一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

聖なるカトリック教会

2016-11-08 07:28:18 | カトリック
人祖が創造されたときそこには天主教のみが存在していました。しかし悪魔の誘惑によって人間は恩寵を失いました。創造主から離れた私達はあらゆる罪を犯すことになりました。本当にあらゆる、です。本当の神様ではなく、悪魔が作った宗教を信じるようになりました。歴史が教えている通り様々な宗教が生まれました。悪魔は事実の中に嘘を巧妙に織り交ぜてくるので、信じている人はそれが正しいと錯覚するのです。しかし正しい理性を持ってその起源や成り立ちを調べれば、分かる事も多いはずです。
人間は憐れみが必要でした。聖三位一体の第二位のペルソナであるイエズスが人間になってこの世に降誕されて、私達の救いのために自ら教会をお建てになりました。それがカトリック教会です。しかしカトリック教会から離れて様々な人間の作った教会が生まれることになります。先ほど起源や成り立ちと申し上げましたが、例えば英国教会は、ヘンリー8世のわがままによって生まれました。彼は男の子が生まれない理由で禁止された離婚を正当化するために、カトリック教会から離れて都合のいい教会を作りました。その頃トマスモアは殉教しました。ヘンリー王は離婚再婚を何度も繰り返しました。普通に考えればそんな教会を聖なる教会と呼べるでしょうか。しかしその中にはキリストの教えが含まれているからと信じるに価するからと留まることは正しいといえるのでしょうか。キリストご自身が立てた教会なのか、それとも人間が立てた教会を信じるべきでしょうか。
私達は本当の神様の言葉だけに目を向けるべきでは無いでしょうか。

御聖体に対して

2016-11-07 07:23:03 | カトリック
日本の教会では聖変化の時に跪く人、そして口で御聖体を受ける人はとても少ないと思います。それは長い時間をかけてこうなりました。
世界に先駆けて、それまで口で御聖体を受けるのが主流の中、日本では最初に手で受ける許可を取った最初の国の一つだっただけに、手で受けさせるキャンペーンも際立っていました。
私が小さい頃は、口で受ける人は沢山いましたが、ある時他の小教区から来た司祭が、聖体拝領のあとに、「舌で受ける人がいますがとても汚い。万が一舌に付いた指で他の人に渡すのどう思いますか?」とわざわざマイクを使って止めさせようとしていました。それから私の所属教会ではその後口で受ける人はほとんど居なくなりました。そればかりか、あちこちの教会で口で受けることがあたかも悪いかのような事も聞かされました。例えば、最後の晩餐で「取って食べなさい」と仰ったから手で受けるのは当たり前だと言うのです。しかし、これは主は誰に言ったのでしょうか?私達に直接に言ったのでしょうか?霊的読書で聖人伝を読むとき、主が聖人に愛を持ってはたらきかけるとき、それは読者にも同じでしょうか?いいえ、その聖人を私達は讃えますが、聖人と同じ事を私達には仰いません。私達にイエズス様もマリア様も御現れになりません。むしろ私達が聖書を読むとき、それはファリサイ派を咎めるとき、それは私達に向けられています。私達は聖人ではありません。選ばれてると思ったのならばそれは傲慢です。傲慢は全ての罪の源です。私達の中には傲慢がうごめいています。
ミサの中で跪くことが悪いことならば、それまでの人は悪かったのでしょうか。
跪いて祈ったイエズス様は私達の模範です。ある本にありました。主の前に跪か無い人は溶岩の前に跪くことになるであろう、と。そして主に対して跪きがあたかも禁止であるかのように誘導した人、主に跪くことをあざ笑う人の罪はもっと大きいでしょう。それが責任ある立場であればあるほどです。
私達はこの世の事ばかりではなく、後の世のことをもっと黙想しましょう。

聖レオナルドの以下の言葉を黙想したいと思います。
『でたらめな生活を送っているカトリック信者が、無神論的な考えを表明する言葉、信心を台なしにする言葉を吐くとき、それを耐えるために大きい忍耐が要ります。
悔い改めなければならないことと、「主のいと聖なる御体と御血を拝領しなければ、だれも救われない」ことを(ヨハ6・54参照)、人々に諭して下さい。
司祭によってミサの犠牲が祭壇上で捧げられ、パンまたはぶどう酒の形色のもとに運ばれる時には、すべての人がひざまずいて、生ける真の神なる主に賛美と栄光と誉れを帰さなければなりません。』

