一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

御復活節の祈り

2017-04-17 07:55:07 | 祈り
御復活節の祈

 栄えある主イエズスよ、主はわれらを救わんために十字架につけられて死し、御約束の如く三日目によみがえり、そを証さんため弟子たちに御みずからを示し給えり。
▲主は御死去をもつて罪に勝ち、御復活をもつて死と地獄とに勝ち、御みずからの天主にましますことを証し給えば、われらは主の御復活を崇め主の大いなる御栄えを喜び奉る。

 これこそ主の造り給いし日なれ。アレルヤ。

 ▲この日にあたりわれら喜びかつ踊らん。アレルヤ。

 主イエズス、主は御復活の後弟子たちに現われ、力を落し、恐れいたるかれらを慰め、励まし、またかれらに授け給いし御教えを完うし給えり。

 ▲死と地獄とに勝ち給いたるイエズス、われらの信仰弱きをあわれみてこれを強め、信仰のために戦うべき時に当りて、われらに助けをくだし給え。主よ、御身の公教会をしてますます栄えしめ、常に地獄の門に勝たしめ給わんことを、伏して願い奉る。アーメン。


御復活

2017-04-17 07:43:52 | カトリック
主の御復活おめでとうございます。
主イエズスは、あの惨たらしい死を通して私たちを贖い、そして御復活によって私たちの信仰を強められました。
人に平等に訪れるもの、それは「死」です。私たちは必ず死にます。死者がよみがえるということを信じるには、かなりの信仰が必要だと思われます。
主の御復活を黙想するときによく思うことは、確かにイエズス・キリストが復活されたのは歴史的事実です。しかしこの歴史は単なる歴史ではありません。超歴史なのです。なぜならば、もしこれが単なる歴史的な偉大なる事実の一つであれば、それはそこで終わりなのです。ナポレオンの戦争やアテネの戦争も歴史的事実の一つです。だからどうした?なのです。しかし、ここは超歴史です。全ての人間が注目するべきです。このイエズス様のこの歴史(復活)を信じる者は、「キリスト者」と言われるのです。私たちも同時にキリストを通して生まれ変わっていかなくてはならないという事柄まで含まれているのです。
大いに喜びましょう!そして強めて頂きましょう。

聖金曜日

2017-04-14 07:45:27 | カトリック
罪無き神様が、被造物に侮辱され、偽証され、鞭打たれ、痛めつけられ、さらにその体に重い重い十字架を負わせて、長い長い道を歩かされ、釘と槍を体にさされたこの日。主は私たちの罪のため、その愛の深さを私たちに示されました。
黙想し静かに犠牲と祈りを捧げましょう。

イエズスの御受難を崇むる祈

2017-04-10 07:54:45 | 祈り
祈りましょう。

<イエズスの御受難を崇むる祈>

「主イエズス・キリスト、主は世をあがなわんためにこの世に生れ、ユデア人に棄てられ、裏切者なるユダのために口づけをもって敵に売られ、なわめを受けて罪なき子羊の如くとしょに引かれ、アンナ、カイファ、ピラト、ヘロデの前にあざけられ、偽証人の陥るるところとなり、むち打たれ、辱められ、つばきせられ、ほほを打たれ、いばらの冠をかむせられ、よしにてたたかれ、衣をはがれ、十字架にくぎ付けにせられ、酢と苦きものとをなめさせられ、やりにて貫かるるをも甘んじ受け給えり。

▲主、願わくは、われらの身に余りてかたじけなきこの尊き御受難と、聖なる十字架と、御死去とによりて、われらに地獄の苦しみを免れしめ給え。
また主と共にはりつけにせられて、悔い改めたる、盗賊を導き給いし処(ところ)へ、われらをも導き給え。
聖父と、聖霊と共にとこしえに生き、かつしろしめし給う主なるかな。アーメン。」

聖週間

2017-04-10 07:30:09 | カトリック
昨日は枝の主日でした。聖週間の幕開けです。
昨日読まれた聖福音を思い起こすと、これは人間と神様の対比が浮き彫りにされたような印象がありました。イエズス様を十字架に磔るためには、主義主張さえ変え、嘘さえ付くのです。このユダヤ人の「神殺し」は本当に私たちと無関係なのでしょうか。人間と神様ではどちらを大切にすべきだったのでしょうか。
この十字架は一体誰のために用意されたものかをよく考えると、これは私たちの罪の結果と罪の行いによってなのです。主がゲッセマニの園で祈られたとき、過去と未来の神の子ら(人間)の罪のために血を流されたと伝統的な神学者は教えています。そして私たちがたとえ小さな罪を犯したとしてもそれは主の手の釘を打つのに等しいとも教えています。ユダヤ人の「十字架につけろ!」とはつまり私たちなのです。言葉で言わなくても行動を見てください。
聖書の正しい読み方は、ファリサイ派も罪人も私たちとして読むのが正しいのです。従ってあの狂気の沙汰は私たちが引き起こしたのと同じなのです。
ですから私たちは、他人事であるという考えは棄てて、私たちもユダヤ人の当事者であったと思うべきです。私たちはこれまで何度も主を裏切ってきたのですから。どれだけ告白して赦されてもまた同じ過ちを繰り返してきたかを考えてみましょう。
謙遜にそして痛悔の念を持って主に謝る気持ちでこの聖週間を迎えなくてはなりません。