一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

御摂理をつぶやく

2017-02-27 07:25:53 | カトリック
私が小学校高学年の時の話です。歴史の時間で戦国時代にさしかかり当然話題はキリシタンの話になりました。担任の教師は私がカトリックだということは知っていましたし、もちろんクラスの友人の殆ども知っていました。キリシタンが信仰のために死んだこと、そしてその殺され方が非常に惨かったにも関わらず殉教者が絶えなかったことから、その担任は最後に吐き捨てるように、「なんのための宗教なのだろうね」と児童達に言いました。その瞬間この人は宗教をあまりよく思っていないのだろうと子供心に思いました。そして同時にこの人に信仰があったならばこのような考えには至らなかっただろう、とも思いました。私たちの主は私たちのためにお亡くなりになりました。そして人祖が、自らの罪において失った恩寵を再び私たちに与えて下さったお恵みを理解したならば全てが合点行くのです。
よく不幸な事があると、人は「神は本当にいるのだろうか」とつぶやきます。この言葉の前後には恐らく発する人によって意味合いは変わってきます。中には希望を多少なりともこめてつぶやく人もいますが、大多数は神を信じる人への嫌みも含まれています。特に神を信じる人に不幸があるときです。例えばイラクで未だにカトリック信者が殉教していますが、イスラム教とキリスト教の対立の中で犠牲者が出るニュースがあると、神を信じない多くの人は、「神ってどこにいるの」と必ずコメントをします。もちろんこれには皮肉が込められています。私たち本当の天主様を信じるカトリック信者であれば、このような発言がいかに無意味で場違いのコメントであるか分かります。
しかし、同じく不幸に陥ったからといって、カトリック信者の口から神様の摂理をつぶやくのを聞くときこんな不愉快なものはありません。私たちのカトリックの教えは現世御利益の宗教では無いからです。なぜならば自分の不幸の多くは自分から出たものです。すぐにそれが神からの試練だとか、神が幸せを奪ったとか、このようにつぶやくのは非常に高慢です。人祖が恩寵を失ったとき、神様は巧みな悪魔の誘惑によって人間が罪を犯したのをよく知っておられました。ですから神様は「なぜ」と理由をお尋ねになりました。アダムはエバが神様から与えられた時、神に感謝を捧げてこれは私の骨の骨、肉の肉とまで表現したにも関わらず、「あなたから与えられた女のせいです」と言ったのです!まさにこれは高慢です。まず痛改の言葉さえありませでした。頂いた恵みさえもつぶやいています。今までの幸福のことは一切無視です。これが人間なのです。天使ならばすぐに悪魔になってしまいますが、それでも神様は私達を憐れんで下さいました。従って不幸になったときに神様のせいにするのが如何に高慢であるかが分かります。そして被造物である私達が、祈ったからといってそれが全て叶わないこともよく知らなくてはなりません。なぜならば私達は罪深く卑しいからです。本来ならば恩寵や幸せを頂く値打ちもありません。それでも洗礼を受けて神様の子供となり、罪の赦しを頂けたことの恩をまずは忘れてはいけないのです。最期の最期まで私達をお導きして頂けることだけを信じましょう。そして祈ったならば最善と最大の努力をして、あとは神様に委ねるだけなのです。

『祈るときには、心を正しくもち、神に対する深い敬いと慎みをもって礼拝しなければならない。「私はちりにもおよばぬものである」(創世記の書18.27)と言われているが、もし神の憐れみによって恵みを受けた場合には、自分はそんなめぐみを受ける値打ちのない者だと考えよ。自分はそのような恵みを受ける価値のないものであるが、神がその深い御憐れみによって自分を退けられないのだと思わねばならない。こじきが飢え渇きをしのんで、僅かの物をこうために長く門前に立つように、あなたも、そのように神の御憐れみにすがれ』レオ13世著、けんそんのしおりから抜粋

