一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

ご連絡

2016-10-31 09:37:14 | 日記
日々のブログのコメント欄を公開から事前承認に致しました。公開したくないけど私だけにメッセージがある方は、承認の希望有無をお書きください。特段何も記述が無い場合は、公開致します。よろしくお願いします。

キリストは王である

2016-10-31 07:28:31 | カトリック
聖なるカトリック教会は、今月をロザリオの月だと定めています。そして今日はその最終日です。だからといって今月でロザリオの黙想が終わる事は無く、毎日日々の祈りでロザリオを唱えることを推奨しています。今月は皆様にお恵みはありましたか?たとえ感じなかったとしてもロザリオを唱える人には必ずお恵みがあります。死後にそのお恵みが明らかになることもあります。ですから続けてお祈りをよろしくお願い致します。
さて、明日からは死者の月に突入します。その初日の明日は諸聖人の大祝日になります。そして2日は煉獄の霊魂の日です。ますます明日からは死について黙想する機会が与えられることでしょう。
以前は、この死者の月に突入する前に王たるキリストの祝日をお祝いしておりました。その趣旨はキリストは死後だけではなく、今もいつも王であることを私たちに思い出させるためでした。ですから王たるキリストの祝日の後に死者の月が来ることは、それはそれで大きな意味をもっていました。現在は典礼歴最後(死者の月の11月)の主日に改定されており、この世の王であることの認識を希薄にさせるということで、当時伝統的な神学者たちは猛反発しました。
気をつけなくてはならないのは、人間が誕生する前から、全知全能の主そして聖三位一体の主であるからして、王であることは間違い無いのです。
キリストは暴君ではありません。王の中の王です。王でありながら私たちのために命を懸けて下さいました。王なのに私たちを兄弟や友人と、扱って下さいました。愛と正義の王です。私たちを助けるためにあらゆる事に手を尽くして下さいました。
その王様に私たちは忠誠を誓っていますか?王様のために戦っていますか?王様を悲しませていませんか?

悪魔の存在

2016-10-28 07:27:31 | カトリック
悪魔が人祖を唆してから、一つの天主教だったのが様々な宗教が生まれてきました。一例としてモーゼの時代に至ってはエジプトから助けられたにも関わらず、祭司モーゼがシナイ山に預言を頂いている間に、人々は偶像を崇拝をしていました。
悪魔の手口は非常に巧妙です。私たちの多くは都合の良いことしか耳にしたくないものです。カトリック信者の中には聖書の部分的な事だけを信じる人もいます。神を認めない人も聖書を読みます。聖書を経済活動として都合よく読んで、生活の処世術としてだけ読むのです。そしてイエズスは偉大だ、道徳家だ、最大の倫理家だ、と言いながら一方では、超自然的な行動に関してはノーコメントです。超自然的なものはカルトだからと、恐ろしいことに奇跡を消し去る司祭さえいます。例えば五千人の男たちに僅かな魚とパンで多くの人のお腹を満たす奇跡は、イエズスの犠牲心を見て、それぞれがリュックの中に持っていたお弁当から、それぞれが出していったためで、『もともとあったもの』で、超自然的なものではないというのです。イエズス・キリストは誰でしょうか?彼は誇大妄想家なのでしょうか?精神病者なのでしょうか?
私達が聖福音書の一部分のみしか受け入れないのなら、私達の主に対する態度はこれです。決して大げさに私は申し上げていません。もう一度幼子のように聖書を読みましょう。
天国は信じるが、地獄の存在は認めません。愛は信じるが、裁きは認めません。神様の存在は信じるが悪魔の存在は信じません。悪魔は人間の作り出したものですか?
私達が超自然的なものを否定すればするほど、悪魔の存在は消えていきます。これこそが悪魔の狙いです。中世までの頃のように現代社会に悪魔が現れたら、多くの人は教会に駆け込むことになるでしょう。しかし、現代社会においての悪魔はそうはしません。あたかも悪魔が存在しないかのように徘徊しています。そして昔であれば罪であったことが、現代においては罪では無いように導いています。罪の概念はますます薄くなり、聖と俗の垣根も無いかのようです。
悪魔に地獄の中に引っ張られないようにしましょう。彼らはもともとは天使ですので我々よりもはるかに賢さを持っています。負けないようにしましょう。そのためにロザリオを唱えましょう。無原罪の聖母に寄りすがりましょう。


