一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

聖母の被昇天

2020-08-15 08:59:46 | カトリック
聖母マリア様の被昇天の大祝日です。
おめでとうございます。
マリア様はイエズス様に忠実でありました。イエズス様もマリア様に忠実でした。私たちも聖母マリア様のようにイエズス様に忠実であれば、私たちにもマリア様に与えられた天国の永遠の報いが約束されているのです。
私たちも天に上げられるように祈りましょう。
マリア様は私たちに何をお求めになりましたか。
犠牲とロザリオです。
天国の報いが得られるように。
常に聖なるカトリック教会の教えに留まることが天国の最も近い道です。
天国におられる聖母マリア様にお願いしましょう。


世間体による罪深い冒涜を明白にします

2020-08-06 09:43:52 | カトリック

『天主は、無限に完全な御者で、天地万物の創造主、主宰者、人間の慈悲深い父です。』

私たちがカトリックの信仰を表明するとき成人の方なら洗礼の前に、子供は初聖体の準備をするときに以上の信仰の大原則を勉強したはずです。
そして同じく
『天主は第一戒を以て、ただ天主のみを天主として礼拝することを命じ給うのであります。
天主を天主として礼拝するとは、天主を万物の創造主、最上の主として、崇め奉ることであります。
崇めるとは、信、望、愛の対神徳及び敬神徳を以て天主を崇めねばなりません。』
も学びました。
この十戒をシナイ山でモーゼが天の御父から頂いたとき何が起きたかを振り返るとき、私たちの置かれている現代社会において、何が相応しい行いなのかを、逆に何をしてはいけないのかを知る事になると思います。長い間エジプトの奴隷となったユダヤ人は、解放を夢見て多くの祈りと犠牲を捧げてきました。そしてモーゼは天主様に選ばれて紆余曲折を経ながらも、ユダヤ人を解放することに成功します。それは天主様の大いなる御業を直接目撃することにもなりました。多くの人が知るものでは、海が割れる奇跡がその一つです。それだけではありませんでしたね。そしてユダヤ人は天主様に感謝の祈りを捧げたのでした。命を救って下さったからです。私たちもそこにいたらどんなに喜んだかは想像に難しく無いと思います。
さて、奴隷からも解放され、異教の迷信の神々からも解放され、命も救われ、直接天主様の奇跡をその目で見て、魂の自由を頂いたユダヤ人でしたが、モーゼが天主様に従ってシナイ山に祈りに行ったときです。何が起きたかというと、自分たちの新しい神を作ろうと思い始めたのです。最初は多くの人が反対をしたことでしょう。しかし次第にシナイ山からモーゼがなかなか降りてこないという(40日間の)不安から貴金属を集めて金の牛を作るという暴挙に出たのです。そしてご存知の通り天主様はこれに非常にお怒りになりモーゼを通して正義を下されたのでした。

これは言わば偶像崇拝の反面教師的な歴史の1コマなのですが、私は小学生の頃これだけのお恵みを頂いたにも関わらず人間は平気で天主様を裏切ってしまうのだなぁと衝撃を受けたものでした。しかし、この裏切りはその後も品形を変えて、時代を超えてついにはイエズス・キリストをも殺したのです。
しかし上の写真をご覧になったとき、これはありえない!確かに冒涜だ!信じられない!と多くの人は思うでしょう。はい、その通りです。実際そのような感覚は私たちキリスト教信者には持っていて当たり前のことなのです。なぜならば例えば教皇ピオ9世は『人間は,どの宗教を信奉しても永遠の救いの道を見出し,また永遠の救いを獲得することができるというのは、誤謬である』と宣言されています。これを宗教無差別主義というのですが、それらは大昔からそして特に近代の歴代教皇によって排斥されてきました。しかし、シスタールチアが言うには現代社会は『悪魔的な方向感覚喪失』の時代なのだそうです。すなわちヴィガノ大司教様のお言葉を借りると『近代主義の異端に染まり、道徳的に不品行な人々の狡猾な欺瞞によって、良き司教たちは誤謬へと道を誤らされてしまった。』の時代であり、『妥協の精神』の時代なのです。





上の写真は30年以上前の第1回アシジの祈祷集会とイスラム教のコーランに接吻するヨハネ・パウロ2世です。
そして直近では









これを良いことだと思いますか?それともこれはカトリックに反することだと思いますか。
モーゼのシナイ山の間の出来事同様にこれはありえない!確かに冒涜だ!信じられない!と思いますか。
さて、善悪を判断する基準(感覚)と善悪を判断する方は誰なのでしょうか。
私たちの身近の日本に話題を移しますが以下の写真もご覧下さい。ある方から送られてきた画像なのですが、これは聖マリア修道女会の最新号の会報なのだそうです。善良なるカトリック信仰をお持ちの読者の皆様はこの絵をご覧になってどう思われますか?



通常、鳩は聖霊を表します。一般的な解釈をすると、聖霊が地蔵菩薩に降臨する直前を表していると思います。聖霊とはなんですか。地蔵菩薩とはなんですか。
私はこれを最初見たときに唖然としました。そして天主様に対する冒涜だと思いました。カトリックの団体の公式の会報に聖母マリアや聖人の絵が載るのは当たり前なのに、なぜ人間が作った宗教の偶像がそこに書いてあるのでしょうか。フィリピンやアフリカを救うのは聖霊が降った地蔵菩薩で、崇める方法としての『望愛』の対象は地蔵菩薩であるとのメッセージなのでしょうか。
繰り返しになりますが、私たちの多くは宗教に対する方向感覚がモーゼの時代のあの1コマのように喪失しているように思われます。そして信念や生活様式の羅針盤でもある信仰が妥協の連続によって思わぬ方向に向かわせているに違いありません。ですから、善悪や信仰の価値基準が時代と共に発展し進化することを当たり前のように思うのです。
『天主の啓示は不完全なものであって,人間の理性の進歩にともなって絶えず無限に進歩するものである、と考えるのは誤謬である』とピオ9世は断罪しています。
では私たちの感覚が喪失しないように助けて下る方は誰なのでしょうか。それは聖霊です。
ヴィガノ大司教様は書簡の中で『慰め主なる聖霊が謙遜な人々や弱い人々に剛毅の賜物を注入し、高慢な人々や権力を持つ人々を戸惑わせ、一方では祭壇の至聖なる御聖体の秘蹟への信仰を明らかにし、他方では世間体による罪深い冒涜を明白にします』とお書きになっています。
私たちが常に正しくいるために、信仰が強められるように、汚聖を繰り返さないように、聖霊に祈りましょう。真の天主様だけを信じられるように。
聖母マリア、聖ジャンヌ・ドゥ・レストナック、我らのために祈り給え!