一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

もういくつ寝ると

2016-12-29 07:36:15 | 日記
もういくつ寝るとお正月♪という音楽があります。新年の歌なのだそうです。
しかし新年に歌うにしては、なんか変です(笑)もういくつ寝るとって言ってますので(笑)今から歌うのに相応しいような。
さて今日からお仕事がお休みの方も多いようで出勤時の電車は余裕で椅子に座れています。私は明日まで仕事で大晦日から休みになります。
既に今年を総括された方もおられるかと思います。私にとっては激動の一年でした。私は来年も柔和と謙遜をテーマに頑張ろうと思います。引き続きお祈りを必要としています。よろしくお願いします。
自分の使命や義務を果たすことによってのみ、神様から守られるのです。そして慎ましく謙遜に生きることによって、マリア様のマントの中で守られます。安心して聖母に信頼して兄弟姉妹の皆様お祈り致しましょう。
今年の更新は今日で終わりです。
コメントは引き続きお待ちしています。お返事も致します。
よろしくお願いします!良いお年を!
ジュゼッペ




幼子殉教者

2016-12-28 07:47:10 | カトリック
カトリック教会は25日から来年の1月8日の公現祭までを降誕節として定めています。新年の日よりも海外ではクリスマスムードがまだまだ続きます。この間は主要な祝日が目白押しです。祝日を眺めていると教会は私達にどのようにこの降誕節を迎えたら良いかを教えてくださいます。
さて本日12月28日はイエズス様の身代わりとなって殺された幼子達の祝日にあたっています。
イエズスを殺すためにヘロデ王の命令によってベトレヘムにいる二歳以下の幼子は虐殺されました。それまでに聖ヨゼフに対するお告げで聖家族は難を逃れてエジプトへ行きました。その前に東方の王や博士らも行きでは、ヘロデのところに一回は謁見していますが、帰りはヘロデとの約束を反故にして会うことを避けました。ヘロデは救世主を殺す気でいました。しかしまだイエズスは死ぬときではありませんでした。
しかし、幼児の虐殺は想像しただけでも非常に恐ろしいことです。泣き叫ぶ子供や親の声が聞こえてきます。非常に惨たらしいです。ヘロデ王もそのすぐ後に苦しんで死にました。
生まれた直後からして主イエズスは命を狙われていたわけです。主イエズスの誕生から死、そしてその後のカトリック教会の制定の一連の我々の救いをご計画して下さった主に感謝しましょう。
この二千年以上の歴史の中でたくさんの犠牲と忍耐があったことを忘れないように。とくに煉獄の霊魂のために祈りましょう。

福音記者聖ヨハネ

2016-12-27 07:28:28 | カトリック
本日は福音記者の聖ヨハネの祝日に当たっています。現存する聖書の最も古い写本は西暦125年頃のパピルスの聖ヨハネの福音書なのだそうです。この事実は見つかった場所などからも考慮すると長生きされた聖ヨハネの福音書はすでに早い時期にカトリック信者の間で読まれていたことになります。その大発見によって、聖ヨハネの福音書が三世紀に発生したとする反カトリックの聖書批判学者達を落胆させました。
このように一世紀近くにもなると、既にキリスト教に対して異端者が出てきたということもあり、聖ヨハネの福音書は非常に神学的であり、三位一体そしてミサと御聖体を中心的に私達に伝えています。特に十字架の道行きを聖母と共に居たということもあり、主が捕まってからのことが事細かく記されているのもこの福音書の特徴であります。聖ヨハネの時代は、現代社会と違って目や耳に入ってくる情報量も少なく多様的では無いためなのでしょう。聖霊の働きもありますが、聖ヨハネはよく昔のことを覚えていたものです。こうしてイエズス・キリストが一体何者なのかは、聖ヨハネの福音ではっきりと私達に伝えております。
聖ヨハネのように主を愛する事が出来るように祈りましょう。





最初の殉教者

2016-12-26 07:54:22 | カトリック
『まことにまことに私は言う、ひとつぶの麦が地に落ちて死ななければ、ただひとつぶのままである。しかし死ねば多くの実を結ぶ』(ヨハネ12.24)