悪魔

2016-10-27 07:31:08 | カトリック
この世の人間を大きく分けると、神を信じる者と神を信じない者すなわち無神論者に分けられるといいます。
しかし、実際は違います。本物の神を信じるか、偶像を信じるか、この二つだけです。
特に日本人の多くは多宗教主義だという声もありますが、私の周りには、自分は無神論者だと言う人も多くいます。しかし実際そうは言っても初詣には行くし、毎日の占いを気にしていたりと、完全な無神論者では無いようです。心のどこかで超自然的なものを認めたいという気持ちがあります。困難なとき、何か大きな力に寄りすがりたい気持ちもあります。まったくの超自然的なものを排除し、宗教をアヘン呼ばわりした共産主義も、やっていることは偶像崇拝と変わりありません。彼らは悪魔崇拝者です。ちなみに私の一族は徹底的な反共です。その怖ろしさは私が小さい頃よく言い聞かせられました。ですからカトリック教会は共産党を支持するものや、協力するものは当然破門に処せられると定めています。これは数少ない自動破門の一つです。
ですからこの世は本物の宗教に対する戦いが昔から行われています。それに対して神様はその時代その時代に合わせて聖人を与えられました。
気をつけることは、私達の救霊は常に危ういということです。忘れていけないのは、この世の教会は常に戦っているということです。戦いには必ず流れ弾が当たるものです。実際の流れ弾は生ぬるい信仰生活です。教義や伝統があたかも存在しないかのような雰囲気です。真理は時代と共に変わっていくのだからそれに合わせて生きていくという考えです。
周りがどう考えていても、誰が何を言ったとしても、真理は変わりません。神様も変わりません。
常に気をつけていましょう。
初代教皇聖ペテロは言いました
「気をつけて下さい。悪魔が貪り食う獲物を求める吠える獅子のようにうろつき回っています」


子育てにおける宗教教育

2016-10-26 07:53:20 | カトリック
子育ての色々な面での難しさは、ご家庭をお持ちの方にはよくご存知かと思います。特に現代の日本では子供の宗教教育は非常に難しいと思います。私には思春期といわれる期間に突入する長男がいます。環境も世の中の流れも違う今では、親が私を育てたように育てることは、不可能になっています。
私の中学時代を思い出すことがあります。私は中学の部活をバドミントン部に選びました。私には従兄弟(従姉妹)併せて30人以上いるのですが、その中で私の住まいの近くに同世代とその少し上の年齢の従兄弟達がいました。この従兄弟は伯母の子供です。同じ学区内では無かったので、小学校の低学年までは、毎週教会で会うのを楽しみにしていました。教会学校の遊びやキャンプは私の楽しみでした。しかし同じ年齢の従兄弟は、野球が好きで高学年になると少年野球に入りました。しかし、少年野球の活動は主に日曜日です。彼はばったりミサに来れなくなりました。そこからその家庭は不幸になりました。その伯母の家には従兄弟が5人いるのですが、なし崩しに子供たちは全員ミサをボイコットし始めました。
その頃祖父は伯母の家庭を憂いました。
そして中学の話に戻ります。バドミントン部に入った私ですが、中学はご存知の通り日曜日にも練習はあります。自分で言うのも恥ずかしいのですが、私は期待の新人でした(笑)。母は従兄弟たちの経験を踏まえて、ミサには必ず与るように、日曜日の練習は出させませんでした。顧問の先生にミサに与るから日曜日は練習しないことを、直談判しました。最初の頃は新人賞を取ったためもあったのか顧問は渋々認めて下さいましたが、次第に日曜日に練習に出ないと、試合には出さないと言われてしまいました。母に相談したのですが、母は毅然としていました。
「神様と部活どっちが大切なの?」母の言うとおりです。まったくその通りです。私は日曜日は部活を休みました。先輩や顧問との関係の中日曜日を休む度に少しは苦痛でしたが、今となっては母に感謝しています。
この部活活動によってミサに与かれない子供たちは多くいます。私の所属教会がそうです。教会学校の子供たちの多くは中学生になったとたんに、ミサに与らなくなります。怖いのは私の従兄弟みたいに、そのまま大人になる子供もいることです。イエズス様のことを忘れたまま、そして主がどのような方なのかを知らないまま大人になるのです。これに対して神父さまたちは無力です。ですから家庭の宗教教育がいかに大切かを物語っているようです。ミサが何故大切なのか、カトリック教会の掟に対しての無知、そして永遠の命、祈り、これに対する無関心と無知は主を悲しませることになります。間違いありません。
カトリック信者の家庭のために祈りましょう。そして家庭でロザリオを祈りましょう。