煉獄の霊魂からの訴え

2016-11-04 07:39:53 | カトリック
度々申し上げますが、今月は死者の月です。ですから臨終の時、死後の時を黙想するのは、大変善いことです。
数世紀前から煉獄の霊魂の良い書物は沢山出ています。時代が変わっても煉獄の霊魂がいかに苦しんで私達の犠牲を必要としているかを訴えかけています。
しかし、特に最近は煉獄の霊魂は私達の心配をしているようです。神様の深い憐れみによって煉獄の霊魂はこの世との接触が許されるときがあります。今から40年近く前に煉獄の霊魂と接触を許されたオーストリアに住む女性に聞き取りをした本があります。【煉獄の霊魂】というページ数も比較的短い本がありますが、これを先日読み返した所、ハッとした箇所がありましたので抜粋して紹介致します。
私達の救霊に大きなお恵みとなりますように。

【一番良い方法は、神への大きな愛と非常に大きな深い謙遜です。傲慢は、現代における教会内の大きな混乱の一番主な原因です。不一致は傲慢からのみ生まれます。御聖体拝領の際、立つように命令される時、跪かない時、御聖体の秘跡に対するへりくだりと敬いが払われているといえるでしょうか?
キリスト者が、手にイエズスを受けるに価すると考えるならそれは謙遜でしょうか?司祭だけがイエズスを手に持つことができるよう、特別の祝福と手に塗油を受けているのです。御ミサの中で、自分はあわれな罪人であると神に告白するために、『告白の祈り』を立って唱えるのは謙遜でしょうか?取りなしの祈り、感謝の賛歌(サンクトス)、聖変化、平和の賛歌(アニュスデイ)、そして司祭が祝福を与える時、跪かなければなりません。
傲慢から、不従順、無作法、無慈悲、争い、反抗等が生じます。悪徳はすべて傲慢から生まれるということを考えてみて下さい。悲しい事に、修道女や修道士も、いまや、自分の長上に対し、従順ではありません。例えばある司祭が祭壇に奉仕しているシスターに聖櫃の前を通るとき、跪くように求めました。けれどもそのシスターは、失礼にも「そうしなければならないと一体、どこに書いてあるのでしょうか?」と言ったのです。修道女がそのような返事をする時、人は尋ねるでしょう。「神様への愛はどこにありますか?御聖体の中に、イエズスが真に現存されるという信仰はどこにありますか?」】

