されます。最大限に人に誠意を見せるとき『土下座』という行為があります。人に対して土下座が出来るのになぜ御聖体に跪くことが(許されない)出来ないのでしょうか。
私達の心を挙げて向かうのは御聖体です。教会の扉を開くときその中心である御聖体が安置されている聖櫃に目が向けられるように教会は作られています。今一度御聖体とは私達にとって何なのか。御聖体とはどなた様なのか。御聖体と比較しうる以上の偉大なものが存在するのかよく考えてみましょう。

命の重み

2016-11-09 07:27:01 | 生命問題
毎年(年間)日本では20万人の命が合法的に殺されています。これは厚生労働省に届け出がされている人工中絶の件数であり、実際には正確な数など分からず、この数倍はあり得るのだそうです。
日本の死亡原因の一位はガンだと言いますが、実際は殺人なのです。
聖なるカトリック教会の教えでは、精子が卵子に着床した時点で霊魂が宿り1人の人間になります。胎児は最も安全で安心の子宮で守られて生まれてくるはずが、身勝手にもその子宮内で殺されるのです。教会は霊魂の救いのためにあるので、当然生命が最も優先されるのです。従って殺人の中でも、殺される側の、最も無力で無抵抗の胎児を殺すことは、天国行きを奪う最大の罪として、人工中絶、またはそれを手助けまたはすすめる人も自動破門に処せられます。生命(霊魂)だけの立場を取るか、身勝手を含む様々な理由からの立場を取るか、教会は分かりやすく単純に霊魂の立場から人工中絶に反対しています。
この手の話をすると必ず、圧倒的な人工中絶件数の中でも極々稀なケースを取り出して、教会を批判する人がいます。そして人工中絶をする側にも必ずそれなりの理由があり、人工中絶した側も苦しんでいるとして、公にこの話を避けることを望むカトリック信者もいます。ヨハネ・パウロ二世は生命倫理に関しては比較的よく戦う教皇でした。彼は日本の人工中絶に関してスピーチを用意していましたが、日本の司教団からその話をしないように止められたそうです。その後来日したマザーテレサにそれを託しました。マザーテレサは立派に人工中絶を批判しましたが、日本のマスコミはそこだけをカットしました。人工中絶がいかに悪いことなのかを言うことで救える命もあることを忘れてはいけないのです。
私の従姉妹の友人は看護士を目指していたそうです。彼女は赤ちゃんが好きだったので産婦人科を希望しました。しかし、産婦人科の主な仕事は出産と人工中絶という内容を知って諦めました。
さて、本日はアメリカのリーダーが決まります。実は正しいカトリック信者の殆どはトランプ氏に投票するそうです。日本ではトランプ氏の言動を面白おかしく報道していますが、今のところ支持率は半々です。この裏には人工中絶をもっと推進する民主党のヒラリーに対して、人工中絶を公に反対するトランプ氏の立場から支持を決める人も多いことを忘れてはいけません。


お祈り致します。

2016-11-08 07:54:54 | 日記
毎日このブログは電車に乗ったときに始まります。特段何かを考えて書くことは無いのですが、書き始めると教会についてだったりとすぐに宗教の話ばかりになってしまいます(笑)
でも実際の私は常に神様のことを考えています。例えば、私は営業の仕事柄沢山の人に毎日毎日出会います。カトリック信者ではなくとも素晴らしい人は沢山おられます。そういう出会いをするとき、その人が教会に通う姿を想像したり、いつか本当の神様に出会えるように祈ったりする事があります。今まででカトリック信者の方に二回程お会いしたことがあります。まるでプチジャン神父(後に司教)の信徒発見のような喜びを感じました。
このブログでもきっと私は素晴らしい出会いをしているのだろうと思います。
私には沢山のお祈りが必要です。なぜならばこの世は『涙の谷』だからです。
死者の月が終わればいよいよ待降節が始まります。教会の新しい一年が始まるわけです。
そういう意味では死者の月は今年一年の私達の信仰を省みるに相応しい月ともいえます。
寒さも増してきました。朝起きるのが辛い人も多いことでしょう。
「朝まだきに我が心、主をあこがれて目覚」めましょう。
体は資本だと言われますが、体は祈るためにあります。良い祈りが出来るように体を大切にしましょう。お互いに!です。
今日このブログを訪れた人のために祈ります。

 『元后憐れみ深き御母、我らの命、慰め、および望みなるマリア、我らちくたくの身なるエワの子なれば、御身に向かいて呼ばわり、この涙の谷に泣き叫びて、ひたすら仰ぎ望み奉る。
ああ我らの代願者よ、憐れみの御眼もて我らを顧み給え。またこのちくたくの終らん後、尊き御子イエズスを我らに示し給え。寛容、仁慈、甘美にまします童貞マリア。
天主の聖母我らのために祈りたまえ。キリストの御約束に我らを叶わしめたまえ』