聖ヨゼフに祈るとき以下の箇所を強く祈りましょう。

『慈しみ深き父よ、我らのために、全ての誤りと腐敗との伝染を防ぎ給え。
いと強き保護者よ、我らがやみの権威と戦うを憐れみて、天より助けを垂れ給え、また昔幼きイエズスを生命の危険より救いし如く、今も公教会を守りて、敵の罠と、全ての困難とを免れしめ給え』

緊急洗礼

2016-10-25 07:27:39 | カトリック
『我、聖父と聖子と聖霊との御名によりて、汝を洗う』

カトリック教会の教えでは洗礼を受けていない者は天国に入ることはできません。一般的な教会で行われる水の洗礼に対して、実は望みの洗礼も存在します。教会は洗礼に対する望みによって、カトリック教会の外にある人も救いに与ることができると教えています。この洗礼の望みを受ける人とは、真の宗教についての不可抗力的な無知、つまり過失の無い無知でありながら『自然法を遵守し、誠実で廉直な生活を営み、かつ神様に従う心の態度を有しているところ』の人の事です。例えば近くにカトリック教会があれば間違いなくカトリック信者になり得ただろうし、本当の宗教を知らなくとも行動や言動が神様に一致している人のことでしょう。しかしご存知の通り望みの洗礼を受ける人は、ごく稀であり非常に難しいことだと言われています。
さて、天国のための必須条件である洗礼ですが、緊急洗礼というのがあります。死が近い人に洗礼を授けることを言いますが、昔から天国泥棒と言われてきました。ある聖書の箇所を思い出します。聖書のイエズス様の天国のたとえ話の中に、ぶどう園の労働者の話があります。先に働いた人も後から雇われた人も同じ賃金の話です。先に働いた人が不平を言うと、主人が最後に「友よ、私は、あなたに不当なことをしたのではない。あなたは私と、一デナリオで契約したではないか」と言います。そうです。これは契約なのです。いつとかではなく、洗礼を受けたならば天国に入れる切符を頂くことになるのです。
私は2人の方に緊急洗礼を授けたことがあります。いずれも危篤でした。1人の方は数時間後にお亡くなりになりました。
主よ我らを憐れみ給え!

公教要理
『生命の危ない人に洗礼を授ける必要があり、その場にたくさんの人がいるとき、そのうちのだれが洗礼を授けるべきでしょうか。

 生命の危ない人に洗礼を授ける必要があり、その場にたくさんの人がいるとき、司祭がいるなら司祭が洗礼を授けるべきです。しかし、司祭が不在の場合は、下級の聖職者がこの任にあたります。聖職者が居ないときは、男子信徒が望ましいのですが、事情のあるときは、この限りではありません。

洗礼を授ける人はどのような意向を持たねばなりませんか。
 
 洗礼を授ける人は、洗礼に際して、教会が行なうことをしようという意向を持たなければなりません。』

質問の答え

2016-10-22 10:56:46 | カトリック
トマス・フランシスコさま、このたびはコメント欄に私に対する非公開希望のメッセージを心から感謝致します。ありがとうございます。そしていくつかの興味深いご質問も併せて感謝致します。④つの質問全てに答えて行きたいと思いますが、「一カトリック信者」に過ぎない故私の答えは公式のものではなく、あくまでも私に対する質問だと思って答えますのでご了承下さい。そしてトマスフランシスコ様の御救霊並びにご改心も重ねてお祈り致します。

まず
①小罪と大罪の線引きが真面目に考えるほどわかりません。どう判断するのですか?