愛された罪人

2017-02-24 07:35:08 | カトリック
「私たちは罪人です。しかし愛された罪人です」
今から数年前の2月に帰天された私の知る聴罪司祭はよくこう仰っていたのを思い出しました。
いよいよ来週から四旬節が始まります。テーマは罪と犠牲、贖いそして愛です。私たち人類は贖い主である主イエズスが死ななければ悲惨でありました。不幸のまま希望もありませんでした。しかし主は死ぬ義務も理由も無いにも関わらず、創造主が被造物のためにあの悲劇の死を遂げたのでした。全知全能の主です。死が無くとも私たちを救うのは簡単であったはずです。しかしなぜそうなさらずに、命をかけて私たちを救われたのかを、私たちはよくよく考える必要があります。
完璧ではない罪人の人間が、完璧で罪が全く無い主が贖って下さった事です。
それでは私たちがこの恩をどのようにお返ししたら良いでしょうか。この世の多くの人はまだ主を知りません。知らないばかりか、多くの人は意図的に主に対して忘恩そして侮辱さえしています。
私たちと神様の関係は時代が変わっても何も変わりません。被造物と創造主の関係です。私たちに対する愛も変わりません。変わったのは私たちの方です。神様と人間を対等の立場と見なし始めてきています(ヒューマニズム)。愛された罪人という看板を盾に神様に権利主張をし始めました。伝統を否定して新しい教えを信じ始めました(開かれた教会)。心さえ裏切らなければ体は何をしてもいいという有り得ない理論を持って主を裏切っています。
私たちの大切な家族の遺影を、ただの写真に過ぎないからと踏みつけても大丈夫でしょうか?
ミサで私たちは主にお会い出来ます。ミサ中被造物の私たちは創造主にどのような姿勢をするべきでしょうか。聖変化、御聖体拝領での伝統に反する立ち振る舞いを強要するのはなぜですか。ファリサイ派の人々はどのような人たちだったのでしょうか。言葉ではファリサイ派を批判はしますが、やっていることの次元は全く同じ事では無いでしょうか。
聖書の中で罪を許された人たちはどのようにしていたでしょうか。私たちは罪人であることを決して忘れてはいけません。
祈り犠牲を捧げましょう。

四旬節前

2017-02-21 07:28:10 | カトリック
今年は3月1日の灰の水曜日から四旬節が始まります。以前はその三週間前から四旬節の準備として「七旬節」があり、そこから典礼上司祭は紫の祭服を着ます。
我が家では四旬節の間各々が決めた犠牲を行うのが恒例になっています。子供ならおやつを我慢するとかなどです。しかし四旬節は待降節よりも長いので待降節の犠牲よりもやりやすいのを決める嫌いがありますが…(笑)それでも犠牲が多ければ多いほどお恵みも多いんだよ、と教えています。
そしていよいよ3月は聖ヨゼフの月ですね。聖ヨゼフは忍耐と柔和と謙遜の模範の人でした。四旬節という期間中にお祝いされる聖ヨゼフの祝日(3月19日)は苦しみの中に輝く私達の希望のようです。そして聖ヨゼフはカトリック教会の保護者です。聖ヨゼフ無くして私達のカトリック教会は、悪魔に打ち勝つことは出来ません。従って現在カトリック教会で起こっている数々の困難と混沌を聖ヨゼフが終止符を打ってくださいますように、祈ろうではありませんか。




私のブログ

2017-02-09 18:09:38 | 日記
毎朝出勤の僅かな時間に、ブログタイトル通り「日々思い」を綴らせて頂いていますが、早いもので半年が過ぎました。
訪問者は毎日50から150名の間で変動しています。私の目的はそのような方々に影響を与えようとかそういうことは考えていません。
非公開のコメントを下さる方の多くは応援とお祈りを頂いています。返事が出来ないのでこの場で感謝申し上げます。ありがとうございます。
以前お祈りをお願いしたこともありましたが、祈りと犠牲で多くのお恵みを感じることが出来ました。これは本当です。
皆様には本当に感謝しております。
サルヴェ・レジナの祈りにある通りこの世は「涙の谷」です。
引き続き我が家のためにお祈りをよろしくお願い致します。心からお願い申し上げます。