主の御降誕の大祝日のあとの本日は最初の殉教者である聖ステファノの祝日がすぐにやってきました。
これはまさに世間の(一般的な、特に海外の)クリスマスムードとは一線を画すものです。本来の主の降誕は、その生まれた環境や聖家族の置かれた立場からして、すぐに主は命の危険にさらされています。全宇宙の王にもかかわらず、です。
聖霊降臨後、ユダヤ人から続々と改宗するものが出てきました。使徒によってある日などは数千人も洗礼を受けた、と福音書に記されています。第一次大回心時代です。その布教活動はすぐにも小アジアにも渡りました。初期のイエズス会を思い出します。その中で今日の殉教者の祝日である聖ステファノは、布教活動中に命を落としました。
モーゼの立法を偽善的(実際は口だけ)に行っていると断罪したとしてその場でユダヤ人によって石打にされむごい死に方をされました。伝承によると、聖ステファノは『本当の神は、聖三位一体である。キリストは主イエズスである』と宣言して、ユダヤ人の怒りをかったとされています。石打される聖ステファノは、それでも宣言し続け、さらには主イエズスと同様に彼らの罪の許しと回心を祈って死にました。
この祈りは天に届きその場でユダヤ人であったサウロ(後に聖パウロ)の大回心があり、聖ステファノの布教の言葉を後に私達に伝えているのは、周知の通りです。
まさに聖ステファノの精神はカトリックの精神です。主を正しく愛した結果です。私達の模範です。この後数百年間次々と聖なる殉教者が生まれました。
さて聖ステファノは、ユダヤ人の教えにも真理は含まれてるから彼らも救われると教えたでしょうか。ユダヤ教を信じてるのだから洗礼は受けなくても良い、それぞれの神様の教えを従順に信じていればそれで救われる、と教えたでしょうか。答えはノー!です。
もしも当時現代のカトリック信者の大多数の考えと同じく全ての宗教にも真理が含まれていると教えていたら、現代までカトリック教会は存在していたでしょうか。他の宗教に寛容であった太古の宗教は次々と消えていきました。もちろん偽の宗教であったからということもあります。しかし真実や真理に少しでも嘘が織り込まれればそれは、真理も真実の教えではありません。嘘の教えは永くは存続する事は不可能です。真理だけが存続します。
悲しいかな、なぜ現代のカトリック教会は危機的状況とか、現代に即してないとかと異口同音に言われ続けているのでしょうか。私達が愛の名の下に教義を犠牲にしてまでもあらゆる寛容を示しているのにも関わらず。
私達が正しく主を崇拝出来ように今日は聖ステファノの取次を願いましょう。正統なカトリックの教えが、使徒時代から誤り無く伝わってきた教えが現代でも守られますように!

主の御降誕

2016-12-25 18:08:11 | 日記
祈りましょう!

『御降誕の祈り』

かくて御言葉は人となりて、われらのうちに宿り給えり。

  われらはその光栄を見奉りしが、そは父より来れる独り子の如き光栄なりき、すなわち恵みと真理とに満ち給いしなり。(ヨハネ 一ノ十四)

 天降り給いし救い主、われらはいまうやうやしく馬ぶねに近ずき、心より主を礼拝し奉る。われらは堅き信仰もて、主がたといかよわき人の子の如く見え給うとも、まことに活ける天主の御子にてましますことを信じ奉る。実に御身はまことの天主にして、始めなく永遠に御父より生まれ給う御者なり。天地にあるすべてのものを造り給いし御父の御言葉は、すなわち御身なり。御身は御父の輝き、その全き映像なり。御身はまたその全能の御言葉をもつて、常によろずのものを保ち、かつ宰り給う。

 ああわが主、わが天主よ、われ主を信じ奉る。ひれ伏して主を拝礼し奉る。

 天主なる幼児イエズス、主はわれらを愛してわれらの救霊のため、すでに馬ぶねのうちに御みずからを天の御父に献げ給えり。

 われらは今主の御前にひざまずきて主を讃美し、感謝を尽し、犯せし罪を一心に悔み奉る。主よ、われらは今より後万事に超えて主を愛し、終生主にのみ仕えまつらんことを約束し奉る。

 われらはこの祈りを、慈しみ深き御母聖マリア、御養父聖ヨゼフ、諸天使、信心深き羊飼いらおよび東の国の博士らの、愛と信心とに合わせて主に献げ奉る。

  主よ、いまだ主を知らざる人々にはまことの信仰を、罪人には改心の御恵みを、死せる信者の霊魂には永遠の安息を与え給え。またすべての主の聖寵に活くる者には、聖なる愛を増し、終りまで耐え忍ぶ力を授け給わんことを切に願い奉る。