 まず私達のそれが罪の基準となるのは、《天主の十戒》です。これは全ての人間は守るべきものです。そしてさらにカトリック信者は教会の6つの掟を守らなければなりません。神様の掟を知りつつ自由意志をもって、思い、望み、言葉、行い、怠りによって犯す罪の中には、仰るとおり軽重があります。
しかし簡単に申し上げますと、完全な意志の承諾をもって行った場合それは大罪だと思います。私達にはいくらか理性があります。罪悪感というものが存在します。理性の光に照らし合わせてもその度合いもいくらか参考になるでしょう。しかし聖書にあるとおり、主が最も嫌う罪は一貫して主(聖霊)を侮辱することです。それは肉欲の罪をもって主を侮辱することだと聖書を通して読んで取れるかと思います。


②プロテスタントの時は祈祷会があって、信者同士お互い祈りあいましたが、カトリック教会はこういった交わりがあるのですか?

 プロテスタントのような祈祷会なるものは基本ございません―最も重要な祈りはミサです―お互いのために祈ると言う意味では、みなで同じ意向をもって祈るためにミサの前にロザリオなどを唱える事はあります。この時期(ロザリオの月)ですと、ミサ前にロザリオを信者皆さんで唱える教会は多いと思います。教会内でまたはご家庭で特定の人のために祈ることはとても大切ですし、勧められています。祈ることはもちろん祈ってもらうこともとても大切です。私がこのブログを始めたきっかけは私のために祈って下さる人を増やすためです。そのくらい祈りはとても大切です。臨終の時に祈りの大切さに気がつくよりも今この瞬間祈ることの大切さに気がつく事が何よりなのです。


③ジュゼッペさんがカトリック教徒となって最も幸せな事は何ですか?やはり、ミサの聖体拝領の時なのでしょうか?私は、プロテスタント出身の為か、以前の教会では説教に大きな恩恵をもらい毎礼拝に幸せを感じていたのですが、カトリックでは説教があっさりしていてあまり得られていませんでした。ただしばらくして聖体拝領の深い意味が分かってくると、その瞬間の幸せは、何ものにも代え難いものになりました。

 もちろんです。仰るとおりです。聖体拝領は幸せです。ナポレオンが死ぬ前に人生を振り返って、人生で最も幸せだったときは初聖体の時だった、と言っています。
聖体拝領は準備が必要です。受ける前の心構えそして、大罪を持ったままで受けることは出来ないのです。そしてたとえ大罪がなくとも人間として聖体を受けることにたいして恐れ多く感じることもあります。それを踏まえるとカトリック信者として私が最も幸せに感じる瞬間は、告解で赦される時です。これは本当に幸せです。ここまで分かりやすく罪が赦されるという宗教は他にはありません。よく告解はなんでも赦されておかしいという人もいますが、告解する方も完全な痛悔が必要になります。
ミサでのお説教ですが、人間ですので上手に話せる方、話せない方はいらっしゃいます。しかし司祭の目的は秘跡を執行することです。つまりミサで大切なのは司祭の手を通して生贄(聖変化)を捧げることです。教会では御聖体が中心で御聖体に向かっています。カトリックの教えは何も変わっていません。それを司祭は繰り返して話すだけです。

④貧しい人を大事にすると公言するバチカンが贅沢なものに囲まれているように感じていますが、ジュゼッペさんはどう思われていますか?