救霊

2016-11-03 07:24:26 | カトリック
今月は『永遠』や『死』について考えるいい機会です。
いつか忘れてしまいましたが今から10年以上前に、ある神父様が英語の本を日本語に訳しながら読みきかせて下さった話を思い出します。その本は教会公認の奇跡や不思議の物語を集めたもので、その中でその神父様が特に印象深いものを読んでくれたのでした。
昔々ある金持ちが死にました。その金持ちは、生きている間は教会の発展に尽力して信仰も守って生きていました。遺言書に死んだらその土地や財産は全て教会に寄付するということを書いて死にました。生きている間もその事を周りに言っていたそうです。しかしどう言うわけか、死後見つかった遺言書はその親友にその財産を分けることだけが書いてありました。地元の教会はとても貧しかったので、この財産が無ければ大変な事になりそうでした。彼の遺族や他の友人も巻き込んで裁判まで行われました。犯人はその親友で、筆跡もその文章も本物そっくりに偽造してありました。調べても偽造を立証するのは難しく財産はその親友の物になるのも時間の問題でした。当時の地元の大司教様は生きながらにして聖人と呼ばれていました。彼は死後も聖人に認定された大司教様で彼は祈りました。裁判も(死んだ)本人が出てこない限りはもう無理でした。しかしです。大司教様は死んだ金持ちの墓の前に行き、「キリストの名において復活せよ」と命じました。するとどうでしょう。墓から金持ちは復活しました。まさに奇跡です。裁判の最終日、法廷で死んだ金持ちは驚きおののく人々の前で事実を訴えました。この裁判の記録はまだ残っていてその衝撃は現代にも伝えられています。
さてその後の話です。その死んだ金持ちは死後煉獄に行っていたそうです。大司教様は彼にこのまま生きることも出きるし、煉獄に再び戻ることも出来るが、どうするか訪ねました。すると彼はすかさず『煉獄』を選びました。理由を聞くと、本人は辛うじて煉獄に入れたから、というのです。そして大多数の人が地獄に行く中本当に紙一重で煉獄に入れたし、この世に再び生きた場合、次は煉獄にも入れない可能性の方が高いからすぐに煉獄に戻して下さいとお願いしたそうです。そしてその願いは聞き届けられて彼は煉獄に戻りました。
確かにこの話は不思議な話です。超自然のお恵みです。神様が私達の世界に介入されたとき奇跡というものが起こります。そしてその奇跡には深い意味が込められています。
今回の話で私が感じたのは、まず救霊がいかに難しいかをここでは物語っているように思います。確かその金持ちは十戒も守って教会の掟も守って信仰深く生きていました。貧しい人も教会も物質的に助けるくらいの徳のある人です。死後の財産も放棄しています。おそらく現代においても彼のような信仰者は珍しいでしょう。その人が死んで煉獄に入っていても『救霊』の難しさを訴えている点に注目しましょう。
ファティマのマリア様がお見せになった雪のように地獄に堕ちていくカトリック信者の霊魂のことを忘れてはいけません。昔から教会が教えているように死後多くの人が行くのは地獄です。確かに一発逆転の奇跡の話もありますが、私達に同じように起きる保証は全くありません。愛された聖人に話しかけるイエズス様は私に話しているわけではありません。大多数の人は都合よく神様を作り上げています。
私自身も煉獄に入れるのも難しいと思っています。甘い言葉には気をつけましょう。この世の快楽は非常に甘い言葉です。傲慢にさせて神様の正義を忘れさせるに十分のものを持っています。危険な場所にいるのに神様に守られているから大丈夫(だろう)!、と神様を試してはいけません。もう一度自分自身が愛され救われるに値する人間か謙虚に考えてみましょう。その時私達がやるべき事が自ずと見つかると思います。祈りましょう。



煉獄の霊魂

2016-11-02 07:25:11 | カトリック
聖なる公教会(カトリック教会)は11月2日を死者の日と定めています。
死後霊魂はこの世の行いによって直ちに3つの場所のどこかに向かうことになります。『天国』『煉獄』『地獄』となります。堕胎された過失の無い赤ん坊の霊魂はリンボに行きますが、基本は以上の3つです。昨日は天国の諸聖人の祝日でした。
残念ながら地獄に行く霊魂は永遠にその苦しみに入りますが、期限付きの地獄と言われる煉獄では、大罪は犯さなかったけれど小罪を持った霊魂、告解で許されてもまだ償いが残っている霊魂が行くところです。本日は煉獄の霊魂の日です。煉獄のキーポイントは『償い』です。地獄に入った霊魂のために私達は祈ることは出来ません。無駄に終わります。残念ながら救いようがありません。しかし煉獄の霊魂のために私達はお祈りすることが出来ます。つまり代わりに償いを果たし助けることが出来ます。逆に天国の霊魂は償う必要もなければ犠牲をしたり苦しむ必要も無いので、煉獄の霊魂を救う事は出来ません。そこでこの世の私達は自分のためにも償いや犠牲が出きますし、誰かのためにそれもできるのです。煉獄の霊魂の多くは場所的に誰がそこにいるのか、明らかにされていないため多くの霊魂は忘れられています。この死者の日は特に煉獄の霊魂のために司祭はミサを三回たてられることが許されているほどです。
私達もこの世界で多くの紆余曲折や多難があります。原罪の結果この世で生きていくには仕方のない事です。しかしそれでも私達は苦しい人を助けたり悩みを共感したり、場合によっては解決してあげたりと、様々な手を尽くそうと努力しますね。これと同じです。苦しみにいる煉獄の霊魂も私達の助けが必要です(煉獄の霊魂は私達よりも苦しいのです)。逆に助けた人が私達を助けることもあります。同じように煉獄の霊魂は私達よりはるかに聖人に近いに霊魂です。もっともっと義理堅い霊魂です。天国に入られたとき私達を必ず助けて下さいます。
今月のテーマは、『死』です。
死は終わりではありません。新たな始まりです。すなわち新たな生命です。
カトリック信者の中には、天国も地獄もそれぞれの人の心の中にあるという精神的かつ概念的なものとして考える傾向の人もいますが、これは救霊にとって非常に危険です。畏れを知らないことです。
今日は特に煉獄の霊魂のために祈りましょう。犠牲を捧げましょう。特にロザリオが有効です。

