一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

聖なるカトリック典礼4

2018-09-28 07:43:12 | カトリック
1969年からの新しいミサは、それまでのいけにえや犠牲の精神から「集会」や「食事会」としての概念が強く帯びてくることになりました。これが時間が経つに連れてますます影響力が強くなっているようです。
例えばトリエント典礼は聖変化に到るまでその意向を崩さないように配慮されています。
少し驚愕な事実を申し上げたいと思います。今から20年程前です。これはその場にいた志願生から聞いた話です。ある信者さんがミサ後に神父に、聖変化におけるキリストの現存を褒め称えたそうです。そして、それを修道院に戻られるとその信者さんの話を持ち出して「我々は魔術師じゃないんだから、パンをキリストに変えられるはず無いではないか」と言ったそうです!その場には他の神父様もおられたにも関わらずこの神父を咎める人はいませんでした。しかもこの修道司祭の名前を申し上げたら多くの人が知っているだろう方です。
ところで聖なるカトリックの教えでは秘跡が有効であるためには質料、形相、意向の三つの条件が必要です。すべての秘跡は三つの要素によって完成します。質料は物です。そして形相としての言葉です。教会が行うことを行うという意向を持って秘跡を授ける司祭。これらの要素の一つでも欠ければ、秘跡は効力を持ちません。20年前のこの司祭の言葉を信じるならば彼のミサは無効と言えます。恐ろしいことに私たちは司祭の心の中の事は分かりません。その多くは彼らの説教の中から見いだすしかありません。本当に御聖体を信じているのか、をです。
叙階式で新しく司祭になった人の多くは未だに、「貧しい人のために」「弱い人のために」「社会のために」を口にします。しかし、司祭職は秘跡を執行することに集約されています。司祭にしか出来ないことをするのが司祭なのです。ボランティアでも出来ることをメインにしてはいけないのです。これを履き違えた結果、環俗する司祭さえいます。
つづく



悪魔の手3

2018-09-25 10:18:30 | カトリック
残念ながらブログを書いたすぐ後にローマと中国共産党教会が合意とのニュースが世界を駆けめぐりました。
香港の陳日君枢機卿様のインタビューも出ています。
東京新聞:バチカン 中国合意 香港教区元トップが批判「法王庁は信者を売った」:国際(TOKYO Web)

愛国教会を偽のカトリック教会と信じて、長い間信仰を守った地下教会のカトリック信者のためにお祈りしましょう。

悪魔の手2

2018-09-22 18:26:42 | カトリック
以下のニュースが出てきましたが、海外では比較的大きく取り上げられています。
バチカン、9月中にも中国へ代表団 司教任命権問題を協議: 日本経済新聞

これを読むとあたかも地下教会の信者と愛国教会の信者のための合意だと思われるでしょうが、中国のカトリック教会に詳しい友人に聞くと、今回愛国教会(共産党が創立した教会)の7人はもちろん違法叙階された司教なのですがバチカンは彼らを認める方針なのだそうです。そしてこの愛国教会の司教のうち数人は愛人がいてさらに子供までいるそうです!
これこそ茶番です。1950年代から伝統を守ってきた地下教会の信者はまたもや見捨てられる可能性が出てきました。香港のサレジオ会の枢機卿は戦っておられますが、私たちもローマと悪魔が手を結ばないようにお祈りしましょう。ロザリオ持って戦いましょう!

以前の記事
悪魔の手
です。


福者エンメリックの予言
私はあらゆる種類の異端派が街(ローマ)に集まっているのを見ました。聖職者の絶えず増え続ける衰弱が見えました。暗闇の輪が広がりました。そして今、ビジョンはより広がりました。私はあらゆる場所でカトリック者が圧迫され、悩まされ、制限され、自由を奪われ、教会は閉鎖され、戦争と流血でどこでも大きな悲惨さが勝ったのを見た。

聖なるカトリック典礼3

2018-09-18 07:45:12 | カトリック
500年前にルターが自分の教会を作りました。それからというものの現代では何万ものプロテスタント教会が存在すると言われています。同じ様に今から半世紀前に起こった典礼改革で沢山のミサが生まれました。
以前の典礼では全て司祭によって司式されていましたが、今では朗読のために一般信徒が祭壇内に入ってしまいました。
当初は男性限定を守っていた教会も今はどうでしょうか。内陣で女性も朗読するようになりました。以前のトリエント典礼の荘厳さと伝統を残そうと努力をしても結局はなし崩しに様々な事が行われたのは周知の通りです。女性侍者や聖体奉仕者などは最初は衝撃を持って迎えられましたが、今となってはどうでしょうか。「見慣れた風景」になっています。手での聖体拝領や跪かないミサなどは、もはや当たり前のように行われています。シスタールチアがいう「悪魔的方向感覚の喪失」の影響のもと、おかしいと思うのは少数派になっていきます。そして少数派でさえ居なくなってしまう勢いなのです。荘厳であるはずのミサの中に見られる人工的な動きである、お互いにする平和の挨拶や共同祈願、奉納など、いけにえの儀式よりもまるで祈祷集会のような雰囲気を醸し出しています。
女性侍者や聖体奉仕者、女性朗読の導入などは、もともとの典礼改革の原理や精神がそれを許している土台にあったことを考えると、それを否定するということは、新しいミサそのものを否定することになるのです。それをしたくないから多くの人は行き場が無いということになります。
つづく