 これはバチカンにある文化的あるいは芸術の装飾品などのことだと思いますが、私はこう考えています。例えば聖変化に使われるカリスは金(ゴールド)を使います。それは金は人間にとってもっとも贅沢なもので美しい物の一つです。極端な話ホスチアが御聖体に変化するとき、安っぽいプラスチックの入れ物やビニールみたいなものに入れるのを想像して下さい。これで御聖体が大切にされてると感じますか?
そして神の家として相応しい物を人間が作ろうと思ったときのことを考えて下さい。または国王陛下や天皇陛下の住む建物を作ろうと思ったとき、どういう家を作ろうと思いますか?馬小屋を作る人はいませんよね?大抵この人たちの建物はすごく豪華です。太古の昔の神殿をご覧ください。異教徒でさえ豪華に自分たちの神様や王のために素晴らしく立派な建物を持っています。ましてやカトリック教会の三位一体の神様のためにいくら豪華に作ってお迎えしようとしても足らないくらいです。そしてバチカンにある《贅沢なもの》のほとんどは敬虔な信者からの寄贈品がほとんどです。信仰心は心だけで納め得るものではありません。それは形となって時代を超えて私達に訴えています。大きな綺麗な教会に行くときその荘厳さに私達は、心を打たれます。人間として神様に対する愛と畏怖の念そして、崇拝と祈りの形が現在のバチカンを形作っていると私は考えています。

以上やや急ぎ足気味ではありましたが、あくまでも一カトリック信者の私個人の考え方としてのお返事とします。ありがとうございました。

私の聖人

2016-10-21 07:49:54 | カトリック
カトリック教会には色々な聖人がいらっしゃいます。
例えば無くし物をしたときには、私はよく聖アントニオに祈ります。私が祈るとよく見つかるからと家族が私に頼むことがあります(笑)
私は「祈ってたまたま自分で見つけたように思ってもそれは違うんだよ。見つけてくださったらそのままにするのではなく、感謝の祈りもするとまた聖人は助けてくれるんだよ」と言います。
私はよく祈る聖人はそんなにはいません。聖母を除いて、上記の他にはもっぱら聖ヨゼフくらいです―10年以上前からイタリアのアウグスチヌス会の聖女に注目しています。その話はまたの機会に致します―聖ヨゼフには本当に助けられました。聖ヨゼフが取り次いで下さらなかったら私は立ち直れないことがたくさんたくさんあったでしょう。
聖人も実は(語弊がある言い方ですが、)《相性》みたいなのがあるみたいで、みんながみんな同じ聖人に祈っても叶わない事も、他の聖人に祈ったら叶ったということがよくあるそうです。もちろんこれは、主の御心にかなっており、祈るその人に本当に必要な祈りの内容であることが前提です。善なる主にその人が玉子だと思いこんで、その玉子を下さい!と願ってもそれが結果的にさそりをもらうことになるのならば、それは叶うことの無いお願いなのです。
ですから自分に取って善いお願いならばという前提で聖人に取り次いで、結果的にそれが叶ったならば、まずその聖人に感謝を捧げましょう。そしてその聖人とよい友になりましょう。そしてその聖人にまたお願いをしましょう。
あなたの頼りにする(保護する)聖人は誰ですか?
祈りましょう。