ジュゼッペ

日本二十六聖殉教者

2017-02-06 07:31:26 | カトリック
昨日は二十六聖人の祝日でした。
殉教者というとどういうイメージでしょうか。聖ペトロも殉教しましたし、使徒の殆どは殉教者です。そしてローマ帝国がカトリックを国教にするまでの間たくさんの殉教者が生まれました。主の教会の繁栄はまさに殉教者が礎になっています。数々の惨たらしい刑は想像に絶するほどです。
しかしこの精神はどこからくるのでしょうか。それは十字架の精神です。十字架上の主をご覧ください。初めて目にする人でさえ、なんて残酷なのかと思うことでしょう。しかし十字架上の人はまったくもって罪の汚れもありませんでした。むしろ善いことだけをなさいました。主イエズスはどうして、なぜ、十字架で死ななくてはならなかったのでしょうか。聖書や要理を読んでいれば分かります。そうです。私たちのためでした。罪人のために全知全能の主が死んだのです!
本来ならばこの主のために私たちの命を投げ捨てたとしても足りません。何故ならば被造物である私たちの命と創造主の命は比較にはなりません。決して同等では無いのです。それほどまでに私たちのために何故いけにえになったのでしょうか。
それは愛です。私達には命よりも大切にするものがあるでしょうか。親が子供の命を守るために身代わりになって死ぬことがあります。これも愛です。
では殉教者は誰のために死んだのでしょうか。なぜ死んだのでしょうか。これは主に対する愛だからです。これほどまでに主のために命をかける宗教はありませんでした。なぜならば主が私達のために貧しく生まれてきて無残に死んだからです。十字架の精神なのです。殉教者は主に倣いました。私達は常に十字架を背負っています。
しかし、多くの人はこのような主に対して忘恩の限りを尽くしています。主の愛をはき違えて、自由きままに行動しています。「愛」を振りかざして、主の言いつけを守ろうとしません。主よりも被造物を愛しています。主よりも被造物の言うことを聞いてしまいます。現代の日本ではカトリック信者を迫害することは無いと思うでしょう。しかし迫害はいろいろな形を取って存在しています。殉教者が残した信仰を骨抜きにしようとしています。殉教者に対するイメージも変えようとしています。信仰だけを求めましょう。
私達が強められるように絶えず祈りましょう。



<日本二十六聖殉教者の信仰を求むる祈り>

「主イエズス・キリスト、主は十字架の刑によりて、聖ペトロ・バプチスタ、聖パウロ三木、及びその他の殉教者をして、主の御かがみにならわしめ、日本国民の信仰の初穂として、彼らの鮮血を納め給えり。

 願わくは、二十六聖殉教者の御取次ぎによりて、 堅固なる信仰と迫害に堪うる勇気とを我らに得しめ給え。 アーメン。」

生命を守る戦い

2017-02-03 07:37:05 | 生命問題
現在のアメリカの大統領はトランプ大統領です。経済問題や移民問題に関して連日大統領の動向が注目されています。
アメリカのメディアは彼を落とすことに失敗しただけに、今度は彼の支持率を下げることに躍起になっています。
しかし、以前当選する前に申し上げた事がありますが、アメリカの正しいカトリック信者はトランプ氏を支持しておりました。
今回日本では決して報道されないだろう話をしたいと思います。
欧米国の中でもカトリック国の多い中、プロテスタントの多いアメリカは道徳倫理が比較的守られている希有の国になってしまいました。しかし数年前に大統領としてはオバマは同性婚を支持する最初の大統領になってしまいました。
現在トランプ大統領は、副大統領などの側近や司法でも非常に多くの保守派を選んできています。その中にはカトリック信者も多く含まれているようです。
私たちカトリックは命を非常に大切にする宗教です。なぜなら生命の問題は、私たちに権利は無く創造主に委ねられているからです。従って人工中絶は殺人なので、カトリック教会が人工中絶を批判するのは当たり前の事です。世界でわずか10年弱の間で数億人の胎児が殺されています!それに携わる人の霊魂の多くは死んでいる状態です。それを考えるだけで非常に悲しい現実です。たまたま私たちは今こうして五体満足に生きていますが、生まれた場所や人によってはここに居なかったかもしれません。当たり前ですが殺された命は戻ってきません。まさに現代社会は「死の文化」です。
全米家族計画連盟というNGOがあります。アメリカで人工妊娠中絶手術や避妊薬の処方などを行っている団体です。この団体にオバマ政権は援助をしていましたが、トランプ政権はカットを表明しています。アメリカの伝統的な枢機卿などの聖職者はトランプ大統領を公に支持することを憚りません。海外の人工中絶のための資金援助もストップしたトランプ大統領に、感謝する現地の司教もいるくらいなのです。
宗教の自由は非常に大切です。女性の人権を訴える団体の多くは、女性の権利として中絶を行う権利を認めるようにも訴えています。宗教の自由の権利とは、私たちが中絶が殺人であるので反対であること、そして同性婚が自然の摂理に反することであることを言える権利です。しかし、実際そのような自由が無くなりつつある中、トランプ政権は生命倫理分野ではアメリカカトリック教会の期待なのです。
トランプ大統領のために祈りましょう。そして平和のためにロザリオを唱えましょう。

