一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

年度末

2017-03-31 07:29:10 | 日記
本日で聖ヨゼフの月が終わります。会社では明日から新年度が始まります。人事異動が盛んな季節です。そんな私も当事者です。
年度の終わりは聖ヨゼフの月が終わるというのも感慨深いものがあります。
聖ヨゼフは最期の最期まで導き主です。聖母マリアに次いでの取りなし手と言われている通り聖ヨゼフに祈る人は裏切られることはありません。人生は涙の谷。
聖ヨゼフは聖家族の責任を一切背負いました。そして家族を養いました。仕事の事、職場の事、家庭の事、教会の事、その他にもあらゆる事をお捧げしましょう。
聖ヨゼフ我らのために祈り給え!

改革の精神に満足はありません

2017-03-28 07:35:41 | カトリック
ある司教様(『どこか遠いところでつくられた信仰様式からの脱皮』を目指す司教)がカトリック教会には「民主主義が無い」「秘跡に頼り、権威主義に頼ってきた教会を内側から変えなければならない」と仰っています。
これは暗に教会に対する批判です。私たちが洗礼を受けたときに、教会に何を求めるのかという問いに対してなんと私たち(代父母)は答えたでしょうか。声高らかに「信仰」と答えたはずです。実際のところ信じるとは、疑問を持つことではありません。あたかも目の前に存在することのように信じるのが、私たちの信仰です。
そして教会に所属する私たちの殆どは罪人です。罪を重ねる私たちは、神の恩寵に寄りすがらなければますます罪に傾き、最終的に死にます。例え生きているように見えても、実際は死んでいます。今これを書いているのは、電車の中ですが、見渡すと沢山の人がいます。皆さん疲れた顔をしていますが、彼らは洗礼を受けていません。洗礼を受けなければ死んだ状態です。洗礼を受けて神様の子になりますが、彼らはまだ神様の子になっていません。従って神を知らないけれども真理を追い求めて正しく生きようと思わなければ、死んでいます。実際のところそのような火の洗礼を受けた人は少ないのです。ですから聖霊降臨で誕生したカトリック教会の力が必要です。キリストの花嫁である聖なるカトリック教会は、母親が母乳で子供を生かすように、その教会の子らに信仰を与えます。それでも私たちは、キリストの残した秘跡が無ければ救霊を得ることが出来ません。洗礼後、成聖の状態を得るために秘跡があるのです。しかし神様より世俗を愛する私たちは、歴史でも証明するように神様から離れて、悪い考えや異端的な考えを持ちます。さらには神様に対して自分の都合よく解釈します。地獄がイヤだからといって、みんなで無かった物として決めることは出来ません。なぜなら真理は民主主義で決めることは絶対に出来ないのです。教会の権威が私たちの指針です。個人個人が権威から離れて自己解釈をしてきたからこそ、聖母が「妥協した者たち」と批判されているのです。教会の権威によらなければ、私たちは「悪魔的方向感覚の喪失」に繋がっているのです。
このように真理に基づいたはずの伝統の破壊や伝統的な信仰の「刷新」の行き先は魂の死です。私たちの教会と信仰は昔も今も神様第一主義です。人間中心主義ではありません。どうやっても私たちは神様になることも、神様よりも上になることはあり得ません。神様は私たちの崇拝対象なのです。
ヨハネ・パウロ二世がかつて当時の状況を「静かなる背教」と指摘しましたが、現状はその頃よりもはるかに悪化しています。私たちの人生は常に魂の戦いの中にいます。これを霊戦といいますが、カトリック教会がますます戦いの中にいる今、私たちは流れ弾に当たらないようにしなくてはなりません。日本のカトリック教会から、伝統様式が破壊され取り上げられている中、同じく私たちも妥協していけば必ず、静かな背教に加勢することになります。
私たちに出きることは何なのでしょうか。まず神様を全身全霊で愛することです。罪を忌み嫌い、無原罪の聖母マリア様に私たちをお捧げすることです。異端撲滅のために、そしてロザリオで霊戦を勝ち抜きましょう。ロザリオは最強の武器です。イエズス様とマリア様に対する侮辱の償いのためにロザリオをお捧げしましょう。

