一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

ワクチンと人口政策

2020-12-18 10:49:43 | 日記
昨日、数年前に職場を退職された先輩から「コロナのワクチンを打つと不妊になって国が滅ぶから子孫繁栄のために自分はもちろん子供たちに受けさせない方がいいよ」という内容の事を言われました。
一見、このような事をいうと多くの人は「陰謀論」だと一蹴してしまうだろうと予想します。しかし、私はあることを思い出しました。私が大学生の頃の話です。
私は大学の「人口論」の講義をとった延長で人口論と経済政策のゼミに入りました。1960年代に国連人口部門で働きそこで役職にもなり、その後は厚生省で働いた経歴のある教授がゼミの担当でした。当然人口抑制論とはカトリックである私には意見が合うことも無くよく教授に食い下がっていたので、教授にとってはおそらく生意気な学生だった事でしょう。
その教授はよく国連に居たときの話をされていました。60年代はとにかく世の中が変わった年でした。カトリック教会で言えば第二バチカン公会議、そして新しいミサや秘蹟の諸改革などがありました。人口にたいする考え方も変わりました。世界ではそれまで産めよ増えよ、という考えから環境破壊、飢饉が人口爆発と同時に語られるようになり人口が増えることは悪だという発想に切り替わった年代でもあったそうです。国連では激しい議論が交わされカトリックの学者は人口抑制論と必死に戦いました。世界は食料と所得の分配が機能していないだけで、効率よく行われることが出来れば200億人以上でも住むことが出来る、と主張するカトリック系学者がおられたそうです。逆に50億人越えからは世界的飢饉が起こり世界はこれを解決するために大戦争を起こすだろうという言わば、悲観人口論の声が挙がりました。多くの学者はこの悲観論を採用し、これに合わせて人口爆発による世界危機を煽り、新聞、本、映画なども作られたりしました。1972年に英国で制作された「赤ちゃんよ永遠に SFロボットベイビーポリス」という映画は色々な意味で非常によく考えさせられる内容でした。これが映画の中だけの話で済めばいいのですが・・・
 ここからはその教授の話を基にすると国連はまず人口爆発が起こる危険を考えてアフリカに目を付けました。そこで大飢饉が起こり食糧不足が慢性的に起こるだろうということでアフリカに彼らの健康促進のためにビタミンや健康剤という名目でワクチン注射を打ったのでした。しかし教授の話によるとそれは不妊を促すワクチンだったらしく、そのワクチンの内容を言うと打つ人は殆どいないので、名目は餓死防止のための健康促進剤ということだったそうです。当時は世界を救うために国連で働く職員は道徳上問題はあってもそれが一部の犠牲のために世界の多くをを救うためと信じて行ったと言います。しかしそれから数十年が経過して人口悲観論の多くは間違いだと分かっています。
さて、今コロナのワクチンが話題になっており多くの効果が見込めるだろうという薬が次々と否定され、ワクチンを作る製薬会社の特定なワクチンなどが話題になっています。この特定のワクチンを主流にするために、色々な動きがあるそうで、そのワクチンを出資する団体や事業家などを調べると答えが出るかもしれません。やはり人工中絶や家族計画推進の団体が見え隠れしています。幸運な事に日本では海外の発表程に重傷者も死者も少ないのが現実です。海外の病院では自然死でさえもコロナ死とする不正(嘘)が報告されているようです。一体何が起きているのでしょうか。
それを考えたとき職場の先輩の仰ることは私には他人事でも得体の知れない陰謀論などとは思えないのです。今私達はコロナ禍のもとで多くの制約を受けようとしています。カトリック教会内では既にミサや秘蹟にあずかることを拒否されたりしています。口での聖体拝領も禁止されています。コロナ禍という理由で復活祭に続いて来る降誕祭も犠牲になるかもしれません。
いずれは聖霊の働きで多くの不正が暴かれることを私は望みます。真実を明らかにしてくださるでしょう。
そのために私達はロザリオを黙想することが一番の近道です。聖母のロザリオは私達を不正や企てから守ってくださいます。
引き続き良い待降節をすごしましょう。