 祈願 天地を統べ給う全能永遠なる天主、主は御みずからをこの世の小さき者に現わし給いしにより、われらは心よりへりくだり、御旨に適いて御子の御降誕をふさわしく祝いまつらんと望み奉る。願わくはわれらをして御子にならい、主がいと小さき者に約束し給いし御国にいたらしめ給わんことを。天主の御子なるわれらの主イエズス・キリストによりて願い奉る。アーメン。


『幼きイエズスを訪い奉る祈』

 天主にまします幼きイエズス、わが創造主、我が救世主、われ今御前に出でて恭しく主を拝し奉る。
 いとうるわしく、いと愛すべき幼きイエズスよ、主の御降誕に当り、天の御父は喜びて主を見まもり給い、天使らは主を讃美し、御母聖マリア、御養父聖ヨゼフは羊飼いらとともに主を礼拝したり。われは罪人なれば主の御前に出ずるに足らざれども、願わくは世に降り給える主を、あふるるばかりの喜びと感謝とをもつて拝み奉ることをわれにも許し給え。

 聖にして恵みゆたかなる幼きイエズス、我は貧しくして何物をも持たざれども、わが心を主に献げ奉る。
 願わくはこれを潔めて主の御住居となし給え。また主は世を救わんために来り給いたれば、すべて主を知らざる人々をあわれみ、真理の光のうちにかれらを導き給え。かくて人々みな主を知り、主を愛し、主と共に平和のうちに生くるにいたらんことを、聖母マリア、聖ヨゼフ、ならびに諸天使、諸聖人の御取次によりて願い奉る。アーメン。

私達(信者も未信者)の主イエズス

2016-12-22 07:32:45 | カトリック
イエズス・キリストは神です。神は三位一体であります。神は創造主、主宰者です。全知全能であり、どこにでもおいでになります。
一番最初の勉強すべきこの信仰箇条は、最低限抑えておきたいところです。しかし頭で知っていても、心に染み通っている人はますます少なくなっているように思います。「神の全知全能」「神の遍在」というものを理解されたとき、イエズス様に対する態度というものが自ずと分かってきます。イエズスは神です。崇拝の対象です。聖ヨハネの聖福音書に記されてる通り天の御父と全く等しく御父そのものです。決して私達と同等ではありません。
使徒継承の聖なるカトリック教会は、まさに主イエズスがお建てになった教会です。従って被造物である我々は、カトリック教会に属していなくてはなりません。ここ数十年カトリック教会に毒(新しい教え)が入ってきました。ここの教えでは、あらゆる宗教にも真理がいくらかあるので、それはそれで無限の愛である主はその人たちさえも救うという教えです。以前のカトリック教会は、カトリック教会のみが正しいというのは、排他的で愛のない考え方だったのでこれからはあらゆる宗教の人たちと共に平和を祈り、対話を通じて世界平和を築き上げていこうではないかというのです。
しかしここで上の信仰箇条を思い出してください。本当の神様はどなたでしょうか。創造主と被造物の関係はどうなってしまうのでしょうか。カトリック教会は誰がお建てになったのでしょうか。カトリック教会がもしも他の宗教と同様に、「あまたある宗教の一つ」としてこの世が理解したとしたら主にこれだけ失礼な話はあるでしょうか?唯一の救いのために存在するカトリック教会なのに、忘恩と言わないでなんなのでしょうか。
よく私はカトリック教会は昔は教条的だったが今は違うという人をカトリック信者の中に見かけます。いいえ。カトリック教会は今も昔も教条的なのです。教義を知らずしてカトリック信者は名乗れません。
十戒の第一戒「われはなんじの主なる神なり、われのほか、何者をも神となすべからず」です。従って人々をカトリックに改宗させる目的のない、宗教対話や祈りは主に対する裏切りだと私は思います。
昔は成人の方の洗礼も五年はかけていた時代があったようですが、現在は平均一年も満たないのだそうです。教会によっては要理ではなく、聖書を読んで雑談で終わるという事があるそうです。洗礼を受けてから色々知ったという人もいます。洗礼が原罪と自罪を洗い流し主とともに生まれ変わり、天国に入る権利を受ける大切な儀式が、いつの間にか「信者になるための儀式」「入門の秘跡」という概念に置き換えられています。
聖なるカトリック教会の教えは私達に分かりやすいように公教要理にまとめてあります。それを文字通りに解釈するだけです。それ以上もそれ以下もありません。


