一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

キリストの御体

2018-08-30 18:40:37 | カトリック
ホスチアが司祭の手と教会の意向を通して「汝等受けて之を食せよ、これ汝等のために(死に)わたす我が体なり」と唱えられる時、まさにその瞬間にキリストの体に変化(聖変化)します。見た目はそのままですが、それはキリストの体なのです。そこにはイエズス様の体と霊魂があります。
イエズス様は三位一体の天主であり、全宇宙の王です。私たちの主であるので当然最大限の敬意と礼拝が必要なのですが、所詮は私たちは被造物ですので、どんなに敬意と礼拝を尽くしても足らないのです。洗者聖ヨハネにして、「靴ひもを解く値打ちも無い」のです。
色々なブログを見てみますと舌か手かの聖体拝領問題は善良な信者の心をかき乱しています。しかし、もし上記のようにイエズス様を理解しているならば答はもう出ています。イエズス様はユダヤ人やピラトの前でも真理を行うのに死をも恐れませんでした。
手での聖体拝領で気をつけなくてはならないのは、ホスチアの粉です。例えどんなに気をつけてもホスチアの粉は手に付着することがあります。
以前の舌での聖体拝領が主流の時代の時でさえ、何回か一回に聖体受けにホスチアの粉が付着します。写真をご覧ください。

このように気をつけても聖体受けにホスチアの粉が落ちることがあるのです。
手での聖体拝領をする方の中には口に聖体を入れたあとすぐに自分の服に触る人もいます。席に戻って聖歌集をさわる人もいます。まじまじ手を見る人はいません。
海外のサイトに手での聖体拝領の危険性を視覚的に絵にしたものがありますので、是非ご覧下さい。
これを見てどう思いますか?私なら恐ろしくてすぐに手での聖体拝領を止めたくなります!

節目は重要

2018-08-27 22:32:07 | 日記
父方から遡るとおそらく私は五代目のカトリック信者かもしれません。母方から数えるともう少し代を重ねてるかもしれませんが、あまりこれに関しては調べたことがありません。
ただ面白いのは、父に幼児洗礼を授けた司祭から私も洗礼を受けたことです。その司祭は長生きされたようでしたが、約30年前に帰天されました。
先日あることをきっかけに考えてみました。霊魂に刻まれる秘跡は、まず洗礼そして堅振、叙階があります。司祭にならない限りは洗礼と堅振は多くの信者が受けることになると思いますが、幼児洗礼に対する批判として、よく要理を理解していない赤ちゃんに洗礼を授けるのは如何なものかということです。偉大な洗礼の秘跡を理解している者にしては、子供が産まれたらすぐに授けたい、子供の霊魂を最高の状態にしておきたいと思うのは親の心です。命の危険や様々の問題もありますし、議論の余地はありません。
さて、その赤ちゃんだった人が要理を学び初聖体を迎えることになります。私の場合小学校三年生の頃でした。当時の神父さまはフランシスコ会の神父で1952年に叙階されたフランス人司祭でした。私たちの神父さまのあだ名は「シャラップ神父さま」でした。なぜかというと、よく私たちに「Shut up!(静かにしろ)」って怒ってたからです(笑)
毎週ミサの後に私を含めて4人の初聖体クラスの子供たちは神父さまのところで厳しい授業を受けました。
私はその中でも最年少で、手前味噌ですが、神父さまの質問には臆することなく答えを返す優等生(笑)でカトリックの色々な事を学ぶ面白さを神父さまから学び幸せな時間を過ごしました。もちろんその司祭が初告解の神父さまで、告解中は冷や汗をかきました。なぜなら「まだあるでしょ!」と言われたからです。恐る恐る顔を見ると微笑んでおられましたが。
そして中学生になると主任司祭も何人か変わりましたが、そろそろ堅振を受けないかと神父さまから言われ申し込むことになりました。勉強はもちろん司祭館で勉強して、各教会の受堅者が一カ所に集まって、そこで司教様から堅振を受けました。司教様は神父さまよりも偉い方ということで、なかなか私たちの小教区にも司牧に来られたことが無かったこともあって、そのお姿に緊張したのを覚えています。
その初告解からの初聖体、そして堅振の秘跡を受けるという段階と節目を迎える度に信仰が強められていくのを私は感じましたし、大切なことだと思います。日本における成人洗礼の方は気の毒だと思います。成人洗礼の人もいつしか、堅振も同時に受けるようになって、多くの古くからの信者からは違和感を感じてる旨を聞いた事を覚えています。特に司教様から受けない堅振式ってどうなのか、とか洗礼と堅振は別の秘跡なのに同時に受けるのはなんか違うのではないかと、いう意見も聞いたことがあります。なぜなら洗礼の秘跡と堅振の秘跡がなんなのかを理解すればするほどに当然そのような声は出てきていました。洗礼というのも今では入門式みたいな扱いになっています。とりあえず洗礼受けてから勉強です、みたいな発言もあります。昔の信者は理解するのに何年も洗礼に時間をかけていました。成人洗礼はすぐに初聖体を迎えるわけですから、聖体に対しても本物の信仰が無いといけないというわけです。
しかし、これも慣れっこというか妥協というのか、残念ながら今ではこれをおかしく思う人の声も聞こえなくなってきています。