「死後の地獄は一度そこに落ちたら永遠に抜けられず、永遠の意味を理解したら人は自分の生き方を変えるためになんでもするでしょう」
ファティマ
福者ヤシンタ

願わくは死せる信者の霊魂、天主の御あわれみによりて安らかに憩わんことを。アーメン


諸聖人の大祝日

2016-11-01 07:27:32 | カトリック
今月から死者の月に入りました。その一番最初の日は聖人の日です。天国の日と呼んでも過言ではないと思います。
この世の務めが終わると人は死にます。必ず死にます。死とは体と霊魂が離れる状態をいいますが、霊魂は永遠に不滅です。ですから死を持って本当の生命に入るのです。死後が本当の世界です。死後の行く場所は3つです。天国、煉獄、地獄の3つです。私達が必ず行かなくてはならないのは天国です。帰天しなければなりません。
まずその天国ですが、想像するのが難しいと言いますが、苦しいことも悲しいことも無い、つまり不快なことが全く一つも無い場所です。創造主から一時的に離れた私達が再び創造主と直接繋がる場所とでもいいましょうか、至福直下の幸福と形容されています。ドンボスコが、死んだドミニコ・サヴィオが白い服を着てとても美しい場所を歩いていたのを見て、そこは天国かと聞いたのですが、そこはまだまだ入り口でしかなく、天国はこれ以上に想像を絶する美しい場所だと言いました。
 天国にいる霊魂はみな聖人です。逆に聖人でなければ天国に入ることは出来ません。私達の知っている典礼歴の聖人の他に、煉獄で償いが終わった霊魂や、無数の知られてない霊魂が天国におられます。その天国の聖人方は私達の大先輩ですが、同時に現在も私達のために祈っています。私達の保護者です。知らない間にどんなに助けて下さっているか想像も付かない程です。
ですから私達は感謝しないといけません。
これは父から少し前に聞いた話なのですが、父が幼い頃(ごめんなさい。父の祖母なのか祖父母どちらかの祖母なのかはっきりしないのですが)お婆さんが家で家族に看取られて息を引き取りました。そのお婆さんは、生前信仰が非常に篤く、村でも熱心なお婆さんの1人だったそうです。彼女は次第に老衰で弱っていきました。そしてその日か弱い声で、今日は死ぬ日だと言うので家族がみな集まりました。そして息を引き取ったのです。心臓も止まって瞳孔も開いていました。死でした。人徳者ということもあり皆が悲しみました。その約30分後だそうです。彼女は突然起き上がりました。周囲がびっくりしました。どうしたことかみんなが集まりました。すると弱っていたはずの老人が生きていた頃よりも快活な声で、今天国の門の前に行ったら、聖ペトロと聖ドミニコ、(あと名前は忘れましたが数人の)大聖人がその門の前に立っていて、少しばかり引き返して天国が実在する事を伝えよ!というのです。そしてその話が終わるとお婆さんは本当に死にました。これを直接聞いた人そして又聞きした人に多くの希望と感動と安堵を与えたそうです。
 このように天国は必ず実在し、私達はこの天国に入るために生きなくてはならないということを伝えています。そして多くの無名の素晴らしい人々が天国にいて、私達を助けています。今日は私達は聖人方に感謝をする日です。素晴らしい聖人方を通して神様の愛を感じることが出来ますね。諸聖人に会いたいと思いませんか?
祈りましょう。