姿勢

2017-03-23 07:48:29 | カトリック
私は営業の仕事をしております。そのため一般家庭のお客様の家を訪問させて頂いておりますが、時々年配のお客様から家を出る際に、商談が終わって帰るときに玄関先で正座をして深々と頭を下げて私を送り出す人がおられます。
比較的にこれは年配の高齢者の方が多いのですが、温泉宿でもこのようなことは多くみられます。
これはとても美しい姿です。思わず私も腰を低くして感謝の気持ちをあらわします。
さて、祈りは私たちのお願いの形の一つですが、祈るとき私たちはどのようにしたらよろしいのでしょうか。
心と体は一つに繋がっています。心があるからと寝っ転がって人にお願いする人はいません。尊敬してるけどふんぞり返って上司と話をする人もいません。
ではまさに目の前に主イエズスがおられたら私たちはどうなってしまうでしょうか?
御聖体はパン(ホスチア)の形をしていますが、100%のイエズス様がそこにおられます。聖堂に入るとき御聖櫃に向かって頭を下げたり何かしらの主イエズスに対しての敬意が行われないのを見ます。
むしろ週に一回会う知り合いの方に対しての方が恭しく挨拶をしていませんか?
四旬節です。もう一度私たちの主に対する態度を考え直す時期です。




供え物

2017-03-21 07:47:22 | カトリック
彼岸に入りお墓参りをする方を見かけます。営業の仕事お客様の家に訪問させて頂きますが、果物や菓子、花を供え物として仏壇に飾る人もいます。
買い物先でもそのような果物のセットやお花も置いてあります。この「お供え物」の意味調べて引用すると「お仏壇の中心にいる仏様に対して感謝の想いや敬意を表して、まずお供えをする、という意味もあります」とあります。神道が融合した『葬式仏教』と言われるこのうな宗教が、お盆や彼岸になると行うこの信心に対して、私たちカトリック信者は何をしているのでしょうか。
私たちの場合、私たち自身を「お供え物」として神様に捧げなくてはいけません。私たちの信仰は、創造主と被造物という明確な関係をよく知っています。人祖の罪以降私たちは、罪への傾きと罪の実行によって苦しんで来ました。罪の赦しのために様々な生け贄や犠牲を捧げてきたのです。そして救世主が来られてからは、完全な生け贄として『ミサ』が存在しています。それまで不完全な生け贄ではありましたが、私たちの最も大切なものを燃やして神様にお捧げをしていました。しかし、聖変化の瞬間によって神の子羊を天の御父にお捧げすることによって『完全な生け贄』になりました。このミサは私たちの最も大切な祈りであり私たち自身も捧げなくてはいけないのです。ですからミサの間、それに相応しい格好をされていますか?天下る神御人身に対してどのようにお迎えなさっていますか?形だけ捧げていませんか?形さえも捧げていませんか?遅刻しているにも関わらず御聖体を受けていませんか?
ミサは彼岸やお盆の時だけでに行えば良いものではありません。教会は信者に、主が復活された主日(日曜日)を聖なる日として、ミサに敬虔に与る掟を定めています。そして司祭には毎日ミサを捧げるように定めています。
私たちが、主の御怒りから免れているのは尊い司祭の日々捧げる完全な生け贄としてのミサのおかげなのです。
ミサを打ち続ける聖なる司祭が与えられますように祈りましょう。聖母マリア様に祈りましょう。


ヨゼフに向いて貞徳を求むる祈

2017-03-20 08:06:39 | 祈り
幼きイエズスの聖テレジアが愛した祈りです。祈りましょう。

「ヨゼフに向いて貞徳を求むる祈り」


童貞者の父かつ保護者なる聖ヨゼフ、
 御身は純潔そのものにましますイエズスと、童貞中の童貞にまします聖マリアとの、忠実なる守護者と選ばれ給えり。願わくは、御身に託せられたる最愛のイエズスとマリアとによりて、われをしてすべての汚れを免れしめ、精神も、心も、身体も清浄潔白にして、完全なる貞潔を保ちながら、絶えずイエズスとマリアに仕えしめ給わんことを、ひたすらこいねがい奉る。アーメン。

