一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

煉獄の霊魂からの訴え

2016-11-04 07:39:53 | カトリック
度々申し上げますが、今月は死者の月です。ですから臨終の時、死後の時を黙想するのは、大変善いことです。
数世紀前から煉獄の霊魂の良い書物は沢山出ています。時代が変わっても煉獄の霊魂がいかに苦しんで私達の犠牲を必要としているかを訴えかけています。
しかし、特に最近は煉獄の霊魂は私達の心配をしているようです。神様の深い憐れみによって煉獄の霊魂はこの世との接触が許されるときがあります。今から40年近く前に煉獄の霊魂と接触を許されたオーストリアに住む女性に聞き取りをした本があります。【煉獄の霊魂】というページ数も比較的短い本がありますが、これを先日読み返した所、ハッとした箇所がありましたので抜粋して紹介致します。
私達の救霊に大きなお恵みとなりますように。

【一番良い方法は、神への大きな愛と非常に大きな深い謙遜です。傲慢は、現代における教会内の大きな混乱の一番主な原因です。不一致は傲慢からのみ生まれます。御聖体拝領の際、立つように命令される時、跪かない時、御聖体の秘跡に対するへりくだりと敬いが払われているといえるでしょうか?
キリスト者が、手にイエズスを受けるに価すると考えるならそれは謙遜でしょうか?司祭だけがイエズスを手に持つことができるよう、特別の祝福と手に塗油を受けているのです。御ミサの中で、自分はあわれな罪人であると神に告白するために、『告白の祈り』を立って唱えるのは謙遜でしょうか?取りなしの祈り、感謝の賛歌(サンクトス)、聖変化、平和の賛歌(アニュスデイ)、そして司祭が祝福を与える時、跪かなければなりません。
傲慢から、不従順、無作法、無慈悲、争い、反抗等が生じます。悪徳はすべて傲慢から生まれるということを考えてみて下さい。悲しい事に、修道女や修道士も、いまや、自分の長上に対し、従順ではありません。例えばある司祭が祭壇に奉仕しているシスターに聖櫃の前を通るとき、跪くように求めました。けれどもそのシスターは、失礼にも「そうしなければならないと一体、どこに書いてあるのでしょうか?」と言ったのです。修道女がそのような返事をする時、人は尋ねるでしょう。「神様への愛はどこにありますか?御聖体の中に、イエズスが真に現存されるという信仰はどこにありますか?」】