『諸聖人の連祷』


主あわれみ給え。 ▲キリストあわれみ給え。
主あわれみ給え。
キリストわれらの祈りを聴き給え。 ▲キリストわれらの祈りを聴き容れ給え。


天主なる御父(おんちち) ▲われらをあわれみ給え。
天主にして世のあがない主なる御子(おんこ) ▲われらをあわれみ給え。
天主なる聖霊 ▲われらをあわれみ給え。
唯一の天主なる聖三位(せいさんい) ▲われらをあわれみ給え。
聖マリア ▲われらのために祈り給え。
天主の聖母 ▲われらのために祈り給え。
童貞(どうてい)のうちにていても聖なる童貞 ▲われらのために祈り給え。
聖ミカエル ▲われらのために祈り給え。
聖ガブリエル ▲われらのために祈り給え。
聖ラファエル ▲われらのために祈り給え。
聖なるすべての天使および大天使 ▲われらのために祈り給え。
聖なる永福(えいふく)の霊の各階級 ▲われらのために祈り給え。
洗者(せんじゃ)聖ヨハネ ▲われらのために祈り給え。
聖ヨゼフ ▲われらのために祈り給え。
聖なるすべての太祖(たいそ)および預言者(よげんしゃ) ▲われらのために祈り給え。
聖ペトロ ▲われらのために祈り給え。
聖パウロ ▲われらのために祈り給え。
聖アンドレア ▲われらのために祈り給え。
聖ヤコボ ▲われらのために祈り給え。
聖ヨハネ ▲われらのために祈り給え。
聖トマ ▲われらのために祈り給え。
聖ヤコボ ▲われらのために祈り給え。
聖フィリッポ ▲われらのために祈り給え。
聖バルトロメオ ▲われらのために祈り給え。
聖マテオ ▲われらのために祈り給え。
聖シモン ▲われらのために祈り給え。
聖タデオ ▲われらのために祈り給え。
聖マチア ▲われらのために祈り給え。
聖バルナバ ▲われらのために祈り給え。
聖ルカ ▲われらのために祈り給え。
聖マルコ ▲われらのために祈り給え。
聖なるすべての使徒および福音史家(ふくいんしか) ▲われらのために祈り給え。
主の聖なるすべての弟子 ▲われらのために祈り給え。
聖なるすべての罪なきみどりご ▲われらのために祈り給え。
聖ステファノ ▲われらのために祈り給え。
聖ラウレンシオ ▲われらのために祈り給え。
聖ヴィンセンシオ ▲われらのために祈り給え。
聖ファビアノおよび聖セバスチアノ ▲われらのために祈り給え。
聖ヨハネおよび聖パウロ ▲われらのために祈り給え。
聖コスマおよび聖ダミアノ ▲われらのために祈り給え。
聖ジェルバジオおよび聖ブロタジオ ▲われらのために祈り給え。
聖なるすべての殉教者 ▲われらのために祈り給え。
聖シルヴェストロ ▲われらのために祈り給え。
聖グレゴリオ ▲われらのために祈り給え。
聖アンブロジオ ▲われらのために祈り給え。
聖アウグスチノ ▲われらのために祈り給え。
聖イェロニモ ▲われらのために祈り給え。
聖マルチノ ▲われらのために祈り給え。
聖ニコラオ ▲われらのために祈り給え。
聖なるすべての司教および証聖者(しょうせいしゃ) ▲われらのために祈り給え。
聖なるすべての博士(はかせ) ▲われらのために祈り給え。
聖アントニオ ▲われらのために祈り給え。
聖ベネディクト ▲われらのために祈り給え。
聖ベルナルド ▲われらのために祈り給え。
聖ドミニコ ▲われらのために祈り給え。
聖フランシスコ ▲われらのために祈り給え。
聖なるすべての司祭および侍祭(じさい) ▲われらのために祈り給え。
聖なるすべての修士および隠修士(いんしゅうし) ▲われらのために祈り給え。
聖マリア・マグダレナ ▲われらのために祈り給え。
聖アガタ ▲われらのために祈り給え。
聖ルチア ▲われらのために祈り給え。
聖アグネス ▲われらのために祈り給え。
聖セシリア ▲われらのために祈り給え。
聖カタリナ ▲われらのために祈り給え。
聖アナスタジア ▲われらのために祈り給え。
聖なるすべての童貞およびやもめ ▲われらのために祈り給え。
天主のすべての聖人および聖女 ▲われらのために取次をなし給え。
御あわれみを垂れて ▲主われらを赦し給え。
御あわれみを垂れて ▲主われらの祈りを聴き容れ給え。
すべての悪より ▲主われらを救い給え。
すべての罪より ▲主われらを救い給え。
御(おん)怒りより ▲主われらを救い給え。
不測の急死より ▲主われらを救い給え。
悪魔のわなより ▲主われらを救い給え。
怒り、憎み、その他すべての悪意より ▲主われらを救い給え。
じやいんの心より ▲主われらを救い給え。
落雷および暴風より ▲主われらを救い給え。
地震の災難より ▲主われらを救い給え。
疫病(えきびょう)、ききんおよび戦争より ▲主われらを救い給え。
終りなき死より ▲主われらを救い給え。
聖なる御託身(ごたくしん)の玄義によりて ▲主われらを救い給え。
御降世(ごこうせい)によりて ▲主われらを救い給え。
御(ご)誕生によりて ▲主われらを救い給え。
主の御受洗と聖なる御(ご)断食とによりて ▲主われらを救い給え。
主の十字架と御受難とによりて ▲主われらを救い給え。
御死去(ごしきょ)と御葬り(おんほうむり)とによりて ▲主われらを救い給え。
聖なる御復活(ごふっかつ)によりて ▲主われらを救い給え。
崇(あが)むべき御昇天(ごしょうてん)によりて ▲主われらを救い給え。
慰め主なる聖霊の御降臨によりて ▲主われらを救い給え。
審判の日において ▲主われらを救い給え。