待降節最終週

2016-12-19 07:33:26 | カトリック
待降節も今週で終わります。今年の待降節第4主日の週は最も長い時間を過ごすことが出来ます。
旧約の義人が長い間待ち望んだ救世主の誕生。
その間、苦行、犠牲、忍耐、祈り、節制、善行、回心、(不完全ではありますが)生け贄によって、救世主の誕生を待ち望みました。
そして先駆者である洗者聖ヨハネによってピークを迎えました。聖ヨハネはそれまでの預言者同様に回心を訴えました。時には厳しい言葉によって。聖ヨハネも厳しい生活をされました。従って私たちがこの待降節になすべき事は既に示されているわけです。それは待降節に限りません。死者の月、待降節や四旬節は片鱗を見せてくれますが、私たちの本当の救いは臨終の後です。敬虔でいることを主はお望みです。救霊に対して油断せず、後の世の幸福に目を向けて頑張りましょう。
私たちの力では当然不可能です。間違いなくです。恩寵無くして正しい信仰や回心は決して得られません。そのために私たちには守護の天使もいます。保護の聖人もいます。聖母マリア様と歩みましょう。聖母マリア様に委ねましょう。
言葉で、主を愛しています!聖母マリアを愛しています!と言うけどもその言いつけを守っていますか?実際多くのカトリック信者は守れていません。なぜでしょうか。
子供は親の言い付けを守ります。それは親を愛してるからです。愛してるから条件なしで親に従います。しかし自己愛が強かったり愛が薄れると親に従うことが難しくなります。これと同じです。
聖母マリア様は私たちにロザリオを毎日祈るようにお願いしていますね。マリア様からの直接のお願いですよ?カトリック信者がロザリオを祈るように広めましょう。
ロザリオでマリア様を喜ばせましょう。そして守って頂きましょう。

降誕祭まであと10日

2016-12-15 07:44:35 | 日記
日に日に寒さも増してきました。読者の皆様もお祈りと犠牲は順調でしょうか。お体は大丈夫ですか。
降誕祭まであと10日程になりました。今年は降誕祭は主日(日曜日)、前夜祭も土曜日に当たっていますので、仕事が休みの方も多く、多くの人がカトリック教会に足を運ぶことになりそうです。
その中には久しぶりに教会に来られる方、初めて来られる方もいらっしゃいます。降誕祭を機にカトリック信者になられる方も多いのですが、それは正しいカトリック信者の祈りと犠牲の賜物だと思います。私たちの祈りと犠牲が少ないから地獄に落とされる信者の霊魂が多いのだと、ファティマのマリア様は仰いました。祈らない人は天国には入れません。祈らない人は高慢です。祈りのない生活は破滅です。ですから少しの時間でもいいです。誰かの回心のため、煉獄の霊魂のため、ご自分の霊魂のため、めでたしを一回でも天にましますの一回でも唱えてみませんか。そして夜の寝る前は時間もありますので、ロザリオを唱えましょう。
カトリック信者は、大祝日の前の日は大斎(断食)を捧げる習慣がありました。待降節を迎え降誕祭の前日の24日は大斎をして、良い降誕祭(クリスマス)を迎えましょう。
ローマの教皇様、枢機卿様方のためにも祈りましょう。
恐れ多いですが、余裕のある方は私の家庭のためにお祈りよろしくお願いします。



聖なる母

2016-12-08 07:29:02 | カトリック
1854年聖母信心そしてロザリオ信心の深い聖なる教皇ピオ9世は「イネファビリス・デウス」の中で以下のように宣言されました。
『次の教義を宣言し、公表し、定義する。人類の救い主イエズス・キリストの功績を考慮して、童貞マリアは全能の天主の特別な恩寵と特典によって、その懐胎の最初の瞬間において、原罪のすべての汚れから前もって保護されていた。この教義は天主から啓示されたものであるので、これをすべての信者は固く信じなければならない。』