神の愛、私の愛

2016-10-20 07:32:54 | カトリック
よく私は神様の正義と、自分が煉獄さえ行けないだろうと普段から言っているので、数人の方から「神様の愛をもっと感じた方がいいよ。厳しく宗教を考えすぎだよ」みたいなこと言われたことがあります。
それでも私が誰よりも自分自身が弱いこと、そして自分をよく知っています。
主とはどのようなお方でしょうか。
神様は全知全能です。無限の憐れみをお持ちです。愛です。私は主を愛していると思いこんでいます。しかし主の私への愛に対して私の愛はどうでしょう?私の日々の行動はどうでしょう?同じ完璧な愛に対して主は正義の主です。そして完全な聖なる主です。私達は逆です。真逆です。時折サタンの配下に入る者です。愛される資格はあるのでしょうか?愛されたとしてそれに相応しい行動を主はお望みです。愛の主は主と私達の一致を求めています。
私は小学生の頃から寝る前はよく新約聖書を熟読していました。私はよく思いました。自分は主に相応しい者ではない、と。
主に出会う前の聖ペトロの事はあまり記述にはありませんが、ペトロは主に出会ったとき、自分の罪や身分から、私には相応しくないので近付かないでください、と言いました。しかし主はペトロを選びました。そして最終的にはペトロは主のために命を捧げて逆十字架刑で死んだのです。これこそ主に相応しい愛ではないでしょうか。なぜならば、主は私達のために受難を受けて、侮辱されてお亡くなりになりました。命を懸けて下さったのです。つまりそれほどに私達を愛されたのです。
その主に対して軽々しく愛しています!と言えますか。私は言えません。なぜならば、やはり私は弱く卑しいからです。
私達は主の子供です。子供のいる方はご存知かもしれません。または愛して大切にしている方でも構わないと思います。その愛しまくっている子供やその人が、罪を犯してあなたを裏切っているとき、どうでしょうか?どんな想いでしょうか。それでも愛するその人が「自分は愛されてるから」「自分は(あなたを)愛しているから大丈夫ですよね?」と言ったとして、あなたはどう思うでしょうか。悲しくなりませんか?そして傲慢に見えませんか?私は主に対して傲慢でした。
確かに人間には愛があります。同時に悲しみもあります。喜怒哀楽があります。比率は人によって違います。
しかし主は、等しく愛と正義をお持ちです。ですから主は、愛の神、裁きの神と呼ばれています。愛と正義は全然矛盾しません。どちらか一方から見ることはずるい事かもしれません。
ですから私は自分の救霊を考えるとき、こんなにも愛してくださっている主に、どうしていつも裏切っているのだろうか。主を愛すると祈りながらも自己愛ばかりが先行するのだろうか、と自問自答しています。それでも主は愛の主だから、御国にはみな入れますか?私は主を愛してるので御国に相応しいですか?
いいえ!ですから、私は自分自身のために、自分の祈りだけではなく、他の人の祈りも必要だということをよく知っています。




聖ヨゼフ

2016-10-19 07:32:57 | カトリック
「イエズス、マリア、ヨゼフ」
普段唱える祈りの中にある通りに聖母マリアに次いで聖ヨゼフは特別な聖人です。聖家族の長です。
聖ヨゼフは私の保護聖人です。
聖なるカトリック教会は、聖ヨゼフを特別に敬い3月19日を聖ヨゼフの祝日さらにその月(3月)を聖ヨゼフの月と定めています。聖ヨゼフの祝日は四旬節中に当たることが多く、受難の中に生きた人であることを私達に思い出させてくれます。
あらゆる事を私達のためにとりなす方として聖ヨゼフに信頼して祈ることが大切です。
聖書には、聖ヨゼフを「正しい人」と記しています。そして神様に従順で柔和な方として特に父親の模範として私達に訴えかけています。
そして教会は毎週水曜日を聖ヨゼフの曜日として定めていますので、時間の許す限り今日は聖ヨゼフに射祷を唱えるようにしましょう。
私の家庭のためにも皆様の貴重なお時間を少し頂いて聖ヨゼフにお祈りをよろしくお願いします。

ロザリオの月にはロザリオの後に以下の聖ヨゼフの祈りを付け加えると免償が頂けます。

『聖会の保護者なる聖ヨゼフに向かう祈り』

 幸いなるヨゼフよ、われら困難のうちに御身によりすがり、かつ御身のいと尊き浄配の助けを求めたれば、また御身の御保護をも頼もしく願い奉る。
 御身は天主の聖母なる汚れなき童貞と結ばれたる いつくしみあり、幼きイエズスに尽したる父の愛あれば、またイエズス・キリストが、その御血をもって あがない得たまえる家督を、一層あわれみて顧み、かつすべてわれらの急に迫れる時、助力と救援とを下し給わんことを、伏して願い奉る。
 聖家族のいと忠実なる守護者よ、イエズス・キリストの選ばれたる末を守り給え。
 慈しみ深き父よ、われらのために、すべての誤りと腐敗との伝染を防ぎ給え。いと強き保護者よ、われらが暗(やみ)の権威と戦うをあわれみて、天より助けをたれ給え。また昔幼きイエズスを、生命の危険より救いし如く、今も公教会を守りて、敵のわなと、すべての困難とを免れしめ給え。かつ常にわれらをことごとく保護し、われらをして御身にならわしめ、御助けによりて、聖なる一生を送り、信心をもって死し、天国の永遠なる福楽にいたることを得しめ給え。アーメン。