われら罪人(つみびと)なれども ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくはわれらを赦し給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくはわれに御あわれみを垂れ給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくはわれらをまことの改心に導き給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくは主の聖なる公教会を治めかつ保ち給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくは教皇と公教会の諸階級とを聖なる教えのうちに永く保ち給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくは聖なる公教会のすべての敵を恥じ服せしめ給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくは主を信ずる元首(げんしゅ)と諸侯(しょこう)とに太平(たいへい)を降(くだ)し 皆(みな)同心一致(どうしんいっち)ならしめ給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくは主を信ずる民に平和と一致とを与え給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくはすべての迷える者を公教会の一致に呼び戻し、またすべての 教外者を福音の光に導き給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくはわれらを主の聖役(せいえき)に強めかつ保ち給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくはわれらの心を高く揚(あ)げて天井を望ましめ給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくはわれらのすべての恩人に、無窮(むきゅう)の幸いをもつて 報い給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくはわれらおよびわれらの兄弟、親族、恩人の霊魂を永遠の罰より救い給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくは地の百穀(ひゃくこく)を与え、かつこれを保ち給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくはすでに世を去りたるすべての信者に、終りなき安息を 与え給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
願わくはわれらの祈りを聴き容れ給わんことを ▲主われらの祈りを聴き給え。
天主の御子(おんこ) ▲願わくはわれらの祈りを聴き給え。


世の罪を除き給う天主の小羊 ▲主われらを赦し給え。
世の罪を除き給う天主の小羊 ▲主われらの祈りを聴き容れ給え。
世の罪を除き給う天主の小羊 ▲主われらをあわれみ給え。
キリストわれらの祈りを聴き給え。▲キリストわれらの祈りを聴き容れ給え。
主あわれみ給え。▲キリストあわれみ給え。
主あわれみ給え。


天にましますわれらの父よ、
願わくは、御名(みな)の尊まれんことを、
御国(みくに)の来たらんことを、
御旨(みむね)の天に行わるる如く地にも行われんことを。
▲われらの日用(にちよう)の糧を、今日(こんにち)われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。アーメン。

祈願 全能永遠の天主、われら主のすべての聖人の勲(いさお)をばここに讃美し奉る。願わくは、かくもおびたただしき天使聖人たちの御取次(おんとりつぎ)によりて、ゆたかなる御恵み(おんめぐみ)をわれらに与え給え。われらの主キリストによりて願い奉る。▲アーメン。