危険な思想

2017-02-01 07:33:30 | カトリック
私が大学三年生の時、四年生のある方の卒業論文を手伝ったことがあります。その人の卒業論文はずばり、「隠れキリシタン」が題材だったからです。私は地元の図書館からあらゆる関連本を集めました。その人は大学の図書館から集めてきた本と私の本を読み漁りました。もちろん詳しく読んだ本もあれば掻い摘まんで読む本もありましたが、その頃はまだ亡くなって間もない遠藤周作氏の本もありました。
最近遠藤周作の沈黙という本が映画になりましたが、私の中で「沈黙」は信仰に悪影響の本だと思っているので、興味が無いのでその映画の詳細はわかりません。しかし、その映画の監督はかつてイエズスを侮辱した映画の監督であるので、今回の映画には何かしらのメッセージがあるのだと思います。良いカトリック信者は、同じく殉教した聖トマス・モア「我が命つきるとも」や「汚れなき悪戯」を観た方が精神衛生上よろしいかと思います。
さて、数々のキリシタン本の中で一際輝くのは遠藤周作のキリシタンに関する書物でした。カトリック信者では無いけども研究したといわれる学者達の方がまだキリシタンに対するイメージは、比較的中立かやや同情的なのですが、私と同じく『カトリック信者』と称する遠藤周作の立場はまったく異質だったのを覚えています。むしろ先輩に「遠藤周作ってキリシタンに厳しくない?」と言われた程でした。私の覚えている範囲で要約すると、キリシタン達には、『真の信仰の理解があったのか』『神はそこまで(殉教)求めていたのか』につきます。そして西洋の精神が日本において通用するものなかという自問さえしているのです!彼の神学者気取りで書いた要理みたいなものは、一歩間違えれば信仰を失う程の破壊力さえ持っているように思います。彼の影響力は現在もあるように思います。
今思えば、遠藤周作から信仰が感じられませんでした。むしろ彼のやりたかった事が日本カトリック教会において猛威をふるっているように思います。彼は早い段階で、(ある司教の言葉を借りると、現在も掲げられているのですが)【どこか遠いところでつくられた信仰様式からの脱皮】を目指していたのです。遠藤周作と仲の良い司祭をみてみるとよく分かります。これはかつて排斥された教会におけるインカルチュレーションの動きが見てとれます。日本人は頭が良いのでカルトとか奇跡とかそういう物を排除して聖書を読ませようとしていた努力さえしています。キリストの奇跡を科学的に説明できるという考えは、なんと高慢なのでしょう。神の御業が人間のちっぽけな頭で全て解決出来るという考えです。
そして現在日本におけるカトリック教会は様々な問題を抱えています。私たちの信仰さえ刷新してしまいそうです。文語体の祈りの排斥、神への崇拝による跪きの排斥、聖体拝領の方法、ラテン語の排斥、フォークミサ、子供化ミサ、女性の侍者、などかつてではありえない信仰様式の脱皮です。そしてそれが、御聖体からの脱皮、聖母マリアからの脱皮、主日のミサからの脱皮、告解からの脱皮、罪の意識からの脱皮、殉教心からの脱皮、敬虔からの脱皮、真の宗教と正統信仰からの脱皮などなど。あらゆる悪い影響が考えられます。数年前と数年後では信仰心も神様に対する意識が変わらないように祈りましょう。

キリスト信者の助け手聖マリア、私たちのためにお祈りください。