聖なるカトリック典礼2

2018-09-14 07:54:15 | カトリック
教皇聖ピオ5世は、1570年7月に大勅令『クオー・プリームム(Quo Primum Tempore)』を出しました。これは、ローマ・ミサ典書を永久に有効なミサ聖祭として義務化しました。これがいわゆるみなさんの存じ上げてる「トリエント・ミサ」です。
しかし、実はこの聖ピオ5世の時に「トリエントミサ」が生まれたわけではありませんでした。長い歴史の中の一段階として聖ピオ5世が改訂したに過ぎなかったのです。ですからよくトリエントミサの歴史を500年と言う人がおられますが、「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々と続いてきたミサ典書」というのが正式な名称と言えます。

詳しくは色々なブログがありますが、以下のトリエントミサしか行わない聖ピオ10世会の小野田神父の論文が非常に分かりやすいので是非お読みください。

聖伝のミサについて黙考 --- 教会のため私たちに何が出来るでしょうか - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


最後に聖ピオ5世は大勅令の中で不可謬権を行使してこのように記しています。

『(トリエントミサに対して)絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。 もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主、及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。』

つづく

聖なるカトリック典礼

2018-09-13 07:46:58 | カトリック
私は小さい頃から昔通常に行われていたミサは『ラテン語ミサ』だということを認識していました。それは両親や伯母や叔父がそのミサに与っていたことがあって、時々部分的に家族の会話を聞いていたからです。実際知識の無い私は今の形のミサがそのままラテン語で行われるだけだと想像しました。
しかし、聖人伝や昔の司祭の写真、ミサ関連の御絵を見るとどうでしょうか。私が与っているミサと大分違うのをなんとなく感じました。祭壇、司祭服はもちろん、司祭が向く方向だとか、このような場面見たことが無いという内容のものでありました。どうやら少しずつですが、昔のミサは廃止されたということを耳にするようになりました。
月日は経ち、高校生になると、私の周りでは私がカトリック信者だと知ると色々とキリスト教について興味本位で聞いてくる友人が増えました。今思えば彼らのイメージは1960年代までのカトリックのイメージでした。
仲の良くなった友人をカトリック教会に連れて行ったとき、今の典礼がすごく幼稚に感じる衝撃的な言葉をもらったとき、私はふらふらしたのを覚えています。私はただただ「昔は良かったんだよ」ということしか言えませんでした。なぜその言葉が出たかというと、教会の老信者たちがよく教えてくれたからです。
そしてネットが普及し始めると旧典礼と新典礼の問題を知ることが出来ました。いくらかラテン語とグレゴリオ聖歌は根強い人気だとかで、そして現代のカトリック教会の危機を耳にするようになったのです。
つづく

重要なのは中身

2018-09-11 07:47:08 | カトリック
聖福音書に、神殿で祈るファリサイ人と自分の罪を良く悟り改心を祈る徴税人の例えがイエズス様から語られています。もちろん神様から義とされたのは、徴税人の方でした。
確かにこの場合「祈る」というカテゴリーでは、この二人は同じことをしています。しかし重要なのは『想い』そしてそれに伴った『中身』だったのです。
最近この時期に来るとあちこちで「ラテン語」だとか「グレゴリオ聖歌」という声が聞こえます。私は一度も東京のカテドラルで行われる一年に一回のラテン語ミサに与ったことがありません。「伝統的なラテン語ミサ」と謳ってはいますが、現行の新しいミサのラテン語です。40年程の歴史の伝統なのだそうです。
確かにラテン語は尊い言葉です。なぜならば聖トマスによると、天国の言葉はラテン語だろうということです。しかし、言葉もメロディーもあくまでも手段でしかありません。
グレゴリオ聖歌もその内容故にあのようなメロディーが生まれたのです。
少なくとも残された文章だけでも5世紀まで遡ることが出来るというトリエントミサも現行のラテン語ミサも確かに同じ「ラテン語ミサ」というカテゴリーです。
しかし、以下の比較表を見たときに同じミサだ、同じ信仰だ、と言えるでしょうか。
中身を大切にしなければ、ただのミーハーに成り下がり、雰囲気だけ大切にして、全ては形骸化します。

新旧ミサ典礼の比較