聖ヨゼフ

2017-03-20 07:58:30 | カトリック
今年は今日が聖ヨゼフの祝日です。
「ヨゼフ」「ヨゼフィーナ」の洗礼名の方おめでとうございます。私の先祖は聖ヨゼフへの信心が篤く、少なくとも私の曾祖父の代から生まれてくる男子の殆どの洗礼名はヨゼフで私の息子もヨゼフです!お祈りよろしくお願いします。
このブログは聖ヨゼフにお捧げしております。聖ヨゼフの御加護が読者の皆様の上にありますように。


正しい人

2017-03-17 07:25:19 | カトリック
今月は聖ヨゼフの月です。聖ヨゼフはご存知の通り主イエズスの養父です。私の洗礼名でもあります。
聖福音書には、「正しい人」であると記されています。聖なるカトリック教会は、聖ヨゼフを特別に「教会の保護者」として崇敬しています。
聖ヨゼフはイエズスが公生活にお入りになる前に死んだので、聖母マリアとの婚姻の時には、青年ではなく中年以上だったという説がありますが、聖伝では若い青年だったと伝えられています。聖福音に出てくる聖ヨゼフは、夢や天使のお告げをすぐに実行なさる従順な姿を私たちに伝えております。そしてその姿の先に見える、謙遜と柔和な姿勢はまさに神様が聖家族の長としてお選びになる十分な資質を兼ね備えていたことを私たちは感じることが出来るのです。
純霊であり私たちよりはるかに超えた知性を持つ天使は、高慢さによって悪魔になりましたが、逆に聖ヨゼフはその持ち前の謙遜さによって「悪魔の恐れ」となったのです。
私の知っている聖ヨゼフに助けられた人の話や奇跡の物語をここで披露したらとんでもない字数になりますが、実は私も多くの事で聖ヨゼフに助けられたのです。しかもそのお助けは実に、謙遜に、職人のように、柔和で、優しく、淡々と行われました。最初はあたかも聖ヨゼフでは無いかのように、しかしあとから徐々にはっきりと聖ヨゼフであったと分かるように彼は助けて導いて下さるのです。
聖ヨゼフの祝日は3月19日なのですが、今年は四旬節の主日と重なるので20日に行われます。どうぞ皆様も聖ヨゼフに感謝を捧げ、ご自分の事やご家族のため、特に教会のためにお祈りをしてみては如何でしょうか。必ず聖ヨゼフの御加護があります。
今月はロザリオの後に聖ヨゼフの連祷を付け加えて祈ることが推奨されております。
祈りましょう。


【聖ヨゼフの連祷】
主あわれみたまえ。 ▲キリストあわれみ給え。
主あわれみたまえ。
キリストわれらの祈りを聴き給え。 ▲キリストわれらの祈りを聴き容れ給え。

天主なる御父 ▲われらをあわれみ給え。
天主にして世のあがない主なる御子 ▲われらをあわれみ給え。
天主なる聖霊 ▲われらをあわれみ給え。
唯一の天主なる聖三位 ▲われらをあわれみ給え。
聖マリア ▲われらのために祈り給え。
聖ヨゼフ ▲われらのために祈り給え。
ダヴィドの誉高き末 ▲われらのために祈り給え。
太祖の光明 ▲われらのために祈り給え。
天主の聖母の浄配 ▲われらのために祈り給え。
童貞マリアの操正しき守護者 ▲われらのために祈り給え。
天主の御子の養育者 ▲われらのために祈り給え。
キリストの注意深き保護者 ▲われらのために祈り給え。
聖家族の長 ▲われらのために祈り給え。
いと正義なるヨゼフ ▲われらのために祈り給え。
いと貞潔なるヨゼフ ▲われらのために祈り給え。
いと賢明なるヨゼフ ▲われらのために祈り給え。
いと勇気あるヨゼフ ▲われらのために祈り給え。
いと従順なるヨゼフ ▲われらのために祈り給え。
いと信実なるヨゼフ  ▲われらのために祈り給え。
忍耐の鑑み ▲われらのために祈り給え。
清貧の愛好者 ▲われらのために祈り給え。
職人の模範 ▲われらのために祈り給え。
家庭生活の誉 ▲われらのために祈り給え。
童貞の守護者 ▲われらのために祈り給え。
家庭の柱石▲われらのために祈り給え。
不幸なる者の慰め ▲われらのために祈り給え。
病める者の希望 ▲われらのために祈り給え。
死に臨める者の擁護者 ▲われらのために祈り給え。
悪魔の恐れ ▲われらのために祈り給え。
聖なる公教会の保護者 ▲われらのために祈り給え。
世の罪を除き給う天主の小羊 ▲主われらを赦し給え。
世の罪を除き給う天主の小羊 ▲主われらの祈りを聴き容れ給え。
世の罪を除き給う天主の小羊 ▲われらをあわれみ給え。


