一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

聖ヨハネ・ボスコ

2017-01-31 07:31:25 | カトリック
本日はイタリアのトリノの聖人、聖ヨハネ・ボスコの祝日です。
ドン・ボスコです。ドン・ボスコは貧しい家庭に生まれましたが、類い希な身体能力と頭脳で司祭になっていきました。数々の困難を霊的な力で解決しました。そして聖サレジオを敬い、サレジオ会を設立しました。サレジオ会の初期のメンバーには数々の聖人がおります。そしてドン・ボスコは生前も死後も沢山の奇跡が有ることで有名で、19世紀でもっとも偉大な聖人の一人であることは、周知の通りです。
聖変化の時の聖体奉挙の時に、軽く宙に浮いていたのを侍者が見ていたりとか、ドン・ボスコの預言というものもあります。彼は祈りの人でした。
私たちの救いに必要なものは、「御聖体」と「聖母マリア」ということを常に私たちに訴えています。
私たちもドン・ボスコに倣って、御聖体と聖母マリア様を大切に愛することが出来ますように祈りましょう。

キリスト信者の助け手聖マリア、私たちのためにお祈りください。

宗教「改革」?

2017-01-24 07:46:09 | カトリック
今年は宗教改革500周年なのだそうです。そういうと宗教改革自体がとても素晴らしいもので、~周年というとさも聞こえも良くなるようです。
しかし、よくよくこのルターという忌まわしい男のしたことを考えると、改革とはほど遠いところにいることが分かります。ルターの生活ぶりと聖人方の生活を比較すれば容易にわかります。彼は司祭でありながら、シスターと結婚しました。大酒飲みだったそうです。さらに教皇制度を悪魔と言いました。
改革ではなく異端です。そして離教です。
つまりルターという男がイエズス様のお建てになった聖会から離れたということだけです。彼は聖会から離れると、聖なるカトリック教会の教導権を否定しました。そして使徒継承を否定し、ミサも否定し、聖書のみと言いながらも聖書の重要な教えさえも否定しました。
離教し、真理の中に嘘を織り交ぜる悪魔的手法で、新たな教会を作ったルターの教えは後にたくさんの偽りのキリスト教を作ったのは周知の通りです。
しかし、聖母マリア様はカトリック教会を見放しませんでした。メキシコで離れた信者の数を取り戻してくださいました。
さらに聖霊のお導きによって、聖なる公会議(トリエント公会議)によって教会はさらに堅固になりましたし、沢山の聖人を排出し異端からカトリック信者を救ったのです。
カトリック教会の教父たちは何度もルターの行為を批判してきました。このように傷つけられたカトリック教会が、悪魔に近づくわけがありません。従って世間のいう宗教改革500年と私たちカトリック信者はまったく関係が無いことを宣言しましょう。讃えることもありえません。
私たちの信頼する方はイエズス・キリストです。