節目は重要

2018-08-27 22:32:07 | 日記
父方から遡るとおそらく私は五代目のカトリック信者かもしれません。母方から数えるともう少し代を重ねてるかもしれませんが、あまりこれに関しては調べたことがありません。
ただ面白いのは、父に幼児洗礼を授けた司祭から私も洗礼を受けたことです。その司祭は長生きされたようでしたが、約30年前に帰天されました。
先日あることをきっかけに考えてみました。霊魂に刻まれる秘跡は、まず洗礼そして堅振、叙階があります。司祭にならない限りは洗礼と堅振は多くの信者が受けることになると思いますが、幼児洗礼に対する批判として、よく要理を理解していない赤ちゃんに洗礼を授けるのは如何なものかということです。偉大な洗礼の秘跡を理解している者にしては、子供が産まれたらすぐに授けたい、子供の霊魂を最高の状態にしておきたいと思うのは親の心です。命の危険や様々の問題もありますし、議論の余地はありません。
さて、その赤ちゃんだった人が要理を学び初聖体を迎えることになります。私の場合小学校三年生の頃でした。当時の神父さまはフランシスコ会の神父で1952年に叙階されたフランス人司祭でした。私たちの神父さまのあだ名は「シャラップ神父さま」でした。なぜかというと、よく私たちに「Shut up!(静かにしろ)」って怒ってたからです(笑)
毎週ミサの後に私を含めて4人の初聖体クラスの子供たちは神父さまのところで厳しい授業を受けました。
私はその中でも最年少で、手前味噌ですが、神父さまの質問には臆することなく答えを返す優等生(笑)でカトリックの色々な事を学ぶ面白さを神父さまから学び幸せな時間を過ごしました。もちろんその司祭が初告解の神父さまで、告解中は冷や汗をかきました。なぜなら「まだあるでしょ!」と言われたからです。恐る恐る顔を見ると微笑んでおられましたが。
そして中学生になると主任司祭も何人か変わりましたが、そろそろ堅振を受けないかと神父さまから言われ申し込むことになりました。勉強はもちろん司祭館で勉強して、各教会の受堅者が一カ所に集まって、そこで司教様から堅振を受けました。司教様は神父さまよりも偉い方ということで、なかなか私たちの小教区にも司牧に来られたことが無かったこともあって、そのお姿に緊張したのを覚えています。
その初告解からの初聖体、そして堅振の秘跡を受けるという段階と節目を迎える度に信仰が強められていくのを私は感じましたし、大切なことだと思います。日本における成人洗礼の方は気の毒だと思います。成人洗礼の人もいつしか、堅振も同時に受けるようになって、多くの古くからの信者からは違和感を感じてる旨を聞いた事を覚えています。特に司教様から受けない堅振式ってどうなのか、とか洗礼と堅振は別の秘跡なのに同時に受けるのはなんか違うのではないかと、いう意見も聞いたことがあります。なぜなら洗礼の秘跡と堅振の秘跡がなんなのかを理解すればするほどに当然そのような声は出てきていました。洗礼というのも今では入門式みたいな扱いになっています。とりあえず洗礼受けてから勉強です、みたいな発言もあります。昔の信者は理解するのに何年も洗礼に時間をかけていました。成人洗礼はすぐに初聖体を迎えるわけですから、聖体に対しても本物の信仰が無いといけないというわけです。
しかし、これも慣れっこというか妥協というのか、残念ながら今ではこれをおかしく思う人の声も聞こえなくなってきています。

桜が満開

2018-03-28 07:48:30 | 日記

昨日仕事中に桜の美しさに思わず立ち止まってカメラで撮ってみました。
ほぼほぼ満開と言えます。首都圏では桜が満開だそうです。今年は桜が早く咲き入学式シーズンには桜の花は無いかもしれません。
満開の桜を見たときに私の祈りと犠牲はマリア様にお捧げする花は果たしてこのように満開なのだろうかと、と自問してしまいました。
私たちカトリック信者の祈りの花束がこの桜以上に花びらを付けてマリア様に届くように、さらにお祈りをしましょう。
今日は聖水曜日です。
聖ヨゼフの忍耐さ賢さと勇気、そして柔和の心を保てるように祈りましょう。