天主かれを立てておのが一家の長と定め、
▲そのすべての持ち物を宰らしめ給えり。

祈願 絶妙なる御摂理により聖ヨゼフを
至聖なる御母の浄配として選び給いたる天主、
こいねがわくは地上において
かれを保護者と尊敬し奉るわれらをして、
かれを天上における代祷者(だいとうしゃ)としていただくに
ふさわしき者たらしめ給え。
とこしえに活きかつしろしめし給う主に願い奉る。▲アーメン。




美しく綺麗なものを選ぶ

2017-03-14 07:32:06 | クラシック音楽
現代社会は物に溢れる時代だといいます。取捨選択が必要になってきます。しかしだからといって必要なものとそうでない物を決めるとき私たちはどうしたら宜しいのでしょうか。
私が言う「物」というものの中には情報なども含まれています。先の公会議以降、教会ははっきりとした羅針盤や指針を示すのをあえて避けているような印象があるようです。私たちは何が正しいのか分からないけども選択をしなくてはならないことになります。
そこで多くの人は過去の聖人の言葉や行いを通して自己の価値基準とする人もおりますし、先輩カトリック信者の助けを頂く人もおられます。
例えば究明箇条には、霊魂を傷つける事に関する事があります。例えば書物に関しても救霊の妨げになるような本を所有したり読んではいけないことになっています。これらは悪魔が喜ぶ事です。あとは音楽にも気をつけましょう。例えばロックという音楽の起源はあるエクソシストによれば、悪魔崇拝から来たのだそうです。発祥の地は作曲家パーセル以降クラシック音楽が育たなかったイギリスとも言われています。グレゴリオ聖歌のアンチテーゼとして悪魔ミサの音楽がロック音楽というわけです。ロック音楽家の多くは麻薬に手を出すのも自殺者が多いのも頷けるのです。悪魔の力が働いているという見方もあります。従って私たちは目に限らず耳から入る情報も美しく綺麗なもので無くてはなりません。
寂しくBGMでも聴こうと思ったら、クラシック音楽を聴きましょう。クラシック音楽の起源はグレゴリオ聖歌です。心が綺麗になる物を選ぶことを主はお望みです。

体調不良

2017-03-10 07:34:31 | 日記
私事ですが、体調を崩しました。普段の私は誰もが羨むほどの快活の体調で過ごすことが多いのですが、ひとたび体調を崩すと、病者の苦しみと謙遜さを教えてくれるかのように、苦しみ悶えることが多いのですが、この一週間がまさにそれでした。まだ不調でございます。
四旬節が始まりましたね。犠牲と祈りを捧げてたくさんの人の回心を望みましょう。この四旬節の私たちの祈りと犠牲は、とても有益です。この犠牲を通してたくさんの霊魂を助けることができます。
日々の生活の中での犠牲。例えば、喉が乾いて自動販売機でまさにオレンジジュースを求める瞬間、立ち止まって「犠牲のために」水を買うとか、小腹がすいてまさにおやつを食べようと思ったとき、おやつを犠牲のために食べないようにしようとか。色々とあります。そして射祷(短い祈)を常に捧げるとか、この一つ一つが四旬節中のポイントとなります。辛いことです。辛い思いも一瞬にして、すぐにこれは「我が愛する主のためだ」と思いを変えたならば喜びに変わるでしょう。
出来るだけ多くの犠牲と、祈りを四旬節中に行いましょう。共に頑張りましょう!
私のためにもお祈りよろしくお願いします。
ジュゼッペ