祈る姿は人を導く

2017-01-11 07:26:35 | カトリック
1960年代始めの話。とあるカトリックの幼稚園では子供を預けた未信者の親御さん子供を含めて卒園する頃には半数以上が洗礼を受けていたという話を聞いたことがあります。
特にそこの司祭やシスターが積極的に布教をしていた訳ではありませんでした。
洗礼のきっかけは子供を迎えに行く時にふとなんとなくお御堂の中を覗くと、スータンを着た神父が祭壇の前で跪いて祈っていた姿を見たからだと異口同音にいうのです。つまり殆どの人がその敬虔な姿で回心したということになります。そしてミサに与り、聞き慣れないけども綺麗に聞こえるラテン語と美しいグレゴリオ聖歌を通して神様の存在を確信したといいます。
私の話で恐れ多いのですが、高校二年生頃です。私の友人は私がカトリック信者だということを知っていたので、彼は私に色々な質問をしました。彼は宗教に興味がありました。彼は読書家だったのであらゆる宗教の本を読んで特にキリスト教に興味がありました。ですから私に近寄ってきたのです。私は毎週両親と弟たちとミサには与るだけの普通の信者です。彼に満足な答えは与えられていないことを痛感していました。彼はとにかく読書家です。ニーチェから始まって最終的にチェスタートンに行き着きカトリック教会に興味を持ちました。とにかくミサに与りたいと言うので、イグナチオ教会に行きました。イグナチオ教会は私にとって数年ぶりでした。私の知っているあの荘厳な建物ではなく、会堂のような建物になっていました。友人にとっては初めての憧れのカトリック教会でしたが、お御堂に入るなり彼は「幼稚園みたいだな」と呟きました。非常に衝撃的な言葉でした。恥ずかしくなるくらいです。色々ハッとして気が付いた事もあります。
ミサが終わり、外に出ると「俺の想像とは違うな。これはお遊戯と変わらない」と言うのです。どうやら彼は立派な祭壇とラテン語でグレゴリオ聖歌の50年前までどこのカトリック教会でも行われていた聖なるトリエント典礼を想像していたようです。がっかりしただろうと残念だった私に向かって彼が言った言葉が今でも忘れません。
「最初に教会に入ったときに、跪いて祈ってるお前の姿を見て俺は感動したよ。見えないものを信じその前で謙遜になれるのは実に羨ましいよ!」と言ったのです。
その後彼は大学に進まずアメリカに行きました。アメリカから手紙が届き、「現代のカトリック教会は魅力を感じないがお前の言うとおりカトリックが真理なのはわかる。しかしこっちの英国教会(多分正教会かも)の教会は建物も綺麗だし、典礼も感動的で、心が揺れ動いている。いずれにせよ洗礼は受けるつもりだ」という内容を受け取りました。
それから彼との連絡は途絶えましたが、学生時代のこのような経験は私に大きな影響を与えたことは間違いありません。人は言葉だけではないという事です。その行いや姿勢を通しても人を神様に導くことがあるのです。
彼の読んだ文献とはかけ離れた教会ではありましたが、御聖体という本物の神様に跪いて祈る姿勢を通して彼は何かを感じ取ったのです。先の幼稚園の神父様の話もそうです。祈る姿勢だけで回心する人がいることを忘れてはいけませんね。

新成人のため

2017-01-09 07:26:33 | 日記
電車の中を見回してみますと、着物を着た新成人の方がちらほら見えます。
関東は朝から雨で午後にかけて晴れてくるそうです。良い式を迎えることが出来ますように祈ります。
今年の日本の新成人は123万人なのだそうです。この中で家庭を持っている方もいるでしょうし、これから家庭を持たれる新成人もおられることでしょう。彼らの中からたくさんの赤ちゃんが生まれますように。日本中から聖なる家族を我らに与えてくださいますようにマリア様に祈りましょう。
私自身の家族も聖家族に倣えますように。


『暁(あけ)の星なる聖母に対する祈』

 ああ輝ける暁の星なる聖マリアよ、
 御身はかつてさきがけとして地上に現われ、正義と真理との太陽なるイエズスの御出現近きを示し給いしものなれば、願わくは、御身の温和なる光をもつて日本国民を照らし、速かにかれらの心の暗をひらきて、永遠の光明なる御子、われらの主イエズス・キリストを正しく認むるにいたらしめ給え。アーメン。

新年あけましておめでとうございます。

2017-01-04 07:34:22 | カトリック
主の降誕からの一週間後(一月一日)に主は割礼をお受けになりました。同時に御名である「イエズス」と公式に名付けられました。ロザリオの喜びの玄義の第四の黙想でもあります。正統神学ではこの時流された涙と血は、十字架上のイエズスの象りでもあると教えています。
ルカの聖福音によると
『子どもに割礼を行なう八日目になったので、胎内にやどる前に天使が告げたように、その子の名をイエズスと名付けた』とあるように、非常に大切な箇所です。同時にこの日はシオンの預言が聖母に告げられます。聖母と聖ヨゼフの悲しみや不安はどんなに深かったでしょう。
すなわちイエズス様は私たちの罪に対する生贄となるような人生を送ったことを私たちに思い起こさせます。
以前は一月一日は主の割礼の大祝日をお祝いしていましたが、現在では神の母の日にあたっています。
さて、今日から私は仕事です。6日の公現祭まで降誕節です。
よい降誕節をお迎えください。