結婚と家庭

2018-02-20 18:50:07 | 日記
私事ですが、今週で結婚15周年を迎えることなります。
色々なことを乗り越えられて、さらにかわいい子供たちにも恵まれたのも神様のお恵みである他にありません。
これまでの無事な家庭生活を与えて下さった神様と聖ヨゼフに感謝です!
紆余曲折あれども最終的には家族全員で天国へ行く!これが目標です。
これからもより一層良い家庭生活がおくれますように皆様のお祈りをよろしくお願い申し上げます。
四旬節にも入りました。お互いに頑張りましょう!信仰を強くもてるように祈りましょう!
ジュゼッペ

死ぬために

2017-10-27 07:51:14 | 日記
音楽の『交響詩』というジャンルを作り上げた19世紀の作曲家にリストという人がいます。
彼はハンガリーの作曲家ではありますが、ベートーヴェンやシューベルトの流れをくむウイーン系統の作曲家です。一般には『ピアノの王』と称されていますが、管弦楽も得意としていました。
先日リスト作曲の交響詩『前奏曲』を聴きました。テーマはズバリ人生です。「人生は死への一連の前奏曲である」という意味の『前奏曲』ということです。つまりよく聞く「人は死ぬために産まれてくるのだ」という現代でもおなじみのキャッチフレーズです。
今月はロザリオの月ですが来月は死者の月です。死について黙想するのは、11月に限らず常にするべきだと私は思います。人は死ぬために、生きるまたは産まれるというだけでは、その後のことは何も語っていません。確かにあらゆる人は平等に死に向かって生きていくのですが、死でもって全てが終わりではありません。
生き方で死後が決まるという前提が無ければ、キャッチフレーズも全て台無しで無意味です。
たとえこの世で幸せに生きようが、不幸に生きようが、善徳が無ければ地獄に行くことになります。死と同時に神様の正義も平等に訪れるからです。
つまりカトリック信者であろうが、未信者関係なく、神様の定める罪は同じです。罪がある状態では天国へ行くのは不可能です。
さて、リストの『前奏曲』ですが、不安定に始まってテーマを緩急繰り返して(人生楽あれば苦もあり)壮大に曲を閉じます。おそらく彼が最後に希望したのは、臨終の秘跡でしょう。冒頭から始まる主要テーマを変調してコーダで荘厳に締めくくるのはおなじみの作曲技法ですが、「原罪持って産まれて洗礼を受けた者は、最後は臨終の秘跡が受けられるほど幸せなことはない!」と私には聴こえました。
祈りましょう!希望しましょう。

梅雨入り

2017-06-09 07:42:03 | 日記
関東もいよいよ梅雨入りをしました。今のところまとまった雨は無いですが、雨は営業マンと主婦を泣かせます。
しかし一方では雨は作物に欠かせないものです。
命の与え主である主に感謝したいと思います。そして御母に委ねて一日一日を乗り越えていきましょう。

異動

2017-05-10 07:43:21 | 日記
早いもので転勤してもう少しで1ヶ月になります。勤め出してから転勤も今回で四支店目となりましたが、今回の転勤は今までと違うのは役職になったという点です。責任も少しは重くなりましたが神様と聖ヨゼフのご加護で徐々になれてきました。
このブログも通勤の電車内での更新が多く、今回の転勤場所が家から大幅に近くなったため、更新もままならない状態です(笑)今後はTwitterのように短いつぶやき程度になりそうです(笑)
今月は聖母マリア様の月です。そして来る13日はファティマのマリア様の初めての御出現から100周年という記念すべき年と日になっています。
それまでのマリア様の御出現とはあきらかに違う、人類(カトリック信者)に取って重要なメッセージが含まれています。
ロザリオの後に聖母マリアの連祷を唱えましょう。私たちに残された唯一かつ最強の武器はロザリオです。祈りと犠牲を捧げましょう。