本日は聖母の大祝日の一つである無原罪(インマクラータ)の祝日です。この大宣言に答えられるように、聖母マリア様はルルドにお現れになりました。
聖母マリア様は私たちの希望です。この宣言のように、本来私たちは汚れを持って罪の子孫として生まれ、この世に生まれては悪に染まりやすく、この世は悪と悲しみと、不条理な事ばかりです。戦争も災害も無くなりません。家庭も社会も国家も危機ばかりです。幸せも長くは続きません。束の間でしかありません。罪を犯しては主を悲しませるばかりです。口から出る言葉は不平不満、妬みです。因果応報なのに、試練と言いのがれします。都合の良いことしか聞かず、見ず、信じません。はっきり言ってこんな私達は愛される資格などありません。力は0です。何もありません。
しかし、同じ人間として生まれたマリア様は、人類の創造と同じように恩寵のみをまとってこの世に生を受けました。成聖そのものです。これは私たちの限りない希望です。私たち側にいます。人祖が失った物を全てお持ちです。そして主はこの方を私たちの母にしてくださいました。私達を育ててくれた母よりも、愛情深く力があります。本当の母です。常に助けてくださいます。聖母を想うとき心配など全くありません。
私達がマリア様に望む物は何でしょうか。天国です。そしてそれに相応しい信仰です。そのためにお助けを願いましょう。
この世の争いは罪人の私達の力では解決不可能です。罪のない恩寵溢れた方のみが可能です。私達の祈りを聖母マリアが神様に運んでくださいますように願いましょう。
各々の家庭を無原罪のマリア様にお捧げ致しましょう。


「無原罪の聖母と交わりをもたない人の霊的生活は次第に悪くなっていきます。」
コルベ神父

ミサの時に跪く

2016-12-02 07:34:09 | カトリック
初金(月の初めの金曜日)です。主の受難を特に考えなくてはいけません。
以前程御聖体を口で受けるのは難しく無くなりました。学生の頃御聖体を手でしか受けさせない神父に対して、直接司教様に直訴をしたことがありましたが、最近はその必要は無いようです。
しかしミサの間、そして聖体拝領の時に跪く事は余計に難しくなりました。日本のカトリック協議会そして事務局の責任者は、跪いて口で受けることは禁止されたことではないと認めつつも、それをわざわざ各教会の典礼委員会に伝えることはしないようです。懇願してもしてくれません。
相変わらず私の所属教会も拝領前に必ず「立って受けてください」とアナウンスの姿勢は変わりません。それでも司祭は跪いて口で受けさせては下さいますが…それさえも出来なければ霊的聖体拝領です。
何度も言いますが、跪くとか口で受けるという形式の話をしているのではありません。これは信仰の問題です。聖変化の時に何が起こっているのか、聖体とは一体なんなのかと黙想したときに答えが出る問題なのです。信仰の模範者ならばどのようにしたでしょうか。このブログでも幾たびか御聖体に関して取り上げています。
跪きたいけど跪けないひとは、聖ドミニコ・サビオに守って頂きましょう。
野外ミサの時でした。聖変化の前に鈴がなり、いっせいに跪く時でした。立派な軍服を着た軍人は土の上に跪くことを一瞬躊躇しました。隣にいたのは少年の聖ドミニコ・サビオでした。聖人はポケットからハンカチを取り出して軍人の下に敷きました。彼は恥ずかしくなりました。改心しました。御聖体の前に跪けない自分を深く恥ずかしくなりました。主より自分のズボンが大切だったからです。イエズスは、十字架の道行きのなかで、唾をかけられ、酷い言葉をかけられ、殴られてゴルゴダの丘に向かったのです。この方は罪が一切ありません。むしろ罪人を赦し、病人を癒やした方です。それでも私たちのために何も仰らずに、あの重い重い十字架を、屈強のローマ兵に鞭打ちされたあの体で、担ったのです。しかもただの人間では無い方です。見えるものと見えざるものの王であり、この宇宙の創造者、全知全能の聖三位一体の第二位のペルソナなのです。この方がミサの中で司祭を通して犠牲として捧げられる方が、まさに目の前に居られるのに、跪くことが出来なかった軍人は恥いったのです。涙を流したことでしょう。
この主に対して跪くことを禁止出来るのは、一体誰でしょうか。私は悪魔の力しか無いと思います。
ですからよく祈りましょう。主にとってカトリック信者の忘恩ほど悲しみに満ちたことは無いでしょう。祈りと犠牲を捧げるように致しましょう。
明日は聖フランシスコ・ザベリオ(ザビエル)の祝日です。彼が日本に伝えたカトリックの信仰がそのままに現代でも我々を導いて下さいますように。

『聖フランシスコ・ザベリオにならいて善徳を求むる祈 (十二月三日)』

ああ天主、主は聖フランシスコ・ザベリオの奇蹟と聖役とによりて、わが同胞に主の御教えを伝え給えり。
 ▲願わくは、その栄えある功徳を讃うるわれらをして、その善徳を学ばしめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン。